ブイネット教育相談事務所


2005-02-20 センター試験小論文自動採点システムに思う

_ 2月15日付朝日新聞夕刊は1面トップで「小論文2秒で自動採点ー大学入試センターシステム試作」と報道した。小論文採点の観点は、文章の形式・論理構成・問題文に対応している内容かを各々5点2点3点の計10点満点で採点するというものだ。同日の日経1面では「ゆとり教育の全面見直しを中山文化相が中教審に審議要請」とある。 朝日の記事の出所はセンター試験開発部であるようだ。朝日の文面はこれを明らかに「前向き」に捉えている。つまり朝日新聞全体の意向として「デスク」がこれを容認したと言うことができる。ラグビー放送でのNHKの旧態的な体質について、「現状が何も分っていない」と改めて痛感された直後に、今度は朝日がまたこれと同様なことを行う。我国報道主要部がもはや末期的段階にしっかり入っていることが良く分からされる。彼等は愚かなのである。ジャーナリズムに教育のことを語る資格がないことを自ら平然と表明するのである。 私はかねがね、「学力低下の真因は、センター試験のような採点の簡便化を図ることを前提にした試験を容認する教育体勢である」と発言して来た。センター試験は虚しい。そこでは知識力とレトリック読み取り力にのみ焦点を当てて、一切の自己表現を認めない解答欄鉛筆塗りつぶしの非人間的な試験が平然と行われ続けて来た。これをやられる方の気持になれば、「ただただひたすら知識の暗記と選択肢レトリックの読み取りに終始する必要以外に何の動機も起きない、大人の本心を知って悲しくなるような試験。」ということになる。 現在入試の趨勢は、英語力、数学的思考力、文章力にはっきりとしたベクトルを示している。この中で表現の可能性があるのはほぼ文章力だけだと言っても良い。それを、我々が全く無能と見なしつつある「彼等」の観点でコンピューターによって良し悪しを計ると言うのである。 米国ビジネススクールの小論文採点ソフトを参考にしたとある。これも危険である。私は戦後に米国のごく一部の州で行われていたカリキュラム制度を日本に導入してそれがそのまま維持された苦い経験を思い起こす。 センター・マークシート型の試験の隆盛の中で、私大が活路を見い出したのが小論文の試験である。しかしいつものように、採点者の質の低さと採点基準の機密性が明らかになる一方で、徐々に予備校などの対処が進んで無味乾燥な小論文ばかりになり、子供達は良い文章を書こうとする気力を失わされつつある。 私は、我国の国語教育の最大の目標観点は、妄りに文章が自由に書ける人間が輩出しないように抑制することだと認識して来た。ここにその決定打が提案されようとしている。予めの採点基準の機械的な決定により、小論文採点は多くの観点を失う。そしてすぐに廃止するべきセンター試験は瀬戸際のところで「生き残り策」を提案して来た。我々は怒るべきである。我国の未来的展望は提示しない。システムばかりを有利にいじることに終始する。こんな教育行政に本当に子供達のことを思う教育ができるわけがない。「彼等」は即刻総辞職するべきである。我々は、道路公団同様、もうこれ以上彼等の生き残り策を容認するべきではない。彼等は他ならぬ我々の税金で雇われているのだ。もちろん彼等にその自覚はないようだが。ともあれ、もはや、彼等に我国の将来を担う子供達の教育を任せることは全くできないと言うことが良く分かる。


2005-02-21

_ いやはや困った「問題」だ。中山新文科相は「脱ゆとり」を巡って次々に発言している。ここで問題点を整理したい。 中山氏は、発言開始の当初からOECD(経済協力開発機構)の学習到達度調査(PISA)の結果を元に、日本の学力低下の元はゆとり教育や総合学習の時間にあると指弾して、「全国統一学力試験の導入によって教育現場に競争原理を再現する。」と発言している。 文科省主導の中教審の答申により、我国はゆとり教育や総合学習の時間の導入を行った。何故そういった決断をする事態になったか。覚えている方も少ないのかも知れないが、そもそもそれは「いじめ」と「キレ」への対処のためであった。いじめは減った。しかし、キレは減らなかった。そして、学力低下が起った。この学力低下がゆとり教育によるものだとして、中山氏を初めとする自民党文教族が活動を活発にしているのである。 教育とは、中山氏も認識する通り、未来の社会をイメージして行うものであるはずである。「経済」じゃああるまいし、教育の未来展望がたかだか4年以内であるとは到底了解できない相談である。少なくとも10年以上のスパンで見なければ結果を知ることはできまい。教育とは、そのように遥か先を見据えて行うもので、その場対処的ではなく行うものであるはずである。したがって、このことを否定したかのような行動はいささか浅薄な印象を禁じ得ない。 学力低下が起った原因は複数ある。まず国際テストが知識主体のものから、思考力を伴うものを問うものにより推移しつつあること。また、いっこうに改善されない教育現場の現状に倦んだ日本の生徒の活力が失せていて、成績に関係ないテストを真面目に受けないこと。日本の「下層」域にある子供達の救済が不充分であること等が上げられよう。 以上を生み出している悪因は主として5つある。まず第一は、これは新聞などが書くことを避ける事柄ではあるが、我国の公教育の教員の質が著しく劣ることが上げられよう。これは現場で子どもの意見を拾ってみれば明白なことで早急に解決に着手するべき問題である。その2は、指導要領などに見られる文科省政策の圧力による現場の無気力化である。この点については、現場の教員に同情の余地が多々ある。その3は、観点のない教育によって良いテキストが輩出しない点である。これも文科省官僚が天下り先として教科書会社を選んでいることに間違いなく関係がある。そしてその4は、それこそ新聞が書かないことであるが、テレビの害である。私は、テレビを作っている人も、それをのべつまく無しに見ている人も「発狂」していると思う。そのわざとらしさは、それに耐えられるものと耐えられぬものをすでに二極化している。長時間テレビやゲームに向かい合うことは分別のない子どもにとって害以外の何ものでもない。長時間テレビを見る子どもが勉強出来ないのは、それによって勉強時間が短くなるからではなく、テレビを見ることの疲れからボーッとしているからである。キレの原因もここら当たりの可能性が強いと思う。これをはっきり親たちに告げることがメディアの仕事の一つだと思うが、政治経済の中心であるテレビを客観化する中立的なメディアは今のところないようだ。さらにその5は、子供達が課されているテストのあり方である。○×の時代は過ぎ、アイウエオ選択肢、さらには、小論文の機械採点と来る。大人になるまで10年以上もの間子どもがこれに耐えられると思うのは考え違いも甚だしい。平気な者は、大切な子供達を「家畜」のように見なすのである。 文科省もメディアも教育のことが良く分っていない。全世界共通の富国願望民族主義は、地球環境的に限界であることは目に見えている。教育とは10年20年50年100年先を見据えて行うものである。そしてそのためには自らの意見の根拠となる未来ヴィジョンの表明と価値観の提示がなければ話が始まらないのは明らかである。これらのことを語らずして教育のことを口にする者はきっと何らかの下心のあるものたちであると警戒した方が無難ではないのか。子どもの教育が良くないこととは、それを行う大人が無自覚であることに他ならないないと私は思う。子どものテストを強化するより、為政者や指導者のテストを強化するべきである。もちろんマークシートではなく小論文の自動採点で。


2005-02-28

_ 相変わらず新聞上では総合学習とゆとり教育の話が賑わしい。私はこれを「不毛である」とは捉えないが「時間がもったいない」と思う。 昨年ある公立中学校の先生方に音読法の指導に行った時のことである。これは教頭先生から直接、「音読指導の決定版を教師たちに教えて下さい」との申し込みを受けて出かけていったものだった。会前、校長室で校長先生に、「どうして今音読の指導に注目したのですか。」と尋ねると、「いや〜私たちはこの3年余り総合学習の対処に追われて来ました。正直言って本当に大変でした。しかし職員総出の努力の結果、昨年度一応これに確実な手応えを感じられるようになったので、今度こそは学力だ、と考えるようになったのです。それでみんなでさんざん検討した結果、『全ての学習の基本は国語力だ。そのためにはまず音読だ。』と言うことになったのです。」 校長先生の言わんとすることは、「上から与えられた仕事は何でもやろう。その上で教師として最善のものを子供達に伝えていこう」ということだったのであろう。私は、この自分の仕事に熱意と責任を持とうという姿勢に感謝と敬意の念を強く感じ、あらん限りの大声で授業を行った。しかし、先生方は繰り返しのお願いにもかかわらずどうしても満足の行くように全体が大きい声を出すようにはならなかった。半分ぐらいの方は何とか大声でやろうとしてくれた。しかし、それ以外の方は声を大きくしようとする努力を怠るのだった。音読学習に最も肝要なのは、指導者が良く通る声ではっきりと読めることである。そのためには自己のそれまでの発声を変換するために大声でやることが欠かせないのだ。そこで、私は、立ち上がって音読しながら声の弱い方へ行った。するとなんと驚いたことに、そのあたりの数名の先生は声をほとんど出さずに口だけ動かすパクパクだったのである。彼等は急に大きな声を出すわけにも行かず、バツの悪い顔をして下を向いてしまった。拍子抜けした。こんなことは塾などに講師として招かれて行った時には絶対に起らなかったことである。いろいろ事情はあるのだろうが、ここにこそ大きな問題があるようだ。私の隣の校長先生は机の下で先生の名簿をチェックしている。彼もせっかくの機会にしかも私の繰り返しの懇願にもかかわらず今一声が大きくならないことに不満だったのでしょう。しかし私の心に残ったのは、彼等総合学習指導に打ち勝った「勝者」たちの少なからぬ疲弊を伴った姿だった。それはまさしく過当な学習に疲れ切った生徒たちと同様の波動だった。何をやるにも自由裁量がほとんど許されない監視の目の中で、上から、周囲から要求の通りに働き続けた教師たちの疲れ切った姿がそこにあった。 問題は総合学習にもゆとり教育にもあるのではない。公務員として積極的に働く気が失せている人たちが子どもの指導に当っているところにあるのである。そして彼等からその気力を奪ったシステムや導き方にこそ本当の問題があるのだ。 総合学習は、今一決定打を出せなかった中教審の数少ない優れた理念を持ったアイディアの一つだった。しかし問題が一つあった。それは総合学習の指導には教師の力量の高さが要求されることであった。ひねくれものの私は、当初この総合学習の導入を能力のない教師への嫌がらせだと見ていたほどである。私は当然失敗すると見ていた。事実、私の周辺で知った内容はひどいものだった。教育現場のそこかしこから悲鳴と批判の声が上がった。しかし、この学校のように苦労の末成功した学校の知らせも新聞紙上などで多くもたらされた。 すると、真の問題は教育行政にあるということになる。これほど年月が経ってもいっこうに学校教育が活性化されないのは、教育行政が悪いからに決まっている。天下り、教科書会社との癒着、暗記力主体のコネも必要な教員採用試験、センターなどの知識偏重型学力試験スタイル、あげれば切りがないほどの「腐敗」には全く見直しの声が上がらない。また彼等に意見するはずの識者や大学教授たちも本質を欠いた提言ばかりする。そしてメディアもその欠けたところについてはなぜだかあまり触れようとしない。学生の質が下がったとするなら、それは教育システムと試験システムの両者が老朽化したからである。大学院生のレベルの低下が一番それを物語る。なぜなら彼等こそ大学が教育したものたちだからだ。「分数計算ができない」、「基礎的な語彙がわからない」、しまいには「創造性に欠ける」と言って来る。そして「どうやったら効果の高い教育が実現できるのか」という問いに対しては、「ゆとり教育が原因だ」くらいの、それこそまさに創造性を欠いた言葉しか口にできない。高学歴に胡座をかいて、ろくな授業を行おうとはしない大学教員、教育問題の解決に向けて大きな動きを見せるべきはずなのに目立った動きを見せない教育学部やその教授たち、そして教師や子供達の現場を見ずに学力試験の結果でしか子どもを判断することができない文科大臣。彼等の背後でそれをやらせているのはいったい何なのか。 総合学習もゆとり教育も考えるのは後回しで良い。まず考えるべきは、現場が自己責任と自由裁量に基づいて教育を活性化するためのシステムとメソッドの開発と、学力低下の真因の一つのセンター試験などの選択肢試験を変革することである。そして、好奇心を失い、学習に疲れ、無意味に自信を喪失した多くの子どもたちの教育環境を目に見えて改善に向かわせる実践の着手こそが第一にするべきことだと思われる。