2005-02-28
_ 相変わらず新聞上では総合学習とゆとり教育の話が賑わしい。私はこれを「不毛である」とは捉えないが「時間がもったいない」と思う。 昨年ある公立中学校の先生方に音読法の指導に行った時のことである。これは教頭先生から直接、「音読指導の決定版を教師たちに教えて下さい」との申し込みを受けて出かけていったものだった。会前、校長室で校長先生に、「どうして今音読の指導に注目したのですか。」と尋ねると、「いや〜私たちはこの3年余り総合学習の対処に追われて来ました。正直言って本当に大変でした。しかし職員総出の努力の結果、昨年度一応これに確実な手応えを感じられるようになったので、今度こそは学力だ、と考えるようになったのです。それでみんなでさんざん検討した結果、『全ての学習の基本は国語力だ。そのためにはまず音読だ。』と言うことになったのです。」 校長先生の言わんとすることは、「上から与えられた仕事は何でもやろう。その上で教師として最善のものを子供達に伝えていこう」ということだったのであろう。私は、この自分の仕事に熱意と責任を持とうという姿勢に感謝と敬意の念を強く感じ、あらん限りの大声で授業を行った。しかし、先生方は繰り返しのお願いにもかかわらずどうしても満足の行くように全体が大きい声を出すようにはならなかった。半分ぐらいの方は何とか大声でやろうとしてくれた。しかし、それ以外の方は声を大きくしようとする努力を怠るのだった。音読学習に最も肝要なのは、指導者が良く通る声ではっきりと読めることである。そのためには自己のそれまでの発声を変換するために大声でやることが欠かせないのだ。そこで、私は、立ち上がって音読しながら声の弱い方へ行った。するとなんと驚いたことに、そのあたりの数名の先生は声をほとんど出さずに口だけ動かすパクパクだったのである。彼等は急に大きな声を出すわけにも行かず、バツの悪い顔をして下を向いてしまった。拍子抜けした。こんなことは塾などに講師として招かれて行った時には絶対に起らなかったことである。いろいろ事情はあるのだろうが、ここにこそ大きな問題があるようだ。私の隣の校長先生は机の下で先生の名簿をチェックしている。彼もせっかくの機会にしかも私の繰り返しの懇願にもかかわらず今一声が大きくならないことに不満だったのでしょう。しかし私の心に残ったのは、彼等総合学習指導に打ち勝った「勝者」たちの少なからぬ疲弊を伴った姿だった。それはまさしく過当な学習に疲れ切った生徒たちと同様の波動だった。何をやるにも自由裁量がほとんど許されない監視の目の中で、上から、周囲から要求の通りに働き続けた教師たちの疲れ切った姿がそこにあった。 問題は総合学習にもゆとり教育にもあるのではない。公務員として積極的に働く気が失せている人たちが子どもの指導に当っているところにあるのである。そして彼等からその気力を奪ったシステムや導き方にこそ本当の問題があるのだ。 総合学習は、今一決定打を出せなかった中教審の数少ない優れた理念を持ったアイディアの一つだった。しかし問題が一つあった。それは総合学習の指導には教師の力量の高さが要求されることであった。ひねくれものの私は、当初この総合学習の導入を能力のない教師への嫌がらせだと見ていたほどである。私は当然失敗すると見ていた。事実、私の周辺で知った内容はひどいものだった。教育現場のそこかしこから悲鳴と批判の声が上がった。しかし、この学校のように苦労の末成功した学校の知らせも新聞紙上などで多くもたらされた。 すると、真の問題は教育行政にあるということになる。これほど年月が経ってもいっこうに学校教育が活性化されないのは、教育行政が悪いからに決まっている。天下り、教科書会社との癒着、暗記力主体のコネも必要な教員採用試験、センターなどの知識偏重型学力試験スタイル、あげれば切りがないほどの「腐敗」には全く見直しの声が上がらない。また彼等に意見するはずの識者や大学教授たちも本質を欠いた提言ばかりする。そしてメディアもその欠けたところについてはなぜだかあまり触れようとしない。学生の質が下がったとするなら、それは教育システムと試験システムの両者が老朽化したからである。大学院生のレベルの低下が一番それを物語る。なぜなら彼等こそ大学が教育したものたちだからだ。「分数計算ができない」、「基礎的な語彙がわからない」、しまいには「創造性に欠ける」と言って来る。そして「どうやったら効果の高い教育が実現できるのか」という問いに対しては、「ゆとり教育が原因だ」くらいの、それこそまさに創造性を欠いた言葉しか口にできない。高学歴に胡座をかいて、ろくな授業を行おうとはしない大学教員、教育問題の解決に向けて大きな動きを見せるべきはずなのに目立った動きを見せない教育学部やその教授たち、そして教師や子供達の現場を見ずに学力試験の結果でしか子どもを判断することができない文科大臣。彼等の背後でそれをやらせているのはいったい何なのか。 総合学習もゆとり教育も考えるのは後回しで良い。まず考えるべきは、現場が自己責任と自由裁量に基づいて教育を活性化するためのシステムとメソッドの開発と、学力低下の真因の一つのセンター試験などの選択肢試験を変革することである。そして、好奇心を失い、学習に疲れ、無意味に自信を喪失した多くの子どもたちの教育環境を目に見えて改善に向かわせる実践の着手こそが第一にするべきことだと思われる。