ブイネット教育相談事務所


2009-10-01 教育困難

_ 教育困難

教員採用試験の倍率低下によって、さらに能力が低いものを採らざるを得ず、結果的に若手教師の離職率が高くなっているそうだ。これは考えようによれば、自分が教師に向いていないことを知って早目に辞退するのであるから、能力がないのに居座り続ける年配教員よりマシかもしれない。

「予想以上に仕事が大変」、「子供がこんなに扱いにくいとは思わなかった」と感じて辞めた人が大半だろうが、実はこの人たちは世間の情報や教育実習での体験からそのことを知っていたはずである。だから、能力が低くて他の仕事に就けないから倍率の低い試験を受けたら通ってしまったという人が相当数含まれると想像されるわけである。

我が国の文化や教育は、次世代教育に相応しい能力を持ったものを充分に育成することができないのである。この現実は重く受け止めるべきではないか。同時にやはり、少子化社会の子供の教育は思いのほか手がかかるのであるから、辞める人はかまわないから、子供に教えることができる人をどんどん主婦でも社会人でもバイトでも雇い、同時に教務と授業を完全に役割分担して生徒指導に全力を上げられる態勢を作ることが必要だと思う。

教師を辞めることを決断する基準は、「子供が好きになれない」にするべきだ。というよりも、教師の方が、目の前の子供を好きになることができなければ教師をしてはいけないと知るべきだ。

自分が教育現場に向かないことを知って辞めて行くものたちの裏に、生徒に大人気で毎日仕事が楽しくて仕方がないという新任女性もいる。こういった人にその理由を尋ねると、元気いっぱいに、「だって子供たちが本当に可愛いくて!」と口にするそうだ。

学校でも塾でも家庭教師でも、良い先生には、教える技術があることの他に、もう一つ共通点があると思う。それは、案外単純なことで、心から子供を可愛いと思っていることかもしれない。人間存在をありのままに受け入れる力があるかないかは、そのものの受けた教育による。しかし、それは筆記試験で図ることはできない能力である。また面接の基準にそれがしっかりと据えられることも忘れられていよう。

私事を言えば、ADHD的で自己中心的な活動を好む私は、そもそも子供が好きでもなければ相手をするのも苦手だったが、仕事を通じてだんだん子供が好きになり、相手をすることにも上達した。それなりの努力もしたが、まさか「天職」になるとは思いもよらなかった。しかしそれは、子供の相手がオモロいからであるに違いない。自分の子供が生まれてからは、他人の子供もいよいよ皆可愛く思えるようになった。皆これから将来すくすくと元気に楽しく過ごして成長し、それなりに苦労をしながら生きる知恵を身につけ、やがて結婚して世代交代してパパやママになる。その想像が子供の背後に起こるから何とも子供と向き合うことは面白い。こんなこというとなんだが、大人の背後に老後を想うのとはわけが違うのである。今急に思いついたが、これは実はコミュニケーションの能力、いやコミュニケーションの技術の問題だけなのではないのか。目の前の人の言動に好奇心を持つこと、相手の心音を感じようとすること、このコミュニケーションの基の、「自然意志」とも言える能力を人から奪っているのはいかなる生活習慣なのか。


2009-10-04 「嘘」について

_ 「嘘」について

「拍手」はつくが、「コメント」がゼロなのはオモロいことである。でもって、今後「職員会議中」になればおそらくますます書かなくなるこんなことを書く気になってしまう。

そもそも言語が不完全であるから、真面目に哲学することはほぼ無意味で、これに対しては「文学的冗談」を持ち込むしかないというのが筆者見解である。

では、「冗談」と「嘘」とではどう違うか。

サマセット=モームは、「生まれてから100回以上嘘をついたことがないという人間は嘘つきである」と喝破しているが、私もこれに同感である。人は人とつき合う時、本来不完全な言語を用いてそれをするのであるから、ADHDでなければ、場に相応しくない本音の吐露はしない習慣がつくのが一般であろう。また事実を伝えることにより相手に不要な怒りを生ぜさせるのを避けるために微妙にニュワンスを変えるのは良くあることだろう。

しかし、「吐露しない」は「嘘」ではない。「嘘」とはそこで「吐露」しながら、意図的に事実とは異なる印象を相手に与える「作業」を意味すると思う。「冗談」は、これをオモロくするためであるから「許容可能」であるが、自己立場的利益的嘘をつく人は、それがそうであると相手に知れた場合、自らの人格否定にも繋がる「冒険」であることに自覚的でない人たちの「集団」であるとも言える。

世には、私を含めて必ずしも「常識的な判断」をしない人たちがいる。

もし世の中に対して「常識的な判断」をするとすれば、それは「ある意図」による、集団的利益の確認がついて回る。だから「常識的判断」に盲目的に追従することは己をダマすことに繋がりうるのである。「盲目的」というのは言葉が失礼か、「非覚醒的」というのが相応しいか、「疲れるような気がすることに敢えてアタマを使わない習慣」というのが正しいか。

いずれにせよそういう状態に陥ることは、明らかに非常につまらないことであろう。なぜなら、そもそも「嘘」とは、もしダマすことが「有効」と判断してそれを行うとすれば、他人をダマすためのものだったはずで、自分を「ダマす」ためのものではなかったはずであるからである。習慣化した嘘に自覚的でない時、その人は自己の存在意義をも否定していることになる。

しかし、「責任」を逃れるために、「迷妄」を装うとするのは多分に良くあることでもある。もっとも、こんなことをする段階ですでにその人は「迷妄」なのであろうが、ここに「自覚」がない場合、その「救出」は、宗教的修辞以外に救いようがない宿命にある。

己をバカであると認識することも、「バカ」ではないと認識することもどちらも正しくない。

「己はこのようである」と認識し、その外へ出るにはどうするかを考えてそれを実行しようとする人たちが正しき人たちである。

「洗脳」は恐ろしい。「洗脳」は、その人たちが自ら主体的に生きることを滅却させる。

これは、目先の「価値」が充実した個人時間に優先されるという「錯覚」を呼び起こす。しかし、「洗脳」の実態は「意識」そのものに対することなので、我々は常に少なくとも一つのある「意識」に囚われていることになる。そしてそのことに自覚的になれない。だからこそ、あらゆる宗教は、政治的信条と同様、「ほぼナンセンス」だということになるのであるが。「神」もなければ、「来世」もない。あるいはそれがあるかないかは断言できない。でも、人には「宗教」が必要である。

論理の飛躍との批判を承知の上で言えば、「正しさ」は、個々人によって異なることが自明なので、その答えを一つに集約することはできず、つまりは個々人のその後の自覚的生き方によって逆認識されるということになる。つまり宗教ですらゲーデル的に不完全性を孕む。

人は、単独では生きられない。

たとえ生きたとしても、単体ではその世代で遺伝子的に「終了」してしまう。

人は、その周囲の人との「関係性」とその「結果」によってのみ生きる。

人間存在とは他との関わり合いの認識である。

それ以外のものはない。

もはや「外」へ出た以上、「胎児」の時の直勘独断的動物的認識は捨て去られたのである。

我々が、極限まで「個」に立ち返った場合、そしてそれが動物的な欲求と異なる場合、我々に残るのが、「感受」と「好奇」の二つしかないことは哲学的に明らかなことであろう。そしてこれに直結的であればあるほど我々は「主体的」であることになるのである。

「冗談」はこれに前向きであるが、「嘘」はこのことを曇らせる。

弱い心になってはいけない。そこから生まれる言葉がその人自身をダマすことになる。

どんなときでも、我々が人間であるかぎり、直感と決断と行動は、その人たちに主体的な「感受」と「判断」と「実行」でなければならない。

以上、当ブログにはアクセスしないある特定の人物に対して「冗談」で書いた。


2009-10-08

_ 『結婚できない男は12歳までに作られる』

ワニブックスプラス新書から『結婚できない男は12歳までに作られる』が発売された。これは、結婚できない男性が(女性も)増え続ける中で、どうすれば結婚=世代交代できる子供を育てられるかの解説を試みたものだが、読んでみると我ながらなかなか面白い仕上がりになっている。

すでに読んだお母さんからは、「これは結婚前の女性が読むべき本です」と言われて、「やっぱり女の人の方が前向きで強いわい」と再認識した。男の読者からは、「20〜30代の男性が読むと思う」と言われた。著者にとってこれは「耳聞き」良いことである。男の人にも女の人にも読まれそうだということだ。電車の中で、隣同士に座った男女が、つい同じこの本を読んでいることに気づくと想像するのも面白い。

是非ご一読願いたい。

ケータイサイト「ママニティー」での「子育て法」の連載は、10月5日から毎週月曜日に13回配信されることになった。こちらも評判上々らしくありがたいことである。

私の「ご家庭ご訪問、教育環境設定特集」(仮題)が掲載される「プレジデントファミリー」は、10月17日発売。写真を一杯撮られて恥ずかしい。

『こんな働く母が、子供を伸ばす!』(扶桑社)は、11月6日発売。これを書いている間に偶然装丁見本が届いたが、ピンクの色柄が優しく美しい。一目で働きながら子育てをする本だと分る印象。

以上合わせてよろしくお見お知り願います。

それにしてもものすごい風だ。

ナスもピーマンもオクラもインゲンも無惨だ。

強風を浴び続けて葉っぱの組織がボロボロになっているらしい。

野分またの日。私はすでに先の執筆を行っている。これは父親向けの本である。


2009-10-10 ノーベル平和賞

_ ノーベル平和賞

こんなことが書けなくなって、いよいよ「職員会議中」に移行することになるのかもしれないが、我が国のメディアと同様、ノーベル平和賞もその「恣意性」によって無意味化した。オバマ氏は合衆国が選んだばかりの大統領である。そしてまだ「姿勢」だけで何も実現していない。彼の「業績」は、アフガン駐留問題などこれからの判断よって現実化される。それを「先認」するとは、誠に残念なことではあるがノーベル賞もおしまいである。オバマ氏自身が「正か否」を論じているのではない。今そのことをすることの決定的な無意味を主張するのである。これでは、チベットの平和安定化のために貢献したと胡錦濤氏(中国主席、この項ネット的制約を受けやすい)に賞を与えるのと同等であろう。ノーベル平和賞が隣国ノルウェーの国会議員5人によって選出される仕組みにまずい点があるのかもしれない。

アフガンでは今も戦争が続いている。その他のイスラム圏でも爆弾テロの話が途絶えることはない。イラクもアフガンも米国が仕掛けている戦争である。しかもこれがどう集結するのかはいっこうに見えて来ない。現地で死者が出続ける時に、戦争を行っている国の大統領に平和賞を与えることはどう考えても理解されない。私が知るところでは、ノーベル賞は、第一次大戦で自分の開発した爆薬が多数の犠牲者を生み出したことを悔やんだノーベルが、儲かった金を基に始めたのであるから、それが戦争をする国に賞を授与するのであるから、完全な本末転倒である。スターバックスコーヒーが生産地のエチオピア農民に正当な支払いをするように取り付けたビリー牧師のような人でも探せば良いのである。

我々は特定のプロパギャンダに拘泥するマスコミの態度がいやなのである。でも、ノーベル賞選考委員会はこれをやってしまった。ここには米国政府の強い働きかけがあったのは当然のことだろう。そして「西欧諸国」はこれを容認した。彼らは相変わらずムスリムの考えを無視するのである。彼らからすれば米国資本主義的考え方は完全に間違っていることになっていることだろう。これを辞退することを選ばないオバマは、「戦争」を選択したことになる。

そもそもノーベル平和賞は、我が国の佐藤栄作元首相受賞同様に極めて政治的であるが、今回の受賞はこれを決定的に認めたことになる。このことは、新聞が、そしてテレビがたどった道と同じ結果になると私は思う。恣意的な要素があるメディアはその役割を失う。これをはっきりさせたのが今回の受賞決定であろう。したがって、これからノーベル賞を受賞することは無意味ということになるから、ノルウェーの森が好きな「村上春樹」はイスラエルに行くべきではなかったかと今は思ったりしていることだろう。


2009-10-15 火山英語劇

_ 火山英語劇

連休中は終日面談か指導、これが過ぎると、雑誌ゲラ、メールやり取りと終日デスクワークするが、肝心の懸案原稿に火がつかない。焚火をやっても火がつかない。どうもこれは月のせいかなんて思って夕方V-netへ授業のために顔を出すと、そこに驚くようなものが待っていた。

あれは確か先週のことだ。英語の上野先生と話すうち、V-netで英語劇コースを開くと面白いということになって、then and there即決した。そしてその明くる日、すでに立派な英語劇のチラシができていたのにはいささか驚いた。

「Theatrical English Class―英語の基本はセリフと演技から」

でもそれもむしろ当然か。何しろ講師の上野先生は、現役の劇作家で演出家で翻訳家でしかも日本人離れした英語発声の達人だ。先生にしかできないピッタリの仕事とはこのことかもしれない。すぐに応募する生徒があり、今週末から開講ということになった。私の座右の銘の一つに「出前迅速」というのがあるが、上野先生の場合は「電光石火」とも言うべき早業である。

しかし、今日驚いたのは、実は英語脚本テキストができていたことである。手渡した上野先生に尋ねると、「昨日自分で作った」と言う。これは、モーリス=センダックの“Where the wild things are”に、原作にはない会話部分を作ったもので、もちろん英語である。一部紹介すると、

I’ll do what I wanna do.I’ll do what I wanna do.I’ll make what I wanna make.I’ll make what I wanna make.

声に出してみると面白い。繰り返し読むと気持ちがよくなって来る。こういうことは日本語より英語の方がはっきり伝わる気がするから不思議だ。結構な文量で、原作を丁寧にカヴァーしている。この仕事の速さはなんなのだ。「電光石火」というより、まるで「桜島噴火」のようである。

近々HPでもお知らせするが、それまで待てない人は直接V-netへご連絡を。


2009-10-18 V-net職員会議

_ V-net職員会議

オバマ受賞についての多種コメントの中で、イランのモッタキ外相の「時期尚早だ」という意見は筆者以上に筆者が言いたい見解であった。私は、イラン人は嫌いではないがあまりにムスリム思想利用し過ぎのイラン政府は好きになれないので、不思議な気持ちを禁じ得ない。このことを、「現象学的『冗談』」で思惟すると、「イランもパレスチナもイスラエルもアフガンもアメリカも中国もソ連も、もっと人が死ななくても良い政策をとるようにすることが賢明でないか」という考えにすぐ行き着いてしまう。

今日、18日現在、日本のメディアではほとんど報じられないが、ノルウェーのノーベル平和賞委員会会長が、他ならぬノルウェー議会から、「反対意見が多数あったのに、恣意的にオバマ氏授賞を決定した」と、辞任を求められているようだ。そして、その中心的な理由は「時期尚早」である。

政治的な「無意味」で多くの人が死ぬことを容認するのであれば、それを知る我々が「主体的」に生きていることの意味はなくなってしまう。アフガンで死ぬ米兵の多くは、国際政治になんて全く関係のない運の悪い貧しき人たちであろう。彼らは何の「理念」もなく命を奪われる。だからこそ逆に、この「矛盾点」に、同じく殺害対象であるムスリムの「テロ」攻撃が起こるのだ。

実は筆者も「参加」しているが、「現行資本主義社会」は、貧富差拡大と環境問題で早晩行き詰まるだろう。自己の存在価値を、他者の利益によって逆照射する時、不必要な消費と下等労働を前提とする活動は確実にそれを狭める。だから、これからの「富者」は、これまでとは意味が違う世の中になったのである。

てなことを考えていると、V-net国語科の未田先生の提案で、ほとんど初めてだとは思うが、突如土曜夜、「V-net職員会議」が開かれた。各先生から、教育の現状の認識に基づいた見解と具体的新提案が次々に提起された。それは、ここに「抽象化」すると、「ナマの生徒たちの問題解決に向けて、考えうるかぎり新しく有効なメッセージを他に先駆けて提案して行こう」と言う、現実的かつ極めて前向きな提案へと至り、結果的に、よりリベラルアーツ的に強い人材、AOや面接で強い人材になりうる基礎教育の推進、実践を目指す中で、前方に現れる「これは!」というものを確実に見逃さずにとらえようとするという方向性が確認された。合わせて、最新受験に関する指導技術の錬磨も積極的に継続することも確認された。また、小生ブログの「職員会議中」への移行参加も承認された。

日頃書きあぐんでいる私からすると、この会は、大きなエネルギーを与えてくれる結果となった。それは「創造性」の確認と言っても良かった。おそらく、これほど「提案」が出まくる教育現場は他にないことだろう。新提案については、普通「沈黙」するのが教育現場の実態であろう。

2011年度入試は、入試史上の大きな転回点を迎えることになろう。中高一貫公立に圧される私立中高も、まともなところは「勝負」に出るであろう。それを読んでの「対処」が我々の仕事である。


2009-10-21

_ 最終回

生きている人間にとって、一つの「遊び」が終わるということは、新たなる「遊び」が始まるということを暗示する。ここに新たなる「遊び」を試み始めたい。

読者の皆様、これまで実に多くの人に目を通していただいたこのブログ、ついに無事終了の日を迎えることをここに謹んでご報告したい。

今にしてみると、記憶に何も残らない「青春」。全て「冗談」ばかり書いて来た気が致しますが、筆者引き続き「Joker」の筆名で、究極の真理を現象学的冗談化によって捉えて行こうとする所存に変わりはありません。

しかし、これからは、V-netにおける教育の話題をよりいっそう主体に据えて、同僚の先生方や読者たちとの意見交換と相互高まりの場として、多くの人の声を誘発する役目を担って行きたいと思います。

ここに、当ブログ、これまでの読者、コメント諸氏の全ての方々に厚く感謝御礼の念を捧げつつこのブログを終了させたいと思います。皆様、多年にわたるご愛読誠にありがとうございました。

なんちゃって、すぐ「復活」するかも。

てなわけで、以下記述を、「苦笑」の上お許し願いたい。

以上当然のごとく、最後まで「冗談」で書いた。

_ V-net職員会議中:http://ameblo.jp/v-net-blogroom