2009-09-02
_ 執筆の合間に
8月末から9月初頭現在ひどいことになってしまった。
教育相談等重なる中、PF紙の特集の取材のために編集者とカメラマンを伴って二軒訪問。
さらに他の雑誌企画原稿を要求される中、新刊本のゲラが上がるもこれがいまいちで全面改訂確定締め切り間際のために、台風の中突如長野山中雨中編集者とカンヅメ2日間。またこれに出発しようとすると、メールで別の新刊本のゲラが上がって来る。追々雑誌類のゲラも上がって来よう。
前者本ゲラ直し、ホテルで20時間を費やすも終了せず、この1日で仕上げなければならない原稿が六カ所派生。
その間に民主党が勝利していた。
帰宅後多数のメールやり取りのあと、執筆開始前にこれを記す。
明日も終日原稿予定。
その間にトマトとピーマンとシシトウも収穫しなければならない。
もう新しい作付けをする余裕はない。
精神的にも限界だ。
ブログ読者よ、「再開」までしばし待たれよ。
2009-09-08 とりあえず「終了!」
_ とりあえず、「終了!」
9月第1週を経て、懸案事項ことごとく終了。
『こんな働く母親が子供を伸ばす!』のゲラカンヅメにさらに加筆校正終了。
『結婚できない男は12歳までに作られる』の読み合わせゲラ完了。どうも相変わらず、筆者が読者サービスのつもりで書いた「冗談」は、あっさり削除されてしまう。
この間に雑誌特集2本こなし、土日は終日教育相談、多くは作文読み合わせ。
てなわけでただ今、「あとがき」まで全て終了。
まるで原っぱの草刈りを完遂した後のようにその達成感は手前味噌的に結構大きい。
実は私は、コンピューター90分、家事用事植物水やり&収穫60分のサイクルの人間である。この上で入浴瞑想―最近ではウナリを越えて、開けた窓に足を突き出して湯船に体を浮かし伸ばせて悶絶瞑想である。植物と瞑想。こうすれば執筆を連続的に行える。
先週以来、執筆の合間に編集者と打ち合わせゲラ読み合わせが多くて今までにない状態であった。その合間に次々と訪問客を受ける。その中でも東京コミュニティースクール校長の市川力氏は、私とはやや異なった教育の仕事の過程を経て、私と同様の教育的結論に至ったと思われる極めて印象深い人物であった。このブログ読者に、氏の最新刊、『探求する力』(知の探求社刊)のご一読をお勧めしたい。
本日は朝から、都合4軒の編集者と企画総談話がこの下の部屋にやって来た。全て予めのタイムスケジュール通りに収まった。私はゲラのやり取りを排して、読み合わせ校了をする方が時間の節約になると考えている。遠い満月も意外と良く現象した。
今日午後は秦野に焚火に出る。もちろん打ち合わせを兼ねてだが、自分の庭先で焚火ができるのは本当に羨ましいと思う。
ブログの終わりが近づいたが、移転するHPの準備が整うまで、読者諸兄姉にあらせましては、今しばらくこのサイトでおつき合いいただきたいとよろしくお願い申し上げる次第。
これからまた、さらにその先の新刊本執筆にかかる。そのタイトルは、
『反抗期の息子でも、これだけは伝えたい!』である。
これは、「亡き父に捧げる」所存で書く。
2009-09-09
_ フラードームと焚火
歴史の授業で生徒に聞かれることがある。
「どうして北九州で始まった弥生時代が奈良に移って政権を作るのですか?」
ソウルに行って確信した。それは周囲に良い山がゴツゴツとあるからである。
軽井沢はなぜ流行ったのか?―それは浅間山があるせいである。
那須高原もどうして栄えたか?―それは那須山が美しいからである。
でも奈良のように、美しい山々が周囲全体に連なる地域は、まずない。
衣食中足りた上で人が望むのは景色が佳い住処である。
いくら都会でベランダー菜園をやっても、目の前の景色が佳くなることはない。
また個人的な問題としては、焚火ができなければ生きている意味はない。
菜園と焚火と景色。
この3要素を見事に実現する人物に会った。
丹沢山系の端の山を目の前にする山の中腹にフラードーム。
つまらない建物もいくつか目に入るが、それもご愛嬌。
夜になれば目の前にシルエットで山が浮かび上がる。
庵主は其角研究の俳人の二上貴夫氏。
10月にホビット村で行う、宇野先生を偲ぶカタカムナの会についての事前確認が議題である。私は、「細かいことは良いから彼女の活動を含めて、カタカムナ相似象によって自分を高めた人たちがそのことを語る場を作ろうとするのが良いのではないか」と提案していた。
私は、一切の「所属」を拒否して生きることを選択した者である。カタカムナについても三ツ矢ならぬ「アウトサイダー」することは、傍観者ではなく、意識的に客観化する立場を貫く習性によるものであろう。私は日本国民であるが、同時に一切の組織に属さないことを選んだ者である。
庭には絶妙の石炉が円形に切ってあり、その中での焚火はこれ以上ないというほど理想的なものだった。燃え残った熾の光も素晴らしい。そして火から目を上げれば、そこに山がある。
私が得意の、竹を裂いて長い串を作って西荻「もぐもぐ」のソーセージを焼いて食べることを披露すると、庵主は、「これはいいね。良い考えだ。簡単だし美味しい。」と穏やかに感心する。私は様々なソーセージを試したが、このソーセージほど焚火であぶって美味しく出来上がるソーセージは今のところ他にない。
女子大前アテスウェイのケーキを食べて、七沢温泉に。泉質は良いがセンスがいまいち。
帰宅して執筆前にこれを書いた。
2009-09-12 サピックス買収
_ サピックス買収
サピックス中高等部が、代ゼミによって買収された。すでに東進が四谷をベネッセはお茶の水ゼミナールや鉄緑会などを傘下に。私見で思うに、どうも出版部門が充実した側がそうではないものを買収する傾向があるらしい。
私はかねてより日本共産党と創価学会の共通点は出版収入が大きいことではないかと思って来た。そして、さらにこれをより合理的に踏襲したのが幸福の科学だった。
しかし、予備校業界は、お客が宗教よりさらに活字に向かうことが前提の世界にあるので、気がつけば必ず印刷したものを提供することが仕事の本線になることになる。だからこそ、代ゼミを中心とした予備校業界は、有名講師の衛星画像と最先端の受験メソッドテキストの提供、つまり大量に作ったソフトをより広範に売るユニクロ的営業が正しいということになるのかもしれない。東進ナガセもビデオ授業を得意とする。
もし受験教育と出版物が大きな利潤を生み出せば、その利潤を何かに投資しなければ多大な法人税がかかる。で、この資本を投じてある中堅予備校を買収すれば、本社から要職を送り込んでテキスト制作の中枢部を研究し、それまでの評判と営業システムも取り入れた上で、本社の巨大システムで、全体的に作られた出版物やテキストを確実に多く売ることができることになる。巨大産業による顧客名簿と過去の集積的情報の吸収。
ソフトには、これを作る人と与える人が必要である。いくらソフトがあっても、実際に生徒たちにそのソフトを呈示したり、使い方を教えたり、その場所に連れて行ったりすることは人間のする仕事であろう。だいいちそれに必要な国語力はいったいどうやってつけるというのか。また、目の前の生徒たちの様子を見て、不安を取り除いたりヤル気にさせたりするのも人間の仕事だろう。それには技量と熱量がいる。つまり、人材が必要である。そしてその人材は「教育」によって育成されるはずである。それが紙やマスで可能だとするなら、教育とは限りなくコミュニケーションを情報に置き換えれば置き換えるほど利潤が上がることになろうか。でもそれでは「教育」ではなくなってしまう。
代ゼミはいったいいくらでサピ中高等部を買収したのだろうか?仮にその金額が200億円だとすれば、その株式の10%を持っている者は20億円得たことになる。
文科省から教育産業に天下る人はどれくらいいるのだろうか。でも、文科省官僚の3分の1が天下る先は、受験産業が生徒を送り込む大学であるから、もはや話はできているかのようだ。
私も教育と出版で生活して来たが、それがいかに卑しいことに繋がり得るかをつくづく「冗談」で考察させた今回の買収劇であった。
2009-09-16
_ 民主党組閣
鳩山内閣文科省大臣に、川端達夫氏が就任することが決定した。この人は教育行政の専門家ではない。おそらくややフラットな立場で、「教育の機会均等」という、民主党の政策を粛々と履行していく役目を担うことになるだろう。現場の「傍観者」に落ちないことを願うのみである。一方で、「NEXT」と噂されて来た輿石東民主党参院議院会長は、安倍内閣で成立した教員免許更新制度の廃止を提案する方向性であることをすでに公言している。
私は文科行政の上から下までのひどい実態を一気に解決することは無理だと思う。文科省を解体して、「教育省」を設立し、その仕事を教育に関することに限定して、未来ビジョンを持って、教育内容/テキスト研究、システム解体再構築、人材の育成などに力を入れることが必要だと思うが、実は「教育省」は、未来ビジョンの呈示と、地方分権化して教育を地域の自由裁量に任せる地方分権的教育改革のシステム造りをすることだけをすれば良いと思う。
何も全国で同じことをする必要はない。日の丸君が代が好きな県はそうすれば良い。反対に、それが嫌なものは、はっきりとそれを主張して、各地域で民意を問えば良いだけのことだ。
上からやるから意味のないことをつぶせない。上は自らの利益の基である「システム」を壊されたくない。
だから、下から現場で意味のないことを次々につぶして行くしか方法がないと思う。
このことの結果は教師たちにとっては恐ろしい。現状では彼らの少なくとも25%の首切りをしなければならないと思われるからだ。しかし、彼らも生活があるだろうから、たとえ収入は減ってもそれなりの経験を生かして「世代交代」がかなうまでは協力してもらうしかなかろう。大切なのは、教師たちに、システムや社会事情のせいにはせず、自分にはできない仕事であることを自分から進言するように仕向けることだと思う。その基準は、子供の心をとらえることができるかだと思う。それは、教育を受ける子供とその親によって判断させるべきであろう。もしこれを偽ったとしても、子供の目には絶対バレる。だから、早目に自分にはできないことを表明しなければより不都合な状態になることが分るようなシステム造りも必要だろう。やはり資格試験に通っただけで実際は仕事の能力がないことが判明した場合、未来世代を考えて、潔く教職から下りていただきたい。
こう考えると、教育の改革には、裁判員制度同様、国民の参加が欠かせないことが見えて来るだろう。「モンスターペアレント」とは、もはや旧い言葉であるが、これからは市民の間でこれを議論し、この中からも貴重な意見を拾うべきだと考える。しかし、これからはただわめくだけではすまない。苦情ではなく提案していく姿勢こそが市民に求められる。もしそうできなければ、教育改革は未来永劫に実現できないだろう。そして、ここに、もしここで教育改革のための未来ビジョンの提案を、哲学者や教育学者たちがまたしても怠った場合、教師たちに先駆けて、これらを追放することを提案したい。
最後になるが、ジャーナリストは、これまで経団連が教育行政にかけた圧力について詳細に調べて発表し、この責任を問うべきだと思う。資本主義社会の教育なのに、なぜに就職を起業に優先するするように仕向けたのかを。
2009-09-23 V-net近況など
_ V-net近況など
周囲に動きがあると見るのか、現在の私はさらに執筆と構想に比重を置く生活に移行しつつある。もちろん本業はやめられないが。とどのつまり、現在の私の仕事は次のアイデアを出すことなので、周囲に調整能力の高い人が現れれば、よりいっそうその仕事に専念できる。というよりも専念するために必要な焚火の回数を増やすことができる。
HPをやや大幅に改変しようとする作業に時間がかかっているとのことだ。同時にブログ欄の移行も決定しているが、すでにそのタイトルもだいたい決定している。ここに惜しむことなく公表すると、
『V-net職員会議中』
というのだ。
多くの方のご参加を期待したい。
てなわけで、いつか『職員会議中』になるまで、このブログは、それまでの移行措置変体過程を担うことをその役割をすることになろうか、なんちゃって、どうせ浮き世の暇つぶし。
最近V-netでは、「音読サイコロ道場」というコースを設けている。これは週三コマのどれかの時間に、小学生がカタカムナ音読とサイコロ学習を学ぶものなのであるが、実は最後にやるキャロムを目的に来ている子も多いのである。
この時間、子供たちがあまりにエネルギーを爆発させるので、他の授業はできなくなってしまった。終わった後はまるで台風が過ぎた後のようになる。子供たちはこの時間を「勉強」だととらえていない。ものすごくデカい声で音読して、夢中でサイコロをやって、真剣にキャロムをやる。帰って行く後姿はあースッキリしたというかのごとくである。「道場」をやめて、「音読サイコロ子供エステ」に変名した方がいいと思うくらいだ。音読とサイコロが充分になりつつある子から作文指導に移行する予定だ。
私は相変わらず多くの人の相談を受けているが、何とここのところお役人さんの相談が多くなっている。好きなことをやることと、勤めることより起業する方向性を優先するべきと説く私に、己をわきまえて常識的に安定職を選んだ方のお子さんに私はいったいなんて言えば良いのか。とにかく、公務員の方も自分の子供が受けている文科省教育にはあきれかえっているのである。それはそれで当然のことと理解される。
また、相変わらず「変わったタイプの子」も多く訪問する。私は自分が変わったタイプであるので変わったタイプの人とのコミュニケーションに優れる。こういう子供たちは、昔のように充分な時間をとって指導したいが、なかなかそうはできなくて残念である。周囲の大人や教師が理解できなかったばかりに順調であるはずの能力伸長ができない子供たちを、過ぎた日の自分の姿と重ねてしまう。
今企画中なのは、中高生のためのリベラルアーツコース。これは、論語、韓非子、ブッダ、ソクラテスなどを読んで、ワイワイ議論し、自分の考えをまとめてそれを文章化するコース。大人にも参加してもらって議論を盛り上げて行こうと思う。実行に移すには時間がかかろうが。
執筆が、プライバシーの問題など諸処ゆえあって、「ノンフィクション」から、「ややフィクションに」移りつつあり、それはそれで楽で楽しいなりにまた別の意味で「苦しい」。
私は、またしても、「不謹慎な表現」によって、「冗談文学」の烙印を押されることもなく、かといって「文学」と認識されることもなく、「園芸」の世界に身を染めるだけなのか。相変わらず、ピーマン、シシトウ、インゲン、オクラと収穫順調。そろそろ更新剪定したナスの実も大きくなっている。早取りした唐辛子はもう一度花をつけて実り始めている。
自分がオモロいと思ったことが他人にはあまりオモロく届かないということは、冗談家にとって、畢竟「沈没」を意味しよう。まるで私は、自分で整髪できず、「美容院」のお世話にならなければやっては行けない類いの人間のようである。
「常識がない」これまでどれほど多くの人間にそう言われ(思われ)て来たことか。「常識」を証明できない人がどうしてそう思うのかといぶかしむが、人をこうだとを決めつけることが「常識」だと誤解しているらしい。
私に言わせれば、「常識」なぞないのである。時代とともに常に変化するのが「常識」なのである。ゆえに、どのような場合においても、自己の好奇心と感受性に忠実に、主体的に時間を過ごすことが大切なのである。
2009-09-28 秋のV-net
_ 秋のV-net
昨夏以来、コンスタントにほぼ月1回の割で行って来たV-net焚火の会は今回で11回目を数えた。各人思い思いの焚火と季節を確認する会話が燃え盛る。ゲーム少年は間近で焚火に当たっては、どこかでか倒れて眠る。倒れて眠ると蚊が来るので、火の近くのデッキチェアのところで火に当たりながら眠る。じっと火を見続けているうちに眠ったり目を覚ましたり、終いには靴と靴下を脱いで、焚火の遠赤外線を裸足の足の裏で気持ち良さそうに受けていた。鳥少年は、ウコッケイの美しいオスを取り押さえて、それを抱いてなでながら何かを言い聞かせてじっとさせてしまう。曰く、「鳥と心が通じ合った瞬間に、鳥が喜ぶ方向に持って行くことができるから鳥は逆らわない」と、達人のようなことを言う。温泉で潜る潜水艦男は、熊手で枯れ草を集めてはそれを火に投じることに興じている。
農家が提供した食物はとても美味しかった。
梨、柿、葡萄、トマト、生野菜、ふかし芋、お赤飯。どれも秋の実りを感じさせた。自作おでんも相変わらず好評だった。少し残った野菜とおでんが、各々トリとイヌのえさになるのが何とも悲しくも嬉しい。今回初めて、ソーセージを持って来たものがゼロだった。
こうして遠地点前の秋の焚火は穏やかに経過していった。ゆっくり入浴後解散した。
やや夏を思い出させる日も時折残るが、やがてそれも終わり、日が短くなって涼しさが増し、徐々に勉強に集中しやすい季節が深まって行く。V-netでも小学生たちのサイコロ道場とは裏腹に、厳しい試練を前にした高校受験の中学生、大学受験の高校生浪人生たちの、静かな戦いが進んでいる。英数国。各指導者の声が聴こえて来る。大学入試問題の英文の音読の声、現代文記述の質疑応答の声、数学理科の解説、音読法の指導。学生教師の個人指導。プロと学生の教師が入り乱れて思い思いの授業を繰り広げる。笑い声も叱り声も聴こえる。やっぱりV-netはにぎやかである。生徒諸君には、是非この活気を家まで持って帰って自ら主体的に学習して欲しいと思う。また我々もこれから来る人たちにも備えて元気でやって行きたい。こんな感じでだんだん「職員室風」になる?なんちゃって、なんて書けるのも今のうちか。いずれにせよ、最近新しい段階に入っていることをつくづく実感する。