ブイネット教育相談事務所


2009-10-04 「嘘」について

_ 「嘘」について

「拍手」はつくが、「コメント」がゼロなのはオモロいことである。でもって、今後「職員会議中」になればおそらくますます書かなくなるこんなことを書く気になってしまう。

そもそも言語が不完全であるから、真面目に哲学することはほぼ無意味で、これに対しては「文学的冗談」を持ち込むしかないというのが筆者見解である。

では、「冗談」と「嘘」とではどう違うか。

サマセット=モームは、「生まれてから100回以上嘘をついたことがないという人間は嘘つきである」と喝破しているが、私もこれに同感である。人は人とつき合う時、本来不完全な言語を用いてそれをするのであるから、ADHDでなければ、場に相応しくない本音の吐露はしない習慣がつくのが一般であろう。また事実を伝えることにより相手に不要な怒りを生ぜさせるのを避けるために微妙にニュワンスを変えるのは良くあることだろう。

しかし、「吐露しない」は「嘘」ではない。「嘘」とはそこで「吐露」しながら、意図的に事実とは異なる印象を相手に与える「作業」を意味すると思う。「冗談」は、これをオモロくするためであるから「許容可能」であるが、自己立場的利益的嘘をつく人は、それがそうであると相手に知れた場合、自らの人格否定にも繋がる「冒険」であることに自覚的でない人たちの「集団」であるとも言える。

世には、私を含めて必ずしも「常識的な判断」をしない人たちがいる。

もし世の中に対して「常識的な判断」をするとすれば、それは「ある意図」による、集団的利益の確認がついて回る。だから「常識的判断」に盲目的に追従することは己をダマすことに繋がりうるのである。「盲目的」というのは言葉が失礼か、「非覚醒的」というのが相応しいか、「疲れるような気がすることに敢えてアタマを使わない習慣」というのが正しいか。

いずれにせよそういう状態に陥ることは、明らかに非常につまらないことであろう。なぜなら、そもそも「嘘」とは、もしダマすことが「有効」と判断してそれを行うとすれば、他人をダマすためのものだったはずで、自分を「ダマす」ためのものではなかったはずであるからである。習慣化した嘘に自覚的でない時、その人は自己の存在意義をも否定していることになる。

しかし、「責任」を逃れるために、「迷妄」を装うとするのは多分に良くあることでもある。もっとも、こんなことをする段階ですでにその人は「迷妄」なのであろうが、ここに「自覚」がない場合、その「救出」は、宗教的修辞以外に救いようがない宿命にある。

己をバカであると認識することも、「バカ」ではないと認識することもどちらも正しくない。

「己はこのようである」と認識し、その外へ出るにはどうするかを考えてそれを実行しようとする人たちが正しき人たちである。

「洗脳」は恐ろしい。「洗脳」は、その人たちが自ら主体的に生きることを滅却させる。

これは、目先の「価値」が充実した個人時間に優先されるという「錯覚」を呼び起こす。しかし、「洗脳」の実態は「意識」そのものに対することなので、我々は常に少なくとも一つのある「意識」に囚われていることになる。そしてそのことに自覚的になれない。だからこそ、あらゆる宗教は、政治的信条と同様、「ほぼナンセンス」だということになるのであるが。「神」もなければ、「来世」もない。あるいはそれがあるかないかは断言できない。でも、人には「宗教」が必要である。

論理の飛躍との批判を承知の上で言えば、「正しさ」は、個々人によって異なることが自明なので、その答えを一つに集約することはできず、つまりは個々人のその後の自覚的生き方によって逆認識されるということになる。つまり宗教ですらゲーデル的に不完全性を孕む。

人は、単独では生きられない。

たとえ生きたとしても、単体ではその世代で遺伝子的に「終了」してしまう。

人は、その周囲の人との「関係性」とその「結果」によってのみ生きる。

人間存在とは他との関わり合いの認識である。

それ以外のものはない。

もはや「外」へ出た以上、「胎児」の時の直勘独断的動物的認識は捨て去られたのである。

我々が、極限まで「個」に立ち返った場合、そしてそれが動物的な欲求と異なる場合、我々に残るのが、「感受」と「好奇」の二つしかないことは哲学的に明らかなことであろう。そしてこれに直結的であればあるほど我々は「主体的」であることになるのである。

「冗談」はこれに前向きであるが、「嘘」はこのことを曇らせる。

弱い心になってはいけない。そこから生まれる言葉がその人自身をダマすことになる。

どんなときでも、我々が人間であるかぎり、直感と決断と行動は、その人たちに主体的な「感受」と「判断」と「実行」でなければならない。

以上、当ブログにはアクセスしないある特定の人物に対して「冗談」で書いた。