ブイネット教育相談事務所


2006-12-05 満月通信

_ 満月通信

現在時間午前5時。10時にはスタンバイしたいのに、睡眠時間を削って書く気持ちになるからこの世は分らない。

1時間ほど前に満月は過越した。しかしすでに「減速感」が現象する。この下弦は、遠ざかる下弦。体を守ることが大切になる。

私が、月の遠近WAVEを利用するようになってから、約10年が経つ。月の朔望周期(見かけ上の周期)は、約29.5日。しかし、月の実際の公転周期は、約27.22日。そして驚くべきことが、月の遠近周期が27.6日であることである。朔望周期と公転周期が微妙にずれるのは、月ではなく、地球の太陽公転によるからであり、結果的に、月の遠近周期は公転周期と月に9時間程度後ろにずれるのであり、地球との引力関係に見た場合、公転周期と遠近周期のブレンドが完全な引力把握の原理となることが分るのである。

当然これは、海の潮の満ち干に顕らかに現れる。海の潮の満ち干は、まさしく、満月新月期が強く、近地の時に「大潮」になり、遠地半月で鈍くなる。しかし、人間の能の反応周期はさらにずれる。様々な輪ゴムが刺さった杭。「無常」というのはきれいな言い方だが、この世における月の影響を受ける諸現象はみなずれて行くのである。つまり、同じことは二度と起こらないのである。超特性の制御・修正能力があるミサイルじゃああるまいし、人間の方向性には、「ずれる」という特性が、ア・プリオリに付与されている。そして、進化(深化?)の実体は、「ずれていく」ことの中にあるのである。

だが、ずれることを意識的に行おうとすると、たちどころに矛盾が生ずる。ゆえにマジでやっているけれど微妙に何らかの方向にずれていっている自分を確認することが大切なのだ。かえって簡単に齢を重ねることの自覚と言い換えても良いかもしれない。

ずれないようにと身構える時、人は「進化」を逸脱する。

次の満月はさらに遠くなる1月3日頃の満月


2006-12-15 「変化球」

_ 「変化球」

苦労して書いた新刊本『女の子を…』は、意外と「分り易い」との評をいただいて,「好調」である。今更ながら、「変化球」の難しさを再認識せざるを得ない。

世の一切のメッセージは、「ズレ」て伝わる。それは言語が不全であることのみの理由ではないのかもしれない。

物事はズレる。ズレて伝わる。ゆえに、言論において、「直球」を投げることは「傲慢」になる。どのようなカーブが相手にとって打ち易いか、これこそ作家として永遠のテーマであろう。いや、政治家のセンスが問われるのはまさにここだ。

「やらせ問題」が話題に上がる中で、教育基本法改正案は「時間切れ」で通過した。かねて言及している通り、この法案には、「教育をやや右寄りにシフトする」という要素と、「目くらまし」=大切なことを後回し=本質的な必要改革は行わない=行えないから「お茶を濁す」という守旧的戦術要素の二面がある。

我々の政府は、「発狂」したか、「迷走」したかのようである。

いずれにせよ、彼らは、現実の認識を恣意的に拒むうちに、時代と完全にズレてしまっていることが認識できない「無明」状態にあるようである。

このアタマの悪さには、まるで甘やかされた坊ちゃん私立の結果教育のような匂いが漂って、いささか肌寒い思いを禁じ得ない。

しかしこのゆゆしき現象が起こるのは、どうしてであろうか。

彼らが、「馬鹿」であることは、すでに「事実」として繰り返し確認された。

「ゆとり教育」、「日の丸君が代」、「中山登用」、「教育基本法改正にまつわる目くらまし戦術」。これに、「伊吹登用」、「教育再生会議」、そして阿部の完全無能が付け加わるのは、最早時間の問題であろう。

彼らは自ら変化球を投げるべき対象が認識できないで、「ボール」になる変化球を投げ続ける、就学以前のガキの知能しか持ち合わせない。

「履修漏れ問題」も、「いじめ問題」も、「TMやらせ問題」も、すべて、「変化球」の投げ損ないを「披瀝」しているだけだ。

彼らには、「変化球」の投げ方が分らない。メッセージを発信する「リテラシー」がない。しかしこれは日本全国共通の現象である。

役人が馬鹿なことにはあきらめがついた。彼らが既得権益を第一義に掲げるのは生物学的必然である。人間学的ではないが、了解できる。

マスコミと大学教授がバカなことも良く了解した。彼らは現実を見ない振りをする現実主義者である。これも若い時に無駄な勉強し過ぎて、イメージ力と感性を壊された結果だろう。

今、教育の本質を語ることは誰にもできない。

私は、「皮肉」ではなくて、そのことを「とても興味深い」と、「前向き」に捉えている。

そして、ここで、無明に苦しむ高学歴者たちに、彼らが気づかぬ当たり前のことを、そっと親切に教えてやろう。

現在の教育問題におけるキーワードは、「表現」である。

この部分だけは、少なくとも、「直球」で投げた。

キミタチも、まず直球を投げる練習をしてから変化球を投げる練習をした方が言いよ。

サッカーのヘディングがアタマに悪いように、カーブ投げは肩に悪いからね。

以上今回は、「冗談」抜きで書いた。

老父存命、仕事佳境、疲労困憊、満員御礼。

なかなか書く暇がなくて申し訳ない。

これから入浴して90分仮眠する。

15日午前7時。

残雨。

月は遠い。


2006-12-18 義務教育廃止運動

_ 義務教育廃止運動

賢い小学生たちは冴える。

小6男子曰く、

「これからは義務教育廃止運動が必要だと思います。」

「えっ、どうして?」

「ハイ、それは無駄なことに税金を使うのは国家的戦略に反するからです〜う!」

この生徒は2週間に一度会う生徒である。向こうが勝手に自己報告しているのであり、読者ご想像の通り、私の「誘導」は一切ない。

小学生たちは超面白い。

「日本能無し研究会」とか、「お通夜大塚」とか、「サギックス」がもう流行遅れのスピードである。「分別」が不充分なだけ、判断は直裁。テレビの「思想教育」を免れる子どもたちは、まことにタチが悪い。

義務教育を「凌駕」してしまった子どもたち。これは恐ろしい現実である。彼らには客観的に「おバカ」なことが行われていることが分るのである。

逆に、これを「ヤバい!」と捉えられない大人は超ヤバい。

彼らは塾をも客観化する。

「授業意味なし、愉しくもない。塾の先生も半分以上は馬鹿です。」

「えっ、じゃあ僕は?」

「先生は、『別枠』です。先生は、『マジメ』でも『ふざけている』のでもありません。先生は、全然別のことを主張しているような存在です。」

この生徒は麻布志望である。今年はなぜか、麻布志望が多い。

今年教えた生徒たちは、週1回の指導で、約3ヶ月で急速に国語力が伸び、塾でほめられまくりというケースが多い。私はこれを、「世のリテラシーの驚くべき低下」と捉えている。たとえ「冴えて」なくても、「上等」というのであるから、営業上まことに「美味しい」。

生徒たちの中には驚くべき能力を発揮するものが複数いる。

愚直な抽象構成による、オモロくはないが減点できない答案を連発する秀才君。あっと驚く満点か、急に崩れて60点の天才少女。設問を読んだ瞬間に、抽象構成もせずに一気書きで正解の天才君。この生徒は、デカルト、韓非子、キケロー、ソクラテスを読み下す、元「問題児」の弁護士志望の小6君である。作文勝手に書きまくりの小3生。ダイアローグの達人。彼らを、「タケノコ軍団」と捉えるのは私だけではありますまい。子どもたちの成長ぶりはものすごい。まさにタケノコが皮をむく間なく丈を増し続ける姿のものに思える時が多々あります。

急速に成長する少年少女。

停滞を自覚できない大人。

この現実は、教育問題の本質を貫き通す。

子どもたちに、いとも容易く「埋葬される」可能性。

この現実に自覚的ではない大人は、急速に存在意義を失う。

それは無分別に行われる強烈な覚醒判断である。

賢い子どもは、馬鹿な大人を許さない。

これは、儒教的倫理観でも封殺し得ない、究極の「現実」である。

子どもたちの「賢さ」が、「資格」や「学歴」判断だけではない現実。

読者はこれを恐ろしいとは思われないか。

教育について語れば語るほど、「自分」が現れてしまう。

子どもにとっての、「賢い大人」、子どもにとっての究極の「見本」とは何なのか。  

これを体現できなければ、我々は自己を「止揚」することはできない。

どうしようもないクソガキ小6生の父親でもある筆者はそう思う。


2006-12-23 ビンビン

_ ビンビン

哀れな6年担任50女を攻撃しまくっている息子に尋ねた。

「オマエには憐憫の情というものがないのか」

その答えは、世にも恐ろしいものだった。

「ビンビンならあるよ」

世のブログを見るにこの程度なので真似してみた。


2006-12-28 ムジナの知恵―年末番外

_ ムジナの知恵―年末番外

政府は自ら示した。「実は、教育改革はする気がない」と。安倍さんお疲れさまでした。そもそもから貴兄には無理な仕事だと拝察しておりました。

私は、文科省の問題も、あらゆる官庁の問題も、解決に向けての争点は、「民営化」と「地方分権化」にあると確信する。

もしある一定の教育水準を保つのに、官による仕事よりも民による仕事の方が優れる場合、つまり、官が必要とするより少ない予算で民が実行可能な場合、市場主義的な原理で官制は崩壊の方向に向かう。

全ての問題はこの視点を免れ得ない。

官制は資本主義的原理に則った国家活動を後押しするうちに、当の自分が資本主義的原理に追い越されてしまったのである。

我々は資本主義的原理の中で生活している。よりお金がかからないでより良いものを入手するルールの中で生活している。

国家が解決できない問題が生じている。ということは、すでに旧態化した中央集権的権力が、いつの日かの「再統一」を願って、とりあえずの立て直しのために、一時的に地方に自治権を大幅に返還する必要性があるということだ。教育が、地域の問題として認識され始めたとき、そこには具体的な解決案の提案が可能になろう。

教育学者だけではない。哲学者にも責任がある。社会学者にも責任がある。彼らは、どのような未来社会を想定して、どのような教育が、今、具体的に必要かを提示しようとしないのである。それどころか教育を「統制手段」として認識することからも逸脱できない。教育は能力開発のためにある。子どもたちにあっと驚く優れた人物になってもらうためにある。いつまでも子どもの心を忘れずに成長し続ける人間を作るためにある。教育の本質目標は、前の世代を後の世代が追い越し続けるところにある。

議長野依は、「塾の禁止」を訴えた。とんでもないお門違いである。この人は、即座に「帰りなんいざ!」と、愛すべき化学研究の場に帰着するべきである。再登場は、ノーベル教育学賞を得てからにしてもらいたい。オタクと教育は分野が違う。ここでも大きな人選ミスがあった。マスメディアは、教育再生会議の人選の杜撰さを、逐一個々の主張をまとめることで明らかにするべきである。

確かに今の塾教育には害がある。しかしそれは学校教育との「二極化」の結果に他ならない。学校教育の目的と塾教育の目的が異なっているのである。

学校教育には、「国家的戦略」が欠かせないだろう。

ほぼ「単一民族国家」である日本で、社会に欠かせない仕事の振り分けを行う必要がある。もし、「高学歴高所得天下り」が最も堅実なコースであると多くの人が認め目指すなら、一方に、「低所得、辛労働、転職不可」の不安定層が必要となろう。エリートたちにこのことが認識されたとき、彼らは「知能」によるヒエラルキー構築に邁進しよう。学力がないというだけで「社会差別」される階層。そしてその実体が、公教育により学力を与えられなかった階層という結果なのであれば、そこで行われる行政施策は、非民主主義的な結果目的を目指すという自己矛盾を暴露することになる。差別のために行われる教育。いじめや自殺が止まらないのも当然に思われる。

教育とは、機会均等を第一に掲げ、ダマされない人間を作ることであることであると私は思うが。