ブイネット教育相談事務所


2006-11-01  山火事状態

_ 山火事状態

予想通り、履修漏れ問題は「山火事状態」になった。

今国会では、教育基本法改正問題、いじめ問題の議論に加えて、この履修漏れ問題に時間を取られ、またしても子どもたちの苦しみを取り除く教育施策は提示されないことになるようだ。つまり、政治家たちは教育の現状が分っていないのだ。それはなぜか。

1 小中学生の子どもがいない世代である

2 子どもを私立の学校へ通わせている

3 新聞が書かないから分らない

以上の理由が考えられる。私のところへ取材しに来た新聞記者は言明した。「ただでさえ読者が減っていて困っているから、できるだけ学校授業で新聞を使ってもらって新世代の読者を獲得しようとしているのに、学校に不利なことを書くことは絶対にできない」。つまり、ジャーナリズムのアレテーより、企業利益が優先されるというのである。

それにしても、わざわざこの時期にこの問題をリークしたのは誰だろう?

もしこれが審議を与党の思い通りにはさせないための野党側のリークだとすると、野党もそれの背後で動いた教職員組合も地獄への道をまっしぐらに走ることになる。またもしこの問題を与党側が提示しているのだとすると、本当は本格的にはやりたくない与党と文科省の思いのままということになる。

諸悪の根源、文科省族のドン森元首相は、愛知県岡崎市での講演で、「何かあるとすぐに文科省が悪いと批判するが、文科省は指導と助言しかできない。教育権はどうあるべきなのか、明確に示さなければいけない」と発言。信じられないことである。文科省の権限が弱いからこのようなことになっているとの謂いなのである。ご存知の通り、この人物は、絶対に受かりっこない早稲田に、ラグビー部の監督に頼み込んで入学し、ラグビーを1ヶ月で止めて、そのまま大学に居座った人物である。どうしてこのような人物が当選を重ねて首相に選ばれたのか全くの謎である。この人物は、1911年の辛亥革命が、清朝の末期的政権のレトリッククソ暗記の科挙試験に憤慨した受験生たちの暴動に端を発していることを知らないのだろう。

私の目には、教育基本法改正も、日の丸君が代問題も、いじめ問題も、今回の必修科目履修漏れ問題も、さらには教育再生会議も、みな本質的な教育改革をしないための「方策」にしか見えない。それをマスコミが協力して騒ぐ。多くの国民にはことの本質が見えなくなる。こういう構図である。ダマされていることに自覚的でない人たちは幸いである。彼らは子を持つ親として当然の葛藤に苦しむことがない。

世では小学生、中学生、学校教師、校長の自殺が相次ぐ。だが、相変わらず文科省役人や教育委員の自殺は聞いたことがない。私は、子どもの自殺の半分以上は、親が子どもに愛情を伝え切れていないからだと思う。私もかつて高校時代に自殺しようとしたことがあった。しかし、最後に母が泣く顔が浮かんで来るとできなかった。また、過労による自殺には同情を禁じ得ないが、教職にありながら自殺することはあるまじき行為である。どうして辞めてからひっそりと命を絶たないのか。さもなければ、教育委員会や文科省に殴り込んで報復してみせるべきではないか。その方が命をかける意味がある。教職にあるものが子どもたちの前で自殺してみせること、教育上悪影響があること甚だしい。教師が子どもに自殺を教えてどうするのか。そもそも教職に就く資格がなかったと言わざるを得ない。いずれにせよ、自殺者を出した家族は、愛情が足りなかったことを反省するべきで、世間に憤りを向けるだけでは何にもならない。死は、意識がなくなることで、人はそれを「体験」できないのである。したがって、自殺のほとんどはロマンティックな幻想であると言える(例外者にはゴメンナサイ)。岐阜のバスケットボール部自殺事件の中2少女の死は、明らかにマスコミ報道の賜物である。死によって自己アピールできると思ってしまうのである。先にも書いたように、本人は自分の死後を想像するだけで体験できないのに。親はどうして部活を辞めさせなかったのか、どうして自殺しないように抱きとめてやらなかったのか。親からの反省の言葉は届かない。もしクラブ内での技術不足を揶揄されての自殺だというならば、クラブ活動そのもの自体を廃止しなければならない。スポーツマンガも禁止である。死んだらあかんという報道がもっと積極的になされるべきであろうが、発行部数が第一義の新聞はそんなことには目もくれない。ジャーナリストなんて辞めてしまえと言いたくなる。でなければ、教育の現状が、新しい子どもたちの世代対処にシステム的に追いついていないことをはっきりと書くべきである。全ては文科省の無能の賜物と敢えて私は言いたい。自殺するべきは森元首相である。

ともあれ、文科省が自己の権益保持を優先させて、改革をできるだけ先延ばししようとすればするほど突然の崩壊に近づく可能性が高いことを自覚するべきである。知識修得だけに縛られる高校生たちの怒りを甘く見てはならない。無意味な教育で子どもたちを苦しめ、我が国の将来を危うくすることに平気な大人たちは、今に手痛いしっぺ返しを喰うことになるだろう。世界のどこに、愛国心を唱えながら、国の将来をなおざりにする教育をし続ける国家があろうか。子どもたちは大人たちのしていることを見つめている。教育とは大人が範を示すことではないのか。教育について、日本と北朝鮮は最も似ている。

どうもまた本気で書きたくなって来てしまった。


2006-11-07 ムジナの知恵1ー教育改革はできるか?

_ ムジナの知恵1ー教育改革はできるか?

11月5日満月過越す。

この文章は、ホーム・ページ内の「ブイネットブログ」と、「講師紹介」→松永暢史→松永ブログ→「ライブドアブログ」の二つのサイトに投稿されている。両者にコメンターがおり、この人たちは私が書くことの方向性を「規定・修正」しているといえる。

私は最近の教育報道を目にして、いよいよ自分が「冗談」で書いて来たことが「本当」になるのを見ていささか驚きを禁じ得ない。いくら何でも我々が住むこの世の中が、我々が思うよりはるかに「幼稚」な様相を示していることに唖然としないでいることは受け入れがたいことではないか。

論理性も、倫理性も、創性も、将来性も、知性もない。あるのは権益保存の政治的戦略のみである。

「政治」はもううんざりだ。「茶番」と数値合わせ。いかなる場合にも経済的成長が文化的発展に優先されるという、教育においては本来あり得ないはずのことを願うからおかしくなるのではないか。

論理性は、日教組などの共産党系マルクス主義学習修了者勢力にかなわない。だから、「美しい国」と感覚的に訴える。つまり、政治を「モード」の一種と認識するのである。

ことを軽んずる愚か者たちにこれ以上付き合っていても始まらない。

「改革」が「民営化」のベクトルであることは小泉政権が確認させた。談合が破壊されて旧田中派政治は、時代遅れの産物と化した。にもかかわらず、教育の場では、相変わらず、「統合」を狙う。

「民営化」は、「国営」が機能しないからこそ起こっている。機能しないとは無駄が多いことを意味している。ゆえに、この「無駄」について考察すると、本質が浮かび上がることになる。ここに我々は、あくまで社会集団における事象を「経済効率」の観点で見るという、「共通の場」を所有することを再確認したい。

本稿は、いかなる専門的学習も貫徹したことがない、現場「職人」的思考結果であって、筆者の強みは、敢えて言うと、「いかなる社会的組織にも属さない」であるが、受験教育、受験産業教育、学校教育、家庭教育などの、教育に関するほぼ一切の生情報を仕事柄家族柄最も集約的に受ける立場にあることは前もって強調させてもらいたい。私はこれを私以上に知る人がいないから書くつもりである。

しかし一方、私は自己の能力のどうしようもない不完全さを強く認識する者である。願わくば読者諸兄の積極的な反論や突っ込みを受けつつ、この「連載」を試みてみたい。テーマはもちろん「教育改革はどうすればできるのか」である。

_ まず、今回の高等学校必修科目履修漏れ問題は、政府の「教師査定制度」へのテポドンであると見なして間違いない。阿部政権は、最初に、文科省の施策の誤りの認識をする前に、小泉流プロパガンダ戦術に目を奪われ過ぎた。「慶應の真似をする成蹊の花咲か爺的失敗」というのは都会育ちの教育コンサルタントの悪口である。そもそも、教育族の森派の中で、「教育改革」を唱えれば、大きな矛盾になることは想像に難くない。もしこれを実行するのであれば、身内とその長に匕首を突きつけることになるのである。そんなことができるわけがない。絶対にできない。だから、阿部政権では、前提として教育改革はないのである。したがって、「やろうとしたが抵抗勢力が強くてできなかった」という被害者的演出が必要である。被害者的演出がファシズムの重要な手口であることは、佐藤優の解説を読まないでも知れたことである。社会的エリート外に発生するファシズムは、常にその被害者意識を根底に持つ。そのことが全体性に結びつくことを説得できた時に成立する。これは左翼的革命においても同様である。自らが搾取の対象であることを認識できなければ社会主義は成り立たない。彼らは何を守ろうというのであろうか。それは、既得並びに今後の社会的地位と経済的恩恵である。そして、これは、全ての人に共通する社会目的であり、「闘争」である。つまり、資本主義も社会主義もファシズムも、みな「闘争」をその原動力=エネルギーとして持っているのである。ここでは、ソクラテス的「魂の向上」が捨象される。つまり、文化より経済が優先される。教育は労働者を作り出すための元と言う視点が結実する。

冗談じゃあない。私に言わせれば教育とは、世の中に役に立つしかも面白い人間を作り出すことである。「労働者」の育成だけに特化された教育を税金で行うのはふざけている。

履修漏れ問題で客観化されたのは、政府公認の歴史教育の軽視であろう。ここでも日の丸君が代愛国心美しい日本の追求は矛盾してしまう。つまり、アタマが悪いのである。論理性がないのである。経済政策で高得票を得て、それを文化政策のエネルギーに転換しようとするからたちまち行き詰まる。「教育」を口にしたとたん、それまでバカにしてダマして来た人たちをどう靖国対処するのかという問題に行き当たるのは知れたことだ。こういうことが事前に分らないのは将棋ゲーム的体験の不足であろう。

困るのは、この政権的無能が「反対勢力」の利権と期せずして「一致」してしまうことである。ゆえに、論理的帰結として、政権が権益を手放さなければ、彼らの反対勢力も権益を手放さないという絶対定理が成り立つ。経済政党自民党と福祉政党公明党。社会地位的権益立場と労働賃金追求立場。全て外せない観点は、税金の使途である。

上が無駄しないで下が節約することがあろうか。全てはこの儒教的倫理観に基づく。上のものがしっかりするから下のものがついて来る。儒教主義の本質はこれである。決して上がバカでも下が従うようにすることではない。ここいらに一つの結論がある。以下本格的に書き進める。読者の率直な反応を期待する。


2006-11-12 <ムジナの知恵ー連載2>

_ <ムジナの知恵ー連載2>

それではまず私的な考察から。

もし読者諸兄が、朝8時から夕方5時まで残務処理を含めて9時間の間、今どきの少子化社会の小学生たちをあずかって、これを責任を持って管理しかも勉強も教えるとしたら、いったい何人なら引き受けることができますか。

その答えは多くても5人だと思います。小学校教師の生徒比率は17,1人です。

ではその職務を週に約50時間、ひと月約220時間行うとしたら時間給としていくら要求しますか。

小学校教師の平均年齢は公立で40,5歳、平均年収は746万円。私立では790万円。これにはさらに幅があろう。ともあれ、公立小学校40歳教師の時間給は、およそ2800円である。

これを個人教授と比較すると、仲介の会社を挟むと大学生家庭教師初任時間給1250円。直接だと2000円から。院生だと時間4500〜くらいから。プロは6000円以上。熟練者はすぐに10000円を超える。ただ、中間移動のない連続労働として学校教師は、楽とは言えるが実に疲れるのである。でも、時間給1500円でも人を雇えるであろうから、ある意味で教職はオイシいとも言えよう。

しかし、それは間違っている。

約40歳で二児の親だとすると、月収にして62万ということになる。一般にサラリーマンの給与は手取り時点で8割だから約50万。住居費が15万、生活費が20万、生活費以外に10万はかかるとすると、残りは5万円で、これが教育費になる。これだと、家庭教師は雇えない。進学塾には通えない。もちろん、私立の学校に通わせるのは無理。私立の学校に通わせるには40歳で年収が1000万近くなければならないだろう。

私は、公平な観点から見て、小学校教師にもその機会を得るくらいの年収を与えるべきだと思う。問題なのは、社会主義的に、能力の劣るものにも一律の賃金を支払うわけにはいかないということです。一生懸命働かない者に一律の給料が支払われるのであれば誰もが熱心に働く気力を失せることは明白です。しかも、彼らは、教員資格を得るために専門教育を受け、しかも50倍とも言われる試験にパスするために努力した者たちです。それが医者の収入の3分の1程度というのは不公平すぎます。

教師の給与を1000万に近づけるとすると、全国で41万人いますから、1兆円近い予算増が必要になります。教員に査定制度を設け、できる教師とできない教師の収入格差をつくっても、何千億万円かの投資が必要です。私には正確なことがさっぱり分りませんが、もし全ての文科省天下り法人が廃止されれば、そこから浮く人件費などからこのうちのかなりに資金が調達できると思います。また教育補助金も削減し、教員給与以外の全ての人件費を削ります。つまり、経費の面では、天下り先と法人をなくせば、かなりの資金を教員給与に回せます。文科省の機能を可能な限り小さくして、予算5兆のうち約10分の一を節約すれば、必要な人件費を確保できることになります。私は専門家ではありません。専門家が数値計算して出してもらいたいと思います。

少子化社会の中で逆に異様なほど多様化して行く子ども。それは生物学的必然だと思います。並走する遺伝子が数少ないとき(もしくは全くないとき)、個体は「ユニークさ」を暗黙のうちに希求します。いわば、「特殊」を夢見ます。願うことは勝手ですが、「特殊」には、前提としてある程度の、後天的能力が必要されます。多くの人はそれを学歴や偏差値や「資格」と捉えるのでしょう。それは相対的価値観において見ればそれなりに正しいが、直勘的経験真理から見れば危ういものとなると言えます。

情報の渦の中での覚醒。

妄想の果てにかいま見られる真理。

あはれきわまりない非現実。

どうしても始めざるを得ない躍動。

ここで多くの若者が、浅田彰が予言した通りに、「逃走」し始めるのです。つまらない世の中から可能性のある世の中に若者ほど本能的に「逃走(スキゾ・キッズ)」するのです。私はこれを、「社会学的現象」としてではなく、「生物学現象」と捉えたくなります。人類は、つまらないことに耐えられず、愉しいことに未来を夢見るのです。

「逃走」は、「教育」の反意語です。これはいじめや学級崩壊以上に怖い問題です。自殺問題以上に怖い問題です。そして、このことを「警句」と受け止めることができたとき、未来教育の可能性を知ることができます。国語力の問題は、その暗示です。国語にさえ優れれば、自分で本を読んで学ぶことが可能です。創性や感受性を含めた知能向上なのか、それとも知識を主体とした技術獲得なのか。そしてそれのブレンド比は何対何なのか。現行試験で測れるものなのか。このことにおいても、選択肢型「全国学力試験」は外れます。

国際情勢史を眺めれば、日本は完全にアメリカの「支配下」にある。中国と北朝鮮以外の東アジア諸国と同等である。我が民族はなぜか資本主義経済への適応性において優秀であり、今のところ生産性が高い。我々は核兵器によって無条件降伏・支配された唯一の国である。経済力と科学力に打ち負かされた最初の国である。中国はもう学習した。アメリカが困れば困るほど資本主義的に正解なのである。ゆえに中国は、まるで蚕の幼虫のように米国債を喰う。ここにおいて、中国が先例として我が国家に学ぼうとしているのは本当に面白いことである。アメリカ資本主義経済を喰い滅ぼすーこれこそアメリカ先住民と我々との「密約」であった。アーミッシュは創価学会よりはるかに尊い。公明党の方向性が社会民主主義であることは必然であり、弱者救済という意味で共産党と手を握ることも可能だと冗想したい。阿部政権は、次回選挙で記録的な大敗を喫すと思う。彼には構造改革がロマンチシズムの観点でしか見えていない。岸信介は誤摩化したのではない。理性的に考えて何が国家利益であるかを巣鴨プリズンで省察したのである。彼はアメリカ人役人をつぶさに観察し切った最初の官僚である(あたかも瀬島がシベリアでロシア人のそれを見抜いたように)。であるとするならば、今回の一連の流れは、政治を、「お祭り」程度に認識する我々国民の姿がそこに投影されたということになろう。民主主義に政党が必要であると言うのは永遠のファシズム的問題である。阿部さん、あんた本当にバッターボックスに立ったことがないであろうが。麻生サンはバカなので、谷垣にするべきだったが、谷垣にはガキ以上のアイデアがない。勉強し過ぎの真面目行動はアタマに悪い。善い人間よりも、できる人間を求めていることが了解されない。人間的スケールの人材的限界である。教育問題は自民党政権の存命に関わる問題になる。阿部氏は本当の意味で自民党を「ぶっ壊す」小泉爆弾を抱えたことになる。長い歴史の蓄積の中で、自民党がアメリカの「エージェント」であることは最早明らかなことである。そして、そのことのある意味での「正しさ」を長年にわたって受け入れたのが戦後日本人の大半であった。しかし、教育までアメリカ型未来のためにする必要はない。だからといって日の丸君が代では形だけのことである。独立した一個の経験的集成による意見を述べることができる日本人。まず日本語で自己意見を自由に表明する力を身につけ、その上で外国語でもそれができるようになる日本人。経済的蓄積が充分になった今、日本人は自らやりたいことを個々各々勝手に追求するべきである。「逃走」すべきである。そして、そのこそこそがこれからの国際社会における日本の原動力となるのである。てめえの意見を言うためにはてめえの意見がなければならない。そのためには価値観が必要である。そしてその価値観は、他者から丸ごと与えられるものではなく、個人の純粋な好奇心による探求と追体験結果と、日常あらゆる場面における不断の価値判断の集積によって獲得されるものである。上のものに価値観を与えられようとしてはならない。個人の価値観は、個人が実人生で極限まで自己を押し通そうとした時に、その結果として得られるのである。いじめをするのは、それがつまらぬことだという価値判断がないからである。自殺も同様。学歴第一主義も同様である。これら価値判断形成の場を整備することをこそ「教育」と私は呼びたい。そして、そのツールは断然日本語である。

拙いながらまだまだ書き続けたいが、読者率直なご意見を請う。


2006-11-20 <ムジナの知恵ー連載3>

_ <ムジナの知恵ー連載3>

相変わらず「高度」な読者諸兄に礼申し上げる。

しかるに、当ブログ子には、驚くべき時間の不足状態である。新たなる出版社からの企画も、テレビ出演依頼も結果的に無視。完全に毎度おなじみの受験体制に入る。

15日の夕方4時のことである。この日小生は、夜間看護を母に任せて、朝まで自宅で原稿執筆。軽く仮眠を取り、埼玉山奥大学へ出講し、午後4時、大泉のインターを降り、信号で停まり、携帯着信メールを確認した。

見れば、秘書役のT女史から3件の新たな教育相談の申し込みの報告。昨日も同様。もうこれ以上は物理的に不能な限界までスケジュールがつまる。もちろん、ケース的にお断りすることも多々ある状態。最早やけくそで、「よきにはからえ」と打つのが精一杯。

家へ帰ると、さんざん問題になっている2階キッチンの下水道が、修理に来ていた水道屋が対処中に決壊し、階下のピアノが水浸しになったとのことで、プロフェッショナルな水道屋が来ている。「大ナマズ」は、私が帰ったのを幸い、地域のコーラス指導に外出する。ところが、大家とプロ水道屋はなかなか帰らない。しかし、私は5時までに事務所へ出なければならない。

4時35分。やっとのことでPCメールを開けると、出版関係から3通のメール。これを高速で打ち返していると、またまた大家さんがピンポン。老人ゆえ、話が長くなる。さらにそこに自然食納入業者来訪。支払いの金と注文書が不備なので彼女に電話。改めて来てもらうことにする。彼らがやっと帰ると、近所の主婦が相談訪問。もう事務所に出なければならないギリギリの時間。軽く話を聞いて返答。この瞬間、またしても電話。高校時代の旧友が、「子どもの受験で相談したい」!「春まで待ってくれ」!急いで出ようとすると、またしても大家からの電話。「保険屋が来る日程を詰めたいのでこれから言うことをメモして下さい」。時計の針は5時を回った。たった1時間で、10件以上の対人処理。大学受験指導のために事務所に出ると、なんと、時雨ならぬ晩秋の雷雨。妙な日である。

教育基本法改正案通る。しかし、実際の教育改革について、政府並びに教育再生会議、沈黙。することがないらしい。先にも述べた通り、教育基本法改正論議は、文科省を郵政省と同じ目に遭わせないための、政府目くらましである。新聞は書かない。政府同様バカかグルと知れる。

世はいじめ自殺報道で大賑わい。これも「目くらまし」に見える。結局、「改革」はないのである。国民からの怒りの声も聞こえず、改めて深く「納得」する。政府主導で、改革をするふりの非改革であることは、最早完全明らか。

次回以降にこの連載を本格化したいが、上記のように時間がない。

『ウラのウラ』に続き、12月初旬に『女の子を伸ばす母親はここが違う』刊行。年明けに、『できるだけ塾に通わないで受験に成功する方法』ならびに、『オチンチン力第2弾』刊行予定。その後も立て続けに出版社から刊行企画。いよいよ時間がない。雑誌インタビュー、執筆も押し寄せ、しかもそこへ新たなる大きな懸案が加わる。病父延命により、深夜看病も続く。家族子どもと会話する時間は一日5分程度。人には、「忙しいのは良いことだ」とか毎度のご挨拶をいただくが、想像力が欠ける人物に思えるだけ。筆者はオカネよりヒマが欲しい。しかし、教育の現状について、怒りを抑えることができずこのブログを続ける予定。読者氏には話が進まず本当に申し訳ない。


2006-11-23 <ムジナの知恵ー連載4>

_ <ムジナの知恵ー連載4>

私生活でオモロいことが次々起こっているが、教育改革について書く。

すでに書いたように、筆者に言わせれば、「日の丸君が代」も「教育基本法改正」も、「教育改革再生会議」も、実は本当の改革をしないための政府目くらまし策である。そして新聞は、「いじめ」や「自殺」については書くが、学校現状乃至は文科省現状については一切書かない。これは筆者のところに来た新聞記者が言明した通り、「書けない」のである。思えば、旧建設省周辺と建設会社の癒着は可愛いものだった。しかし、文科省と天下り法人、教科書会社、出版関係、メディアを含めた大掛かりな「癒着」は、最早修正不能のところまで至っている。またこの反対側で、教員組織も政党、出版メディアを巻き込んでおのが地位保全に躍起になっている。彼らは生活のために、教育を食い物にして子どもたちを絶望させ、自らの立場を守ろうとしているのである。そして、教育学者や教育学部は、これまで通りにほぼ沈黙を保っている。これも「生活のため」なのであろう。同じ教育関係者としていささか同情も禁じ得ないが、子どもたちの苦しみを思うと、筆者の怒りも抑えることはできない。

筆者は一切の組織に属さないことを決意して生きて来た者である。ただ直接子どもたちとご家庭と接して生きて来た者である。

学力低下の原因はさまざまな要素を持つ。暗記とレトリック読みだけのセンター試験、それに準じるあらゆるテスト問題、質も使い勝手も悪い学校教科書、どんどん低下する学校教師の質、いよいよ進んだ少子化社会の中で育った新しい世代の子どもたちの教育法の不備、場当たり的対処かつ思想対立を誘引させることで現場を混乱させる行政施策、新しい教育法の開発をほとんど行う気がない教育学部とその教師養成方法、何よりも人物見定めを無視する暗記型の教員採用試験(これには微妙にコネもあるとの噂→教員の60%が教員の子弟)。いずれもが「利権」に絡み、変えようにも動きが取れない。未来を担う子どもたちの健全な成長と教育環境の設定ができない「恥ずかしい国日本」。教育改革には以上すべてが変わろうとしなければ無理である。

そのためにはまず、文科省権限を縮小する必要がある。以前に私の知り合いで、大蔵省予算案を24時間で終わらせることができるソフトを開発したものがいた。彼はこれを旧大蔵省に持ち込んだが、当然門前払いされた。役所は、「パソコン一人一台制」をとり、一人も辞めさせることがなかった。大手銀行を中心とした一般企業では、人件費削減のために大規模なコンピューターシステムを導入、ガンガンリストラを押し進めることを可能とした。しかし、役所ではそんなことは全く起こらなかった。センター試験ではコンピューター処理を最大限に活用しているのに、文科省では本格的にこれを活用して人員を減らす措置は取らない。私は、まず大規模な法改正を行い、文科省に積極的にコンピューターシステムを導入して人員を10分の1にするべきだと思う。

その上で、次に、国立教育政策研究所や国語教育研究所など、あまたある天下り法人を、同様に可能な限り縮小しつつ、単なる「課」などの部署扱いし、一つの建物におさめ、余分な役職や組織や建物を可能な限り処分するべきである。

こうして、まず文科省権限を最大限縮小しつつ、教育を地域行政に任せるため財源を分与する。

次に、文科省検定を廃止し、教科書を完全に自由競争のもとに置く。さらに、良いテキストやメソッドをネット上で公開し、必要に応じていつでも全国の教師たちが利用できるようにする。しかも、その使用度により、制作者/考案者に使用料が入るシステムを作る。もちろん一般企業の参入も可能とする。またボランティアで無償提供するものもあってかまわないことにする。各教科別の使用ランキングも公開し、上位者には報奨金を出す。優れた授業メソッドの研究発表コンクールを行い、これまた上位者には報奨金や、あとで述べる賃金システムも加味する。

各地域の教育委員を、自治体選挙と同時に行う公選制にし、ここにもネットを幅広く用い、苦情や情報や提案や対処が包み隠さず閲覧できるようにする。同時に各校長も地域による選出制にし、これにしっかりとした権限と責任を与える。

教員の査定を、生徒やご家庭に行わせて、その結果により、毎年5%程度の給与の上下をつけ、その結果を教員ランキングとして一目瞭然とする。また、まともに働く気がある者に社会的に胸を張れる賃金を保証するようにする。

センター試験を廃止し、選択肢による試験を禁止する。このことによって、各教科の基本知識の記述力と文章力を第一義に掲げる試験を行う。

国立大学は、定員の2倍採ってクジ引き制にし、経済格差による試験結果を機会均等・平等化させる。また、定員の約半数をAO入試によって採り、進学後の目的のはっきりしているものの入学を優先する。

国立の専門学校を多く設立し、職人的技術者に学力的観点ではないしっかりした資格が与えられるようにする。

教育学部を改革し、もっと実際的な教育者を、大学院まで教育養成し、教師のレベルと社会的地位を上げさせる。インターン生を大量に雇い、生徒対教師の比率を下げる。もちろん地域ボランティアも積極的に活用する。この中で、教育に適するものをその仕事によって判断し正式に採用してゆく。

こうして縮小化された文科省には、最低5年の教壇経験がある者を入省させ、やがてキャリアー官僚をすべて追放する。

以上が私のおおざっぱな私案であるが、メディアが沈黙する理由が読者にもお分かりのことと思う。以上は全く実行不能で、「冗談」としか言いようがないだろう。読者諸兄のご意見を請う。


2006-11-28 講演会について

_ 講演会について

読者子には、年末ご多忙中のことと拝察申し上げます。

このたび『女の子を伸ばす母親は、ここが違う』(扶桑社刊)の出版記念講演会を開催することになりました。子育てに関する質問にお答えます。会後にサイン会もする予定です。料金は無料です。ブログ読者は名乗り出て下さい。優先的に会話します。どうぞよろしくお願いします。

_          記

日時:12月9日(土) 17:00より約一時間

場所:アリオ川口 1Fセンターコート(埼玉県川口市並木元町1-79)


2006-11-30 <ムジナの知恵―連載打ち切り>

_ <ムジナの知恵―連載打ち切り>

「ムジナの知恵」と称して、教育改革の具体的提言を試みたが、相変わらず多忙中の筆者の力不足で、多くの読者に「黙殺」されたという感を禁じ得ない。これを「正当な評価」と捉え、次回執筆予定だった「では、教員の指導能力の向上にはどうしたら良いか?」は、出版物に回して最早書かないことにしようと思う。したがって、今回以降、筆者の随想にもどることにする。その方が書くべき面白い題材を後回しにする必要がなくて良いと思う。筆力の不足を申し訳なく思う。

昨日、長野山中で、優秀な編集者を半徹夜で独り占めにして、2月発刊予定の『できるだけ塾を使わずに受験に勝つ方法』の最終通読加筆修正を終了した。ご存知の通り、受験が迫ってさらに多忙に拍車がかかり、こうする以外に間に合わないための非常手段だったのである。

帰路、埼玉山奥大学出向後帰宅。「後書き」を執筆。いくつかの電話連絡を受けた後、事務所で医学部受験生とセッション。来春の医学部受験の展望を示し、予定時間を大幅に上回って大いに激励して「エネルギー注入」。疲労困憊の中、深夜飲酒検問を行う警察官に自分と同様の姿を見出し、実家に回ると、母に、「あんたが楽になるんじゃないかと思って、お医者さんに、お父さんの尿道に管を入れてもらったら、それが詰まり大出血。膀胱と前立腺に異常があるみたい」と報告される。

深夜二度目の尿を採ろうとすると、いささか汚い話で恐縮だが、紙おむつから尿が漏れて一大事。「だって、疲れたオマエを呼ぶのが気の毒だから」との弁。「お父さん、最近僕のことを『親孝行ですね』という人がいるけれど、『やりたい放題の高校生活の後、役にも立たない私立大学哲学科を3年遅れで卒業。その間アフガンで3ヶ月の行方不明の放蕩三昧。しかも就職もしないで突然結婚。こんなことに一言も文句を言わず耐える親がどこにいる。親不孝を絵に描いたような人生ゆえ、それを黙って容認したお父さんの世話をするのはせめてもの罪滅ぼし。親不孝ゆえの親孝行で、こちらとしてはかえってありがたいことですわ』とかほざきながら、紙おむつを替え、尿と便を採り、左右に寝返りを打たせながら汚れた寝間着を取り替える。長野での徹夜作業を語ると、「オマエがこんな人間になるとは、全く想像できないことだった」と、まるで歌舞伎の世界の人情話。しかし、全ては、この父親が黙って働き続けたことの結果なのである。

こうして看護に疲れ切った母にできるだけ負担がかからないような体勢を整えて、午前5時帰宅して、自宅デスクに戻ってこれを書いている。看護の傍ら、本日午後からの雑誌インタビュー草案には目を通し、メモを作る。その間に、朝日と日経に目を通し、いじめ問題についての、教育改革再生会議の混乱状態を再確認。改めて教育改革は絶対にないことを確信する。「仕事」より、あくまで地位保全を優先する醜い人たちに傲然とする。「恥ずかしい国日本」。ごまかしと世論操作しか考えられないお坊ちゃん政権に、つくづくむなしさを禁じ得ない。教育荒廃をないがしろにするこの国の未来は誠に暗い。せめてもバカ娘とバカ息子が、世代交代を通じて大人化する日をと「夢見る」が、この疲労困憊状態では、その日を目にすることもおぼつかないと思う。しかし、私が尊敬する人々が、人生志半ばで息を引き取ったことを思うと、それも善しとしている自分を確認する。

これまで、腰を入れて書いた本は売れたことがないので、やや不安が残るが、今回の本は読者に通じることを確信している。

その先の出版企画も「雨あられ」であるが、文科省とマスコミに白眼視される筆者としては、「いじめと自殺をなくす方法」を緊急出版したい思いもある。バカを自認する自分から見て、政権トップがかくも愚かな現状を見て、いかんともしがたい気分を禁じ得ない。しかし、母に言わせれば、私は、「根っからの楽観主義者」だそうである。家人が起きて来たので、そろそろ寝床に入って眠ることにする。お休みなさい。あと30分で午前7時である。自己解放のための文書を読者諸兄に読ませることに失笑を禁じ得ない。