ブイネット教育相談事務所


2006-12-15 「変化球」

_ 「変化球」

苦労して書いた新刊本『女の子を…』は、意外と「分り易い」との評をいただいて,「好調」である。今更ながら、「変化球」の難しさを再認識せざるを得ない。

世の一切のメッセージは、「ズレ」て伝わる。それは言語が不全であることのみの理由ではないのかもしれない。

物事はズレる。ズレて伝わる。ゆえに、言論において、「直球」を投げることは「傲慢」になる。どのようなカーブが相手にとって打ち易いか、これこそ作家として永遠のテーマであろう。いや、政治家のセンスが問われるのはまさにここだ。

「やらせ問題」が話題に上がる中で、教育基本法改正案は「時間切れ」で通過した。かねて言及している通り、この法案には、「教育をやや右寄りにシフトする」という要素と、「目くらまし」=大切なことを後回し=本質的な必要改革は行わない=行えないから「お茶を濁す」という守旧的戦術要素の二面がある。

我々の政府は、「発狂」したか、「迷走」したかのようである。

いずれにせよ、彼らは、現実の認識を恣意的に拒むうちに、時代と完全にズレてしまっていることが認識できない「無明」状態にあるようである。

このアタマの悪さには、まるで甘やかされた坊ちゃん私立の結果教育のような匂いが漂って、いささか肌寒い思いを禁じ得ない。

しかしこのゆゆしき現象が起こるのは、どうしてであろうか。

彼らが、「馬鹿」であることは、すでに「事実」として繰り返し確認された。

「ゆとり教育」、「日の丸君が代」、「中山登用」、「教育基本法改正にまつわる目くらまし戦術」。これに、「伊吹登用」、「教育再生会議」、そして阿部の完全無能が付け加わるのは、最早時間の問題であろう。

彼らは自ら変化球を投げるべき対象が認識できないで、「ボール」になる変化球を投げ続ける、就学以前のガキの知能しか持ち合わせない。

「履修漏れ問題」も、「いじめ問題」も、「TMやらせ問題」も、すべて、「変化球」の投げ損ないを「披瀝」しているだけだ。

彼らには、「変化球」の投げ方が分らない。メッセージを発信する「リテラシー」がない。しかしこれは日本全国共通の現象である。

役人が馬鹿なことにはあきらめがついた。彼らが既得権益を第一義に掲げるのは生物学的必然である。人間学的ではないが、了解できる。

マスコミと大学教授がバカなことも良く了解した。彼らは現実を見ない振りをする現実主義者である。これも若い時に無駄な勉強し過ぎて、イメージ力と感性を壊された結果だろう。

今、教育の本質を語ることは誰にもできない。

私は、「皮肉」ではなくて、そのことを「とても興味深い」と、「前向き」に捉えている。

そして、ここで、無明に苦しむ高学歴者たちに、彼らが気づかぬ当たり前のことを、そっと親切に教えてやろう。

現在の教育問題におけるキーワードは、「表現」である。

この部分だけは、少なくとも、「直球」で投げた。

キミタチも、まず直球を投げる練習をしてから変化球を投げる練習をした方が言いよ。

サッカーのヘディングがアタマに悪いように、カーブ投げは肩に悪いからね。

以上今回は、「冗談」抜きで書いた。

老父存命、仕事佳境、疲労困憊、満員御礼。

なかなか書く暇がなくて申し訳ない。

これから入浴して90分仮眠する。

15日午前7時。

残雨。

月は遠い。