ブイネット教育相談事務所


2009-08-04 「支配」のための教育

_ 「支配」のための教育

お子さんをサピに通わせるクライアントの女性からご進言があった。

曰く、

―α1の生徒は、そもそもみんなそんなに努力しなくてもできる生徒たちがほとんどなので、別に自分ができることについて特別の気持ちがないと思う。だからえばるものはまずいないはず。しかし、α2になると、闇雲な努力をして上がって来たものたちが多くなるので、他人を見下してえばり散らす鼻持ちならない連中がでるようです。

この人のお子さんはずっとα1に通っている。しかも家ではほとんど勉強しないという。

サピ下位クラスで喘ぐ子供の親御さんから見れば、羨ましいこと限りないであろうが、彼女ははっきりと言う。

―サピはαだけまともで、教師の質が保障されている。そしてαに通う子供は、別に日能研に行っても同じ。どうせ皆筑駒か開成(悪くても麻布駒東)に進学する。だから本当は営業上α1に通っている子供たちは皆「奨学生」にして無料でもいいのよね。逆にお子さんがαに届かないレベルなら、ワセアカでも日能研でも自分に合った塾でそれなりのところを狙う受験戦術を取ることが正しいということになるんじゃあないですか。でなければ2学期以降プロの家庭教師を雇って志望校過去問の徹底対策練習をするとか。

こういう親は、塾も「洗脳」のしようがないだろう。

しかし、今確実に増えてきているのではないか。こういうタイプの親たちが。

そして、考えてみれば昔からそうだった。筑駒や開成に入れる親のほとんどは「情報通」であり、たいていは「資本」がある人たちだった。これは名門校ほどSEG利用者が多かったという事実からも立証されよう。

そもそもアタマが良くて、なおかつそれなりに裕福なご家庭のお子さんがエリートとなる。非常に分りやすいが、逆にそもそもアタマは悪くないが、適切な教育環境設定を受けることができなかったお子さんはエリートになれない宿命にあるということが演繹されはしまいか。全ての人に質の高い教育を平等に与えることはできない相談であるが、それが金があるかないかに大きく関わるというのは「不平等」である。でも、どうして国は、教育における「能力」の本質を分りやすく国民に伝えようとはしなかったのか。それこそが教育改革が実現しない本当の原因だったのではないか。

『韓非子』によれば、「支配者が何を考えているのか被支配者が分らなければ分らないほど支配はうまく行く」ということになる。これを、「王」ではなく、「民」が主権者である現代に置き換えれば、「支配者的クラスに入るものは、支配者層が何をしているのかをリアルに知りこれを実践できるもの」ということになるが、これをもたらすものは明らかにカネではなくてチエであるはずである。まあ簡単にいえば、支配層は非支配層あっての支配層だから、できるだけその比率を大きくすればするほど成功しているということである。

しかし、金があっても権力があっても幸せにはなれない。幸せになるには美しく生きることが必要になって来る。ということで、東アジアでは支配層には儒教を学ばせることになる。ちなみに「武士道」は優れて儒教的である。

闇雲な努力が傲慢さを、優秀な頭脳が世間的無知を呼ぶのであれば、正に「支配者」の思い通りの教育結果とも言えることになるだろう。こう考えれば、まるで闇が晴れたかのように陽の光を浴びる気分になれるかもしれない。


2009-08-07 「休日」

_ 「休日」

夏休みで忙しかったが今日は久しぶりで事務所での仕事はなし。

午前7時起床。朝食のおにぎりを食べて、ロンドン演劇ツアーへ向かう娘とそれを見送る母親を駅まで送る。

帰宅後水撒きと収穫―キュウリ5本、ナス5個、ピーマン4個、大パプリカ1個、インゲン片手。洗濯物を干す。

入浴瞑想後、執筆。今日は9月末発売予定の『中学入試国語記述のコツのコツ』(主婦の友社)の文庫本のゲラ加筆とあとがき執筆終了。終了と同時にあとがきをメールで送ると、編集者から早速午後会いたいとtel。その合間に、新刊本の執筆も進めるが、これはいささか苦しい。私はこの本のこの部分で、「オモロい」を「役に立つ」に優先させた原稿を書こうとしているのである。しかし、「面白い」書くためのエネルギーの「遊び」や「人からの刺激」の不足を強く感じる。中年男にとっては、「オモロい」は、やや一般的ではないところにあるので、この表出は「独りよがり」になる可能性がある。というより、やはり若くはないので闇雲な面白さを追求するには分別があり過ぎるということになるのか。

その間に、前記野菜を持って母訪問。風邪気味とのこと。牛乳とアイスノンを乞われて持参。素麺茹でて一緒に会食。母は足の衰えを非常に気に病んでいる模様。友人家族から軽井沢の別荘へ来ないかと勧められている件につき同行を促されたが快い返事ができない。一泊はつき合おうと思う。

細かいことは書けないが、現在金策―借金返済に加えて税金の支払いーに苦しんでいる。住民税、健康保険の他に、法人税、所得税、予定納税、そしてまた消費税の支払いなどが毎月のようにあり、出す本の印税は全てこの支払いで消える。この後もずーっと税の支払いがあるから、最早完全に税を滞りなく支払うために執筆していることになり、手元に残る金は一切ない。娘は自分の貯金で渡航した。

午後1時30分、吉祥寺で編集者をピックアップ。自宅で打ち合わせを行う。これが終わると編集者を駅まで車で送って帰宅後、来年2月刊行予定の『反抗期でも息子にこれだけは伝えたい!』を執筆。これは苦しいのですぐやめて、午後4時水撒き。シャワーを浴びて吉祥寺ヨドバシカメラへ。Ipodとスピーカーをつなぐ簡易アンプを求めるがないとのこと。リンデでサンドウィッチを買って帰宅。空気湿って遠くでゴロゴロ。ポツリと来たので速攻で高井戸温泉へ。

露天風呂屋根の下でリラックスすると、願い通り驟雨。中年男たちは屋根の下、若い男たちは惜しげもなく肉体を雨に浴びせている。最近トレーニング中の「中観的瞑想」を行うと、隣の中年が真言密教のオンサラマンダを唱えるので、ウナリ瞑想でつぶしてやる。

帰宅後、執筆再開の前にこれを書く。


2009-08-12

_ 「学校教育は吉本興業に負けた」

これは私が最近気に入っている自作キャッチフレーズである。

学校教師は生徒が話を聞く状態を作るのに苦労するが、吉本の芸人は最初から話を聞く状態を作ってしまう。なぜか。それは芸人たちがどんなときでもオモロい話をすることが義務づけられているからであろう。子供たちはこれから話されることがオモロい話に決まっているから最初から耳を傾ける。

人がオモロくない話を積極的に聞かない傾向があることはどなたも認めることだろう。

学校の先生は、子どもたちの前で話すことが仕事である。その時、役に立つことを話すだけでは子供は聞かない。役に立つことをオモロく話さなければ子供は聞かない。オモロいには、そもそもの雰囲気と、話の内容と、語り口の三つが同時に必要である。もちろん個々の一つ一つが滅茶滅茶オモロければ、それだけでもオモロかろうが、すぐ飽きてバカらしくなる。

学校教育はこのポイントを看過し過ぎたどころか最早手の届かないところまで流し去ってしまった。「芸」とはこころを伝えようとする技術である。教育養成大学は、表現力のあるオモロい人材の育成に力を入れなかった。そして教員採用試験は、暗記力が基準であり、人間的表現力を判断基準に持たなかった。判断力ではなくて追従力のあるものを採ることに恣意的であった。「ココロ」の抽象化ができていなかった。

対して吉本興業では、読者の皆さんも良くご存知だと思うが、各人の名を書いた20面体サイコロを使って、出た目の名の人がそこでできるだけオモロい話をしなければならない「すべらない話」というゲームを番組化するする。これは昔からあった雨の品定め的我が国古典的遊びであるが、関西では常識だろうが、人は他人に会う時に、一つくらいはオモロい話を用意するのが最低限のマナーであろう。顔の悪さは許されても陰気な雰囲気は失礼にすらなる。学校の先生だって、多くの生徒たちが待っているのだから一日一つはオモロい話を用意しても良さそうなものだ。寺の坊主が話が下手だったら寺は衰退する。自分にもその程度の宿題を課すことにも日教組は反対するのだろうか。いや、するまい。ちなみに吉本芸人の約28歳平均年収は約280万円とのこと。全体でも700万以上は17人しかいない。多くはアルバイトで糊口をしのぐという。これからしても、教師の採用の仕方がナンセンスであることは明らかだろう。そしてこれから先、このことを看過し続けた教員養成機関は、できるだけ早く自己懺悔しないかぎり「未来」はないと思っていただきたい。子供たちはあなたたち同様、吉本興業をテレビで視聴しうるのである。そしてこれが容易く肯定される今、子供に接する教師たちは、吉本興業以上に子供を惹き付ける能力を要求されていることになる。ただ一つオモロいことに勝るものがある。それは教師の熱意であるそうである。そして、オモロさの前提にも熱意があることが分る。

私は、教師が1時間目はぬいぐるみを着て授業することと、毎日職員会議で20面体サイコロを使って「すべらない話」を行うことと、教員採用試験ではカタカムナ音読とサイコロ学習と「すべらない話」試験を取り入れた政策をとることを、焚火教育、菜園教育に加えて冗談で次期政権に提案したい。


2009-08-14 ウマとピアノ

_ ウマとピアノ

キュウリ、インゲン、トマト、ピーマンの成長には目を見張られるけれども、自分の文章はなかなか伸びずまた実りもつけないと嘆いていると、夏休みも後半に入り、そろそろ例年通り、作文の生徒が数多く訪れるが、いきなり見事な作文2連発でノックダウンされてしまう。

二つともまだ抽象構成法の手ほどきをしたばかりの小学生の少女の手によるものだが、「作文」というより「作品」と呼んでも差し支えないと思えてしまう水準である。

小学4年生の少女が書いたものは「ピアノの世界」。ピアノコンペに参加するための練習の様子が詳しく書かれている。課題曲のイメージと説明、大好きなピアノの先生についての描写、演奏の出来映え、会場で出逢ったお友達のこと。細部の描写の瑞々しさとピアノの世界の楽しさへの直裁的な表現が読むものの心を打つ。何度でも読み返したくなってしまう。

もう一人は小学6年生の女子。実はこの子もピアノを弾くが、作文の内容は初めての単独乗馬のこと、題して「元気くん」。元気くんは白毛のポニーで、彼女を乗せて斜面をどんどん駆け上がる。他の馬に追いついて前の馬のしっぽが鼻に当たるとヒヒ〜ンと鳴く。かと思うと今度は「道草」。急に立ち止まって草を食み始める。と思ったらまた急激に走り出すのでしがみついているのが超大変。あまりに元気なのでお尻が痛くなるまで1時間以上乗馬。最後に元気くんに「ありがとう」とお礼を言う話。最初のこわごわとした様子や、途中での面白い馬の観察。速く走るときの焦った様子。心から馬と一体になった快感を歌い上げる。そして馬への自然な感謝。これも繰り返し読ませる作文だ。どんな私立でもこれが書ける女の子は採りたいと思うだろう。

彼女たちにこれを書かせている元は、各々、音楽の営みの実際体験と、自然とのナマの接触体験であるが、忘れてならないのは彼女たちの純粋な感受性であろう。

で、私はと言えば、相変わらずだらだらちんたらと書き続け、調子が悪いと野菜の見回りを行い、そしてその成長ぶりのスゴさに繰り返し驚きあきれる日々である。

_ 夏安居 木瓜実れど 筆立たず (冗)


2009-08-17

_ 日本の教育

民主党政権でも抜本的な教育改革はないことが明らかになったので、これからは日本の教育そのものを批判することが正しいことになるだろう。

教育とは、「支配者」が自分の都合の良くなるように行うものである。このことは政策的に免れ得ない。そのことを念頭において書いていく。

優れた子供たちに古典的教養や科学的知識を与えて議論させる。私は過去現在未来に渡りこれに勝る教育はないと思う。しかしこのためには、レベルの高い読み書きの能力が前提になる。

第二次大戦後、戦前戦後のエリートを輩出した旧制高校は廃止され、6•3•3制が採用された。この結果、現在では6年制の私立学校出身者がエリートやリーダーの多くを輩出するようになっているのは読者も良くご存知のことだと思う。

優れている教育機関であればあるほど、先の教養に基づき議論させる教育を多く要素に含むべきであるのは必然である。議論(「ディベート」と言っても良い)の教育は大学に入ってからでは遅い。高校以前に学び始めるべきことが必要だと思う。しかし、そんな教育を与えることに力を入れている学校なんぞ、これまで不思議なことだがほとんど耳にしたことがない。優秀な学校でも生徒たち同士が自発的にやっているのがせいぜい関の山だろう。

現在の日本の国語教育では、多くのものが岩波文庫を読めるようになったり自分の考えを文章で述べることができるようなったりしないのは明らかである。それは小学中学年で音読と作文の指導を軽視するからであり、そして大学入試の準備のために読書の時間を奪われるからである。

日本国憲法は言論の自由(表現の自由)を保障した。しかし、その「言論の自由」はそれを行使することができるものだけに「保障」されるのであって、国家が国民にその能力を与える義務があるとはどこにも書かれてはいない。つまり、言論の自由を保障する言論の能力の教育は国家には保障されない。だから自ら、あるいは何らかの教育によってこの能力を身につけたものだけが言論において自由を享受できることになる。

今裁判員制度が取り入れ始められているが、採用される人は最低限文章を読んで自分の意見を述べることのできる能力を要求されるだろう。もし一方で、多くの人が学校で日本語の読み書きの力をしっかり与えられ、その上で自分の考えを言葉で表現することができるようになる教育が行われないのであれば、この制度は平等権における大きな「矛盾」を明らかにしてしまうことになる。

他国が一国の存在を認めたまま「支配」するとは、一国の支配者層を抑え続けることになろう。そして高度の思考が可能な人間をできるだけ社会の一部に限定することであろう。

自国に将来有望な若者を留学させる。そして多くの学生に自国の言語の学習に膨大な時間を仕向ける。それもその言語で自由闊達に自己表現できるようにする教育ではない。テストのための暗記に時間を取らされる学習である。というよりも、他の教科の勉強時間を奪う学習である。特にリベラルアーツ型の読書がそれであろう。つまり、語学ができても教養がない。

私立に通うには金がかかり、しかもそこではリベラルアーツ的なダイナミックな教育はまず期待できない。しかも最早ただ東大に入るなんてほとんど実質的な意味を持たない。そこで、海外の学校、たとえばアメリカのボーディングスクールに通わせようとすれば、年間400万円以上の費用が必要である。この金額は、かなり恵まれた人しか出せない金額だろう。

日本国内からリベラルアーツ教育をできないようにすること。深い教養と思考力を持ち世情に欺かれない議論に強い人材を養成することができないようにすること。私が外部からやって来た日本の「支配者」であったなら、当然先ずそのことから手を付けると思う。

選択肢穴埋め暗記問題を増やすこと、できるだけ文章記述試験を行わないこと、あるいはその方向性を容認すること。戦後の私立大学の入学試験はどこの学校でもこの形を選んだ。上智はその典型である。試験が悪いというよりその準備のための勉強が無駄なのである。慶應も最初のうちはそうだった。

こうして深い思考力が奪われた学生たちが名門大学にゴロゴロいるようになった。東大や早慶でも人材の不足に嘆く。そして街は、コンビニとファーストフード店だらけになった。それに一掃されたのは国語力に欠けた弱小商人たちであった。

「支配」はたえずジワジワ進んでいるところがその特徴であり、国語力に劣るものはそのことに今さら対処することができないぐらいの国語力しか与えられない。月日が経ってから気づくことになる。

民主党が意味のあることに教育予算を使おうとしないのは、自民同様、アメリカ追従であるからではないのか。しかしこの数十年、日本よりアメリカこそが大きく代っているのはオバマの当選からも明らかではないのか(ちなみにオバマはリベラルアーツカレッジ出身)。

平和憲法と日米安全保障条約は一体である。そのことは誰でも知っている。「日本に再軍備を許さない代りに、これを攻撃することはアメリカが許さない」―世界中が認める第二次大戦勝利によるアメリカの「権益」である。すでにアメリカは、中国とロシアを資本主義的価値観の国家にしたことで、これに勝っているといえる。彼らの共通点は、民族的分裂こそ最も恐れる事態であるという、「多民族国家」であるということである。

中国は、外交的には「屈服」させることよりも「関係を深める」ことに意味を見出す国家である。だからそうしようとはしない国家と敵対する。しかし内部では宗教観の違いによりチベット•ウイグルの悲劇を引き起こす。対して、アメリカは、原爆投下やベトナムやイラク戦争のやり方を見ても「屈服」させることを求める国家である。「無条件降伏」なぞ、さもアメリカ人が思いつきそうな言葉である。しかし、人口4倍の中国がアメリカに「屈服」するわけがない。やがて世界地図は、中国、インド、そして場合によってはイスラム圏を含むユーラシア大経済圏と色塗られる可能性が強い。

資本主義的強弱は、市場と労働の大小によって決定される。資本主義では働くものの集団が金を集める。そんなことは当然である。少なくとも、より長時間働くものはより効率的に働くものよりも確実に収入を重ねる。「リストラ」は正にここに観点がある。

でも収入を得ても、今度は何かいるのかいらないのか分らないものを買わされるだけである。もちろん所得税と消費税も払わなければならない。せめて子供にだけは良い教育をと願っても、そんなものはほとんどないし、あったとしてもとてもお金がかかる。国民が働いたところから税を取って、国民が最も望むことであるはずの良き次世代教育を与える政策は全く行わない。国民の全体的知的レベルが下がることを望むかのような教育が国家の未来を保障しようとしているとは到底信じられないことである。経済を良くする前に先ず教育を良くしてみせろ。そうしないとますます多くの人間が真面目に働かなくなるよ。


2009-08-21

_ 日本の教育2

もしも充分なお金と時間があったら人はどのような教育をその子どもに授けようとするだろうか。

社会のトップ層の多くは、現実的であると同時に理念的であることが意外と多い。「ノブレス•オブリージェ」(高貴なる義務)の香をまとっていると言っても良い。人は、社会的立場が高くなれば、何らかの形で自分が社会に寄与する存在であろうとする。巨額の寄付をするものもいる。もしそうしないと、社会内における自分の存在意義が感じられなくて不幸だからである。しかしなぜか、時代が下るたびに、政治家にも官僚にもそうした人が少なくなっているようだが。

超上層部では、躾やマナーにうるさい。挨拶や姿勢にうるさい。また、深い教養を持ち、語学に堪能であろうとする。議論をしても極めてまともで、しかも話に説得力があって面白い。文学や芸術への造詣も深い。このことから、超上層部ではリベラルアーツ的な教育が指向されることが必然ということになる。とりあえずあくせく働く必要がないのであるから、できるだけ人間的に大きくなることを心がける。

ではそのためにはどうするか。以下は私の考察に過ぎないが、御参考いただきたい。

先ず人生の源は健康な肉体なので、充分に身体が鍛えられるように、幼時より子どもを広い環境で活発に運動させる。同時に自然環境への接触を充分にし、虫や花などへの接触の機会を高め、景色の佳いところへ連れて行って、好奇心と感受性の基を与える。もちろん音羽に2000坪の土地があって軽井沢にも別荘があればこれは当然のように与えられる。スポーツを得意にする。良く走らせて、球技を得意にする。スキーにも連れて行く。武道のたしなみも与える。

次に勉強についてであるが、古典的な名文や傑作物語を多く音読してやり、音読させ、国語力の基を作る。お話を語らせ、想像力や表現力をつけさせる。

幼児教育においては、能力の伸長よりも良いご家庭や優れたお子さんとの接触相互交換をその目的として利用する。ピアノかバイオリンを習わせる。もちろんその前に、名演奏に親しませる。就学前後に語学の家庭教師を雇い、家族でも外国語を使って会話したり話しかけたりする。作文を書くことを重視する。そのための漢字学習を徹底する。そして、着々と読書の習慣を高め、常に質の良い読書を心がけるように仕向ける。

公立に通わせるのは世の中をよく見知るため。私立に通わせるのは優れた友人から良い刺激を受けるため。またそういったソサイエティーへの足場を作るため。

こうして、国語、外国語、数学がしっかりできるようになったら、中高一貫6年制の学校に進学させ、ホームステイを経験させた上で、本人の希望と実力があれば、高校からアメリカやイギリスのボーディングスクールやパブリックスクールに留学させる。あるいは、大学入学後に留学させる。大学院も視野に入れて20代後半までみっちり勉強させる。ご飯をどうやって食べるかは考える必要がない。芸術を選択することも可能だろう。

では、その下の層はどうするか。塾に通わせるお金はあるので、進学塾に通わせて、名門中学高校を経て一流大学を卒業させ、医師、弁護士、公認会計士などの高度の資格試験を通過させてやや高収入を得させようとする。ボーディングスクールは経済的にまず無理だろうが、大学時に留学くらいはさせられるかもしれない。資格を取る方向性ではなくとも、一流企業に就職させ、収入の安定化を図る。親の金だけでは面倒見切れないので、できるだけ早く自分で稼ぐように仕向ける。この層では、高級読書より試験得点が優先されることが多いだろう。そして、多くは企業戦士になって日本経済を支える勤め人となる。

ではその下の層ではどうだろう。私立に通わせられないから、公立を選ばざるを得ない。でも超上級層ができることの多くは親に自覚があれば実行し得るし、図書館や岩波文庫などを利用して読書に励めば、生活に苦労しているだけに、弱者のことを良く理解した才能豊かな知識人を目指すことも可能だ。良く努力した結果、フルブライトなどを利用して留学も可能である。しかし、そのためには、子供の時からの高い国語力の獲得が前提となろう。

しかし、親の収入と学歴に比例関係がある今日、この層の子どもたちが優秀な学歴を得るためには、ある種の「偶然」も必要であろう。

以上は全て親に教育の自覚がある場合であるが、共通点は、高い国語力と深い読書を伴った知性の獲得を目指すことだろう。

注意したいが、それは学校教育ではまず得られないということだ。だから、金があればあるほどそれが得られる可能性があるということになろう。しかし、この事実に多くの人は盲目的である。そして、世は、平和が続く中で、ジワジワと「階級」の整備が進められる。

ここでまた、世の中がそうなっていると了解するのにもまた国語力がいる。これは国民の望むことではないはずだが、政府はずっとこのことを意図的に放置した。そして、国民は決してそのことに本格的には気がつかない。

だから国家による教育に従うとは、国家にダマされることなのである。


2009-08-24

_ 日本の教育3

最近、「冗談」や「変化球」や「地方特派員の投稿」がなくなったために、「このブログの面白味がなくなった」との声を聞く。だが、筆者は、不肖自らのペンネームが「Joker」と設定されているので、このブログのまともな読者は、その問いかけに意味がないと知ると思うものの仲間である。マジになるなよ!人を楽しませることが目的にこんなことを書いているのであるから!なんちゃって、「日本の教育3」。

どうして2にコメントも拍手も一つもつかないのか。私はこれをとても面白く思う。だから、今回でこの項仕舞いとする所存。あなたも私もバカなのヨン。

なぜ、日本の教育が現在のような状況になってしまったのか。それは、長く平和が続く中で世の中から「緊張感」がなくなってしまったからだと私は断言したい。

明治維新、日清日露戦争、大陸での戦争、第二次大戦戦争中のころはさぞかし緊張感があったろう。また食糧難と戦後復興期の第二次大戦直後もそれなりの緊張感があったろう。また高度成長期にさしかかる前にも何とかしてよりまともな生活をしたいという緊張感があった。

ところが、高度成長のピークを過ぎた頃から、大半の人々の生活は、贅沢さえ望まなければ喰うには困らぬ、また身の危険も感じない豊かな時代になった。子どもの数も減り、一人一人の子どもたちはまず飢えの心配がなくなった。もちろん戦争で死ぬ可能性はない。ここで、ユーラシアを支配した相撲好きのモンゴル民族帝国が百年足らずで滅びたことに「親近感」を覚えるのは私だけであろうか。

大人は子どもに、より良い生活のために社会的な地位や高学歴を得るために勉強するように求めるが、その実その日常生活には危機感がないので、子どもには努力する実感がわかない。こうした危機感がない中で、最も緩んだのが、公務員たる高級官僚、警察官、学校教師などであることは想像に難くない。彼らは会社員よりも緊張感がない。なぜなら適当にやっていても、大きな不祥事を起こさないかぎり、「クビ」になることがないからである。公務員の天下りや汚職、警察官や教師の不祥事は、彼ら全体が緩んだことによる氷山の一角が顕現しているととらえられよう。そして子どもたちは内外でそれを当たり前のように見ている。大人は働いているが、家へ帰ればビールでテレビ。休みの日はマックにディズニーランド。情報と娯楽にしか魅力を感じていない。

ここに緊張感のある競争原理を持ち込むには、受験戦争による新階級闘争しかない。世の中に緊張感がないのに、子どもたちは緊張感を強制されて勉強させられる。ついて来れないものが多く出るのも当然である。学校はと言えば、緩んだ教師、古びたシステム、ほとんど通う意味がない状態に近いところもある。そこでは「精神的向上」が捨象された。

しかし、現状対処するだけで未来ヴィジョンを持たない政府は何と当然のごとくこれを容認した。

子どもの教育には未来ヴィジョンの提案が必要なのに、そんなことはするのも面倒くさい実行不能のものだった。結果的に、労働能力に極めて劣る若者が世代を追って多くなって行った。また、上で学歴を得るものたちも、それがより経済的裕福を追求する以外に動機がないので、勉強ができるだけで人間的魅力には劣っていると言わざるを得ない人間であることを何とも思わないものたちになった。

つまり、尊敬できる、あるいは興味深い生き方をする「見本になる大人」がいなくなってしまった。これで子どもたちに勉強に励めと言うのが無理なことは誰でも察知することだろう。進学塾で勉強するものも、目の前の疲れ果てた進学塾の講師と同じ道を歩もうとは露ほどにも思わないことだろう。

『韓非子』によれば、世の中が安定している時は、被支配者は支配者が何をやっているのか分らない状態の時だという。自民党政治は終わりそうだが、これまで世はまさしくその通りに移行した。

しかし、アジアの歴史を鑑みれば、混乱状態の統治においては『韓非子』が有効であるが、安定して平和になった時には『儒教』が有効であったのが常である。だが、『儒教』は、兄弟数が多くて長兄への信頼と尊敬が前提の思想であるから、少子化社会では全く役に立たなくなった。だからこれ以外の思想を生み出さなければ前向きに生きる動機を子どもたちに与えることはできない。

新しい思想を育むのは、リベラルアーツであるが、それは「占領政策」によって捨象された。結果的に、今、「エリート」と言われる人たちは、「ヴィジョン」を持たない集団になりつつある。

紀元前5世紀、老ソクラテスはパクスアテナイの時代に、自らの思想を述べたがゆえに処刑された。

彼は言った。

「財産や社会的地位を第一義にして、自己の魂の永遠向上の可能性を追求しないものは人間とは言えない。」

第二次大戦後、幸福とは何かを深く考察したラッセルは、「幸福とは趣味が多いことである」と結論した。

趣味とは、自己の好奇心に基づく、自己向上の試みの機会の場である。

やや極論ではあるが、本能的な子どもたちから見れば、自己の魂の向上を目指さない大人は尊敬の対象ではない。

自己の魂の向上には、限られた手段しかない。

第一に、古えからの「型」と倫理観を学ぶ「道」である。

第二に、自己の純粋な好奇心に基づく「学」である。

第三に、自己の心情を伝達する「芸」であり、

同様に第四は、自己の精神を伝える「術」である。

そして、第五が、コンディションに関わらず確実に行うことができる「技」であろう。

つまり、伝統の核心を学び、自然科学的な精神を培い、芸術に打ち込み、何らかの技術を磨こうとすることが人間本来の姿であることになる。

私は26歳の時にこの「哲学」を知ったが、これまでこれを確実に知悉し自覚的に実行する人間に遭ったことは一度もない。もちろん不肖この私も遥か及ばないと自覚している。

これら五つは、自分を高めることの快感を教えてくれる。

「ヴィジョン」がなくなった時、真に子どもたちに与えるべきはこのことではないだろうか。

だが、危機感がない平時、これに反応するものはよっぽどの変わり者である。

しかし、私は、このことを伝えることをこそ自分の教育の核心にして来たのである。

実に「無駄」な営為であったかもしれないが、これからもこれをやめるつもりは毛頭ない。

教育とは、道学芸術技を通じて自己の高まりを教えることである。

もしそれが分れば、「学歴」なぞ、木っ端微塵も価値がない。