ブイネット教育相談事務所


2006-10-09 変転表象

_ 変転表象

息子が12歳になった。忙中最近最も嬉しいことである。

子育てに苦労した覚えはない。むしろ楽しんだと言うのが正直なところだ。

「大ナマズ」(『天敵』改め)が聞けば眉を吊り上げるであろうが、『伊勢物語』から「初冠」を引いて、昔の日本では、12歳で元服すると、

一、 すでに仕事を任せられる状態にある

二、 自己安全管理できれば自由に行動してよろしい

三、 交渉が成立すれば、セックスしてもかまわない

と伝えた。

教え子の一人が29歳で結婚した。

彼は昔、私の新婚生活をつぶさに見た者である。

新妻は言った。

「子どもを作るのはこの人を大人にしてからです。」

心から祝福する。

彼の「人生偏差値」は、この女性を得た瞬間に最大の風速を記録している。

彼は女性の主体性と感受性の尊重を私から学んでいる。

最近、いささか横暴な同級の女の子たちに嫌気がさしていると思われる息子に、

「女の子が嫌になったのか?」

と尋ねると、

「お父さん、それでは少子化問題の解決にはならないでしょう。」

と切り返された。

逝く者も、育つ者も、大いなる流れの中で、変転表象する。


2006-10-12 教育再生会議

_ 教育再生会議

実は最近心境の変化やや著しい。こんな生活を送っていれば絶えず心境は変化して実体がないと言うのが実体だが、書くべきことが次々と湧いて来るマグマのようなものを感じる。それを忙しさを理由に書かないでいるのは怠惰と不明のためであろう。

教育において最も肝要な視点は「機会均等性」である。恵まれない子どもが、恵まれないゆえに不平等な教育を受けることは、ごく一部の人以外は良心的に認めるべからざることであろう。このことがあらゆる意味で民族集団people集団の健全な発達に直結する「効果」をもたらすであろうことは、ルソーに尋ねるまでもなく、誰でも簡単に推察できることである。刑務所に入っているものの多くはまともな教育を受けることができなかったものたちである。「競争原理」は偉大なる全体集合のごく一部の事柄に過ぎない。それより優先するべき「ルール」があるのである。

忘れてならないことは、「覚醒」と「深化」である。押し寄せる情報の洪水の中で清純な水の味を忘れてはならない。同一時間の他の行為の可能性を黙殺して、日常的「習慣」に埋没してはならない。我々自身の内部に、使いようによっては無限の可能性がある「要素」が備わっていることを忘れてはならない。

いかなる「部分」も、最終的には「塵」であり「分子」に過ぎない。大切なのはその「構成」の有り様なのである。これに自覚的になるためには「視点」が備わらなくてはならない。そして、その「視点」はいまだ誰にも提示されない。まだ言語化し得ない段階にあるのであろう。

ヒトが言語を逸脱する瞬間、それは多種多様にあろうが、おおよそ「直感」の次元であると言明できよう。今の教育にこの視点は絶対にない。あくまで試験で判定できる「知識」の方が役立つと信じ切っているのである。「神」の存在を「マジ」で信じようとする「宗教団体」である。

このアタマの悪さは民族致命症的である。「躍動」より「停滞」を無意識的に選択するのは戦争の後遺症としか言いようがない。半世紀も前のことを歴史的事実認識以外に精神的に引っ張り続け過ぎるのは、明らかにナンセンスである。若者にとっては、この半世紀は、「昔馬鹿な爺どもがおって、相手のワナにはまって無茶な戦争を仕掛け、多くの国民を失った上に無条件降伏し、戦勝国の言いなりにならざるを得ないけれど経済的に富んだ国家が出来上がりましたとさ」としか認識できまい。

マルクス主義を客観化できない左翼、神道国家主義を客観化できない右翼。どちらも人間叡智の発達より現状納得のみを優先する時代遅れの守旧の徒である。「形式」を「本質」に優先する徒である。ましてや南無妙法蓮華経で全てが前向きに解決できるではアッラーアクバル的過ぎる。戦没者の霊は心から願っているよ、地球平和と民族の本質的繁栄を。

就任受諾にやや躊躇した野依教育再生会議座長は、「大学院など高等教育の見直しに積極的に取り組む」と言明した。おそらく彼は「悪人」ではないのだろう。いつも通り、真面目な学者が、文科族に簡単に絡めとられた現象だろう。実を言うと、ここまでの文章はこのことに対する怒りから書いたのである。ここまで来ても彼らは教育の本質的現状に敢えて目を向けるつもりはないというのである。大学院教育なんて、金のない庶民には関係のないことではないか。

「教育改革」はあり得ない。なぜなら「教育」は、虫けらどもに食い荒らされて、最早改革しても始まらないから。「教育再生」もあり得ない。なぜなら「教育」は死の病にかかっていることに気づいていないから。こうして絶えず約25年遅れた教育行政により、我が国の文化水準は確実に下がって行くのである。本当は能力のないものに仕事を提供する「社会福祉」という名の下において。政府が認定する「優秀者」が役に立たない教育。向こうもバカを承知でやっているのであろうが、あんまりひどくならないうちに手じまいした方が身のためなのではないか。そろそろ「同一選挙区での議員世襲の禁止」などという、「お坊ちゃん」政治に歯止めをかける法律も女房や子どもがいない指導者が続くこの時期に通したいことだし、もう税金を取られている国民をなめるのもいいかげんにしてもらいたい!なんで公教育がありながらみんなが私立受験を目指すんだよう。このことに対する明瞭な回答と方策なしにはあんたら存在する意味が全くないってばさ。学歴以外には。当然のことながら、以上完全に「冗談」で書いた。


2006-10-19 教育再生はあるのか

_ 教育再生はあるのか

「教育再生会議」は機能するまい。なぜかと言うと、そこにまたしてもこれまでの自己反省なしに出発しようとしているからである。「臨時教育審議会」→「教育改革プログラム」→「教育改革国民会議」、おまけにこれらと併設して中教審がある。コピーを考えたものは、「美しい国日本」と同次元の地方向けプロパガンダを指示されたものであろう。

これらは全て認められない。なぜかと言えば、それが全て文科省主導の、これまでのことに対する反省を抜きにすることが前提になっている組織だからだ。中教審の外部発表文書は、全て官僚の手によるものだった。これでは官僚機構乃至は政府の教育政策そのものが誤っていたことを反省し直す気概に欠ける。阿部は森派、森は教育族(小泉の実体は大蔵財政族→一番得をしたのは銀行)なので、それまでに出来上がった教育資金環流システムを壊すことは絶対にできない。このことはひょっとして、「靖国に行く」約束同様、限りなく曖昧な国日本にするべきことであるはずである。すでに野依に答申をまとめあげるだけの自己的国語力が不足するであろうことは、これまでの発言からして、簡単に推測できる。化学研究に忙しい老人野依に現状教育のことなんて東京都教育委員会同様何も分るはずがないではないか。彼は教育よりも研究に従事するべき人間である。今辞退しなければ、本人にとって禍根を残すことになろう大橋巨泉。先輩江崎のやれたことは「飛び級」だけであることを思い知るが良い。教育再生会議の報酬はいくらなのであろう。

再生会議メンバーを選んだのは、森派と教育族。トヨタが選ばれると名古屋の野依が現れるというのが分り易い。まあトヨタにはちょっと期待するが、ハイブリッドでなくとも燃費が良いのはホンダである。世はハイブリッドを買うものをセリブリティーと呼ぶ。

最近、再生会議の発言を見ると、どうもこちらの情報が参考にされているか、たまたまこちらが時代的に正鵠を得ている発言をしているのかのどちらかと感じさせる自意識過剰感触がある。これを読んで参考にしようと思う官僚諸君よ、問題なのは、貴兄らが予め捨象しようとする文科省の有り様そのものなのだ。

上が間違いを認めて正す。この態度がなければいかなる「改革」も成立するはずがない。その反省を口にしない上が、新たに政策を行おうというのである。その目的が、「隠蔽」と「地位保全」であることは先を見ずとも簡単に予想されることである。

どうしてこのことを私が書かなければならないのか。私はオチンチンで世間に受けているレベルの人間である。こんなことは新聞記者が当初に認識している事柄であるはずである。筆者の前に現れた新聞記者は言った。「だって先生、今だって新聞が売れないのに、学校の先生を敵に回して記事が書けますか?」一時が万事この調子。家族を抱えて教職にすがる教師たちも同様だろう。

最近マルクスを読み返している。佐藤優の『現代』連載のせいだ。共産党か社会党に投票し続けた末期の病人に、「『資本論』を借りたい」と言うと、「資本論は新しい訳で読め。古いのは難し過ぎる」と言う。私がややふざけて、「僕はマルクスが、資本家側から発言した場合には日産ゴーンになるのか興味がある」と言うと、「馬鹿野郎!マルクスが資本家側に立ってたまるか」とハヒハヒの息の下で言い返す。人類最大の理論家の一人、マルクスは、労働者側に立ち過ぎて、当初の希望が達成されると真面目に働き続けないという人間真理を考察することを怠った。蟻の巣の中には何もしない連中も生息することを知らなかった。これは、国家統一に儒家が役立たず、法家が機能し、国家維持には儒家も必要になるという東アジアの歴史事実を知らなかったと言うこともできよう。また資本主義であろうが社会主義であろうが一般的労働者の究極願望が「楽」であることを意図的に捨象した。パンと見せ物。それ以外のところに文化がある。消費と蕩尽それ以外のところにカルチャーがある。右翼も左翼も宗教信者も弱い人間は教えに甘える。言葉で一時的に書かれた理念を永久不滅のものと思い込もうとする。思い込もうとするのは勝手だが、天動説だって突然ひっくり返る。古の聖地だって源氏がくれば「八幡」と名を変える。世代が変われば理念は消し飛ぶ。宗教はその「アヘン性」を競い合う。麻原は糞まみれ。恐ろしいのは、マルクス主義的経済史観が否定できないところだ。弁証法から生まれたマルクス主義を否定するのは、ゲーデルの不完全性の証明に反論するのと同様ほとんど不可能に近い。かろうじてこれができたのはニーチェくらいのものである。だからマルクス主義に対してするべきことは、その批判よりも、超克であるはずである。ここに戦前右翼の未曾有のアウフヘーベンがあった。しかし、歴史はどちらも現実的ではないことを示した。この結果を受け入れることができないものは一種の理想主義者である。自民党の中枢部はこう認識したことだろう。だからこそ、公明党との提携があるのである。

自民党の政策大義は「経済」である。このことは奇しくも、阿部首相の対中国「政経分離」発言で改めて著しく現れた。彼の可愛いところはこの一見良心的な坊ちゃん品性である。彼の祖父岸信介、叔父の佐藤栄作、その弟子の池田勇人、以下面々と受け継がれた自民党政治は、中共プーチン同様、国格より経済優先の施策であった。だから教育もその視点で行われた。今それが完全瓦解を目前にしている。進もうが守ろうが、古くなってしまったものは捨ててしまうしかないのである。もしそれが文化と関係なく経済を主体とするものであれば。教育は経済のためにあるのか、それとも文化のためにあるのか。その答えはその両方である。経済が安定するとは、国民がしっかり働くこと、これには豊かさの保証がなければならない。文化が発展するとは、国民が自由な発想と独自の価値観を持つこと、グローバリゼーションの本波に備えることである。このことの答えを考察することは、いささか意義あることであろうが、これにはこれを読んでいる官僚諸君を利する発言を正直にしてしまうことになるのでなんとも躊躇の気持ちを免れ得ない。読者はどう思われるか。「連載」を再開するべきか。それとも他の著作物と老人介護に集中するべきか。以上、「冗談」を書き続けるべきか否か読者コメントを乞う


2006-10-24 戯れ言

_ 私は、人にダマされることも、人をダマすことも嫌である。

人をダマすことは無駄なことである。

ノーベル賞を受賞するまで全く知らなかった野依氏は、「スピード感を持って進めたい。グローバルな視点から骨太の方針をつくり、国民に伝えたい」と言う。明らかにこれは官僚による抽象構成である。で、なければ、友人のアドバイスをもとにした見解である。まるで場違いな大学院教育に力点を置く声明を出した野依は、その「修正」のために具体的な発言ができなくなっている。「骨太」は、教育基本法改正や日の丸君が代の方向性をも含むという、実は教育の素人であることを自覚しない内閣の意向の現れである。野依は正直であるが、後悔しても遅いがダマされてしまっている。でもね、だからこそ選ばれているんですよ、野依さん、あんたのために申し上げますが、本当に早めに辞めた方が良いでがすよ。化学と教育では本質的に土俵が違うんですよ。

池田守男は、一見やる気に満ちているが要領の良い人間はことを貫徹しはしまい。

義家が、自己の狭い体験から逆構築した「思想」しか持ち合わせないことはすでに世に知れている。彼は「日の丸」を揚げたり降ろしたりする。確たる考えはないのである。だからこそ選ばれているのである。ここで「ヤンキー」が無意味化する。私が知るヤンキー少年たちは、「規制があるからこそ反発する意義がある」と言明していた。

小野元之は、免許更新性の真の意味を考察できていない。

頼りにしたいがセンスが今一の陰山英男は、「問題点ばかりでなく現場でうまくいっている実践を救いあげ、一般化を図ることが大切である」と、相変わらず人から盗んだ百マス計算で名を挙げようとする。こいつも要領の良い人間だ。でもこの男が、このメンバーの中で最も現状が分っている。

葛西敬之は、基礎学力を強調。この人も分っていないのだろう。再生会議は理想論を語る場所ではない。現状の認識がない発言は無能の証である。

小宮山宏氏は、「人間力の低下は各国共通の課題」とまるでアンポンタンな発言。自分の知力の低下でも心配して欲しい。

白石真澄は、もしも教育バウチャーで自らを利せないのであれば、とんでもないお人好し。

トヨタ代表張富士夫は、「競争は必要だが、一回負けても敗者復活で再挑戦する仕組みが必要」とまるでパチンコ屋で何回も勝負すれば勝てるとでも言う主張。これも教育には全く関係がない角度の発言である自覚がない。馬鹿野郎!じゃあトヨタがつくった学校は何だって言うんだよ。

中嶋嶺雄(この人物の動向に注意していると再生会議の方向が良く読めよう)は、「教育再生会議は中央教育審議会と役割を分担できる。大学の原則9月入学は改革の大きな一歩になる」。誤解だったらスまないが、私はこういう人物が最も罪深き人物だと思う。これについてはあとで述べる。

ワタミは何も分っちゃいないが、サービス業の不思議な勘は持ち合わせるらしい。が、所詮は商売人、カン違いしてはならない。

なぜ教育の抜本的な改革を考える時に集合されるメンバーが百家争鳴的なものになるのだろう。これでは現状の教育をどうするのかという会議にはならない。とどのつまり、これを組織したものが愚かなのである。

現状が分っていないものを選んで、会議を編成したものは、もちろん阿部首相周辺であるが、そもそも子どももいない坊ちゃんにはそんな細かいことは分りっこないから、実際は森派の支配下の文科官僚である。そして、その段階で「改革」はないのである。

私はここではっきりとは書かないが、「教育免許更新制」はおそらく効力のないところに不時着しよう。私が強調したいのは、それがそもそもの「目的」であることだ。

私だって思う。駅で、電車で、路上で、マナーの悪いというよりも、自分のことで精一杯の人を見たとき、そして同時にその人たちが「ダマされる人たち」であることを知るとき、階級社会の到来も致し方がないと。ダマされていることに自覚的になれない人たちは上手にダマされた方が幸福なのかもしれない。しかし、思い返す。この人たちも税金を払っているのである。国家に供託した金が自分たちの社会幸福に役立っていると願う人たちであるはずである。自分より能力が劣る人たちをダマすことをすれば、人間としての存在の意味がない。これは「いじめ」と大差がない。「競争原理」は結構だが、あらかじめ劣っているものはどうするのだ。劣っているものの多くを劣っていない状態にすることが教育の本質なのではないか。福祉とは「恵み」ではない。その再生会議には劣っていないものたちばかりの意見が集約される。

「金払ってんだから、まともな飯を喰わせろ!」と要求すると、「現状で満足して、私立に行く金がない下層階級である現実をだまって受け入れよ」と来る。

我々はあくまで我々をダマそうとするものにダマされてはならない。あまりの現状のひどさに、たとえば瀕死の病人に、「法律を改正し、ちょいと上から圧力かけるから待たれよ」と言っても、相手が呆れて返答ができないのと同じである。

読者は変だと思われないか。どうして現場の教育改革こそが必要なのに、「教育基本法改正」や「日の丸君が代」問題が与えられるのか。これは明らかに、人の目を本質からずらし、「思想問題」にすり替えて、自らのこれまでの施策失敗の責任を国民の目からそらすためではなかろうか。これに引っかかるものは右も左もアホである。

我々は教育の現状を一刻も早く改善して欲しいのである。しかるに責任官庁は、関係ない話題にすり替えて自らには責任がなかったことにすることに懸命である。ごく一部のもののケチなリッチネスのために、多くの苦しむ子どもたちが犠牲にされたまま放置され続けるのである。こんなことを許せるとは、信じがたい倫理観と感受性の欠如である。国民は完全に盲目のダマすべき対象と認識されている。これはかつての麻原死刑囚と同等の視点である。ダマすことの罪はまことに重い。しかも教育の現場でそれをやるとは。勇気があるというべきか卑しいというべきか。大人が現状を放置することの子どもたちへの悪影響は信じられないくらい大きい。彼らは次世代に同じことをする方向性を持つ。未来空想力のないものは恐ろしい。困っているのに協力を得られないとき、教育は反君が代以上の効果を及ぼすことは明白である。現場で自殺者が出続けるのに、文科官僚からは少しもそれが出ないのは、なぜだか分る人、手を挙げて(再生会議のメンバーは「沈黙」)。以上、最早当然のコンコンチキに、「冗談」で書いた。


2006-10-29 必修科目履修漏れ問題

_ 必修科目履修漏れ問題

いや相変わらず次元が低いので笑えた。いったいこれをチクったのは誰だろうか。

これは姉歯の問題と同じ。深く追求するととんでもない要素を含むことが知れる。

報道を目にして即座に思ったのは、高校中退して大学進学を果たした数名の生徒である。

もし高校2年終了時で自主退学して大検獲得の道を選ぶと、何と必要なのはあと1科目程度である。すると本来高3の1年間は、ほとんど人生最大自由時間となる。受験勉強するもよし。旅行するもよし。バイトで社会体験もよし。読書に励むもよし。と、ほとんど理想の18歳の時間が得られるのである。つまり、単位時間的に見ると、日本の高2はほぼそれを満たしており、卒業させない高3を選ぶより、はるかにお買い得の戦術になるのである。

この方法を私に教えられた生徒たちは、一人が早稲田現役合格、残りは全て米国留学中である。そしてもしこれをやられると私立は大赤字になる。だから合格内容ばかりのカリキュラムになる。そもそも戦後日本が急成長のためにつくった高校カリキュラムなんて真面目に付き合えば寝る時間がないほどの無謀なものである。物理化学生物地学地理日本史世界史倫理社会政治経済。このすべてを義務づけるのは狂気の沙汰である。私は、「総合社会」とでも言う教科を設けるべきであると思うが、細かい知識で生徒に優越する方向性の学校授業は、退屈きわまりないままであろう。センターを止めて、フランスバカロレアよろしく「社会小論文」を始めれば良いのである。

推薦入試で生徒を確保している定員割れギリギリ大学は死にそうだろう。即座に文科省の天下り官僚を受け入れるべきである。

ともあれ、情報の出所が知りたい。