ブイネット教育相談事務所


2006-10-19 教育再生はあるのか

_ 教育再生はあるのか

「教育再生会議」は機能するまい。なぜかと言うと、そこにまたしてもこれまでの自己反省なしに出発しようとしているからである。「臨時教育審議会」→「教育改革プログラム」→「教育改革国民会議」、おまけにこれらと併設して中教審がある。コピーを考えたものは、「美しい国日本」と同次元の地方向けプロパガンダを指示されたものであろう。

これらは全て認められない。なぜかと言えば、それが全て文科省主導の、これまでのことに対する反省を抜きにすることが前提になっている組織だからだ。中教審の外部発表文書は、全て官僚の手によるものだった。これでは官僚機構乃至は政府の教育政策そのものが誤っていたことを反省し直す気概に欠ける。阿部は森派、森は教育族(小泉の実体は大蔵財政族→一番得をしたのは銀行)なので、それまでに出来上がった教育資金環流システムを壊すことは絶対にできない。このことはひょっとして、「靖国に行く」約束同様、限りなく曖昧な国日本にするべきことであるはずである。すでに野依に答申をまとめあげるだけの自己的国語力が不足するであろうことは、これまでの発言からして、簡単に推測できる。化学研究に忙しい老人野依に現状教育のことなんて東京都教育委員会同様何も分るはずがないではないか。彼は教育よりも研究に従事するべき人間である。今辞退しなければ、本人にとって禍根を残すことになろう大橋巨泉。先輩江崎のやれたことは「飛び級」だけであることを思い知るが良い。教育再生会議の報酬はいくらなのであろう。

再生会議メンバーを選んだのは、森派と教育族。トヨタが選ばれると名古屋の野依が現れるというのが分り易い。まあトヨタにはちょっと期待するが、ハイブリッドでなくとも燃費が良いのはホンダである。世はハイブリッドを買うものをセリブリティーと呼ぶ。

最近、再生会議の発言を見ると、どうもこちらの情報が参考にされているか、たまたまこちらが時代的に正鵠を得ている発言をしているのかのどちらかと感じさせる自意識過剰感触がある。これを読んで参考にしようと思う官僚諸君よ、問題なのは、貴兄らが予め捨象しようとする文科省の有り様そのものなのだ。

上が間違いを認めて正す。この態度がなければいかなる「改革」も成立するはずがない。その反省を口にしない上が、新たに政策を行おうというのである。その目的が、「隠蔽」と「地位保全」であることは先を見ずとも簡単に予想されることである。

どうしてこのことを私が書かなければならないのか。私はオチンチンで世間に受けているレベルの人間である。こんなことは新聞記者が当初に認識している事柄であるはずである。筆者の前に現れた新聞記者は言った。「だって先生、今だって新聞が売れないのに、学校の先生を敵に回して記事が書けますか?」一時が万事この調子。家族を抱えて教職にすがる教師たちも同様だろう。

最近マルクスを読み返している。佐藤優の『現代』連載のせいだ。共産党か社会党に投票し続けた末期の病人に、「『資本論』を借りたい」と言うと、「資本論は新しい訳で読め。古いのは難し過ぎる」と言う。私がややふざけて、「僕はマルクスが、資本家側から発言した場合には日産ゴーンになるのか興味がある」と言うと、「馬鹿野郎!マルクスが資本家側に立ってたまるか」とハヒハヒの息の下で言い返す。人類最大の理論家の一人、マルクスは、労働者側に立ち過ぎて、当初の希望が達成されると真面目に働き続けないという人間真理を考察することを怠った。蟻の巣の中には何もしない連中も生息することを知らなかった。これは、国家統一に儒家が役立たず、法家が機能し、国家維持には儒家も必要になるという東アジアの歴史事実を知らなかったと言うこともできよう。また資本主義であろうが社会主義であろうが一般的労働者の究極願望が「楽」であることを意図的に捨象した。パンと見せ物。それ以外のところに文化がある。消費と蕩尽それ以外のところにカルチャーがある。右翼も左翼も宗教信者も弱い人間は教えに甘える。言葉で一時的に書かれた理念を永久不滅のものと思い込もうとする。思い込もうとするのは勝手だが、天動説だって突然ひっくり返る。古の聖地だって源氏がくれば「八幡」と名を変える。世代が変われば理念は消し飛ぶ。宗教はその「アヘン性」を競い合う。麻原は糞まみれ。恐ろしいのは、マルクス主義的経済史観が否定できないところだ。弁証法から生まれたマルクス主義を否定するのは、ゲーデルの不完全性の証明に反論するのと同様ほとんど不可能に近い。かろうじてこれができたのはニーチェくらいのものである。だからマルクス主義に対してするべきことは、その批判よりも、超克であるはずである。ここに戦前右翼の未曾有のアウフヘーベンがあった。しかし、歴史はどちらも現実的ではないことを示した。この結果を受け入れることができないものは一種の理想主義者である。自民党の中枢部はこう認識したことだろう。だからこそ、公明党との提携があるのである。

自民党の政策大義は「経済」である。このことは奇しくも、阿部首相の対中国「政経分離」発言で改めて著しく現れた。彼の可愛いところはこの一見良心的な坊ちゃん品性である。彼の祖父岸信介、叔父の佐藤栄作、その弟子の池田勇人、以下面々と受け継がれた自民党政治は、中共プーチン同様、国格より経済優先の施策であった。だから教育もその視点で行われた。今それが完全瓦解を目前にしている。進もうが守ろうが、古くなってしまったものは捨ててしまうしかないのである。もしそれが文化と関係なく経済を主体とするものであれば。教育は経済のためにあるのか、それとも文化のためにあるのか。その答えはその両方である。経済が安定するとは、国民がしっかり働くこと、これには豊かさの保証がなければならない。文化が発展するとは、国民が自由な発想と独自の価値観を持つこと、グローバリゼーションの本波に備えることである。このことの答えを考察することは、いささか意義あることであろうが、これにはこれを読んでいる官僚諸君を利する発言を正直にしてしまうことになるのでなんとも躊躇の気持ちを免れ得ない。読者はどう思われるか。「連載」を再開するべきか。それとも他の著作物と老人介護に集中するべきか。以上、「冗談」を書き続けるべきか否か読者コメントを乞う