ブイネット教育相談事務所


2006-10-24 戯れ言

_ 私は、人にダマされることも、人をダマすことも嫌である。

人をダマすことは無駄なことである。

ノーベル賞を受賞するまで全く知らなかった野依氏は、「スピード感を持って進めたい。グローバルな視点から骨太の方針をつくり、国民に伝えたい」と言う。明らかにこれは官僚による抽象構成である。で、なければ、友人のアドバイスをもとにした見解である。まるで場違いな大学院教育に力点を置く声明を出した野依は、その「修正」のために具体的な発言ができなくなっている。「骨太」は、教育基本法改正や日の丸君が代の方向性をも含むという、実は教育の素人であることを自覚しない内閣の意向の現れである。野依は正直であるが、後悔しても遅いがダマされてしまっている。でもね、だからこそ選ばれているんですよ、野依さん、あんたのために申し上げますが、本当に早めに辞めた方が良いでがすよ。化学と教育では本質的に土俵が違うんですよ。

池田守男は、一見やる気に満ちているが要領の良い人間はことを貫徹しはしまい。

義家が、自己の狭い体験から逆構築した「思想」しか持ち合わせないことはすでに世に知れている。彼は「日の丸」を揚げたり降ろしたりする。確たる考えはないのである。だからこそ選ばれているのである。ここで「ヤンキー」が無意味化する。私が知るヤンキー少年たちは、「規制があるからこそ反発する意義がある」と言明していた。

小野元之は、免許更新性の真の意味を考察できていない。

頼りにしたいがセンスが今一の陰山英男は、「問題点ばかりでなく現場でうまくいっている実践を救いあげ、一般化を図ることが大切である」と、相変わらず人から盗んだ百マス計算で名を挙げようとする。こいつも要領の良い人間だ。でもこの男が、このメンバーの中で最も現状が分っている。

葛西敬之は、基礎学力を強調。この人も分っていないのだろう。再生会議は理想論を語る場所ではない。現状の認識がない発言は無能の証である。

小宮山宏氏は、「人間力の低下は各国共通の課題」とまるでアンポンタンな発言。自分の知力の低下でも心配して欲しい。

白石真澄は、もしも教育バウチャーで自らを利せないのであれば、とんでもないお人好し。

トヨタ代表張富士夫は、「競争は必要だが、一回負けても敗者復活で再挑戦する仕組みが必要」とまるでパチンコ屋で何回も勝負すれば勝てるとでも言う主張。これも教育には全く関係がない角度の発言である自覚がない。馬鹿野郎!じゃあトヨタがつくった学校は何だって言うんだよ。

中嶋嶺雄(この人物の動向に注意していると再生会議の方向が良く読めよう)は、「教育再生会議は中央教育審議会と役割を分担できる。大学の原則9月入学は改革の大きな一歩になる」。誤解だったらスまないが、私はこういう人物が最も罪深き人物だと思う。これについてはあとで述べる。

ワタミは何も分っちゃいないが、サービス業の不思議な勘は持ち合わせるらしい。が、所詮は商売人、カン違いしてはならない。

なぜ教育の抜本的な改革を考える時に集合されるメンバーが百家争鳴的なものになるのだろう。これでは現状の教育をどうするのかという会議にはならない。とどのつまり、これを組織したものが愚かなのである。

現状が分っていないものを選んで、会議を編成したものは、もちろん阿部首相周辺であるが、そもそも子どももいない坊ちゃんにはそんな細かいことは分りっこないから、実際は森派の支配下の文科官僚である。そして、その段階で「改革」はないのである。

私はここではっきりとは書かないが、「教育免許更新制」はおそらく効力のないところに不時着しよう。私が強調したいのは、それがそもそもの「目的」であることだ。

私だって思う。駅で、電車で、路上で、マナーの悪いというよりも、自分のことで精一杯の人を見たとき、そして同時にその人たちが「ダマされる人たち」であることを知るとき、階級社会の到来も致し方がないと。ダマされていることに自覚的になれない人たちは上手にダマされた方が幸福なのかもしれない。しかし、思い返す。この人たちも税金を払っているのである。国家に供託した金が自分たちの社会幸福に役立っていると願う人たちであるはずである。自分より能力が劣る人たちをダマすことをすれば、人間としての存在の意味がない。これは「いじめ」と大差がない。「競争原理」は結構だが、あらかじめ劣っているものはどうするのだ。劣っているものの多くを劣っていない状態にすることが教育の本質なのではないか。福祉とは「恵み」ではない。その再生会議には劣っていないものたちばかりの意見が集約される。

「金払ってんだから、まともな飯を喰わせろ!」と要求すると、「現状で満足して、私立に行く金がない下層階級である現実をだまって受け入れよ」と来る。

我々はあくまで我々をダマそうとするものにダマされてはならない。あまりの現状のひどさに、たとえば瀕死の病人に、「法律を改正し、ちょいと上から圧力かけるから待たれよ」と言っても、相手が呆れて返答ができないのと同じである。

読者は変だと思われないか。どうして現場の教育改革こそが必要なのに、「教育基本法改正」や「日の丸君が代」問題が与えられるのか。これは明らかに、人の目を本質からずらし、「思想問題」にすり替えて、自らのこれまでの施策失敗の責任を国民の目からそらすためではなかろうか。これに引っかかるものは右も左もアホである。

我々は教育の現状を一刻も早く改善して欲しいのである。しかるに責任官庁は、関係ない話題にすり替えて自らには責任がなかったことにすることに懸命である。ごく一部のもののケチなリッチネスのために、多くの苦しむ子どもたちが犠牲にされたまま放置され続けるのである。こんなことを許せるとは、信じがたい倫理観と感受性の欠如である。国民は完全に盲目のダマすべき対象と認識されている。これはかつての麻原死刑囚と同等の視点である。ダマすことの罪はまことに重い。しかも教育の現場でそれをやるとは。勇気があるというべきか卑しいというべきか。大人が現状を放置することの子どもたちへの悪影響は信じられないくらい大きい。彼らは次世代に同じことをする方向性を持つ。未来空想力のないものは恐ろしい。困っているのに協力を得られないとき、教育は反君が代以上の効果を及ぼすことは明白である。現場で自殺者が出続けるのに、文科官僚からは少しもそれが出ないのは、なぜだか分る人、手を挙げて(再生会議のメンバーは「沈黙」)。以上、最早当然のコンコンチキに、「冗談」で書いた。