ブイネット教育相談事務所


2006-10-12 教育再生会議

_ 教育再生会議

実は最近心境の変化やや著しい。こんな生活を送っていれば絶えず心境は変化して実体がないと言うのが実体だが、書くべきことが次々と湧いて来るマグマのようなものを感じる。それを忙しさを理由に書かないでいるのは怠惰と不明のためであろう。

教育において最も肝要な視点は「機会均等性」である。恵まれない子どもが、恵まれないゆえに不平等な教育を受けることは、ごく一部の人以外は良心的に認めるべからざることであろう。このことがあらゆる意味で民族集団people集団の健全な発達に直結する「効果」をもたらすであろうことは、ルソーに尋ねるまでもなく、誰でも簡単に推察できることである。刑務所に入っているものの多くはまともな教育を受けることができなかったものたちである。「競争原理」は偉大なる全体集合のごく一部の事柄に過ぎない。それより優先するべき「ルール」があるのである。

忘れてならないことは、「覚醒」と「深化」である。押し寄せる情報の洪水の中で清純な水の味を忘れてはならない。同一時間の他の行為の可能性を黙殺して、日常的「習慣」に埋没してはならない。我々自身の内部に、使いようによっては無限の可能性がある「要素」が備わっていることを忘れてはならない。

いかなる「部分」も、最終的には「塵」であり「分子」に過ぎない。大切なのはその「構成」の有り様なのである。これに自覚的になるためには「視点」が備わらなくてはならない。そして、その「視点」はいまだ誰にも提示されない。まだ言語化し得ない段階にあるのであろう。

ヒトが言語を逸脱する瞬間、それは多種多様にあろうが、おおよそ「直感」の次元であると言明できよう。今の教育にこの視点は絶対にない。あくまで試験で判定できる「知識」の方が役立つと信じ切っているのである。「神」の存在を「マジ」で信じようとする「宗教団体」である。

このアタマの悪さは民族致命症的である。「躍動」より「停滞」を無意識的に選択するのは戦争の後遺症としか言いようがない。半世紀も前のことを歴史的事実認識以外に精神的に引っ張り続け過ぎるのは、明らかにナンセンスである。若者にとっては、この半世紀は、「昔馬鹿な爺どもがおって、相手のワナにはまって無茶な戦争を仕掛け、多くの国民を失った上に無条件降伏し、戦勝国の言いなりにならざるを得ないけれど経済的に富んだ国家が出来上がりましたとさ」としか認識できまい。

マルクス主義を客観化できない左翼、神道国家主義を客観化できない右翼。どちらも人間叡智の発達より現状納得のみを優先する時代遅れの守旧の徒である。「形式」を「本質」に優先する徒である。ましてや南無妙法蓮華経で全てが前向きに解決できるではアッラーアクバル的過ぎる。戦没者の霊は心から願っているよ、地球平和と民族の本質的繁栄を。

就任受諾にやや躊躇した野依教育再生会議座長は、「大学院など高等教育の見直しに積極的に取り組む」と言明した。おそらく彼は「悪人」ではないのだろう。いつも通り、真面目な学者が、文科族に簡単に絡めとられた現象だろう。実を言うと、ここまでの文章はこのことに対する怒りから書いたのである。ここまで来ても彼らは教育の本質的現状に敢えて目を向けるつもりはないというのである。大学院教育なんて、金のない庶民には関係のないことではないか。

「教育改革」はあり得ない。なぜなら「教育」は、虫けらどもに食い荒らされて、最早改革しても始まらないから。「教育再生」もあり得ない。なぜなら「教育」は死の病にかかっていることに気づいていないから。こうして絶えず約25年遅れた教育行政により、我が国の文化水準は確実に下がって行くのである。本当は能力のないものに仕事を提供する「社会福祉」という名の下において。政府が認定する「優秀者」が役に立たない教育。向こうもバカを承知でやっているのであろうが、あんまりひどくならないうちに手じまいした方が身のためなのではないか。そろそろ「同一選挙区での議員世襲の禁止」などという、「お坊ちゃん」政治に歯止めをかける法律も女房や子どもがいない指導者が続くこの時期に通したいことだし、もう税金を取られている国民をなめるのもいいかげんにしてもらいたい!なんで公教育がありながらみんなが私立受験を目指すんだよう。このことに対する明瞭な回答と方策なしにはあんたら存在する意味が全くないってばさ。学歴以外には。当然のことながら、以上完全に「冗談」で書いた。