2008-07-02 文科省教育「振興」基本政策
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文科省の教育振興基本計画に苦言を呈す。
私はこんなことは本当は書きたくない。しかし、新聞はおろか誰も書かないからこれを「冗談」で書かざるを得ない。
皆さん、忘れてはいけません。文科省は、国民学力向上を第一義に掲げる組織ではありません。そのことは、現行では絶対にあり得ない「教育立国」などという言葉を平気で使うことからも明らかだと思います。これでは、マザコン引退安倍の「美しい国」と変わりがないではありませんか。実際文科省は、ここ数十年の施策を見れば、経済上、統治上、都合の良い人材を輩出コントロールすることがその目的の団体であることを「表明」し続けているも同然です。狭量な政府方向性的に国民全体の学力向上がなされないことを知り尽しているからこそ、自己の権益に走ることを潔しとする集団です。
すでに業者との切っても切れない密着と、天下り法人による高収入を容認して止まないのは、政府がオンタンチンであることを、文科省官僚が、外務省同様、高級官僚的に熟知しているからこそのことです。進学塾のテキストより劣る教科書を検定合格するのも皆彼らの「役得」のためです。
今回の答申でも、文科省はどこに、何をするために、いくらかかるのかは明確には語りませんでした。いや語ることはできませんでした。全国学力試験の採点は、癒着企業の手に委ねられました。強いて言えば、通り一辺倒の「美辞麗句」以外は、大学教育に財政的援助をするということと全国学力試験を継続するということぐらいです。大学に進む前の子どもたちの現状教育の改革を決して強く本心では望んでいません。この「覚醒の欠如」には驚くべきものがあります。
その証拠は、学力低下の本丸、センター試験の見直しに全く触れないことに最も強く現れていると思います。そしてまた、医師会圧力に甘んずる政治家に屈して、医師定員を絞り、その結果、一応優秀なのかもしれないが、あたかも官僚と同様、財と社会的地位ばかりを判断根拠にする医者に不向きな人材を多数医学部に合格させ、本当に医者に向いている人材をすでに人員あまり気味の多数の「歯科医」に回してしまったのでした。この背後で、東大理系は、理科三類以外は、国立大学医学部よりレベルが下回りました。同様に、弁護士を増やす方向性には、たとえ実際それが必要であろうとも、高学歴者の口を封ずる政策が見え隠れします。定員増予定であろう国立大学医学部には、自治医科大同様、地域業務を厳しく義務づけるべきであり、弱者救済に身を挺するものを優先的に入学させるシステムの確立を第一義にするべきだと思います。それには、言うまでもなく、一切のマークシート試験方式をやめ、小論文と突っ込んだ面接試験を行うことが欠かせないと思います。でもセンター試験事務局に多くの文科省関係者が天下っているのでそれには手をつけられないのです。
今回の教育振興基本計画には、その一切が意図的に捨象されました。このことは、良い悪いに関わらず、世襲政治家同様、「既得権益は絶対に手放さない」という暗黙の意志の現れだと思います。
彼らはナメているのです。劣悪なテレビ番組を平気で見続ける、ここまでリテラシーが低下した国民が、これまで通り、いやいやながら結果を容認するに違いないと。
しかし、私はこの「結果」が恐るべきものになると心配します。これ以上の無意味な混乱は私が最も望まないことです。何よりも多くの子どもたちが犠牲になってしまいます。
すでに未来のない現状教育に対して怒りを禁じ得ない人たちの「テロ」が多く現れています。自身の命をかける「テロ」は、さらにこれから多発することになるでしょう。
元文部大臣の鳩山等は、自らが「死刑」の対象になる日があり得ることを想像しないのでしょうか。どうしてただ一人も、本格的に自己見解を述べて立ち上がる政治家が出ないのでしょうか。
以上、単なる酔っぱらいの戯れ言だとお取りいただければ幸いです。
_ PS:これを書いた後、本日付の新聞社説を読むと、日経と東京で関連記事があったが、業者との癒着などについては相変わらず触れずじまい。連合をバックにする民主党にも期待できるか不安だし、いよいよ勝手にやるしかないのかとも思ったりする。実生活で超オモロいことがあったが、相手がこのブログを読んでいる可能性が高いのでそれを書くことはできず。
2008-07-12 「敗北」
_ 「敗北」
毎日狭い庭で池の水換えを行ううち、腕が痛くて物を持てなくなった。それどころかペンを握るのが苦痛になった。都会人の柔な肉体が農作業に相応しい訓練を経験していないことが分る。
ナスもキュウリも良く実る。だが、その味わいは、有機農法の専門家が作った物にはかなわない。
今さらながら、花を美しく咲かせることと、味の良い野菜を作ることは別物だと了解するようになった。花ならとにかく美しければ申し分ないが、野菜は喰って美味いことが第一義である。
ウズラどぜふ池は、毎日水換えをしてもあっという間に濁って臭くなる。ウズラの糞が多すぎるのだ。腕が痛いので、ポンプを買って来て「処理」しているが、時間がかかるという意味では変わりはない。ともあれ、ポンプを買ったのであるから、この項「敗北」である。
ウズラ糞砂を洗って、クソと餌を取り除く作業をするとさらに腕が痛い。それに何をするにも腕を使うから全く治らない。腕だけではない。腕と繋がる肩も痛くなって来た。軽いねんざの右足も治らない。腰は万年痛くなって久しい。これは躯が歳を取って来て転換期に入ったことを意味しよう。こうしてキーボードを打つのも腕が痛いから困ったことである。で、残念ながら、ウズラの糞が水に落ちないように板を張ってクソをとり、それをコンポストに入れることにする。何か都合が良い物はないかと、ホームセンターをうろうろすると、ピッタシの物が見つかった。竹製のランチョマットである。これならウズラも涼しいし、クソも下へ落ちない。値段は何と128円であるから交換も可能だ。で、これを池上の網の上に張ると、何と大きさもピッタシである。これで池の水の濁るスピードは遅くなる。しかし、エコ計画の観点から見れば、第二の敗北である。
ところが、今朝、クソの積もったこのランチョマットを水で流して軽く振ると、バラバラになった。第三の敗北である。カラダばかりではなくアタマまで痛くなって来た。日射しが強いせいかもしれない。
当初、ウズラに、「フクダ」とか、「アソウ」とか、「オザワ」とか、「ハトヤマ」とか、「オオタ」とか名前を付けて、「オザワがフクダにカミツキました」とかやって楽しもうと思っていたが、全部メスなので気の毒な気がして、「ヒラリー」とか「ライス」とか「メルケル」とかやって見たが全然オモローない。というより、ジャンプしてぶつけて頭から血を流しているやつ以外、他と識別できないのであるから、「ウズラ」としか呼びようがない。ウズラの「ラ」が、「等」であることを知る。第4の敗北である。
どう考えてもこの趣味は、「高まり」のためというよりも、「痛がり」のためである。憔悴し切った主を嘲笑うこと以外、家族が歓ばないことこの上ない。唯一良いことは、毎日3〜4個卵が取れることであろうか。しかし、これも都会っ子の息子は、気持ち悪がって食べない。反抗期の嫌がらせかもしれない。
現在オス1羽を加えて7羽である。このまま忙しくなる夏を乗り切れるのか心配である。
正午、いよいよ暑くなってきたので、できるだけ使わないことにしているエアコンをつける。第五の敗北である。
_ PS:以下講座に出席予定。興味のある人は参加して会場でお逢いしよう。ひょっとすると、座禅後に「禅問答」をするかもしれない。
_ ほびっと村学校では、海の日、7月21日に、岡山県の臨済禅寺、曹源寺の師家、原田正道老師をお迎えして、坐禅会を開きます。気さくで、誠実で、呼吸と身体の使い方をきわめていらっしゃる、実にすばらしい先生です。Q&Aの時間もありますので、日ごろ疑問に思っていることなど、聞いてみるいい機会になると思います。
_ 興味のある方はぜひ、どうぞおいでください(予約制です)。
_ ナワプラサード/ほびっと村学校
高橋ゆりこ☆☆
_ 〒167-0053
杉並区西荻南3-15-3 ほびっと村3F
tel:03-3332-1187 fax:03-3331-3067
e-mail: hobbit@ea.mbn.or.jp
website: http://www.nabra.co.jp/hobbit/
_ 7月21日(月・祭日)1:00〜5:00
(1〜2時 坐禅一滴会 2〜5時 原田正道老師 法話 Q&Aを予定)
_ 参加費/6000円(一滴会に参加したことある方 5000円)
★要予約 tel :03−3332−1187 あるいは hobbit@ea.mbn.or.jp まで
_ 一滴会は禅の輪 ONE DROP ZAZEN GROUP として世界中に広がっている。その大元は曹源一滴で知られる岡山の名刹、曹源寺。臨済禅宗の師家・原田正道老師をお迎えし、ざっくばらんな対話を通じて日ごろの疑問や悩みを直接ぶつける機会。生きた禅に直接ふれ、日々の坐禅の切れ味をさらに磨く稀有なチャンス! ぜひご一緒に。
_ 原田正道老師(はらだしょうどうろうし)
禅をきわめ、禅を生き、今の社会を一瞬も置きざりにしない。その教えを具体的に頂ける貴重な老師。臨済禅寺 岡山曹源寺 師家。
2008-07-15 焚火教育
_ 焚火教育
職業柄、ゲームとネットのやり過ぎで変調気味の男の子の教育相談を多く受ける。
私は最初にテレビゲームが現れたときから直感的に「これはマズい!」と感じて、子どもたちにできるだけゲームをさせないように勧告してきた。その時の理由は、体験的ではない遊びはその後に役立つ情報を与えないというものだった。
その後、キレて理解不能の罪を犯した少年の多くがゲームに熱中していた事例の報告が連続した。また、岡田尊司さんの『脳内汚染』などの著作により、ゲームのやり過ぎに害があることが科学的に証明された。DS監修で有名な川島隆太東北大教授は、任天堂からのロイヤリティー(24億円)全額を東北大医学部に寄付し、自分の子どもたちにはソフトを破壊するなどしてゲームをさせていないことを明らかにした。これは、宮崎駿監督の「ジブリの森」と同じ構図と見る。
しかし、私のもとには、明らかにゲームやり過ぎでオカシくなった子どもを持つ親の相談が次々に来る。無気力、すぐ疲れる、反応が悪い、コミュニケーション能力不全。会話がまともに成立しないことも多い。当然学力も不振である。こうした場合、急にゲームをやめるように説得することは超困難。まさしく麻薬の禁断症状のようになってしまう。上手に説得して、まずやり過ぎないように約束しながら、「対処療法」を行う。
諸処の実験と考察を経て、ゲームやネットをやり過ぎの者は、自然物に接せさせ、そこで実際に手や躯を動かして自然と関わることをやらせると回復が早いと分った。普通の遊びやスポーツではダメなのである。これは大人でも同じで、コンピューター関係の仕事で長時間モニターを見ながらのキー操作を仕事とする人などには、自然相手の作業は最高のリフレッシュになるのである。
最もオーソドックスなのが、農作業。結局不登校や引きもこり対策はこれに尽きていると思う。この他に竹取りやその加工とか、植樹や伐採や枝打ち、雑草を刈ってきて燃やすなどがあるが、究極効果が大きいのは、その上での「焚火」である。
焚火は、人が火を付けないと起こらないし、人が面倒を見なければ消えてしまう。木をくべるとと、ソフトとして予めインプットされていたのではない、たった一度だけの「映像」が顕現する。炎から放射されるエネルギーは体全体が直接吸収する。目だけのゲームとは異なる。我々は火を見つめることに飽きることはない。
先だって、山陰のある市の教育委員会主催の校長と副校長の会で講演した時、焚火教育の有効性について主張したら、「すぐ実行する」との答えが返った。この地域では、小泉自民党の地方交付税の削減対策から、僻地化したところにある分校を廃止して、市町村合併統合された中央役場の近くに新小学校を建て、地域からマイクロバスで生徒を集めるという政策が進行中である。老人たちから、「村に子どもの姿が減るのは寂しい」と言う声が大きいとのことだった。私が提案したのは、バスが着く所をもとの分校の校庭にし、そこでその時間に老人等が焚火をして待つというものである。イモなどを焼いておやつにするのでも良い。火を見ながら、今日学校であったことなどをさりげなく会話するのだ。何も子どもでなくともそうだが、人間は何かを共同でしながらだと思いのほか良いコミュニケーションが取れるものである。焚火は、人類古代からの「コミュニケーションツール」である。
なぜ一発で実施に移せるのか。それは、「予算を組む必要がないから」だそうだ。なるほど東京では焚火そのものが禁止である。子どもの遊び場面積の減少とテレビとゲームとネットの時代。テレクラなんて言うのもあった。焚火ができない環境になったこと、男の子たちが変調する時代の象徴であろう。小学校の校庭で、毎週末に父親たちが焚火をして子どもたちと語らう。予算も要らなければ、授業料も取られない。消防署は暇で暇である。
「焚火教育」これが実現すると未来は明るい。
2008-07-20 父権抹消
_ 父権抹消
大分県教委の件に付き、文科省はただ一回の非難の声明の後、一つもそれらしき発言をしていない。我々は忘れてはならない。ここにこそ、ことの「本質」が潜むのである。
文科省に若干の「許諾」がなければ今回の事件は起こりえない。おしゃべり好きの文教族のドンの森もなぜか今回は堅く口を閉ざす。
文科省こそ、教育行政ヒエラルキーの頂点である。ゆえに、もしこの問題を追及すれば、その原因責任は当然文科省が対象になる。
私は書いた。すでにこれは全国的に遍く行われていることである。教員採用試験の倍率が高いのにレベルの高い教官が採れないのはまさにこのためであると。
もし、文科省が真に「教育立国」を提言するのならば、するべきことはただ一つ、それは、父兄アンケートを含めた教師の能力試験を実施し、教師の能力別給与待遇を実現し、下4分の1の教師をクビにすることである。
私は教育行政を、「能力がない従順な者に仕事を与える社会福祉政策である」と明言してきた。私のもとには、能力のない教師による仕事と評価法への苦情が、生徒ご家庭の両方から絶えない。支給額から見てあまりに水準の低い教師能力に呆れるのは最早都市部では知らぬ者はない。そしてその多くは、「コネ」によってその職を得たものたちなのである。これを改善するには、「審査」しかない。その実現を阻めば我が国の教育現状は限りなく低下する。国家体制の保持のために、未来を担う子どもたちに、相対的にできるだけ学力がつかない教育を指向する。「教育立国」などとほざくが、こんなことが許されるべきではないことは、官僚諸君も良く了解することであろう。
私は民主党に公約してもらいたい。
それは、国家公務員法改正に基づく、厚生労働官僚と文科省官僚の、ごくわずかの有能者を除く一斉の首切りである。
民主主義政府には、「利権」は要らない。反民主主義的政策を、民主主義的政権にあるものがこれ以上とることが身を滅ぼすことに繋がることに他ならぬことを強く認識して欲しい。
地方分権とともに、文科省の解体と再構築。これを掲げれば民主党は絶対に「勝ち」であるはずだ。しかしどうもそれを掲げる見込みはない。
もう「オカネ」より、「教育」を優先して欲しいと思うのは私だけであろうか。
マスコミが「グル」であるのは何とも如何ともしようがない現実である
以上当然のごとく、「冗談」で書いた。
2008-07-24 臨済禅
_ 臨済禅
西荻ホビット村にて、岡山曹源寺座主原田正道老師の座禅会に出席した。
短い座禅2回の前後に「法話」が挟まれる。
外国からの評価が高い人だそうで、言語ニュワンスに優れる。
―なぜ黄檗や臨済はすぐに人を殴るのか?
―それは「常識」を外すためです。
―京都の臨済禅の高僧が、「座禅よりも絵を描く方がよっぽど効果的である」と言っているがどう思うか?
―それもありでしょう。
―家の隣の臨済禅の坊さんに、「禅問答なんて頭のいい人とやって下さいよ」と言われたが、今日では禅問答はしないのか?
―それは、します。
それにしても出席者の水準が低過ぎた。質問のほとんどは宗教的救済法を問うものばかりである。「座禅」をすることの意味が分からずにこの会に出席しているのである。でも、和尚はそれに丁寧に「応対」する。
本当に下らないが、最後に、「私は田舎では心が安定しますが、都会では静かに座禅を組むことが難しいです」と言った女性に対して、あくまでにっこりとしながら、ゆったりとした生き方を勧めると同時に、野菜を育てることを勧めているのには思わず大笑いしそうになった。和尚も神戸の都会で朝は野菜作りに勤しんで、葉につく虫をワリバシで獲って、ウズラならぬ池のコイに喰わせていたそうだ。してみると、禅とは、瞑想しつつ野菜を作り芸術を嗜むことである。
教師同様、優れているものもいる一方、どうしようもないものもいる。
老師の教えは「臨済録」そのものの翻案であった。
「矛盾」のないこと、それは智者の証明である。
2008-07-28 今するべきこと
_ 今するべきこと
若い世代が、社会的地位や財産よりも、自己の純粋な好奇心追求による高まりを最優先する時に、文科省教育は終わり、社会民主主義的な教育が始まる。
今の日本で起こりつつあるのはまさにこれであろう。
学校で学ぶのもほぼ無意味、塾で受験指導を受けるのもほぼ無意味。究極必要なことは、個人の好奇心に基づく、自己の高まりの認識の習慣あるのみ。ここには社会学的な共通の目的はない。
テレビやネットやゲームは、生産的ではない時間を過ごすという意味により簡単に捨象される。
われわれは、次々にやりたいと思うことを連続する存在でなければならない。モニターの前でボケーッとしているヒマはない。
その前に、社会的に無意味であることに拘泥することを離れて、「どうしても素通りできない」ものを見出して、それによって自己確信と自己覚醒を追求しなければならない。
社会現状がこうなった以上、われわれは、なんとしてでも、生活のための「稼業」と、人生のための自己向上たる「趣味」を両立させるようにしなければならない。そしてその延長線上に未来世代交代がある。
「ホモサピエンス」でも、「ホモルーデンス」でもかまわない。
われわれは自己の興味があることを主体的に追体験する。そして、そのことにより、本格的に「前進」する。
「前向き」なんて言うことは、すでに「弱者」の物言いである。
われわれはわれわれにしたいことをわれわれの自由時間に行う。
そこには必ず、「自己向上」の謂いがある。
読者よ、血迷うな。「矛盾がない」とは、純粋な心に基づいて、欲することを最大限に実行することである。
さらに、もし「人間」として生きたいならば、それを表現することを行わんとすることである。
自ら思いついて実行し続ける存在。それが未来社会が必要とする人間であることは、この世で最も明らかなことだ。