2008-06-01 ウズラハウスの理由
_ ウズラハウスの理由
なぜウズラハウスを着想したのかという声が多いのでここにその解説を試みる。
筆者は、「幼い難民を救う会」という組織に定期的に寄付している。
今から15年くらい前のことだが、「あなたが1万円寄付すると、タイの貧しい子どもが、3年間給食付きで学校に通い技術を身につけて、バンコクに売られることを防ぐことができる」というので、生徒たちにも勧めてこれに参加した。しかし、いくらタイの貧村でも、給食費付きで1万円とは安過ぎると感じ、主催者に尋ねると、
「まず校庭に大きな池を作ります。その上でその池の上の半分を鳥小屋にします。鳥がクソをすると、池の魚が喰い、その魚のクソ水を学校菜園にかけ、野菜を育てます。すると、鶏肉と魚肉と卵と野菜が得られ、給食の材料が確保されます。子を学校に通わせない家庭は、貧しさのために子どもの給食費が払えず(教材費や教師給料は国が負担)、子どもを稼業手伝いに使うので、子どもは学校に通うことができず、やがて口減らしのために都会に売らざるを得ないという悪循環があるのです。」とのお答え。
またそれよりはるか前、筆者は、インド北部カシミールのスリナガールの湖に滞在したことがある。
冬期末の空港に降り立った私は、イスラム教徒の客引きに囲まれ難渋したが、偶然そこに降り立った私以外の唯一の観光客のイギリス人に誘われて、ナギン湖のハウスボート型ホテルにおよそ一月滞在した。
ヒマラヤの雪山は、アルプスの比ではない絶景であり、毎日口をポカンと開けてこれに見とれていると、湖唯一の観光客である私のもとに腐るほどの行商がボート(シカラ)で訪れる。「マガシナキヒン」=I buy nothingというウルドゥー語を覚えたのもこのときである。
さて湖滞在約一週間して、夜、雨が降り始めた。連れのイギリス人は、ラダック→レーに上がって留守である。この雨は翌日も上がらなかった。そうして何と約72時間降り続けた。
丸三日間雨が降り続くとどうなるのか?
それは湖の面積が倍以上になるのである。岸辺につながれたはずのボートは、湖の中央にあるように見える。
「どうなるのか?」とインド人に尋ねると、
「ノープロブレム」と言う。
水が引き始めると同時に、湖畔全体にやや大きな白い花がまるで桜のように咲き誇った。アーモンドの花であるそうである。一挙に産卵した小魚が、もと原っぱの草の間を大群で泳ぎ回る。そして、これが数日で散りかけたと同時に、中天にギラギラと輝く、正真正銘の真夏の太陽が出た。つまり、この地域では春は一週間で、冬の次はすぐに夏なのである。
日本の穏やかな気候が例外的なことを知ったのはこのときだったが、夏の日差しを浴びてホテルのボーイがボートの下に釣り糸を垂れて魚を釣る。ほとんど入れ食いで、40センチぐらいの鯉がどんどん釣れる。これが夕食に出るのであるが、明くる日私はボーイに釣り道具を貸すことを求めた。快諾したボーイから受け取った釣り道具は、浮きもなくただ凧糸と大きな針だけ。「餌は何か?」と尋ねると、「ポテイト」と言う。
ゆでたポテトを付けて半日釣り糸を垂れるが、全く当たりがない。ボーイに尋ねると、
「カレー粉をつけたか?」との返事。
「カレー粉!?」
どうして釣りにカレー粉が必要なのだ。
ボーイが言うには、
「魚はあなたのウンコを食べるために船の下に集まって来る。あなたのウンコはカレー味。だからカレー粉をつけなければ魚は釣れない」。
信じられないことだが、まあ試しにやってみるとバカらしいほどの入れ食いである。
「たくさん釣っても食べ切れずに腐っちゃうから無意味だよ」と言われて3匹で止めにしたが、釣れるのは見事な大型ドイツ鯉である。
以上のことから魚は動物の糞を好んで喰うと断定できる。
そこで考えたのがウズラハウスなのである。
それにしてもウズラもどぜうもいまだ手に入らない。
そしてコンポスト用のシマミミズも手に入らない。
天よ思いのままにミミズを降らせよ。
2008-06-03 逝きし世の面影
_ 逝きし世の面影
以前にも書いたが、どんな本を出せば売れるのかは永遠に謎である。
これは、もし美しいものを作ろうとしてそれが可能ならば、それは「芸術」にはならないということと同じなのかもしれない。
扶桑社から出した『男の子を伸ばす母親はここが違う!』は、ここ数年、仕事上、母親の干渉があまりに強くてちんまりした男の子や勢い良く伸びることができない男の子が多くなっていることを危惧して著した。結果的に社会のニーズに合っていたことになる。しかし、同じ扶桑社から出した、そもそも私が最も語りたかったことを書いた『できるだけ塾に通わずに受験に勝つ方法』は版の重ね方が遅い。
では、子どもが自発的に勉強しないことに悩む親御さんに向けて書いた『子どもをヤル気にさせる親はここが違う!』(グラフ社)はどうか。
読んだ人たちからは、「今まで読んだ松永さんの本で最も面白かった」という声が多いが、売れ行きはすこぶる悪い。
遅れているが、今度扶桑社から出る日本語音読の決定版の本(アナウンサーのCD付き)はどうだろうか。また、三笠書房から出る『成長力』はどうだろうか。
今日本屋に行ったが、世間では、どうしたら今の自分を脱せるのかという問いに答える形の本が多く出ているようである。その答えは、トータルすると、「目標を設定して何でも良いから着手せよ」という分り切ったものである。
最近道行く人や電車の中の人や車の運転のしかたを見るとつくづく思う。世の人は主体的ではないくせに、自分以外の人を気遣う能力に著しく劣る。鈍感である。だから、それを肯定する『鈍感力』が売れるのか。人々の多くは、おそらくテレビの見過ぎと詰め込み教育で、価値判断能力を失い、自分から何かを発案してそのためのものを買うのではなく、市場に提示されるものを消費するだけになってしまっている。世では出来合い食品の花が咲く。ここには、「どうしても素通りできない」という感性が摩耗している。
人とすれ違うにも、右側通行が遵守されないから、常にこちらが避けることを考えねばならない。前からヘッドホンをして自転車に乗って来る若者には要注意である。車内で必要以上にメールばかりしている人を見れば最早人間には見えない。自分の前が詰まっていても右折車に道を譲らないから、両車線ともつっかえてしまう。おまけにウインカーを出さずに急に曲がる人の比率はいよいよ高い。店に入れば、マニュワル通りに受け答えをしても、こちらの要求を伝えれば、決まって「少々お待ち下さい」と奥に尋ねに入る。レストランでコップが空になってもこちらから頼まなければまず持って来ない。店員はと言えば、奥で談笑し続けている。オモロい夫を持っていることを全然評価しない我が家人は、自分の旦那がつまらないと嘆く人のことを、「だったら自分でどんどんオモロくなればいいじゃない。私なんて忙しくって、満足にマリンバの練習やパン作りができないことがストレスよ」とのたもう。一方で子どもの受験に熱心な親たちの多くは、「自分には趣味がない」と平気で口にする。
こう考えて来ると、どういう本が売れ線かやや見えて来るが、そんな本を出すことはオモロくなさそうである。
冗談で、『犬も歩けば棒に当たる』という本でも出そうか。
私が本屋で買った本は、『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)であるが、これを買うのは三回目である。
2008-06-07 ウズラどぜう「山陰」以外、同僚に
_ ウズラどぜう「山陰」以外、同僚に
教育と芸術についてのブログのはずなのに、ガーデニングのブログと化しつつあることをわれながら可笑しく思うことを禁じ得ない。ゆえに、その後ウズラどぜうがどうなったかここに記すことははばかられる。ウズラもどぜうも来た。その経緯を書くと、「山陰紀行」同様、あまりに字数が進むのでここに書くには適さない。
実は私は、「商業原稿」執筆で忙しい。
出版社の編集者は、「そんなにブログを書くなら、いっそのこと有料制にして見れば」とのたもう。
最近初めて合う人のおおよそがこのブログを読んでいる人たちで、その真意の一つに、「冗談度」の「確認」があるから結構奥深い「芸術的会話」になって愉しい。
では、教育関係周辺を一くさり。
生徒たちが言う。
「ボクが通っている塾の国語の授業では、先生と全く同じことを言っています。キーワード方式とか言って、まず解答に必要な語句を抜き出し、それを基に文章を作ろう!」。
「さ〜設問の意味をしっかりとらえるために、大きな声で、まるで自分に言い聞かせるように、もう一度声に出して読もう!」。
「国語プロを自称する家庭教師の先生を雇ったら、『テキストとしてこれより上はないです』と言って、先生のコツのとウラを持って来ました」
僭越ながら、「ダリの心境」。
それで良いのである。
進学塾の先生方に感謝する。
多くの子どもに私のやり方を広めていただきたい。
本来、あなたたちこそ私のやり方の正しさを認識する人たちのはずだ。
あなたたちには、学校教師と異なり、「喰いっぱぐれ」がある。
我々は、我々の「仕返し」のために、子どもたちに国語力をつけるのだ。
私の言っていることの真実を骨身に沁みて了解してくれるのはまさにあなた方だと思う。
国語をできるようにする仕事にはまさに値段がつかない。
頑張って欲しい。
2008-06-09 とは言うものの、
_ とは言うものの、
「ウズラとどじょうについて、その結果を示さないのは、読者の期待を裏切り過ぎる」と意見するものがあるので、「冗談」で以下に書く。
富里の「ジョイフル本田」は、まさに「天国」だった。
そこには何でもあった。
私はそこで、ウズラメス6匹をを一羽680円で買った(♂は売り切れ,、次回)。三鷹のJ―マートでは「つがい」が6000円だった。
店員は、「近所のご老人が、孫がお弁当の中にウズラの卵が入っていると歓ぶので買って行く」とのこと。
ウズラハウスは失敗だった。なぜならウズラは上へは行かなかったからである。
ウズラは、最下位層におり、しかも、砂遊びに飽きると、溺れ防止につけた池上のバーベキュー用網の上ばかりにいる。
ヒヨドリ同様、レタスよりブロッコリーの葉を好む。
ゆえにウズラの糞は予想通り、池にばかり落ちる。メダカでは処理されない。あっという間に濁り出した。
ゆえにウズラの糞を喰う生物が必要である。
栃木県那須の「魚良」から天然太どじょうを取り寄せた。
送料手数料の方が高かった。
300g、1050円。約20匹が池の底に潜った。池には良く洗った砂が敷かれている。
ウズラの糞の匂いがする。どうしても池が澄まないので、とりあえず、市販バクテリアを投入する。
ドジョウがダメならコイを飼うことになる。
エビを買いたいのでコイは飼いたくない。
池の淵にカキツバタを植えた。
何となく、貝を飼う必要性を感じる。
「貝を飼い」。
レタスは育ち、ブロッコリーは収穫直前。インゲンも生長し、ナスはトマトは絶好調、シシトウピーマンオクラモロヘイヤ枝豆、カボチャ、スイカ、メロン、小松菜。屋根の上はアサガオ。
こうなると、これらの世話をする時間が一日あたり2時間は必要である。虫が出るので、カマキリも入手しに行かなければならない。蜘蛛も増やしたい。
そして、ウズラとドジョウの世話。
身から出た錆。結局「休み」どころか「農作業」に忙しい。
昼は農作業、夜は受験指導に教育相談。
そして、その「合間」に執筆。
さらにその合間に、ブログ書き。
いったい私は何ものであろうか?
読者諸兄に感謝する。
2008-06-10 アキハバラとイノカシラ
_ アキハバラとイノカシラ
秋葉原の殺傷事件を痛ましく思う。
こんなことで命を落とした人はやり切れないことだろう。
一人の人の生活と命をどうしてそこまで軽視できるのか。
会社の雇用状態への不満ならば本社社長を殺れば良かったのにと思ってしまう。
全く身勝手な理解不能の犯行であると思う。
だが、このような人が出るのは、この人の「環境」のせいでもある。
私は真宗の家で育ち、家族が、大きな罪を犯した人間のニュースを見るたびに、「そんなことをするなんて、なんて可哀想な人だ」というのを耳にして来た。
精神的におかしくなるような会社に勤めるような人生選択をせざるを得なかったのはなぜだろうか。
芸術表現を通じての心情表現の仕方を身につけさせなかったのは誰だろうか。
彼に暗黙の「刺激」を与え、そして明らかに「儲けた」メディアに「自己反省」はないのだろうか。
そしてまた、彼女もできない男に育ったのはどうしてだろうか。
誰よりもメディアと教育界にいる人間が自己責任を問わなければならないと思う。
ともあれ彼は多くの人が苦しみ悲しむことを目的の一つに犯行に及んだのだ。
てなことを思いつつ、自分は仕事の疲れを癒すために始めた朝のウズラハウスの世話をしていた。水質は改善されない。ゆえにまたしてもカルキの危険を冒して、水の大量取り替えを行い中和剤とバクテリアを入れる。ドジョウは一応元気そうである。ウズラはいよいよ元気で、放水すると喜ぶ。
と、登録のない携帯番号から着信。京都弁の主は、今春より同志社に進学した教え子である。秋葉原の事件で友達が犠牲者になったので、明日東京に会葬に行くが、私に会えるかとのこと。
会える時間と会えない時間がある。
それにしてもどうしようか。
西荻の淡水魚下ろし専門店は、「コイは酸化した水はダメ」と言う。鳥のクソがアンモニアによるアルカリ性であることを知らない。
昼飯がてら井の頭自然文化園に行く。
水族館でドジョウ発見。ついでにカエルの鳴き声に聞き惚れるご婦人観察。
事務室の前でノックしようとすると、偶然ドアが向こうから開いて、推定年齢45歳、ひげ面のがっちりして背の高いメガネ男が、若い女性助手を従えて、棒の先にぞうきんを縛り付けたものを手に長靴姿で現れる。つい、ひょっとしてこれはまたの世の自分の姿と思ってしまった。
彼の話によると、「ドジョウよりもコイの方がまし。フナでも同じかも。それよりオオカナダモをたくさん入れる方が効果的。井の頭の水は上から流すことによって鮮度を保っているが、それでも濁りを取ることには成功しない。カルキについては、武蔵野の水道水はカルキが控え目かもしれないが、ある時雨が異常に降ったときなど、化学成分が一気に出て魚が死ぬこともあるかも知れない。」
なるほど、動物が多い井の頭の池は上から流すしかないが、それでもコイは元気。カメもいる井の頭の池に比べれば家の池の問題はウズラの糞だけ。ドジョウがクソを喰い切ってくれれば良いのである。彼は、ギルが温度が上がると全滅するということは知らなかった。
どうするか、コイかフナを買うか、、それともこのまま観察してドジョウが死なないかどうか見るか。水の出口にカルキ吸い取り装置をつけて水を流しっぱなしにするか、それともウルトラC、浄化装置をつけるか、それとも底の水をくみ出すポンプを入手するか。
最後の2案は最終最後にしたい。
私は、稲を植えるというのも考えているが。
ともあれ、ヒゲ面は、活き活きとしてストレスなく働く公務員であり、表情には家族や子どもの存在が現象している。しかも動物を飼うのが好きだから愛情の深い人物だろう。
ここには秋葉原の青年の逆の人生があると思った。
2008-06-14 中間搾取をしない家庭教師斡旋システム
_ 中間搾取をしない家庭教師斡旋システム
ここのところ斡旋紹介の仕事が多くなって来ている。
V-netのシステムは、まず私と教育相談を行い、その上で教育環境設定を行うのであるが、この多くが教師の紹介になる。
この際、私は「紹介料」はいただいても、いかなる中間搾取をも行わない(ただしV-netで授業を受ければ、教室使用料が1回あたり1500円派生する)。
税理士も税務署も顧客も驚くこのシステムは、以下の二つの理由による。
私の仕事は教育相談業なので、クライアントをできるだけ援助するのがその本質である。
教育の本質は良い教師にめぐり遭うことであり、教育環境設定の最たるものがこれにあたる。しかもそれはリーズナブルなものでなくてはならない。ご家庭にとっては、良い学生が時間給2000円で雇えれば納得できる。同様にベテラン/院生が3500円、プロが6000円〜であれば、これも納得のいく価格であるはずである。
一方、自分の大切な時間を生活のためのバイトに充てるものは、学生でもきちんとした給金が必要なはずだ。そしてそれが満たされるからこそ骨身を削って働くことができる。一生懸命働く教師は子どもを救う。一日2軒、4時間の仕事を月に10日行うと、8万円で食費と小遣いが出る。さらに20日働けば16万円で、親からの自立も可能だ。ともあれ本をたくさん買うことができる。
クライアントも教師も歓ぶ。
私も嬉しい。
しかし、これは言うまでもなく、教師がよく働くからもたらされることであるのは明らかである。
私が働いたためではない。
だから、私には紹介料以外の何ものをも請求することはできないということになるのである。
そもそも自分こそが家庭教師上がりである私には、時間給で働く人たちからピンハネすることなどできようはずもない。
過去現在にいます家庭教師志望の腕利きの諸君、学生からプロまで、改めて当V-netに新規のメールで名乗りを上げて欲しい。できたらあらかじめ、多少は私の本に目を通しておいていただきたいが‥‥。
_ ps:最近V-netでは教師有志により、日能研テスト復習の理社講座や社会理科の個人指導が行われている。
2008-06-17 宮崎勤死刑囚の刑執行
_ 宮崎勤死刑囚の刑執行
前回ブログのライブドア側に、家庭教師斡旋の広告が多数ついた。で、この各々をクリックしてみると、全ての時間あたりの指導料はV-netより高く、同時に講師給料はV-netより安い。コンピューターが自動的に検索判断しているのであろうが、バカバカしいことこの上ない。
当然の結果である。
中間搾取をしないとは、ここにおける「儲け」を倫理的に捨象するということなのだから。
どの教師もご家庭も歓ぶシステムこそが中間搾取をしないことなのである。
現時点で、V-netの教師斡旋料は一件あたり3万円であるが、いささか安すぎるのかも知れない。
「農作業」の合間、てなつまらないことを書いていると、連続幼女殺人食肉事件の宮崎勤被告の死刑執行の報が入った。
正直な第一感は、「なんてもったいないことを。日本は今後の子どもの教育における大切な研究対象を焼いてしまった。」である。
実は、一番ほっとされたのは、失礼を承知で書けば、被害者と被告の両関係者の「ご遺族」の方だったと思う。
「もう終わりにして欲しい。」
これが本音だと拝察する。
宮崎氏の父親はすでに五日市の橋から多摩川に身を投げて他界している。
どうしてこんなことになってしまったのか。
こういった事件は教育先進国の北欧では極めて起こりにくいことなのである。
「猟奇」と「狂気」は異なる。
「猟奇」には、楽しもうという心が最後まで伴う。
だからこそ、「猟奇」は「狂気」より罪が重いのである。
しかし、これが、たかだか「死刑」で「清算」されるとは到底思われない。
宮崎氏は、学者と作家に開放され、いったいどうしてこんなことが起こったのかを人類叡智の獲得のために利用されるべきだったのである。
我々は死刑以上の刑を考えなければならない。それは「公開処刑」などの残酷なものではなく、悔いて悔いて悔いても悔やみ切れない学習をさせることだと私は考える。なぜそんなことをしてしまったかの究極の答えを出すことを、無期懲役と引き換えに与えるべきだと思う。
以上のような考察をしていると、「罪を犯した究極の理由を他者に説明することができる国語力」があることが前提になっていることが内省され、国語力はあっても犯罪者は出ることが説明できなくなってしまうという矛盾に直面してしまう。
理解しがたい凶悪犯罪を犯すのはバカかキチガイである。
しかし、優れた作家は皆バカかキチガイかヘンタイである。
理解しがたいことを体験してしまった時、その人は芸術家か作家として活動するべきである。
したがって、究極の体験をしたその当人は、最終的に、その心情を表現することに人生時間を費やすべきである。
こうして見ると、作家というものが、他の芸術家と異なり、言葉を使う全ての人がその可能性を内包するものであることが分るだろう。だからこそ、我々は他人の書いたものを「楽しめる」といえるのである。
実は作家とは集団の代表である。
そして、「死刑囚」も集団の代表の姿である。
てなわけで、私は民主主義体制下での死刑制度に反対する。
東大法トップ卒の鳩山君、君はそのことを政治的に処理したのかそれとも法学的に処理したのか。哲学的にはナンセンスであることはすでに西欧で出ている。
それともそれは国会議員の汚職を許さない世の中を作るという決意の表明なのか。
バカをバカと判断するだけではなく、どうしてバカになったのかを極めようとしなければ未来を担う政治家なんてやって行かれるわけがない。
以上当然のごとく、「冗談」で書いた。
2008-06-19 宮崎勤ー2
_ 宮崎勤2
89年に宮崎の事件が起きた時、私は夫婦揃っての2度目の東欧圏音楽探訪の旅から帰国し、資本主義圏と社会主義圏の現状考察の旅行記(もちろんこれも活字にならなかった)を書いている最中だった。私の予想よりも早く、明くる年には社会主義圏が崩壊した。ちなみに、リクルート事件で竹下首相の辞任の報道を目にしたのはウィーンから夜行列車で到着した朝のベネチア駅でのことだった。
83年に新婚旅行に出かけた信州濁川温泉は若夫婦が新婚旅行中だった。翌年84年に再訪した後、逢ったばかりの旅館若夫婦が、長野西部地震で赤ちゃんと先代ともども土砂の下に埋まり、その後訪れた宮城の蛾が温泉も崖崩れで埋まってしまったので、自分は崩壊や崖崩れを予め「察知」して旅をするのかと疑ったほどだった(ちなみに今回の宮城岩手地震の地域は、近年行ってみたいと切望していたところだった)。
私は、文学では生活できないことを悟り、子どもを作って受験稼業に邁進する決定をしていた。
そして、長女を得た。これは、アフガンの砂漠で死にそこなったことやパートナーを得たことと同様に、人生上、最も大きなことだった。
初め宮崎の事件を知った時、私は家庭教師である私こそが解明できる事件だと感じていた。
佐木隆三さんの、傍聴報告には興味深く目を通していたが、氏の「宮崎勤、いったいおまえは何者なのだ?!」という言葉を読んで、これは私こそが説明しなければならないと思い、当時実験中だった抽象構成作文法で作品化を試みた。
それに、私はそれなりに「成功」した(そう思った)。
教育環境上の問題ポイントを40近く挙げてそれで宮崎の環境をあたると、信じられないほどの教育環境設定状の誤りの一致点が見出された。私が家庭教師に行っていればこの事件は起こらなかった可能性が高かったとさえ思った。
この事件は、世間一般の親たちがいまだ認識しない子育て上の誤りが集積した偶然の結果だった。
私は、被害者少女たちを、こういった誤りを世に気づかせるために現れた「天使」たちであると扱って、作品を昇華させようとした。これまで通り、文芸誌の予選にも残らなかった。私はこの後、自ら作品発表の機会を得ようとすることはしなくなった。
その後続々と教育環境設定の誤りに基づく青少年の犯罪が後を続いた。サカキバラしかり、池田小殺害事件、東大寺学園自宅放火殺人、奈良幼女殺害、岡山バット殺人、長崎小六女子カッター殺人、そして今回のアキハバラである。これ以外にも枚挙にいとまがない。これらは、学歴がなければダメだと思い込ませた親たちの「犯行」である。学歴よりも好奇心と感受性の育成の方が大切であることを知らなかったことによるのである。
宮崎勤の事件ほど私に多くのことを学ばせた教育上の事件はない。
私は、これ以降、宮崎的要素が濃くなる方向性のご家庭に勇気を持って苦言を呈し、クビになったり逆に感謝されたりした。鳩山家での家庭教師のお声がけもあったが、最終的に東大卒ではないことからボツになったらしい。
また、第二子が誕生直後に手の甲に大きな苺痣が出た時、「放っておいても治ることがある」と言われても、即座に虎ノ門病院名医によるドライアイス治療を決定したのも宮崎事件のおかげである。
その後、吉岡忍氏の『Mの世界―憂鬱な先端』が出た。私はこの労作を読んで、ここまで真実に迫ろうとした人がいるならそれで善しとしようという気分になったが、同時に吉岡氏に、私の見解をお伝えしたいと思いつつ果たせないまま今日に至っている。
何かに原因があるのではない。原因になる要素が濃くなると発生しやすいのである。
これを避けるためには、集団行動学習、芸術的な表現学習、自然体験学習など、数多くの対処法があるのに、世間はいまだそのことをほとんど認識しないようだ。無明のままである。テレビゲームの広まりはその象徴である。そのことを前提にできないものは、死刑を「是」という資格はない。機械による判定や偏差値による結果や評価に我を忘れて挑む行為は人間を破壊する。特に子どもにはその危険性が極めて高い。子どもがおかしくなるのは、子どもの教育環境に問題があるからなのだ。アマゾンで天然循環生活を送るものには精神病はない。上から示された「こうでなければ」に闇雲になり過ぎるとおかしな人間が出やすくなるのである。
「学歴」が一種の「宗教」であることを客観化できる人は、その判断ができる自己的な価値基準を持っていることになろう。
以上、教育環境設定コンサルタントとして、結構マジで書いた。
2008-06-22 杜若
_ 杜若
扶桑社から出す音読決定本の完成が遅れている。最後に音読テキストに誤植が見つかり、それを直すとすでに録音した音声も取り直さなければならなくなるからだ。日本古典音読のテキストだから細部の正確さに気を使う。この本は、源氏物語研究における市井の碩学、富沢進平先生の御協力に負うところが多いが、極めて明晰の上、説得力のある「頑固」であるから、氏からの意見が出ると抵抗できない。これまで本を作るのにこれほど苦労したことはない。間に入る編集者はもっと苦労していることだろう。ラジオ局との調整もあり、クタクタのはずだが愚痴も漏らさず粛々と対処にあたる。仕事に誠実なので、この男は本を出そうとするものの間で、一気に人気者になっている。つまり、「技術」を認められていることになる。
伊勢物語の『東下り』の段に、官職に恵まれなかった男たちが、東の国に下る途路、三河の国の八橋で、カキツバタがたいそう美しく咲いているのを前にして、「カキツバタという文字の一字一字を句の頭においた旅の歌を抽象構成せよ」というので、ある男が詠んだ歌。
_ カタムカナ読みを知らない人のために意味をつけると、
_ 「唐衣を着て長年慣れ親しんだ妻を京に残して来たので、遥か遠くまで来た旅をしみじみ思う」といったところであろうか。
ウズラ小池の池端に植えたカキツバタが咲いた。
上品な薄紫にまるで大きな蝶が羽を休めたような美しい姿は、ただちに高貴な女性の静やかなたたずまいを連想させる。私がショウブやアヤメではなく、カキツバタを認識したのは、恥ずかしながらこれが初めてである。
どうしてこれまでこれが分っていなかったのだろう。詰まらぬ技法解釈に終始して歌の本当の意味が分かっていなかった。
カキツバタの姿から、都にいる貴族女性を連想することはごく自然であり、その清楚な感じから、長年慣れ親しんだ妻の存在を思い出し、彼女から離れて来てしまったことを悔やむ男の詠んだ歌が、一行の涙を誘ったのである。離れたときこそ、愛する女性がより愛おしく感じられる。男なら誰でも経験したことがある感情であろう。その着火点に旅の路上で目にしたカキツバタがあるのである。
一人旅を禁じられた男がウズラハウスを作る。そしてカキツバタを植える。それが咲くと、伊勢物語のおかげで、男の旅情を思い出す。メスだけのウズラは順調に卵を産む。池の濁りは取れず、毎日の水換えに勤しむ。その池のクソ水を野菜にかけるとかってないほど野菜が良く育つ。やっぱり必要なのはコイかも知れない。
それにしても古典の世界は深い。本来素人の私が簡単にできる仕事ではなかった。
2008-06-27 アートレス
_ アートレス
一般に、受験勉強の背後で究極捨象されることは「アート」することであろう。
事実、進学塾では習い事をやめるように要求されることが多い。
受験勉強はせいぜい1〜2年の短期の目標を掲げてそれに必要なことをこなそうとすることである。そして、これは明らかに自分自身のためにやることであり、世の中のためにやることではない。というよりも、世間や周囲に自分を認めさせようとすることで、人を楽しませようとしてやることではない。秋葉原の男のしたことはこうした意識の延長線上にあった。
世間に認められることはどうでもいいことである。
大切なのは自分が生きているという実感である。
高まっていることの確認である。
人の人生90年、若いうちにこそ高まりの習慣を身につけさせるべきではないだろうか。
これからの教育の本線は絶対にここにある。
「自然状態」にある原住民は、いかなるものもアートを行う。
限界的都市環境にあるものが自覚できないもの、それはアートしない自分である。
偏差値も学歴も関係ないのである。
必要なのはたった一つだけ。
自分が高まっているという実感だけ。
勉強は自分から進んでやらないと、本質的な効果が得られない。
もし、勉強することを、アートすることと同様に、自分の高まりを感じるために行うと、その学習効果は受験勉強をはるかに上回って充分な「おつり」をもたらす。
実はこれからの社会が欲するのはそういった人材である。
学力があっても研究対象を見つけられないものは不要の時代に入った。
自らの知能が伸びながら、同時に人間的な深みを得ること。
それには自ら学ぶことが欠かせない。
自ら学ぶ環境が欠かせない。
それにはアートすることによる高まりの認識が欠かせない。
2008-06-30 内部情報
_ 内部情報
どうも超高級な読者ですら読みにくいらしいこのブログは、結果的に国語力をつけさせたいという大きなお世話の潜在意識の冗談の「賜物」のようである。
最近、おかしなことを夢想(ダイアローグ)した。実は良くやらないこともないのであるが、自分が有名私立中学の教師ならばどのような生徒をとろうとするか、というものである。
世には、周囲によって磨かれたタマと、周囲によって磨かれかけたタマと、自ら磨きつつあるタマと、「磨く」ということを全然知らないタマがある。
もし優れた教師であるなら、自分の教育法に自信があるのであるから、求める生徒は自ら磨きつつあるものかまだ全然磨かれていないものになろう。自分が教育する以前に、あまりに間違った教育メソッドを長期にわたって受けた生徒はできるだけ避けたい。教育する前に、「洗脳解除」しなければならないから手間がかかる。
言うまでもなく、これは予備校対処を著しく嫌う慶応義塾の出題方針に長年色濃く現れ続けたものである。早稲田はこれに気づくのが遅かったために「苦戦」した。指定校推薦で一般入試定員枠が小さくなったために上智が超優秀な学生を採り損なうのも同様である。受験プロの目からすれば、慶應はできるだけ受験産業が対処し辛い線をその本線に掲げて来たと見える。また、立命館も「未来」が読めている学校の一つであるといえる。
「内部情報」であるから分りにくく書くが、最近超一流進学校で、超一流進学塾の生徒をできるだけ取らないようにする意向があるという。私からすれば当然の動きであるが、推測するに、受験合格だけを目的に必要悪の強制教育を受けたために、学の楽しさ=自己の高まりの確認を知らず、単に他に上回りされば良いという偏向な思想を内在する将来性のないものを欲しがらないのである。
それは当然のことである。何しろすでに大学がそうで、新たな試験方針を打ち出せない東大に、創造力の不足した「カス」ばかりが集まっているのはその証左である。
すでに東大大学院の推定平均レベルは、早稲田や慶應のそれを下回っていると言える。東大は全国から優秀な学生を集めようとして大学院授業料の無料化まで画策し、その費用をトップがOBである企業から集めようとしているから懲りないことこの上ない。東大はピカドン日本同様、「ゼンガクレン」に参ってインポ化したらしい。
マスメディアのみならず、企業中枢部からは、東大卒の能力がない自己中心主義に対する苦情は濃い。日本が真似をし続ける米国では、ハーバードやスタンフォード、イェールといった私立大学がエリートの集まる場所である。
私立大学は、学力低下天下り法人の牙城であるセンター試験を巧妙に最低利用する。
つまり、東大は、その試験方式の膠着化により、優れた学生をとることができ辛くなっていることがその実体なのだ。もし、SFCが三田などにその拠点を移せば、優秀な学生はますます慶應に吸い取られることになる。
優れた学生は、自己の疑問と好奇心に基づいて、飽くことなき成長をし続ける。そしてここには「学歴」は関係ないのである。でも、世の中は東大卒ネットワークで利権をつないでいることは、日経などの紙面からも明らかである。
これからの世で、高収入を得るのは、学歴に関係なく、「一所懸命」の上達を連続するフリーエージェント的素養のあるものたちである。それには、自らの問題の認識とそれを解決しようとすることに専心する姿勢が欠かせない。経済界も政界も雲行きが怪しい日本で、同時に環境問題とエネルギー問題で先行き不安を抱える国際情勢下で、自らイノヴェートする人材が喉から手が出るほど欲しいのは企業も大学も6年制私立も同様であろう。