2008-07-15 焚火教育
_ 焚火教育
職業柄、ゲームとネットのやり過ぎで変調気味の男の子の教育相談を多く受ける。
私は最初にテレビゲームが現れたときから直感的に「これはマズい!」と感じて、子どもたちにできるだけゲームをさせないように勧告してきた。その時の理由は、体験的ではない遊びはその後に役立つ情報を与えないというものだった。
その後、キレて理解不能の罪を犯した少年の多くがゲームに熱中していた事例の報告が連続した。また、岡田尊司さんの『脳内汚染』などの著作により、ゲームのやり過ぎに害があることが科学的に証明された。DS監修で有名な川島隆太東北大教授は、任天堂からのロイヤリティー(24億円)全額を東北大医学部に寄付し、自分の子どもたちにはソフトを破壊するなどしてゲームをさせていないことを明らかにした。これは、宮崎駿監督の「ジブリの森」と同じ構図と見る。
しかし、私のもとには、明らかにゲームやり過ぎでオカシくなった子どもを持つ親の相談が次々に来る。無気力、すぐ疲れる、反応が悪い、コミュニケーション能力不全。会話がまともに成立しないことも多い。当然学力も不振である。こうした場合、急にゲームをやめるように説得することは超困難。まさしく麻薬の禁断症状のようになってしまう。上手に説得して、まずやり過ぎないように約束しながら、「対処療法」を行う。
諸処の実験と考察を経て、ゲームやネットをやり過ぎの者は、自然物に接せさせ、そこで実際に手や躯を動かして自然と関わることをやらせると回復が早いと分った。普通の遊びやスポーツではダメなのである。これは大人でも同じで、コンピューター関係の仕事で長時間モニターを見ながらのキー操作を仕事とする人などには、自然相手の作業は最高のリフレッシュになるのである。
最もオーソドックスなのが、農作業。結局不登校や引きもこり対策はこれに尽きていると思う。この他に竹取りやその加工とか、植樹や伐採や枝打ち、雑草を刈ってきて燃やすなどがあるが、究極効果が大きいのは、その上での「焚火」である。
焚火は、人が火を付けないと起こらないし、人が面倒を見なければ消えてしまう。木をくべるとと、ソフトとして予めインプットされていたのではない、たった一度だけの「映像」が顕現する。炎から放射されるエネルギーは体全体が直接吸収する。目だけのゲームとは異なる。我々は火を見つめることに飽きることはない。
先だって、山陰のある市の教育委員会主催の校長と副校長の会で講演した時、焚火教育の有効性について主張したら、「すぐ実行する」との答えが返った。この地域では、小泉自民党の地方交付税の削減対策から、僻地化したところにある分校を廃止して、市町村合併統合された中央役場の近くに新小学校を建て、地域からマイクロバスで生徒を集めるという政策が進行中である。老人たちから、「村に子どもの姿が減るのは寂しい」と言う声が大きいとのことだった。私が提案したのは、バスが着く所をもとの分校の校庭にし、そこでその時間に老人等が焚火をして待つというものである。イモなどを焼いておやつにするのでも良い。火を見ながら、今日学校であったことなどをさりげなく会話するのだ。何も子どもでなくともそうだが、人間は何かを共同でしながらだと思いのほか良いコミュニケーションが取れるものである。焚火は、人類古代からの「コミュニケーションツール」である。
なぜ一発で実施に移せるのか。それは、「予算を組む必要がないから」だそうだ。なるほど東京では焚火そのものが禁止である。子どもの遊び場面積の減少とテレビとゲームとネットの時代。テレクラなんて言うのもあった。焚火ができない環境になったこと、男の子たちが変調する時代の象徴であろう。小学校の校庭で、毎週末に父親たちが焚火をして子どもたちと語らう。予算も要らなければ、授業料も取られない。消防署は暇で暇である。
「焚火教育」これが実現すると未来は明るい。