2008-07-24 臨済禅
_ 臨済禅
西荻ホビット村にて、岡山曹源寺座主原田正道老師の座禅会に出席した。
短い座禅2回の前後に「法話」が挟まれる。
外国からの評価が高い人だそうで、言語ニュワンスに優れる。
―なぜ黄檗や臨済はすぐに人を殴るのか?
―それは「常識」を外すためです。
―京都の臨済禅の高僧が、「座禅よりも絵を描く方がよっぽど効果的である」と言っているがどう思うか?
―それもありでしょう。
―家の隣の臨済禅の坊さんに、「禅問答なんて頭のいい人とやって下さいよ」と言われたが、今日では禅問答はしないのか?
―それは、します。
それにしても出席者の水準が低過ぎた。質問のほとんどは宗教的救済法を問うものばかりである。「座禅」をすることの意味が分からずにこの会に出席しているのである。でも、和尚はそれに丁寧に「応対」する。
本当に下らないが、最後に、「私は田舎では心が安定しますが、都会では静かに座禅を組むことが難しいです」と言った女性に対して、あくまでにっこりとしながら、ゆったりとした生き方を勧めると同時に、野菜を育てることを勧めているのには思わず大笑いしそうになった。和尚も神戸の都会で朝は野菜作りに勤しんで、葉につく虫をワリバシで獲って、ウズラならぬ池のコイに喰わせていたそうだ。してみると、禅とは、瞑想しつつ野菜を作り芸術を嗜むことである。
教師同様、優れているものもいる一方、どうしようもないものもいる。
老師の教えは「臨済録」そのものの翻案であった。
「矛盾」のないこと、それは智者の証明である。
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