ブイネット教育相談事務所


2008-08-03 お詫びー大分県教委について

_ お詫びー大分県教委について

読者諸兄にお詫び申し上げる。

7月7日付けの大分教委の不正問題に関する当ブログに、大きな事実誤認に基づく記述があったため、これを削除した。

私は、教員採用における不正が日教組的立場の人材を排斥するためだとして自論を展開したが、このケースに関してはこれが完全に誤りであったことが分った。事実は、これとは全く逆に、大分県教委が日教組の巣窟であり、未来の構成員を確実に確保するために行っていたことだった。

これは「冗談」の「ルール」の範疇を逸脱してしまっている。事実を誤認した瞬間に「冗談」は成立しなくなる。単なる無明のアホの書いたものに他ならない。それを読んで思考や会話の材料にした読者諸兄がいると思うと、本当に申し訳なく思う。許していただけることではないが深くお詫び申し上げる。

私は大分県が日教組の牙城であることは知っていた。しかし、県教委までもがそうであることは、今さら書くのもお恥ずかしいが、分っていなかった。

私の想像をはるかに超え、大分県の日教組組織率は90%強であった(全国平均は35%以下)。ということは、校長などの管理職もこれに含まれることは想像に難くない。もちろんその出上がりの教委メンバーも同様であろう。

ここへ来て、大分合同新聞の幹部が「口利き」を頼んでいたことも良く了解されるし、そもそも警察が政府文科省に不利になる大きな捜査を敢行したことも完全に理解されるのである。また、日教組の脅しに弱い新聞(学校で新聞批判をされて発行部数が落ちる)がこのことを伏せて報道し続けたのも理解されるのである。ちなみに、日経では、大分県教委が日教組に乗っ取られていることはおろか、教組に関わることであるとは一つも書かなかった。逆に、私をして、「体制側の腐敗」と取らせしめる情報の流し方をした。どういうコードがあるのか全く理解できない。分るのは、前に取材に来た新聞記者が、「新聞は教組や創価学会に不利なことは書けない」と言ったことの本当の意味である。新聞は多くの読者を抱える大きな団体を敵に回すことは書かないのだ。ネットでも確認されなかったから、もし新聞が意図的に隠蔽したとすると、新聞社は、新聞に公正な情報を求める読者が読む価値がなくなることをしていることになる。これでは食料偽装問題なぞ論じることができるわけがないではないか。ひょっとしたらこれを書くと、新聞は何かの法則を盾に日教組に訴えられるのかもしれない。

しかし、何を言っても今さら始まることではない。ひたすら我が身の無明を恥じるだけである。

文科省も日教組も新聞も、なぜか苦しみもだえる子どもを救う側には回らない。

いったいどうしてだろうか。


2008-08-08 教師対策

_ 教師対策

書くことは沢山ある。しかし如何ともその時間がない。

しかし、こういうことは「良いこと」なのだ。

それは、書くべきことのみ書こうとすることによって、内容に無駄が少なくなるからだ。

「なのだ」と書いて、脳裏におふざけの大先達の赤塚不二夫が浮かんだが、今さらながら忽然と、私が「理想像」とするアジアの子どもたちの原点が、氏の「おそ松くん」にあると感じさせるのだ。

子どもたちは子どもたちらしき「バカな時間」(「バカボン」のオヤジではない)を通じて、世間と自分を識る。

私は子ども時代に欠かせない経験として、

1 友達とのいさかい、乃至は「喧嘩」

2 「基地作り」に代表される集団行動

3 いたずらと叱責

4 いじめ(加害も被害も)

5 失恋

そして、

6 教師との「対立」 

7 反抗期

8 「挫折」

9 自ら主体的に学習することの絶大的効果の実感

を掲げたい。

5以下をいまだ知らぬ歳若い小学6年生の母親から相談を受けた。私との受け答えを完全にこなし、音読も上手で、しかも外で友達と遊びまくって真っ黒で精悍な顔立ちである。見ただけでまともな子だと分る。ところが一学期の最後の面談で「LDと思われるので検査を受けるように」と担任に言われて苦しんでいるとのこと。私は大笑いして、全く問題がない。それどころか将来有望な少年の姿である」と保証した。加えて、「この機会に『公務員』というものについて私が説明します。本来は中学三年頃に知ることであるが向こうがそう出た以上、チャンスだから話します。」と伝えて、以下説明をした。これは、テストで高得点しても内申点をもらえない男子生徒諸君のためにもここに書くから参考にして欲しい。

―絶対評価なのに、テストの得点が成績に反映されないのは、他の裁量権が教師に与えられているためで、これを教師は生徒をコントロールする道具に使う。つまり、テストで点が取れても教師の覚えめでたくなければ内申点は上がらない。そのためには、教師乃至は公務員の価値観や習性を掴んでおく必要がある。公務員とは、試験をパスして採用されるものであり、そのためにはきちんとすることができなければならない。教員の試験ではさらにそれが厳しく、誤字脱字はもとより、字の書き方から線の引き方、言葉遣い、もちろんミスが少なく、態度が良く、時間も守り忘れ物などしないと言ったことを含めてとにかくきちんとすることがその習性で価値観の中心である。そして自分のするべきことは生徒を従わせホームクラスをまとめることだと捉えている。だから、宿題や提出物や忘れ物を絶えずチェックし、また、態度の悪いものや自覚的ではないものを注意してクラス運営に支障を来さないように心を配る。ところが最近の男子諸君は、必要以上にしっかりしないものが増えている。しっかりしないのは家庭の教育が悪いからだから、成績を悪くしてそれを悟らせようとする。ここでは面白いことやユニークなことや新しい発想を持つことは全く評価されたい。むしろ余計なことをすると見なされる。教師が望むのは個々の子供の成長ではなくて、何とか問題を起こさず仕事をし安定収入を得ることだ。だから、それに気づかず、授業を聴かない生徒や態度の悪い生徒には容赦がない。彼らの価値観からすればバカそのものなのである。中学三年にもなれば自分からしっかりすることもできるし、そうすることが将来役に立つことも分るようになるはずだ。時間を守り仕事に責任を持ち相手に不快感を与えないこと、これが守れないものは勤めることができない。つまらない授業を聴きたくないことは理解できる。考えごとでもする方が良い場合もある。だが、見るからに聴いていないのではなく、見た目は聴いているように見えるように振る舞うこともできるはずだ。こういうことは多くの女の子がしていることは君も知っているだろう。相手を低人物と見なしても失礼になるような振る舞いをするものはバカである。相手が価値観の狭い低人物であると見抜くからこそ上手に振る舞って詰まらないことを言われたりされたりすることを避けようとするのが知恵というものだ。これは世渡りにも通ずることだ。教師や公務員だけではない。世の多くの勤め人は、上の指示を良く聞き、ミスが少なく、仕事に責任感があることに特化したものの見方をする人がほとんどだ。公務員だけでも人口の10%はいる。われわれはこういった人たちと波風を立てずに使いこなす知恵も身につけなければならない。


2008-08-11 V-net焚火教育

_ V-net焚火教育

ゲームやネットや受験勉強やり過ぎの子どもたちをrefreshするには野外での体験学習と焚火が最も効果的である。教育上、どうしても、知識情報伝達以外に実際的にするべき欠かせぬものがある。追体験とアマウツシ。それには狭い教室を飛び出さなければダメだ。自然の波動を感受させなければダメだ。そしてそれには、ただそこへ行くのではなく、何かこちらから自然に直接働きかける「アクション」が必要だ.

とりあえず、始めた。初回は生徒6人と教師二人である。

どうしても連れて行きたいネットゲームやり過ぎの6年制私立中3少年二人と、ゲームはやめたがとかくボケっとしている高校受験の公立3年生との一人っ子三人集。

焚火がやりたくてしかたがない小学5年生二人。これには両方弟がいる。この二人はゲームをしない。

これに、防衛大志望の真っ黒け高3スポーツマン。彼は自衛隊同様、「志願」である。三人兄弟の末っ子。ゲームは多分やっている。

午前8時。東京駅集合。何と一人の遅刻者もいない。

まず、借りた畑に大豆種蒔きに草むしり。作業内容は、最初に竹を裂いて杭を作り、その杭を畑に縦に約15m横に約1m間隔で打って、紐を張る。次に、その線に沿って、クワで種をまく畝を作る。そして、そこに種をまく。さらにその上に土をかぶせ軽く踏む。

農業指導者の説明は最初に一回だけ。しかし、真夏の炎天下にもかかわらず、子どもたちはどんどん作業を進める。その間教師は草むしり。手のあいたものは、如雨露で往復水汲み畑に水撒き。小屋での休憩時間とお昼に、とれたてのレタスやトマトやキュウリやトウモロコシとスイカをいただく。他に味噌汁とトコロテン。お百姓さんたちに炎天下の作業を気遣われる。

畑が終わると、焚火。まだ陽が出ているうちの焚火は熱い。

ネットゲーム中学生はデデレコデン。遠巻きに見守るのみ。

ところが小学生たちは、動きっ放しやりっ放しで火の世話。

無我夢中で燃やしたいものを探して来る。

それをノコギリやナタで切断する。

火にくべる。

バリバリバリと燃える。

それに目を輝かせて、次に燃やしたいものを探しに行く。

ソーセージを焼く。マシュマロを焼く。

焚火好きの私に焚火をやる隙を全く与えない。

こうして一番星出た頃、温泉へ。

平日当然ガラガラ。

しかし、ここでも同様。

まだ毛の生えないオチンチン小僧たちは自由に闊歩。

生え揃った中学生たちは、大人しく風呂につかりさっと出る。

午後8時半東京駅解散。

楽しんだ小学生に、「今度いつ来たい?」

「明日!」

「何がそんなに面白かったの?」

「う〜ん、トラックの荷台に乗ったこと」

この子たちには、ディズニーランドに行く前にさせるべき体験があるようだ。

中学生たちも楽しんだようで、「次回もできるだけ参加したい」とのこと。

防衛大志望も「是非!」と微笑んだ。

つまり、「効果」は絶大。

9月以降次々と出版物が出るが、その後でキャンプの天才と組んで『キャンプ本』も刊行する予定。とまれ、「効果」が想像以上だったので、月に最低一回は企画したいと思う。

言い忘れたが、秋に大豆を収穫して、それを用いて味噌造りをし、参加者に二年後に味噌を配る予定。8月中にもう一回やろうと思う。


2008-08-15 講習地獄

_ 講習地獄

塾の夏期講習に通う生徒たちの疲れが色濃い。生気のない顔をして、ゲームのやり過ぎと同じである。目も落ち着かずやたらキョロキョロする。小学生で一日授業が7時間、その上で宿題が5時間分で連日確認テスト。居残りもある。すごいのは中3の合宿7日間で、一日14時間学習。まあ中学生なら良いかもしれない。私も中3の夏は一日12時間近く机に向かっていた。

しかし、まだ自らの意志で学ぶわけではない小学生は長期に勉強漬けされると「変調」を来す。反応がおかしくなる。いつものように集中できない。

自ら希望してサピに通う生徒に話しかける。この生徒は夏休みに入って1週間で元気がなくなっって授業にならない。無理な暗記学習のやり過ぎで消化不良になっているのである。

―キミ明らかに状態悪いよ。最近遊びとか運動とかしている?

―サピの宿題が多くてそんなヒマはありません。

―全部やらないで適当に済ませればいいじゃあない。

―やらないとほかの人に負けます。

―そんなことはないよ。せめて無意味な国語はサボれば。

―そんなことできません。サピに完全について行ければ志望校に合格するそうです。

―でも実際今のキミはボロボロで、前にできた問題までできなくなっているではないか。書き方もいいかげんになって、明らかにストレスの溜まり過ぎだよ。お盆休みはどうするのか?軽井沢でも行ってきたらどうか。

―サピの先生が、「勝つものはお盆も遊ばず毎日12時間以上勉強する」って言っています。

―サピの先生は結婚できないね。お父さんは休まないのか?

―父は旅行に誘いましたが、ぼくが断りました。

―ダメだそんなの。お父さんにもう一度頼んでどこかに出かけなさい。これは歴30年の教育コンサルタントの命令だ。医者の言葉と同じだと思ってもらいたい。いいか、行くとしたらどこへ行きたいか。

すると、生徒は急に目に涙を溜めて、

―どこでもいい。ぼくは汽車に乗ってどこか遠くに行きたい。

殺虫剤でも死なないゴキブリみたいに平気な生徒なら良いが、個々の生徒の精神衛生を気遣わずに、闇雲に多くのものを詰め込む。この延長線上には、本質的な勉強嫌いがある。一流校が、やり過ぎで伸びなくなった生徒を取りたがらないのは当然である。そして、たとえ受験に勝ったとしても、子供の時の純真な心の成長が妨げられたことの代償は将来あまりに重いことだろう。新聞は書かないが、父親を刺し殺した少女の通う学校の教育内容は推して知るべしである。受験はただ量多くこなして勝つものではない。真の意味でアタマが良くなって勝つものである。自ら進んでやるのではない学習を連日行わせれば頭がオカシクなる子どもが出るのは明らかである。これを商売にするのは、法的には合法らしいが、倫理的には明らかに犯罪である。


2008-08-19 「犠牲者」

_ 「犠牲者」

辛い。

私は、「人の人生95年」を鑑みて、子どもを「壊さ」ないで受験成功を演出する教育コンサルタントであるが、そう暢長な心を持ち得ないのがクライアントの多数の実体でもある。「欲」は、「知」を簡単に捨象してしまう。

もし、受験成功を夢見させて、子どもたちを壊すことに加担して金品を得れば、その瞬間に、いかなる意味でも、「教育者」としての存在意義は倫理的に失われてしまう。この自明の理を了解すると、ただ受験に合格させるだけの相談は受け付けないことが正しいことになる。だからこそ私は、30年以上に渡って、クビを覚悟で、お客の価値観に背く「真理」を口にすることを「アレテー」にしてきた。しかし、「変化」を見せない相手を前にしては、経験的力不足を痛感するのみである。縁遠い存在である。

1対1でやって、1対多の受験機関に負けるのであれば、「商売」にならない。「無能」おろか、「詐欺」に近いということになってしまう。1対多に勝るものを与えられなければ、「プロ」を名乗ることはできない。

私は、進学校が真に求める人材は、親か、その選んだ指導者が優れていることの可否によって判断されると、歴30年の経験から客観化している。そしてそれが「塾」ではない時代がやって来ようとしていることも「喝破」する。

どう見ても、チェーン店的進学塾のしていることは、「合格の可能性の高い生徒を部分集合として集め、それら上位集団の確実的な合格によって体裁を保ち、次年度の生徒数を増やすことで営業を持続することに過ぎない、と客観化される。バカな親の子どもが壊れることはその親の責任にするのである。ここには、中山元文科省ならぬ、「競争原理」の共同幻想の成れの果てがある。

―全体としての「戦い」に勝てば、「戦死者」が出てもやむを得ない。

これは「教育」とはおよそ関係のないテーゼであろう。

教育とは全体水準を上げることをその本来の目的とするものだ。強弱の差別化ではない。

早い段階で「詰め込み」に成功したものが、優位に立てることを前提にするのなら、そのものたちの多くは、主体的自己向上における、あの、大脳の光り輝ける瞬間を捨象したことになろう。にもかかわらず、自分たちを、「勝利者」、「優越者」と「錯覚」することだろう。この感覚は、エリートたちから「主体性」と「判断力」を奪う。医者も弁護士も高級官僚も高所得会社員も同様である。こういった自覚のないものたちの真の「犠牲者」は、彼らの配偶者と子どもたちだと言えるかもしれない。

子どもを「主体的」にさせること。

子どもに、自ら主体的になることによる「エネルギー」の無限増加の可能性があることを悟らせること。「光明」を見い出させること。自己の魂の永遠の向上性を確信させること。これが教育の真の目的である。それは古代ギリシアの時代から決まったことだった。そして、それには創造的な自由時間が不可欠であることは言うまでもない。

以上、満月なので、久しぶりで「冗談」で書いた。


2008-08-23 夏休み

_ 夏休み

もうそろそろ終わりそうだが、やっぱり夏休みは「例年通り」忙しかった。8月後半だけで、作文指導は10件を越えた。その間が音読指導の肉体労働であるから、最早禿頭に直射日光が当たる状態である。

「忙しい」と言うと、えてしてまだ体力のあるものは、「たくさん働けて実入りがあって良いでしょう」から「羨ましい」と取りがちだが、私のような単純時間労働にはそれは当たらない。むしろ、「執筆」の方が楽である。

教育をするものに最も必要なものは「エネルギー」である。多くの子どもを相手にすることは、多くの客を相手にする娼婦同様過酷である。むしろ、「可愛い」分だけ、「毒」が濃い。われわれは、「疲労」することなしでその仕事をすることはできない。もしそれを試みるならば、いっぺんで「人間以下」にされてしまう。しかも、驚くべきことに、そこにはそれを理解しないクライアントが当然含まれる。そして癒すことを仕事にする「娼婦」は、これに反論できない。

エネルギーに充満した子どもたちは、いまだ知らぬ経験不足により、相手がエネルギーを出すために自分と同様気合いが要らないと当然思っている。

時間給が「高」い私ですら「限界」を感じるのであるから、一般教師としては、少子化社会の手のかかる子どもの相手は、高給サラリーマン以上でなければ勤まるものではないのかもしれない。新入生の教育としてはあまりに酷なるものがある。とどのつまり、都市部では「不満」、地方では「満足」といった、「地域格差」の表象であるか。すべては、我が子可愛さのための親の「手抜き」と、それを「利用」することにした裏表の教育システムに問題があるのである。

どうして私たちは未来税制を担う家族を養うためにこれほどまでに疲れなければならないのであろう。

政治家が「名誉」を指向するなら、私は「アレテー」を命題にしたい。多く収入があるものが多くの税を納めることは当然のことであるが、その「むしり取り方」は、働く気持ちを減退させる。私は株を買わない。ゴールドも買わない。と、言うよりもそれを買う余裕はない。

ここをもって、私はあたかも逆転的に三波春夫的に読者に感謝するのである。考えるまでもなく、「大道芸」によって生活をひさぐものは、お客様同様、皆「神様」である。現在の私は、出版社の意向に沿ったリライターたちに囲まれた「センセイ」である。その私にとって、私が書いたものを直接読み続けているのは、ご存知、このブログの読者の皆さんである。「どぜう」も「クリトン」もヒラリーの夫も謎の人物である。そして、これらの間で相互に好奇心が起こるのは驚くべき「偶然」である。


2008-08-25 日曜日

_ 日曜日

朝から11時間ぶっ通しで指導した。

一件目が、小学5年「天才少年」作文指導と、入試問題国語演習。この生徒は塾へ通わない。しかも実は私の作文指導も受けない。書いて来た作文と小説を「発表」するのみである。両親とあっちこっちへ出かけ、残りの時間は、日本史研究と小説書き。小説を書く日は、食事以外は常に執筆。おまけに食事中は次の腹案作り、執筆に詰まると読書。これではすでにプロの作家と変わらない。書いて来た作文(哲学的エッセイ:「自由という時間について」)は、比喩、着想、主張と、大人でも書けない、驚くべき内容である。そして、その書いて来た「学校小説」は、理不尽な暴力教師を、子どもたちが知恵を加え合って圧倒する(のがプロローグ)という壮大な作品で、私は感動して思わず「敬意」を抱いてしまった。このお子様の方が、感性、創性ともに私に優れるのである。入試国語(海城)をやりながら、「将来私立中学の試験は意見文作文になる可能性がある」と言うと、自分の好きなことを書いても良い=物語とおとりになるから末恐ろしい。

二限目は、60枚以上論文課題の私立中三年生。原稿をUSB?(コンピューターに差し込む根付けみたいなもの)で見せようとするも、向こうのバージョンが新し過ぎて文字化け、見れない。

しかたがないので、「見出し」を作り、執筆の進行方向を示し、必要な書籍の購入方法を了解させる。

三件目は、6年生公立入試算数と音読指導。相変わらず、6年生公立入試問題が、誰に教わっているのかは知らないが、全国学力テストの記述版的良問であるのに驚かされる。アタマでは分ってもコトバで記述するのが難しい。この試験を繰り返されると私立も対策を講じないわけにはいかないし、チェーン的塾には倒産するものが出る可能性が高い。逆にz会などは、「ウッヒッヒ」であろう。その上で、カタカムナ、「源氏」と「更級」の音読指導。上達しているのが分って嬉しかった。

四件目は、早大志望の6年生私立高2への第一回音読指導。最早もうろうとしつつある頭で対峙するも、これが実に唇と顎の使い方の上手いタイプなのである。「指先指導」(キャロム)も試みるが、これも20人中1人の「素質」である。「カナダへのホームステイ宅の子どもとやったことがあるが、雪が降って来て他に面白いことがあったので、一回だけだった」と、言う。将来有望と見る。

そして、本日最後は、中3野球少年作文指導。斉藤孝の『できる人はここが違う!』(筆者注:わざと間違え)の感想文。「長いこと野球をやって来たが、人の技術を積極的に盗もうとしたことはなかった。知らなかった。」

午後9時。冷えて疲れた体でサウナ直行。趣味のサウナ後雨当たり瞑想を行う。タクシーで帰宅。このブログを書く。その後食事をするとバッタリコ。寝床で読書すると眠りに落ちた。午前6時起床。


2008-08-28

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急に外で雨が激しく降って来た。この雨が上がるまでにこの記述を試みたい。

この一週間ほどの気候は、まさに我が国ならではの、繊細かつダイナミックなものだった。

暑さが峠を越えた。

まるで高原のような気温に、秋を思わせる涼しさ。

そこへ南から温風が当たり、断続的な雨、雨、雨。

一日晴れると、「軽井沢」。

深く眠っていると、朝方ザーッと雨の音に目覚める。

そして、「晴れた!」と思いきや、油断大敵雷鳴驟雨。

そして今、また、突然降り始める。

こんな面白い気候が世界に他にあろうか。

大陸東岸温帯モンスーン付きの島。

これは世界でこの国にしか味わえない、世界まれな変化に富んだ気候である。

昨年と同じ気候に出逢ったことがあろうか。

その変化のそれはイギリスの数十倍である。

日本人の多くは、このことに実感的ではない。

多の地域との比較においてでなければこの気候の楽しさを知ることは少ない。

我が国の気候の面白さは類い稀である。

地球温暖化も関係ない。

どうやったって四面が海だから雨が降る。

むしろ、晴れ間が少ないのが我が国の気候の特徴なのである。

カリフォルニアの空は確かに青く澄んで美しい。

しかし毎日同じに澄んで青いのである。

アフガンでは、降らないと言ったら降らない。微塵も降る「予定」がない。

毎日灼熱の太陽が照りつけ、夜には満天の星が現れる。

転じて日本の明日の空の色を正確に言い当てられる人がいたら、その人は「仙人」であろう。

無常と無確定。

日本人ほどその中に生きざるを得ない国民は少ない。

だからこそ、肝要なのは、「直感」と「判断」と「行動」の連結なのである。

「情報」と「選択」と「購買」ではないのである。

雨は断続的に降り続けている。

えも言われず嬉しくなる。


2008-08-30 第二回V-net焚火教育

_ 第二回V-net焚火教育

―行きたい人だけ行くことになりました。

夏休み最後の土曜日。V-net第二回焚火教育を決行した。

「決行した」というのは、読者もご存知の通り、28日29日と全国的に記録的豪雨地域が相次ぎ、何とこの前通ったばかりの京王線北野〜高尾山口間は土砂崩れで不通になった空模様だからである。

東京地方、29日は晴れ間さえ見えたが、30日朝にかけて土砂降り。午前6時半、雨はやんでいる。

早朝電話連絡。

―行きたい人だけ行くことになりました。

この報に、結果的に「どうしても行きたい」という生徒だけが集結することになった。

例外は、「この雨では行くことはない」と高をくくって夜更かししたと思われる防衛大志望高3生。おまえなー自衛隊よりアフガンに行けよ!

後は、親が「決定」したご家庭だった。

小4一名、小5一名、小6三名、中1一名、中3一名の計7名。随行員は私を含めてV-netプロ教師三名。ネットやり過ぎ少年たちは、私の提案した引っ越しや部屋の改造で忙しくて来られない。

―ここ数日の空模様からすると、温度が下がる夜は降るが、太陽の熱がある昼は局地的に驟雨はあっても大きくは降らない。しかも、天気は遅れは見せているけれども一応回復モード。ゆえに、夜降ることはあってもデイタイムはまず降らない。降るとすれば暗くなった後の夕方以降である。焚火ができる。先々の私のスケジュール上、「中止」はあっても「延期」はない。V-netは学校ではないので、冒頭の決定となった。

雨はもちろん降らない。晴れて夏の日射しの中、先植えた大豆畑の手入れと、別チーム竹細工見習い。

さすがに、お昼頃一雨。でも全員雲と風の変化を読んで屋根の下。

雨が上がると早焚火開始。

驚くべきことである。

子どもたちはどうしてこうまで焚火が好きなのか。

燃やす物の前もっての「破壊」。

湿っていてなかなか燃えないので扇ぎまくり。

竹をそのままくべての爆発ごっこを繰り返す。

真夏の太陽が照りつける中、焚火は続く。

ソーセージ、マシュマロは焼きまくり。

焼きリンゴを作る者を見て、自分たちは次回に何を焼けば面白いかの話の花が咲く。

おまけに農家提供の食物は、「旨い!」と言って、食べまくり。

気に喰わないテストを持って来て焼く者も出る。

教師も夢中になって炎々四時間以上の焚火が続く。

汗まみれで、水をガブガブ飲む。

付近温泉で露天風呂。

遠赤外線を浴びた後の温泉効果は大きい。

「次はいつか?」と皆聞くので、仕方なしに、

「もうこれから毎月やる」と、答えてしまう。他の受験機関にない決定である。

それにしても、我ながら呆れ果てて、「どうしてこんな単純なことが楽しいの?」と、聞いてしまう。子どもたち曰く、「こんなことよそではやれないじゃん!」「いつですか?次も絶対参加します!」

私は趣味の焚火で、子どもたちから目が離せなくて、全然リラックスできないが、実の息子が楽しむのを見るのが嬉しいように、労が報われた思い。子どもたちの顔つきもみるみる良くなる。

「親が来ないのが良い」との声もあるが、是非お父さんたちにも参加していただきたいと思ってしまうV-net焚火教育なのであった。