2009-08-04 「支配」のための教育
_ 「支配」のための教育
お子さんをサピに通わせるクライアントの女性からご進言があった。
曰く、
―α1の生徒は、そもそもみんなそんなに努力しなくてもできる生徒たちがほとんどなので、別に自分ができることについて特別の気持ちがないと思う。だからえばるものはまずいないはず。しかし、α2になると、闇雲な努力をして上がって来たものたちが多くなるので、他人を見下してえばり散らす鼻持ちならない連中がでるようです。
この人のお子さんはずっとα1に通っている。しかも家ではほとんど勉強しないという。
サピ下位クラスで喘ぐ子供の親御さんから見れば、羨ましいこと限りないであろうが、彼女ははっきりと言う。
―サピはαだけまともで、教師の質が保障されている。そしてαに通う子供は、別に日能研に行っても同じ。どうせ皆筑駒か開成(悪くても麻布駒東)に進学する。だから本当は営業上α1に通っている子供たちは皆「奨学生」にして無料でもいいのよね。逆にお子さんがαに届かないレベルなら、ワセアカでも日能研でも自分に合った塾でそれなりのところを狙う受験戦術を取ることが正しいということになるんじゃあないですか。でなければ2学期以降プロの家庭教師を雇って志望校過去問の徹底対策練習をするとか。
こういう親は、塾も「洗脳」のしようがないだろう。
しかし、今確実に増えてきているのではないか。こういうタイプの親たちが。
そして、考えてみれば昔からそうだった。筑駒や開成に入れる親のほとんどは「情報通」であり、たいていは「資本」がある人たちだった。これは名門校ほどSEG利用者が多かったという事実からも立証されよう。
そもそもアタマが良くて、なおかつそれなりに裕福なご家庭のお子さんがエリートとなる。非常に分りやすいが、逆にそもそもアタマは悪くないが、適切な教育環境設定を受けることができなかったお子さんはエリートになれない宿命にあるということが演繹されはしまいか。全ての人に質の高い教育を平等に与えることはできない相談であるが、それが金があるかないかに大きく関わるというのは「不平等」である。でも、どうして国は、教育における「能力」の本質を分りやすく国民に伝えようとはしなかったのか。それこそが教育改革が実現しない本当の原因だったのではないか。
『韓非子』によれば、「支配者が何を考えているのか被支配者が分らなければ分らないほど支配はうまく行く」ということになる。これを、「王」ではなく、「民」が主権者である現代に置き換えれば、「支配者的クラスに入るものは、支配者層が何をしているのかをリアルに知りこれを実践できるもの」ということになるが、これをもたらすものは明らかにカネではなくてチエであるはずである。まあ簡単にいえば、支配層は非支配層あっての支配層だから、できるだけその比率を大きくすればするほど成功しているということである。
しかし、金があっても権力があっても幸せにはなれない。幸せになるには美しく生きることが必要になって来る。ということで、東アジアでは支配層には儒教を学ばせることになる。ちなみに「武士道」は優れて儒教的である。
闇雲な努力が傲慢さを、優秀な頭脳が世間的無知を呼ぶのであれば、正に「支配者」の思い通りの教育結果とも言えることになるだろう。こう考えれば、まるで闇が晴れたかのように陽の光を浴びる気分になれるかもしれない。