2009-08-12
_ 「学校教育は吉本興業に負けた」
これは私が最近気に入っている自作キャッチフレーズである。
学校教師は生徒が話を聞く状態を作るのに苦労するが、吉本の芸人は最初から話を聞く状態を作ってしまう。なぜか。それは芸人たちがどんなときでもオモロい話をすることが義務づけられているからであろう。子供たちはこれから話されることがオモロい話に決まっているから最初から耳を傾ける。
人がオモロくない話を積極的に聞かない傾向があることはどなたも認めることだろう。
学校の先生は、子どもたちの前で話すことが仕事である。その時、役に立つことを話すだけでは子供は聞かない。役に立つことをオモロく話さなければ子供は聞かない。オモロいには、そもそもの雰囲気と、話の内容と、語り口の三つが同時に必要である。もちろん個々の一つ一つが滅茶滅茶オモロければ、それだけでもオモロかろうが、すぐ飽きてバカらしくなる。
学校教育はこのポイントを看過し過ぎたどころか最早手の届かないところまで流し去ってしまった。「芸」とはこころを伝えようとする技術である。教育養成大学は、表現力のあるオモロい人材の育成に力を入れなかった。そして教員採用試験は、暗記力が基準であり、人間的表現力を判断基準に持たなかった。判断力ではなくて追従力のあるものを採ることに恣意的であった。「ココロ」の抽象化ができていなかった。
対して吉本興業では、読者の皆さんも良くご存知だと思うが、各人の名を書いた20面体サイコロを使って、出た目の名の人がそこでできるだけオモロい話をしなければならない「すべらない話」というゲームを番組化するする。これは昔からあった雨の品定め的我が国古典的遊びであるが、関西では常識だろうが、人は他人に会う時に、一つくらいはオモロい話を用意するのが最低限のマナーであろう。顔の悪さは許されても陰気な雰囲気は失礼にすらなる。学校の先生だって、多くの生徒たちが待っているのだから一日一つはオモロい話を用意しても良さそうなものだ。寺の坊主が話が下手だったら寺は衰退する。自分にもその程度の宿題を課すことにも日教組は反対するのだろうか。いや、するまい。ちなみに吉本芸人の約28歳平均年収は約280万円とのこと。全体でも700万以上は17人しかいない。多くはアルバイトで糊口をしのぐという。これからしても、教師の採用の仕方がナンセンスであることは明らかだろう。そしてこれから先、このことを看過し続けた教員養成機関は、できるだけ早く自己懺悔しないかぎり「未来」はないと思っていただきたい。子供たちはあなたたち同様、吉本興業をテレビで視聴しうるのである。そしてこれが容易く肯定される今、子供に接する教師たちは、吉本興業以上に子供を惹き付ける能力を要求されていることになる。ただ一つオモロいことに勝るものがある。それは教師の熱意であるそうである。そして、オモロさの前提にも熱意があることが分る。
私は、教師が1時間目はぬいぐるみを着て授業することと、毎日職員会議で20面体サイコロを使って「すべらない話」を行うことと、教員採用試験ではカタカムナ音読とサイコロ学習と「すべらない話」試験を取り入れた政策をとることを、焚火教育、菜園教育に加えて冗談で次期政権に提案したい。