2009-07-02 教育について
_ 教育について
人が文章に書いたことがその人を規定するであろうか。
答えはNONである。書いたことはその人の部分であり、しかももそれは他者により恣意的に受け取られる。これは、宗教が、何らかの勘違いがなければ成立しないのと同様である。
長らくグレてフザケているうちに、自己本性と全く異なることに、だんだん本質的なことが書きたくなって来た。だがそれには、そんな本を出させる新たな出版社を見つけなければならない。
教育相談の仕事に疲れて、創作的な活動が精神的に苦痛になる。植物の成長に驚いて呆然としてばかりいるわけにも行くまい。
現代未来教育にとって、本質的なこととは何なのか。
私はそれについて答えることができるごくわずかの人間の一人であるはずだ。
しかし、教育について語ることは難しい。
それには、哲学、芸術、文学、歴史、人間学など数多くの領域について同時に自己の考察見解を持たねばならない。通常の人には無理である。学者にも政治家にも一般人にもそれは無理である。専門家と組織人には無理な対象である。
誠に拙いながらも「哲学」をし続ける私には、分不相応のことかもしれないが、教育について哲学することは、歴史を哲学すること以上に困難なことだと確認したい。歴史も教育も、「価値判断」を哲学的に規定できれば、それをもとにその客観化もできようが、そこでは、「芸術」の現象については意識的無意識的に捨象される危険性がある。
未来可能性の象徴に「芸術」があることは明らかで、「教育」とはその「実験」である。
価値は思考によっては体得されない。価値は追体験結果と感受性によって決定される。そこに、多かれ少なかれ、「ベクトル」を与えようとするのが「教育」だ。したがって「教育」は、既定価値を「過越」しようとする実験の場でもあることが暗示される。
現在の「体制」は未来にはない。未来には未来の「体制」がある。
子どもたちに本質的に与えるべきものが何であるのかを直裁に表明できない教育機関は全てニセモノである。
この国の教育で捨象されているものは何か?
2009-07-04 焚火革命
_ 焚火革命
世にはつまらないことを聞く人がいる。
―あなたの夢は何ですか?
私の夢は、教育が本質を炙り出し、我が国の将来にとって大切なものを優先順位順に子どもたちに与えることである。だが、我が身の無能を知悉する私には、本気でそう思っていることが恥ずかしいから大きな声では口に出さないだけだ。
相変わらず不登校や学校をやめたいという相談が重っている。
彼らの全員が私の問いかけに首肯する。
―つまり、学校が面白くない?
これは、「冗談」抜きで、「事実」なのである。
「不登校」が不思議なのは、その少年たちのほとんどが善良でまともでユーモアも解するものたちであることである。
つまり、「まとも」な少年たちが、「学校はつまらない」というのである。
授業真面目に聞いて、提出物きちっと出して、暗記してテストで高得点する。実は本当はこれは、最低限、授業がオモロいときのみに成立することである。もしくはガンガンアタマが良くなっている「手応え」を感じるときである。他人より高得点することが目的の時ではない。
そんな経験は、学校でも塾でもほとんどあり得ない。「焚火」ならあり得過ぎるが。
今の子どもはつまらないと話を聞かないのである。
そもそもドーパミンが出る前に学ぶことは本質的ではない。
先ず好奇心がドーパミンを分泌させて、その上で学習態勢が整う。
教育合理を追求すれば、先ず子どもの好奇心をいかにして喚起するかが四谷大塚予習シリーズQ&A。
ピアジェに聞くまでもなく、教育とはオモロさを喚起することが前提なのである。
しかし、儒教主義が客観化できない人たちは、教育の仕事は「服従させる」ことだと信じて止まない。
「服従」は、共通価値の上に立った「尊敬」がなければ成立しない。ちょいと考えれば分る。幼稚園の先生でも知っている。「尊敬」より、「オモロさ」を喚起する方が実ははるかに容易いことである。
教師とは、伝えたい事柄を、面白がらせて体得させることが仕事だということが分らない。
相手は子どもなのである。
どうしてやり方を変えないで不登校や学校拒否を増やして行くことを黙認するのか私には全くの謎である。あまりにアタマが悪くなると、自分がこのままでは死にそうであることに気がつかないか、気がついてもそのままにすることになるらしい。教育を行う場にとって、生徒の「不登校」は、「自殺に等しい」と痛感するべきである。
完全危険領域。
最早、ある意味で、学校に通うことは意味がないのである。
あなたは、2回連続味が悪くてサービスが不愉快だったレストランに3回目行きますか?
ここまで言って分らないのはナンセンスである。
もうこれからの子どもたちは、本当に価値があることしか学ぼうとしなくなると思う。
この度、教育実現党を夢想した。今のところ綱領はただ一つ。
―小中学校の校庭で焚火をやらせろ!
だけである。
これをマニュフェストに入れた政党に投票しよう。
国政の場では、無用な官僚と国会議員を焚火にくべる運動を推進したい。
2009-07-08 「意外」なこと
_ 「意外」なこと
人間が、「これが自分の限界である」と感じた時、人は自分の可能性を「制限」していることになる。
人間はやろうとすれば、空を翔ぶようなこと以外は、たいがいのことはできる。特に肉体ではない精神の向上においては。たとえ長い時間がかかっても。
しかし、もし、そのことを知らされないで、「人間には限界がある」と思い込まされた時、人は、面白いことが滅多に起こらないという習慣認識を持つ存在になる。つまり、「暇」と「労働」を識る。そしてこの後、何らかの大脳活動を行わないではいられない感受性を持つ人以外は、脳の活性化に無自覚になる。
縄文時代には労働は歓びであった。狩り、釣り、数え上げれば切りもないが、皆自然から穫って来る「オモロい遊び」だった。
遊びとは面白いからやること。労働とはつまらないけど我慢してやるものなのであった。食べるものがありさえすれば苦しまない縄文人にとって、我慢してやるべきことは何もなかった。
彼らには、「支配者」がなかった。かえって自ら、自らの「カミ」を「創出」する必要があったくらいである。それも自分が生きて行くために。
ダイアローグとは、己の中にもう一人の対話相手があることを確信して行うものである。
私たちは自らに問いかける。
―自分は何を選択して行動すべきか。
しかし、このことが良い結果をもたらすためには、その答えが「条件反射」的に瞬時に出るものでなくてはならない。
「思考」と「感受」の接点は、多かれ少なかれ、我々をクラクラさせる。
そこには、「正しい」、「正しくない」はない。
「好ましい」、「好ましくない」だけがある。
だからこそ我々はダマされる。
「不要」なものを「必要」なものと思い込まされる。
我々は、「限界」を忘れるために、「意外なこと」にもっと敏感になるべきである。
2009-07-10
_ 「バッキャロー!」
イタリアはラクイラの麻生首相宿舎で、深夜に、「バカヤロー!」の発言が聴こえて話題になっているそうだ。
昭和28年2月28日、衆院予算委員会、吉田茂首相は、社会党の西村委員のしつこい弁舌に、「バカヤロー」と呟いた。これがマイクに拾われ、その結果、内閣不信任案、衆院解散に追い込まれ、吉田自由党は惨敗した。この時、麻生首相の祖父の吉田を決定的に追い込むことになる「離脱」をしたのが鳩山一郎で、現民主党党首由紀夫の祖父である。
麻生首相は考えた。
―「呟く」のが悪い。どうせマイクに拾われるなら「怒鳴る」のが正しい。ゆえに私は、心の底から、「バカヤロー!」と叫んで解散権を行使したい。
とはいえ齢70近い。いざという時、大声できっぱりやれるとは限らない。
しかし、その時は近い。でも、「バカヤロー」とやると負ける可能性も高いから、いざという時に「バカヤロー」とつい大声で言わなくても済むように、予め「バカヤロー」を連発してガス抜きしておくのにもこしたことはない、そう考えたのは、最早「劇画」的発想では政治的に限界があると悟り、やはりこれからは「ギャグ」しかないとの認識を持ったためかもしれない。まさかサミットの席で、「バカヤロー」を言おうというのではなかろう。
結局だから、いつでもそれができるように(同時に妄りにそれを行使しなくても済むように)、ありったけの大声での「バカヤロー」の実際発声練習が、オリンピックというよりゴルゴ13の射撃練習同様、sex以上に欠かせなくなる。首相官邸では、「小泉防音室」でそれもできたが、近く解散するというのにサミットでラクイラでは練習できない。だから、深夜、まるで北朝鮮がミサイルを発射するかのように、「バカヤロー!」と叫ばずにはいられないことになるようだ。
麻生首相を選んだのは自民党である。その自民党が、「選挙に負ける」から「麻生下し」をする。
この時点で、国民が自民党議員を選んだことが「間違い」ということになるのは明らか。
「自民党をぶっつぶす!」に変わるコピーが、「自民党のバカヤロー!」というのはなかなか笑える。
森元首相なら堂々とゴルフをし続けるであろうが、どういうわけか暴動鎮圧専門家の中国主席はコキンとサミットを蹴って帰国した。二酸化炭素排出よりウイグル族の「バカヤロー!」が気になったらしい。安禄山はウイグル人だった。中国は変わらないねえ。
そして、「地方」が「中央」に対して怒るという構図は、現代ニッポンの橋の下にもシンクロする。
今さら北朝鮮のマネはできないから、日本の真似して、地域を越えた神社を作るといいんじゃあないのか。もちろん、主席の参拝は古今東西禁止にして。
以上もちろん、完全に「冗談」で書いた。
今日は梅雨明けと思ってインド料理を5種も作ってフラフラ。
2009-07-13 ソーラーパネル
_ ソーラーパネル
私は自分が購読している新聞を常に最低の新聞だと思うが、日経新聞はまたしてもやった。
都議選結果ではなく、キリンとサントリーの合併を一面トップに据えたのである。真ん中には、「麻生首相解散を決意」とあるから嗤わせる。
どうしてこんなことをするのであろうか?
誰がこんなことを敢えてやらせるのであろうか?
それは、間違いなく、日経隣りの経団連であろう。
ということは、経団連は政権が交代して民主党に移ると既得権益のいくつかを失うと考えていると推察される。
酒の会社の合併話が、都議選自民の歴史的惨敗報道に優先されるのはどう見てもヘンだ。自民党同様、「今度もゴマカし切れる。というより、そう考えないと存続の可能性がありえないからし方がない」と思っていると思われるバカである
数日前の日経によると、政府は小中学校に太陽発電施設を葺くことにし、6000〜9000億円の予算を投入することに決定した。
もし1兆円予算を組むとすると、これを全国約3万小中校数で割ると、一校あたり約3333万円になる。もし一校あたり5人の大学院生に、時間給2000円で、一人当たり週に10時間授業をやらせると、年30週として約300万円になるから、10年以上これを維持することができる。またその間に教員で能力が足りないものを「降格」することによって経費を節減し、同時に子どもたちに学問の最前線にいるものから直接学ぶという機会を与えることができる。
私は屋上ソーラーパネルではなくて、屋上どころか、校内陽の当たるところの全てで野菜や植物を作ることを推奨したい。二酸化炭素削減にはその方がはるかに効果的なはずだ。だいいち電気は食べられないが、植物は食べられる。
子どもが「電力」から学ぶことは限られる。今の子どもにとって最も接するべきことが「自然」であるとするならば、学校給食の多くを手作り野菜でまかなう仕組みに挑戦する方がよっぽど教育的である。しかもその費用は知れている。
屋上菜園、屋上田んぼ、屋上イモ畑、屋上麦畑。地域の人にも参加してもらう。とにかく陽の当たるところはグラウンド以外全て畑にする。教室窓際は、野菜が林立する。授業に出たくなくても虫取り草取り水やりに従事する場合はそれも許される。不登校もいじめも減る。ゲームやり過ぎ少年も治せる。教師のストレスも減る。これでこそ「温暖化対策教育」である。ソーラーパネルを設置するだけでは成り立たないことである。
そしてその上で、最早読者ご存知の通り、言うまでもなく、校庭で焚火を始める。屋上でとれたイモを焼き、菜園でとれた大根をふかし、生野菜をったっぷりとりながら談笑して音楽や歌を歌う。
教師には、できるだけ近くに住んでもらうようにし、「農園管理人」もやってもらう。
もし1兆円あったら、こんな素晴らしいことができる。他にもいくらでもアイデアを出し得る。
ソーラーパネル設置で喜ぶのは企業だけだということを忘れずにいて欲しい。
都民の支持の厚い公明党もそう考えるに違いない。
2009-07-15
_ 独学の勧め
良く考えてみれば本来当然そうであるはずなのだが、最近たとえば、宮崎哲哉、内田樹、苫米地英人など、優れて知性的と評される人物のほとんどが独学的な人たちであることが確認される。独学者とは、自らの純粋な好奇心に基づいて、対象の解明に打ち込み、それによって知性を伸ばして行くものたちのことである。これは親に脅かされて無理矢理勉強することの反対である。
これは私が日頃口にしている「主体的な学習習慣」の成れの果てとも言える。主体的な学習習慣のもとでは、先ずテキスト(教科書)を手にすれば目次に目を通して、ざーっと最後まで読んでしまう。もし授業を受けるなら、予め次回にやるところを自分なりに考察し、それに関する書物を読み、授業では、教師が有能であろうが無能であろうが、自分なりのノートを作り、必要なことを覚えてしまうことに専念する。また、独学的な生徒は自分の学習を学校のペースに合わせない、中学英語なら中学英語を終わりまでできるだけ短期間にマスターしてしまうことを考える。ここで、重要な箇所を確認する相手が必要になるが、独学者は、その相手を見抜いて質問して教えを請う。しかし、真に有能な独学者は、複数の参考書の解説を読んでこれを解決する。この状態の子どもに能力のある家庭教師がつくと成績は飛躍的に向上する。もちろん、入試で勝つことが目的の集団の進学塾に通って競争に足場を移しても、周りの者の学習状況の観察や、文や単語の覚え方、それより英語という言語そのものへの構造を解き明かすことに夢中になる。
数学についても同様である。まず、暗算力。その一方で速く正確に式が書けるようにする。その上で中学3年分を一気に終わらせて、なおも興味が続くものは、高校大学の数学にまで手を伸ばす。自ら選ぶ「飛び級」。
独学するものは、困難な状況に陥った時、それを解決するために、自らの欠点の把握とその解決方法の着想に全力を集中する。この時、抽象と発想の両方の能力が発達することになる。
以上には、共通する「前提能力」があると思われる。それは、読みと書きと暗算、そして、抽象化能力と自立性判断力。
自然の中での発見の驚きと、手を使った試行錯誤やしつこい遊びの連続。
友人と群れて遊ぶこと、他者の観察と自分の客観化。
これらが充分であった時、10代前半のある日に「目覚め」が訪れる。
独学にはお金はかからなくとも暇は必要。そして、暇が情報と娯楽以上に好奇心に基づく行動に結びついていることが望ましい。
独学者は、20歳以降もずっと知的成長をし続ける。つまり、精神性が高まり続ける。
独学者は楽しいから学問する。
2009-07-17 感じることと動くこと
_ 感じることと動くこと
寂しいこともあるだろう。
悲しいこともあるだろう。
むかつくこともあるだろう。
やり切れないこともあるだろう。
でもだからどうしようっていうのさ。
どんなときでも、
目の前に、
オモロいことさえあれば、それは解決される。
オモロいことが苦しみを忘れさせてくれる。
_ オモロいことは自分の内にはない。
オモロいことは自分の外にもない。
オモロいことは、「外」に反応する自分の「内」との境界にある。
だから人は、オモロいことがないことを怒ってはいけない。
オモロいことに気づかない自分をこそ誡めるべきなのである。
だいいち、もしオモロいことが見つからなくても、美しいものはある。
美しいものは、オモロいこと以上に「存在」のありがたさを教えてくれる。
感受性は好奇心の元である。
何かを感じられなければ、人は「存在」できない。
何かをすることがなければ、人は「存在」を得ることはできない。
感じることと動くことが人を苦しみから救う。
2009-07-19 皆既日食
_ 皆既日食
7月22日、日本国内で皆既日食を観測できることは、読者も良くご存知のことだと思う。
奄美なじみの一家が羨ましい(おい、もし、一人空席があったら即その旨伝えろよ!もう遅いか)が、なんで、「金環食」と「皆既食」があるのかと問われると、未だ答えられない輩が多いから、ここに簡単に解説しよう。
私は、かねて、占星術と、「LUNACY」に陥るものは、月の遠近を知らぬことが原因である、と主張して久しいが(「宗教」とは「レトリック」のことである)、月は、ある周期を伴って、近くなったり遠くなったりする。つまり、見かけ上、大きくなったり小さくなったりするのである。このことは、引力―動物のバイオリズムに影響するが、通常人には、視覚的な朔望と異なり、強く意識しないと感受し難い。日食では太陽の大きさはほぼ一定なため、だれでもそれが視覚的に観察できる。
「新月」とは、太陽と地球の間に月が入ってほぼ直列することである。
この3者がかなりピッタリ合わさった時、ずれなく日食が起こる。つまり、月の陰が地表の部分を被うのである。
この時、月が近い時、遮られる太陽光は大きくなり「皆既」になる。逆に月が遠い時、遮られる太陽光は小さくなり「金環」になる。
7月22日の午前に日本南部で起こる日食は、午前5時に、月が本年最近になった直後に起こるので、歴史上まれに見る見事な「皆既日食」になる。
_ 22日05:14:月が本年最近。
09:55:日食開始(東京)
10:56:奄美北部悪石島で皆既最大
11:13:東京で食最大
11:35:新月
12:30:東京で食終了
8月04日:09:42:月が最遠
6日:09:55:満月
2009-07-22 洗脳
_ 洗脳
夏期講習料の納付締め切りを前に、「サピックスをやめたい」という相談が増えている。
その理由がちょっと面白い。
面接で、「このままでは志望校合格なぞ先ず無理。」と強く言われたからとのこと。この生徒に実際志望校の問題をやらせると、充分合格の見込みがあるにもかかわらずである。
模試における合格判定偏差値が甘いサピがこういう発言をするのは面白い。これは夏期講習参加人員を確保することを裏に持ったレトリックであると思われる。
私はかねてより、サピックスは暗黙のうちに、以下の作戦をとって来たと思う。
サピは母親を脅かす。その文言は、吉祥寺でも、練馬でも、自由が丘でも全く同じ。
「もし今やめたら、ヒドいことになりますよ」。
「もしこのまま通い続けると絶対に合格します」ではないことに注意を喚起したい。もし、「もしこのまま通い続けると絶対に合格します」と言えば「詐欺」になる可能性があるが、「もしやめたら、ヒドい結果になりますよ」ではぎりぎり「詐欺」にはならない。
女性を不安にさせる戦術。女性は本性的に、不安になればまず言うことを聞いてしまう。私は95%の女性がこの戦術に引っかかるのはエステや健康器具と同様と思う。女性は不安と寂しさには勝てない。
どの進学塾も多かれ少なかれ同様であるが、サピックスは全校でこれが徹底している。上からの指示か圧力である可能性が高い。小学校低学年から前倒しで知識の詰め込みを行うサピックスは、小61学期には入試に必要な課程をほとんど終了してしまう。すると、夏休み以降に「離脱」して、模試だけを受けて、後は御家庭で志望校向けの自立的な対処を行って経費を節約しようする親が多く出る。また、これ以上サピで子どもが疲れ過ぎるのも許容できないと考える親もいる。
サピに限らない。どこの進学塾でも、二学期以降志望校を限定した対処を掲げるが、実際はテキストの60%以上が共通である。志望校対処の中で最も重要なのは、過去問国語記述に関する指導であるが、これは1対多ではまずできない。ましてや中高一貫公立校の記述対処なぞで切るわけがない。だいいちそんな能力がある教師を、サピの標準的な給与水準で多く確保できるわけがない。
でも、もし2学期以降、もしくは冬休み以降、生徒が来なくなれば、先行投資をして拡張政策の塾の経営は苦しくなる。最後の最後まで、冬期講習まで、御家庭からカネをむしり続けなければ利益が薄くなる。そんなことは、その間も膨らんだ従業員に賃金を払い続けるのであるから当然のことである。
これまでサピは、「このままでは志望校合格は先ずないでしょう」と母親を不安にする戦術によって、入塾者を確保し、「今辞めたら入試は絶望的だ」と子どもを脅かすやり方で、顧客を確保して来た。思うに不況下、それが効きにくなって来た焦りから、自然と脅し作戦に力が入っていると思われる。
もはや麻布を初めとする有力進学校で、サピなどの進学塾で無理に力をつけた生徒の入学後の伸びが悪いから、できるだけ採りたくない意向であることは、東大進学率の低迷化でも明らかだと思う。私に言わせれば、中学以降順調に成績を伸ばすのは、どんな進学塾に通っていようとも、自立的に学習する、そもそもできる生徒である。つまり、できる生徒を育てるより、そもそもできる生徒をどれだけ含有するかが課題なわけである。
もしこの考察が正しいとすると、上位クラスにはいないが、入試成功を願うものや、最早知識やテキストは充分であるから後は自分でそれをこなして真の実力をつけようとするものは、とっとと塾をやめて自分なりの学習計画を立てて勉強することが正しいことになる。
来春以降、あたかもかつてサピ高橋がTAPから離脱したかのごとく、サピの有能教師たちが離脱しようとする可能性がある。でも上位のごく一部の経営陣はそれでもかまわないであろう。何しろ彼らはもう引退しても充分なだけのカネを稼いでしまっているであろうから。
私は、教育相談の仕事上、首都圏で、いまだかつてサピックスほど多くの「犠牲者」を出した進学塾を他に知らない。
個人塾ではなくて、チェーン店塾で、上からの指示で生徒を「洗脳」するのはどうもいただけないと思うが、いかがか。サピでは、上位αクラスの生徒は、廊下を歩く時、下位クラスのものを蹴散らすように歩くという。「冗談」を専門とする私からすれば、単純な洗脳に引っかかるバカが「優秀者」であるというのは心から笑えることだが。
2009-07-25 藤原命日
_ 藤原命日
日本経済新聞社は、21日、東京•大手町の経団連ホールで「ゲームが開く学びの世界」をテーマにシンポジウムを開催したそうだ。
日経は、ここへ、あのリクルート出身、杉並区和田中学校の前校長の藤原和博氏が「ゲームと教育の融合」と題して基調講演したと報道。「ロールプレイング(疑似体験)などゲーム的な学びを授業に取り入れるべきだ」to述べたと言う。藤原氏は、ゲーム機や携帯電話のメールを使った授業の利点を強調したという。
私は、「写真判定」で、藤原さんはあんまりアタマが良くない人物だと見抜いていたが、サピ教師を使ってしまうという発想は、「合理的」で面白いと思っていた。でも残念ながら今回の発言で、彼は教育の世界では仕事をできない知能の人物であることが明らかになってしまった。この人は、東北大教授の川嶋隆太氏が、任天堂からもらった20億円以上のロイヤリティーを全額東北大に寄付したことをご存知なのだろうか。
まず、彼は実際のゲームやネットや携帯に依存し過ぎているものたちの問題を知らないかのように振る舞う。そんなことはあり得ない。中国ではすでにネット中毒に電気ショックも加えていたほど問題になっているのである。ゲームで平気な人たちもいる。でも一方で、確実にゲームによって害を受ける子どもたちがいる。ネットや携帯電話を有効利用するものがいる一方で、やり過ぎになっている自分に自覚的ではない人は意外と多い。
とまれ、各家庭で、「うちでは携帯電話は認めない」、「テレビゲームはやらせない」と決めている御家庭もあろうから、日経シンポのように、一律にゲームや携帯を使わせるように仕向けることは不可能なことであろう。
現時点で、儲かっている会社の筆頭の一つがゲーム会社。他の企業が不況に喘ぎ、広告などの費用を節減せざるを得ない不況下で、新聞社はゲーム会社と手を組むということらしい。子どもの頭を悪くすることに協力するのであるから、悪しきを告発して伝えるジャーナリズムとしての役割は最早過去のものとなっている。
後の判断基準のために、リアルな体験のみが必要な子どもたちに、可能なかぎり面白くしたソフトを売りつけようとすることによってその機会を奪う。
教室を面白くするためには機械は要らない。
教室を面白くするのは熱意のある人間のエネルギーである。
金八先生が流行って久しいが、そこにあったのは、「熱の強調」だけだったと思うのは私だけであろうか。
子どもが求めるものは、教師の熱と自らの追体験である。
2009-07-27 夏休み学習法
_ 夏休み学習法
夏休みの初めということで、夏期中の過ごし方についてのアドバイスを求める方が多い。
人によって差はあるが、私はだいたい以下のようなことを話す。ここに簡単に紹介する。
―自分で勉強する習慣を付けるようにする。
それには現在の自分のアタマがより良く動くことができるようになることに強い好奇心を持つことだ。自分のアタマが変化して行くのはオモロいし快感ですらある。
教材はあり過ぎるほどある。何をやってもかまわない。
塾にそんなに通わなければ、時間の余裕ができるから、自分で前向きにテーマに取り組む。その際に特に注意するべきこと、そしてこれさえ上達すればどうせ上の学年で成績が上がるのは必至という、つまらない入試の合否を越える究極の学習ポイントがある。
それは、
1 文章力向上
2 暗記力向上
3 暗算力向上
4 疑問想起力向上
の四つである。
結局学歴を重ねるとは考察対象の記述表現ということに行き尽くし、言わずと知れた「支配」とは言語で行うものなのであるから、生きている間文章力は常に向上していなければならない。あらゆる資格試験も、最後は小論文に面接。言語によるコミュニケーション能力はビジネスを起こす場合でも不可欠である。つまり、これこそ、別に作家にならなくても近代社会で食べて行く飯のタネである。高学歴は文章力で決定される。だから、文章力の基本が備わらないのに上級校の受験勉強をしようとするのはナンセンスである。
文章力の向上にはまず言語センスを磨くことだ。それには古典名文の音読が良い。
毎日文章を書く。人に読ませるオモロいものを書く。どうしても伝えたい体験やその印象を書く。物語を書くのは理想である。
文章を書くと漢字力、特に抽象語が使いこなせる必要性が生じて来る。そのためには漢字の意味と綴りを一発で覚えなければならない。他にも覚えなければならないことをできるだけ一発で覚えようとする習慣。
暗記をする際の究極コアは、鮮明なイメージと、連結連想であり、これにより、強い印象を生み出すことができる。暗記力があれば将来我が国の試験では苦労がない。
次に暗算力。
たとえば、17×19×9を暗算で計算できるだろうか。
17×19=17×20―17=323(V-net流では、18×18−1=324−1とやる)
さて次に323×9であるが、これを暗算でやろうとすると、
323×10−323=3230−323を暗算でやらなければならない。
このままイメージで暗算できない場合は、2930−23を行い、2907を得る。
もちろん、23×9を207と出しておいて、これを覚えていて、300×9=2700と足して2907を得ることもできる。
お気づきであろうか。我々はこのような計算を暗算でする場合、先に計算した数値をメモリーしている必要性が起こるのである。この能力は、筆算ドリルでは絶対につかない。しかし、こうして頭の中にメモリーやイメージを持ちながら算数や数学を行うのは、地理の学習をするのに地図が読めることが前提になるのと同様不可欠な要素であることは誰でも分るだろう。脳内メモリーがなければ論理的な思考はほぼ不可能なのである。
最後の「疑問想起力」とは、「なぜ?」と発する能力のことである。この能力がなければ、将来理科系文科系、自然科学社会科学のどちらでも、それに取り組んで能力を向上させることはできないだろう。闇雲な暗記に走っても、着想力や感受性を劣化させるだけである
何の学習をしようが、常に以上の四つに留意しながら、具体的な題材に向かう習慣を付けることが学校から逃れることのできる夏休みの過ごし方になる。
夏休みは、登校拒否児は出席扱いになるのであろうか。だとするならなかなか面白い。
2009-07-31 教育悲酒
_ 教育悲酒
自分をはるか及ばぬものと戒めれば戒めるほど、逆にうぬぼれぬように注意することはそれとは「矛盾」したことをしていることになってしまう。ここにこういう文章を垂れ流すことが「うぬぼれ」の一端であるのかもしれない。それとも、やはり、どんなことでも終わりが来るのが必然ということなのであろうか。まるで誰もの子供時代がいつしか過ぎて行くように。
大人になればなるほど自分がバカだということがよく分かって来る。いつまでも進歩しないままで来たことが数え切れないほどあるのが分る。そしてそれを忘れるためにルバイヤートー酒を飲む。そしてそれを繰り返して来た自分にまたしても己の進歩のなさを噛み締めるときも来る。人生の本質を知って、自分の過去生の生き方を肯定的に受け止めることができる人は幸福な人だろう。
いや、そんなことはどうでも良い。己の過去のことなんていまさら知ったこっちゃない。現にこうしてバカのままなんだからしょうがないではないか。―辛うじて息してるので充分なのが人間なのよ、そんな囁き声も聴こえて来る。そしてーそんなことは受け入れ難い、と思うことはまたしても新たなる「うぬぼれ」の始まりなのかもしれない。
民主党マニフェストの教育の項を読んだ。全体的に貧者が機会均等権を得る方向性の政策案で一見好ましいが、その必要予算は6兆円だという。それに対して即座にやるべき教育の現場改革については「充実を図る」とか「環境をつくる」などの述部の、具体的実効性に乏しい文章が並んでいる。ちなみにこの項のご予算は6兆円の100分の1の600億円である。この文章を民主党内のどこがつくったのかは想像に難くないが、どういうわけかこの項の見出しだけ、他の見出しの中で唯一抽象的な「全ての人に質の高い教育を提供する」である。バカヤロー!麻生に代ってオレが言ってやるわい。そんなことができるなら苦労はないわい。だいいち、その、「質の高い教育」ってのはいったいどこに見本があるって言うんでさ。でも関係ないんですよね。どうせ予算の100分の1なんですから。教育改革する気がないんですから。カネを配るのが政策なのか。カネを有効に使ってみせるのが政策なのか。良く考えて欲しいものだ。
まっともあれ、民主党政権になっても教育現場の本質的な改革はないことがはっきりしてしまった。現場の学校は混乱をさらに深め、「学級崩壊」から「学校崩壊」を飛び越えて、「教育崩壊」に陥ろうとしているのに。暢気なもんだね、フリースクールはどこも満杯よ。
かといって自民党ではもちろんできない。
だから総選挙の有る無しに関わらず教育の現状は改革されない。
民主党政権では日本教職員組合が支持母体の輿石東氏が文科省大臣に就任するというもっぱらの噂だ。たとえそうではなくとも、民主党の文科政策は日教組寄りだということになる。
日教組には良い先生もたくさんいるが、そうではない人もたくさんいる。日教組は、教師の労働組合であるから、待遇改善=「賃上げ」もしくは「労働の軽減」をその本線的な活動に置くのは当然である。だから、民主党が政権を取ると教師はもっと働かなくなる可能性が高い。尤も日教組の構成員ではないがそれを利用してできるだけ仕事にエネルギーを使わずにスまそうとする人たちの方がもっとヒドいのは当然だが。
つまり、前もって税金を払っているのにこの教育はないという批判に備えて教育負担を限りなく無償化しようと提案していることになる。タダなら文句はないだろうと。
だとすれば、それはアソーと同じ、バラまき的発想に他ならない。
この時点で自民党と同レベルであるとすると、非有権者である子どもたちの、「こんなにもつまらなくて、しかも意味のない学校をすぐに何とかして!」という断末魔の叫び声は全く無視され、やがて民主党政権下での教育行政の本格的な危機=「子どもの暴動」を招くことになるだろう。私はマニフェストに12歳以上に選挙権を与えることを提案したいくらいだ。
私はこれを恐れない政治家の無明さに本当に本当に驚く。
世は「いじめ」や「学級崩壊」の状態を通り越して、「不登校」が当たり前の時代に入っているのである。しかもその中心的理由は、「学校で教えていることは無意味で興味がわかない。教えている人に人間的な魅力を感じられない」なのである。ネットやゲームの中毒を生んでいるのは、まさに学校がつまらないからなのであることに自覚的でない。
バラまきを発想する連中は、自分が金持ちである連中に決まっている。貧乏人はひたすら節約に努める。その結果がインフレと増税ではやり切れない。
ここでも、麻生と鳩山の正体見たり、と言いたい気持ちになるのは私だけだろうか。彼らには教育についての未来ヴィジョンがない。
自民党が国民をバカにして来たことが明らかになったから民主党に入れようとすると、民主党も政権を取るためには国民をバカにしなければならないと思っていることが分ってしまう。「マスメディアと国民のレベル」と細田幹事長すればこれを批判しようが、やはり「支持母体」に怯えて、教育の本質報道をしないで済ませようとする「メディア」も、予想もしないことであったであろうが、新しいものにとって代られる宿命にあることを忘れてはならない。
するべきことは教師に能力給制度を導入することではないのか。それと‥…、あっまた酒のせいでついうぬぼれをこきそうになっちまったんで、それは直接聞いて来た政党にだけ教えることにして、ここは教育改革がなくなったことのどうしようもない悲しさを忘れる酒にしよう。本当に情けなくってやっていられない。