2009-08-24
_ 日本の教育3
最近、「冗談」や「変化球」や「地方特派員の投稿」がなくなったために、「このブログの面白味がなくなった」との声を聞く。だが、筆者は、不肖自らのペンネームが「Joker」と設定されているので、このブログのまともな読者は、その問いかけに意味がないと知ると思うものの仲間である。マジになるなよ!人を楽しませることが目的にこんなことを書いているのであるから!なんちゃって、「日本の教育3」。
どうして2にコメントも拍手も一つもつかないのか。私はこれをとても面白く思う。だから、今回でこの項仕舞いとする所存。あなたも私もバカなのヨン。
なぜ、日本の教育が現在のような状況になってしまったのか。それは、長く平和が続く中で世の中から「緊張感」がなくなってしまったからだと私は断言したい。
明治維新、日清日露戦争、大陸での戦争、第二次大戦戦争中のころはさぞかし緊張感があったろう。また食糧難と戦後復興期の第二次大戦直後もそれなりの緊張感があったろう。また高度成長期にさしかかる前にも何とかしてよりまともな生活をしたいという緊張感があった。
ところが、高度成長のピークを過ぎた頃から、大半の人々の生活は、贅沢さえ望まなければ喰うには困らぬ、また身の危険も感じない豊かな時代になった。子どもの数も減り、一人一人の子どもたちはまず飢えの心配がなくなった。もちろん戦争で死ぬ可能性はない。ここで、ユーラシアを支配した相撲好きのモンゴル民族帝国が百年足らずで滅びたことに「親近感」を覚えるのは私だけであろうか。
大人は子どもに、より良い生活のために社会的な地位や高学歴を得るために勉強するように求めるが、その実その日常生活には危機感がないので、子どもには努力する実感がわかない。こうした危機感がない中で、最も緩んだのが、公務員たる高級官僚、警察官、学校教師などであることは想像に難くない。彼らは会社員よりも緊張感がない。なぜなら適当にやっていても、大きな不祥事を起こさないかぎり、「クビ」になることがないからである。公務員の天下りや汚職、警察官や教師の不祥事は、彼ら全体が緩んだことによる氷山の一角が顕現しているととらえられよう。そして子どもたちは内外でそれを当たり前のように見ている。大人は働いているが、家へ帰ればビールでテレビ。休みの日はマックにディズニーランド。情報と娯楽にしか魅力を感じていない。
ここに緊張感のある競争原理を持ち込むには、受験戦争による新階級闘争しかない。世の中に緊張感がないのに、子どもたちは緊張感を強制されて勉強させられる。ついて来れないものが多く出るのも当然である。学校はと言えば、緩んだ教師、古びたシステム、ほとんど通う意味がない状態に近いところもある。そこでは「精神的向上」が捨象された。
しかし、現状対処するだけで未来ヴィジョンを持たない政府は何と当然のごとくこれを容認した。
子どもの教育には未来ヴィジョンの提案が必要なのに、そんなことはするのも面倒くさい実行不能のものだった。結果的に、労働能力に極めて劣る若者が世代を追って多くなって行った。また、上で学歴を得るものたちも、それがより経済的裕福を追求する以外に動機がないので、勉強ができるだけで人間的魅力には劣っていると言わざるを得ない人間であることを何とも思わないものたちになった。
つまり、尊敬できる、あるいは興味深い生き方をする「見本になる大人」がいなくなってしまった。これで子どもたちに勉強に励めと言うのが無理なことは誰でも察知することだろう。進学塾で勉強するものも、目の前の疲れ果てた進学塾の講師と同じ道を歩もうとは露ほどにも思わないことだろう。
『韓非子』によれば、世の中が安定している時は、被支配者は支配者が何をやっているのか分らない状態の時だという。自民党政治は終わりそうだが、これまで世はまさしくその通りに移行した。
しかし、アジアの歴史を鑑みれば、混乱状態の統治においては『韓非子』が有効であるが、安定して平和になった時には『儒教』が有効であったのが常である。だが、『儒教』は、兄弟数が多くて長兄への信頼と尊敬が前提の思想であるから、少子化社会では全く役に立たなくなった。だからこれ以外の思想を生み出さなければ前向きに生きる動機を子どもたちに与えることはできない。
新しい思想を育むのは、リベラルアーツであるが、それは「占領政策」によって捨象された。結果的に、今、「エリート」と言われる人たちは、「ヴィジョン」を持たない集団になりつつある。
紀元前5世紀、老ソクラテスはパクスアテナイの時代に、自らの思想を述べたがゆえに処刑された。
彼は言った。
「財産や社会的地位を第一義にして、自己の魂の永遠向上の可能性を追求しないものは人間とは言えない。」
第二次大戦後、幸福とは何かを深く考察したラッセルは、「幸福とは趣味が多いことである」と結論した。
趣味とは、自己の好奇心に基づく、自己向上の試みの機会の場である。
やや極論ではあるが、本能的な子どもたちから見れば、自己の魂の向上を目指さない大人は尊敬の対象ではない。
自己の魂の向上には、限られた手段しかない。
第一に、古えからの「型」と倫理観を学ぶ「道」である。
第二に、自己の純粋な好奇心に基づく「学」である。
第三に、自己の心情を伝達する「芸」であり、
同様に第四は、自己の精神を伝える「術」である。
そして、第五が、コンディションに関わらず確実に行うことができる「技」であろう。
つまり、伝統の核心を学び、自然科学的な精神を培い、芸術に打ち込み、何らかの技術を磨こうとすることが人間本来の姿であることになる。
私は26歳の時にこの「哲学」を知ったが、これまでこれを確実に知悉し自覚的に実行する人間に遭ったことは一度もない。もちろん不肖この私も遥か及ばないと自覚している。
これら五つは、自分を高めることの快感を教えてくれる。
「ヴィジョン」がなくなった時、真に子どもたちに与えるべきはこのことではないだろうか。
だが、危機感がない平時、これに反応するものはよっぽどの変わり者である。
しかし、私は、このことを伝えることをこそ自分の教育の核心にして来たのである。
実に「無駄」な営為であったかもしれないが、これからもこれをやめるつもりは毛頭ない。
教育とは、道学芸術技を通じて自己の高まりを教えることである。
もしそれが分れば、「学歴」なぞ、木っ端微塵も価値がない。