2009-08-17
_ 日本の教育
民主党政権でも抜本的な教育改革はないことが明らかになったので、これからは日本の教育そのものを批判することが正しいことになるだろう。
教育とは、「支配者」が自分の都合の良くなるように行うものである。このことは政策的に免れ得ない。そのことを念頭において書いていく。
優れた子供たちに古典的教養や科学的知識を与えて議論させる。私は過去現在未来に渡りこれに勝る教育はないと思う。しかしこのためには、レベルの高い読み書きの能力が前提になる。
第二次大戦後、戦前戦後のエリートを輩出した旧制高校は廃止され、6•3•3制が採用された。この結果、現在では6年制の私立学校出身者がエリートやリーダーの多くを輩出するようになっているのは読者も良くご存知のことだと思う。
優れている教育機関であればあるほど、先の教養に基づき議論させる教育を多く要素に含むべきであるのは必然である。議論(「ディベート」と言っても良い)の教育は大学に入ってからでは遅い。高校以前に学び始めるべきことが必要だと思う。しかし、そんな教育を与えることに力を入れている学校なんぞ、これまで不思議なことだがほとんど耳にしたことがない。優秀な学校でも生徒たち同士が自発的にやっているのがせいぜい関の山だろう。
現在の日本の国語教育では、多くのものが岩波文庫を読めるようになったり自分の考えを文章で述べることができるようなったりしないのは明らかである。それは小学中学年で音読と作文の指導を軽視するからであり、そして大学入試の準備のために読書の時間を奪われるからである。
日本国憲法は言論の自由(表現の自由)を保障した。しかし、その「言論の自由」はそれを行使することができるものだけに「保障」されるのであって、国家が国民にその能力を与える義務があるとはどこにも書かれてはいない。つまり、言論の自由を保障する言論の能力の教育は国家には保障されない。だから自ら、あるいは何らかの教育によってこの能力を身につけたものだけが言論において自由を享受できることになる。
今裁判員制度が取り入れ始められているが、採用される人は最低限文章を読んで自分の意見を述べることのできる能力を要求されるだろう。もし一方で、多くの人が学校で日本語の読み書きの力をしっかり与えられ、その上で自分の考えを言葉で表現することができるようになる教育が行われないのであれば、この制度は平等権における大きな「矛盾」を明らかにしてしまうことになる。
他国が一国の存在を認めたまま「支配」するとは、一国の支配者層を抑え続けることになろう。そして高度の思考が可能な人間をできるだけ社会の一部に限定することであろう。
自国に将来有望な若者を留学させる。そして多くの学生に自国の言語の学習に膨大な時間を仕向ける。それもその言語で自由闊達に自己表現できるようにする教育ではない。テストのための暗記に時間を取らされる学習である。というよりも、他の教科の勉強時間を奪う学習である。特にリベラルアーツ型の読書がそれであろう。つまり、語学ができても教養がない。
私立に通うには金がかかり、しかもそこではリベラルアーツ的なダイナミックな教育はまず期待できない。しかも最早ただ東大に入るなんてほとんど実質的な意味を持たない。そこで、海外の学校、たとえばアメリカのボーディングスクールに通わせようとすれば、年間400万円以上の費用が必要である。この金額は、かなり恵まれた人しか出せない金額だろう。
日本国内からリベラルアーツ教育をできないようにすること。深い教養と思考力を持ち世情に欺かれない議論に強い人材を養成することができないようにすること。私が外部からやって来た日本の「支配者」であったなら、当然先ずそのことから手を付けると思う。
選択肢穴埋め暗記問題を増やすこと、できるだけ文章記述試験を行わないこと、あるいはその方向性を容認すること。戦後の私立大学の入学試験はどこの学校でもこの形を選んだ。上智はその典型である。試験が悪いというよりその準備のための勉強が無駄なのである。慶應も最初のうちはそうだった。
こうして深い思考力が奪われた学生たちが名門大学にゴロゴロいるようになった。東大や早慶でも人材の不足に嘆く。そして街は、コンビニとファーストフード店だらけになった。それに一掃されたのは国語力に欠けた弱小商人たちであった。
「支配」はたえずジワジワ進んでいるところがその特徴であり、国語力に劣るものはそのことに今さら対処することができないぐらいの国語力しか与えられない。月日が経ってから気づくことになる。
民主党が意味のあることに教育予算を使おうとしないのは、自民同様、アメリカ追従であるからではないのか。しかしこの数十年、日本よりアメリカこそが大きく代っているのはオバマの当選からも明らかではないのか(ちなみにオバマはリベラルアーツカレッジ出身)。
平和憲法と日米安全保障条約は一体である。そのことは誰でも知っている。「日本に再軍備を許さない代りに、これを攻撃することはアメリカが許さない」―世界中が認める第二次大戦勝利によるアメリカの「権益」である。すでにアメリカは、中国とロシアを資本主義的価値観の国家にしたことで、これに勝っているといえる。彼らの共通点は、民族的分裂こそ最も恐れる事態であるという、「多民族国家」であるということである。
中国は、外交的には「屈服」させることよりも「関係を深める」ことに意味を見出す国家である。だからそうしようとはしない国家と敵対する。しかし内部では宗教観の違いによりチベット•ウイグルの悲劇を引き起こす。対して、アメリカは、原爆投下やベトナムやイラク戦争のやり方を見ても「屈服」させることを求める国家である。「無条件降伏」なぞ、さもアメリカ人が思いつきそうな言葉である。しかし、人口4倍の中国がアメリカに「屈服」するわけがない。やがて世界地図は、中国、インド、そして場合によってはイスラム圏を含むユーラシア大経済圏と色塗られる可能性が強い。
資本主義的強弱は、市場と労働の大小によって決定される。資本主義では働くものの集団が金を集める。そんなことは当然である。少なくとも、より長時間働くものはより効率的に働くものよりも確実に収入を重ねる。「リストラ」は正にここに観点がある。
でも収入を得ても、今度は何かいるのかいらないのか分らないものを買わされるだけである。もちろん所得税と消費税も払わなければならない。せめて子供にだけは良い教育をと願っても、そんなものはほとんどないし、あったとしてもとてもお金がかかる。国民が働いたところから税を取って、国民が最も望むことであるはずの良き次世代教育を与える政策は全く行わない。国民の全体的知的レベルが下がることを望むかのような教育が国家の未来を保障しようとしているとは到底信じられないことである。経済を良くする前に先ず教育を良くしてみせろ。そうしないとますます多くの人間が真面目に働かなくなるよ。