2006-11-01 山火事状態
_ 山火事状態
予想通り、履修漏れ問題は「山火事状態」になった。
今国会では、教育基本法改正問題、いじめ問題の議論に加えて、この履修漏れ問題に時間を取られ、またしても子どもたちの苦しみを取り除く教育施策は提示されないことになるようだ。つまり、政治家たちは教育の現状が分っていないのだ。それはなぜか。
1 小中学生の子どもがいない世代である
2 子どもを私立の学校へ通わせている
3 新聞が書かないから分らない
以上の理由が考えられる。私のところへ取材しに来た新聞記者は言明した。「ただでさえ読者が減っていて困っているから、できるだけ学校授業で新聞を使ってもらって新世代の読者を獲得しようとしているのに、学校に不利なことを書くことは絶対にできない」。つまり、ジャーナリズムのアレテーより、企業利益が優先されるというのである。
それにしても、わざわざこの時期にこの問題をリークしたのは誰だろう?
もしこれが審議を与党の思い通りにはさせないための野党側のリークだとすると、野党もそれの背後で動いた教職員組合も地獄への道をまっしぐらに走ることになる。またもしこの問題を与党側が提示しているのだとすると、本当は本格的にはやりたくない与党と文科省の思いのままということになる。
諸悪の根源、文科省族のドン森元首相は、愛知県岡崎市での講演で、「何かあるとすぐに文科省が悪いと批判するが、文科省は指導と助言しかできない。教育権はどうあるべきなのか、明確に示さなければいけない」と発言。信じられないことである。文科省の権限が弱いからこのようなことになっているとの謂いなのである。ご存知の通り、この人物は、絶対に受かりっこない早稲田に、ラグビー部の監督に頼み込んで入学し、ラグビーを1ヶ月で止めて、そのまま大学に居座った人物である。どうしてこのような人物が当選を重ねて首相に選ばれたのか全くの謎である。この人物は、1911年の辛亥革命が、清朝の末期的政権のレトリッククソ暗記の科挙試験に憤慨した受験生たちの暴動に端を発していることを知らないのだろう。
私の目には、教育基本法改正も、日の丸君が代問題も、いじめ問題も、今回の必修科目履修漏れ問題も、さらには教育再生会議も、みな本質的な教育改革をしないための「方策」にしか見えない。それをマスコミが協力して騒ぐ。多くの国民にはことの本質が見えなくなる。こういう構図である。ダマされていることに自覚的でない人たちは幸いである。彼らは子を持つ親として当然の葛藤に苦しむことがない。
世では小学生、中学生、学校教師、校長の自殺が相次ぐ。だが、相変わらず文科省役人や教育委員の自殺は聞いたことがない。私は、子どもの自殺の半分以上は、親が子どもに愛情を伝え切れていないからだと思う。私もかつて高校時代に自殺しようとしたことがあった。しかし、最後に母が泣く顔が浮かんで来るとできなかった。また、過労による自殺には同情を禁じ得ないが、教職にありながら自殺することはあるまじき行為である。どうして辞めてからひっそりと命を絶たないのか。さもなければ、教育委員会や文科省に殴り込んで報復してみせるべきではないか。その方が命をかける意味がある。教職にあるものが子どもたちの前で自殺してみせること、教育上悪影響があること甚だしい。教師が子どもに自殺を教えてどうするのか。そもそも教職に就く資格がなかったと言わざるを得ない。いずれにせよ、自殺者を出した家族は、愛情が足りなかったことを反省するべきで、世間に憤りを向けるだけでは何にもならない。死は、意識がなくなることで、人はそれを「体験」できないのである。したがって、自殺のほとんどはロマンティックな幻想であると言える(例外者にはゴメンナサイ)。岐阜のバスケットボール部自殺事件の中2少女の死は、明らかにマスコミ報道の賜物である。死によって自己アピールできると思ってしまうのである。先にも書いたように、本人は自分の死後を想像するだけで体験できないのに。親はどうして部活を辞めさせなかったのか、どうして自殺しないように抱きとめてやらなかったのか。親からの反省の言葉は届かない。もしクラブ内での技術不足を揶揄されての自殺だというならば、クラブ活動そのもの自体を廃止しなければならない。スポーツマンガも禁止である。死んだらあかんという報道がもっと積極的になされるべきであろうが、発行部数が第一義の新聞はそんなことには目もくれない。ジャーナリストなんて辞めてしまえと言いたくなる。でなければ、教育の現状が、新しい子どもたちの世代対処にシステム的に追いついていないことをはっきりと書くべきである。全ては文科省の無能の賜物と敢えて私は言いたい。自殺するべきは森元首相である。
ともあれ、文科省が自己の権益保持を優先させて、改革をできるだけ先延ばししようとすればするほど突然の崩壊に近づく可能性が高いことを自覚するべきである。知識修得だけに縛られる高校生たちの怒りを甘く見てはならない。無意味な教育で子どもたちを苦しめ、我が国の将来を危うくすることに平気な大人たちは、今に手痛いしっぺ返しを喰うことになるだろう。世界のどこに、愛国心を唱えながら、国の将来をなおざりにする教育をし続ける国家があろうか。子どもたちは大人たちのしていることを見つめている。教育とは大人が範を示すことではないのか。教育について、日本と北朝鮮は最も似ている。
どうもまた本気で書きたくなって来てしまった。