ブイネット教育相談事務所


2006-11-07 ムジナの知恵1ー教育改革はできるか?

_ ムジナの知恵1ー教育改革はできるか?

11月5日満月過越す。

この文章は、ホーム・ページ内の「ブイネットブログ」と、「講師紹介」→松永暢史→松永ブログ→「ライブドアブログ」の二つのサイトに投稿されている。両者にコメンターがおり、この人たちは私が書くことの方向性を「規定・修正」しているといえる。

私は最近の教育報道を目にして、いよいよ自分が「冗談」で書いて来たことが「本当」になるのを見ていささか驚きを禁じ得ない。いくら何でも我々が住むこの世の中が、我々が思うよりはるかに「幼稚」な様相を示していることに唖然としないでいることは受け入れがたいことではないか。

論理性も、倫理性も、創性も、将来性も、知性もない。あるのは権益保存の政治的戦略のみである。

「政治」はもううんざりだ。「茶番」と数値合わせ。いかなる場合にも経済的成長が文化的発展に優先されるという、教育においては本来あり得ないはずのことを願うからおかしくなるのではないか。

論理性は、日教組などの共産党系マルクス主義学習修了者勢力にかなわない。だから、「美しい国」と感覚的に訴える。つまり、政治を「モード」の一種と認識するのである。

ことを軽んずる愚か者たちにこれ以上付き合っていても始まらない。

「改革」が「民営化」のベクトルであることは小泉政権が確認させた。談合が破壊されて旧田中派政治は、時代遅れの産物と化した。にもかかわらず、教育の場では、相変わらず、「統合」を狙う。

「民営化」は、「国営」が機能しないからこそ起こっている。機能しないとは無駄が多いことを意味している。ゆえに、この「無駄」について考察すると、本質が浮かび上がることになる。ここに我々は、あくまで社会集団における事象を「経済効率」の観点で見るという、「共通の場」を所有することを再確認したい。

本稿は、いかなる専門的学習も貫徹したことがない、現場「職人」的思考結果であって、筆者の強みは、敢えて言うと、「いかなる社会的組織にも属さない」であるが、受験教育、受験産業教育、学校教育、家庭教育などの、教育に関するほぼ一切の生情報を仕事柄家族柄最も集約的に受ける立場にあることは前もって強調させてもらいたい。私はこれを私以上に知る人がいないから書くつもりである。

しかし一方、私は自己の能力のどうしようもない不完全さを強く認識する者である。願わくば読者諸兄の積極的な反論や突っ込みを受けつつ、この「連載」を試みてみたい。テーマはもちろん「教育改革はどうすればできるのか」である。

_ まず、今回の高等学校必修科目履修漏れ問題は、政府の「教師査定制度」へのテポドンであると見なして間違いない。阿部政権は、最初に、文科省の施策の誤りの認識をする前に、小泉流プロパガンダ戦術に目を奪われ過ぎた。「慶應の真似をする成蹊の花咲か爺的失敗」というのは都会育ちの教育コンサルタントの悪口である。そもそも、教育族の森派の中で、「教育改革」を唱えれば、大きな矛盾になることは想像に難くない。もしこれを実行するのであれば、身内とその長に匕首を突きつけることになるのである。そんなことができるわけがない。絶対にできない。だから、阿部政権では、前提として教育改革はないのである。したがって、「やろうとしたが抵抗勢力が強くてできなかった」という被害者的演出が必要である。被害者的演出がファシズムの重要な手口であることは、佐藤優の解説を読まないでも知れたことである。社会的エリート外に発生するファシズムは、常にその被害者意識を根底に持つ。そのことが全体性に結びつくことを説得できた時に成立する。これは左翼的革命においても同様である。自らが搾取の対象であることを認識できなければ社会主義は成り立たない。彼らは何を守ろうというのであろうか。それは、既得並びに今後の社会的地位と経済的恩恵である。そして、これは、全ての人に共通する社会目的であり、「闘争」である。つまり、資本主義も社会主義もファシズムも、みな「闘争」をその原動力=エネルギーとして持っているのである。ここでは、ソクラテス的「魂の向上」が捨象される。つまり、文化より経済が優先される。教育は労働者を作り出すための元と言う視点が結実する。

冗談じゃあない。私に言わせれば教育とは、世の中に役に立つしかも面白い人間を作り出すことである。「労働者」の育成だけに特化された教育を税金で行うのはふざけている。

履修漏れ問題で客観化されたのは、政府公認の歴史教育の軽視であろう。ここでも日の丸君が代愛国心美しい日本の追求は矛盾してしまう。つまり、アタマが悪いのである。論理性がないのである。経済政策で高得票を得て、それを文化政策のエネルギーに転換しようとするからたちまち行き詰まる。「教育」を口にしたとたん、それまでバカにしてダマして来た人たちをどう靖国対処するのかという問題に行き当たるのは知れたことだ。こういうことが事前に分らないのは将棋ゲーム的体験の不足であろう。

困るのは、この政権的無能が「反対勢力」の利権と期せずして「一致」してしまうことである。ゆえに、論理的帰結として、政権が権益を手放さなければ、彼らの反対勢力も権益を手放さないという絶対定理が成り立つ。経済政党自民党と福祉政党公明党。社会地位的権益立場と労働賃金追求立場。全て外せない観点は、税金の使途である。

上が無駄しないで下が節約することがあろうか。全てはこの儒教的倫理観に基づく。上のものがしっかりするから下のものがついて来る。儒教主義の本質はこれである。決して上がバカでも下が従うようにすることではない。ここいらに一つの結論がある。以下本格的に書き進める。読者の率直な反応を期待する。