2007-10-01 東大大学院授業料無料化
_ 東大大学院授業料無料化
東大の大学院が無料化されるそうだ。苦学する学生にとっては素晴らしいことだがこれは実は倫理的にやってはいけないことなのである。
国立大学法人化によって、各大学は自分の力で営業努力する方向性を模索しなければならなくなった。しかし、地方と中央の「格差」は大きい。いったいどこの地方国立大学に授業料の無料化を苦しまずに実行できる学校があろうか。6000人分として、年間30億円以上の財源が確保されていることになる。どこに?どこから?
東大は単なる国立大学ではない。この学校は官僚を輩出するための大学であった。この大学の出身者たちが自分の立場を高家に地方の出来ないことを平気でやることは、断固として反対すべきことである。
ネームロンダリングが悪いと、狭量なことを言っているのではない。世の確実なる地方分権の流れに背いて、地方をバカにするような方針は、傲慢な政府と瓜二つの姿勢で、とてもではないが知者の集団が容認するべきではないことだと主張したいのだ。もし授業料無料化をやるなら、地方国立大学をこそ最優先しなければなるまい。
問題なのは、「無能」なくせに、国費を消費し大学院に居座り続けて平気な人間たちの「徳性」である。働けばよいではないか。資金が欲しければ自分の人間的な魅力で獲得してくればよいではないか。これらは役職利用の天下りを「自認」する元官僚たちと同様、間違った次元操作である。自立的な能力がないのに国家財産を食いつぶして平気であるとは生物学的に到底受け入れられるものではない。100万人以上もの生活保護者の存在をどう思っているのだ。
私のような「万年バイト生活者」からすれば、「甘ったれるのもいいかげんにしろ!」と言いたい。仕事とは、「役職」ではなく、「能力」のことではないか。
東大理系大学院が、早大理系大学院よりも入りやすいことは最早既成の事実だ。だから私学より安い「無料化」か。この結果どんなことが起こるか?それは簡単なことである。それは安売り免罪符を連発したために地盤沈下して、体制内に多くの「ルター派」を呼び起こすのである。しかし、その時はもう遅い。イスラム的権威崩壊が東大の未来の姿であることは疑うことのできぬ事実であろう。
部分の考察しかできず、体系的総体と自己との関係性の考察を捨象する者に、「知者」を名乗ることは出来ない相談だろう。
これからは、「東大大学院」と聞いて知性を疑うことが正しい時代が来るようだ。