2007-09-01 「支配」について補足
_ 親が子に学習を教える場合、そのほとんどが「超支配的」になるのはなぜであろうか?自分の子どもに教えるときは、「仕込む」「躾ける」と言ったペット対処的無意識が強くなる。親子であれば同居しているのであるから行動の規範を示すことは当然のことであるが、アタマの中のことについてはどうであろうか?いったい何を基準に子どものアタマの中で起こる諸処の現象のどれに特定して「学習」を行わさせるのであるか。いずれにせよ、何かアタマの中のことをできるようにさせるとは、最低限まず自分がやってみせてその通りにさせることになるだろう。そしてそれを絶対に拒ませない意識が働く時、教育は「支配」=「調教」になるのである。
したがって、一般に、教育の本質は、ある意味で「支配」を前提とする。
しかし、国家がその認識で教育をし続けようとすると、やがてその「矛盾」が顕在化し始める。
国家は、「反抗期」を「反抗期」として認識できない。「守旧的」であることに自覚的であることはできない。
「国家」には、「これまでの国家」と「これからの国家」が内包される。「これからの国家」より、「これまでの国家」の認識が優位に立つ時、「国家」は停滞する。
権利(利権)団体の「代表者」としての政治家は、その「存続」を願い続けることは現実にはできない。いずれ石油はなくなり、資本主義的経済競争の全世界的追求によって地球自然環境危機が逼迫する。しかし、もし「科学的」力によって、個人の食料/エネルギー生産が増加すれば、究極的に一般的な個人が必要とするものは、自然環境に負担をかけない活動、つまり、農業と芸術と「人間交際」になる。さらにこの三者を抽象すると、「個人が自らの手で産み出し続けるのが可能なこと」という、ドラスティックな「マニファクチュア的転回」になる。現代の教育がとるべきはまさしくこの方向性ではあるまいか。
個人が自分で補い切れないエネルギーの使用は、環境問題的に抑制される方向性にある。だから、個人がエネルギーを創造しなければ地球環境は終局に近づく。
教育は、「現世利益」を望むものではなく、「未来貢献」を期待すべきものである。犯罪者を生まないような教育は未来社会的に利益的である。刑務所を増やすより犯罪者を減らそうとする方が合理的である。
多くの犯罪の共通点は、政治的経済的な要因をのぞけば、判断力や自己制御力の欠如と社会的コンプレックスであろう。自己制御には、「畏怖」よりも「自負」が有効である場合が多い。一般的な大衆犯罪の多くは、怖れより自信のなさの集積の結果ではあるまいか。ニートの問題もこれに近いものがあろう。
そして、支配的国家教育の本質的目的は、半ば「無意識」的に、できるだけ多くのものに自信を喪失させることによって、「迷妄」に導くことになる。たとえ支配者がそれを意識的に望んでいなくとも、体制を維持することに自らの生活がかかるものは、必ず無意識的にこれを行わざるを得ない。しかしその場合、最早「民主主義」を名乗ることはできない。教育における機会均等が得られない時、人々は税を積極的に納める気持ちを失うことだろう。
我々は生物の一部であるから、当然自分のことだけを考える。しかし、それは、「未来的」なことではない。生態系には、「バランス」という掟がある。これによって全体の生存が保証されているのである。
以上は拙き一庶民の考察に過ぎないが、少なくとも、こういった「哲学」的考察を表明することが全くないものたちが、どうして教育行政の上部に君臨することができようか。どう考えてみても、彼らは教育行政を、「経済行為」の一部と見なしているとしか思われないのである。そしてそのことは教育を未来収入への「投資」と人々がとらえる姿と見事に一致してる。
以上当然「冗談」で書いたことにするが、最近ライブドアブログの下に勝手に広告がつくが、当方は関知しないことなので勘違いのないようにお願いする。
2007-09-04 「反抗期」
_ 「反抗期」
何度も書いていることであるが、「反抗期」とは、それまで親の「強制」に、暗黙の同意のもとに従って来た子どもが、いつしかそれに不満を抱くことが「着火点」になり、親との関係を再構築しようとする時期である。そして、多く「反抗期」は、一般に、子どもが親を社会的に客観化した時に収束へ向かい始める。
価値観は、時代とともに変わる。現代社会ではその変化のスピードがなおのこと速い。
だから、子どもの価値観が親の価値観と一致することはほとんどあり得ないことになる。そもそもものの受け取り方が違う。
しかし、本質的にオモロいこと、ワクワクすること、キモチ良いことは、価値観が変わってもあまり変わらないものだ。学問/勉強は明らかにオモロいことに入る。アタマが良くなることが快感でないはずがない。だからこそ古代から人類が愛してやまなかったのである。
ゆえに親は、勉強させることよりも勉強をオモロがらせることに傾注するべきである。そしてその「奥義」は、親が自分で何かに夢中に取り組んでオモロがる姿を見せること、というよりも、子どものいる家の中に、何かを学んでいる「波動」を充満させることであろう。もちろん、皮肉なことに、「反抗期」で、子どもがかえって逆に不愉快に感じる可能性もなきにしではあるが。
いまさら比較しても始まらないかもしれないが、平安貴族男子は、12〜14歳で元服し、何らかの形で官職を得、同時に狩猟等の自由行動が認められた。もちろん女性と交渉しようとするも可である。平均寿命が短い時代のことで、男子への労働力期待が大きかった時代ではあるが、これに比べると今の子どもは大人になるのがあまりに遅い。子どもの自立を願う時、親は究極、子への「干渉」を止めなければならない。できることは、「波動」を出すことだけなのである。実は我が子は「他人」なのである。
このブログに毎度コメントする「クマさん八つぁんたち」の共通点は、子どもに何かを学ばせながら、同時に親の方が何かを学び続けている人たちであることだろう。これは少なくとも本人にとっては「幸福」につながることである。幸福とはやってみせようとすることで、人に期待するべきことではない。なぜなら、「幸福」の基準は、個人において異なるからである。しかし、こちらには大人として確信できる追体験がある。
そうである。好奇心と追体験―こんなオモロいことを、ヒマがあるくせにせっせとやらない人たち、アタマが良くなることよりボケッと受動的に情報吸収することで満足できる人たちは、我々とは別の種族に属する人たちであろう。たとえそれが実の親子でも。我々は勝手に成長し続ける。それが子どもにできる最良のアドバイスだと私は思う。
2007-09-07 雨当たり
_ 雨当たり
これと言って特定の理由はない。ただ諸々のことへの疲れが集積し、神経が衰弱気味なのである。
_ マキの巨木。抱きつくだけで、まるで樹上に上がったかのような気分にさせる。
最もあるべきところに最もあるべきように残った、とある神社境内の樹齢千二百年の杉の超大木。上からの「雨道」と、下からのまるで時が経つより早いその立ちっぷり。その成長ぶりには「音」がある。見上げる青天には、梢高く、まるで雲のように枝が、生い広がっている。そして‥…。
大陸東岸温帯モンスーン気候。
目が覚めると全裸で気絶していた。仰向けである。
気がついたのは、雨が頬と胸を打ったからである。
動きたくなかった。体の力が完全に抜けていた。
周囲に人の気配はない。
雨は冷たくなかった。むしろ台風が運んで生暖かかった。
雨に全身を打たれることは、言葉にはできないが、「快感」であった。
天は願わずとも、思いのままに雨を降らしている。
ますます強くなる雨の中、いよいよそのまま動かないままでいると、やがて自分が死体になっているような気がしてくる。幽体離脱映像を上空から送ることも可能であろう。
頭の中でいろいろなものが像をなそうとしてはそうはならないで消えていく。そんな感じだ。
鼻からの呼吸数をヒクヒクと増やして、さらにより深い瞑想状態に念じ入る。
その顔を、全身を、情け容赦なく、大粒の雨が叩きつける。
空気中で溺れそうになりそうな大雨の中、眼前の、水しぶきを上げる露天風呂の水面は、まるで沸騰しているみたいに高速で波立っていた。
2007-09-13 安倍首相辞任
_ 安倍首相辞任
安倍首相が辞意を表明した。かねてより私は、安倍氏が参院選に敗北することを予言して来た。その理由は、「教育再生会議」という名前の機関を立ち上げ、あたかも教育改革を実現するつもりであろうように見せることを安直に企画したからだった。教育派閥森派内の安倍氏は政治家として、教育改革が出来ないことを知悉していたはずである。しかし、それを小泉流の大衆操作で「ポイント」できると錯覚してしまった。これはあまりの非常識無能者としか言いようがなかった。あくまで政治は国民の機嫌を取ることだというチョー保守的な時代錯誤の判断により、もし小泉が出なければ自民党政権がなくなっていたはずの政局をぶち直してしまった。自民党が官僚との利権擦り合わせの体質を捨てることが出来ないことは、多くの有権者にバレていたことであった。金融族の小泉がやれたのは郵政民有化だけ。後はアメリカの軍事行動のご追従を掲げ、国民の退屈をやや紛らわしただけだった。
安倍氏は明らかに不利だった。韓国世論が親北嫌米に傾く中、得意とする愛国的戦術も効かない。外交は完全にアメリカ主導である。安倍が辞めた最大の理由は北朝鮮政策で完全にアメリカの言う通りにせざるを得なかったことだろう。そして日本の農林は恐るべきところまで来ていることが暗示された。自殺バンソコ即辞任である。安倍はあくまで「拉致」にこだわれば国民の人気を得られると踏んでいたのであるが、それは日本海側の「後進地域」の国民感情だったであろう。細かいことにこだわって、「核抑止」という大局を見ていなかった。「イラク」が石油利権の戦争であることをなおも知らないフリをしてそれが通ると判断し続けた。志は高くてもバカではどうしようもない見本であった。故郷で吉田松陰も涙ぐんでいることだろう。
「党首会談に応じてくれなかったから」という発言は、教育コンサルタント的視点からは、「だれもボクちゃんの努力を認めてくれないから」という、自己保全優先の甘い体質がありありと見える。母親の教育が悪かったとしか言いようがない。「潔さ」を演出しようとして、実は「早漏」坊ちゃん気質が露呈するのでは、性的ニヒリストの小泉にも劣る。
するべきことは、文科省と厚労省の解体だった。最早解体しなければ国家未来が危うい国家機関を温存するのは政治家として愚鈍過ぎる。そもそも国家未来を真剣に考えている人間とは到底思えない。そして我々は、民主党の母体組織の一部に公務員労働組合があることを絶対に忘れてはならない。
私は、麻生も小沢もダメだと思う。我々は、ともかく我々なりのルールを「敷設」するべきである。それは、「国家代表に世襲議員を認めない」という民主主義的原理である。民主主義で、後継者が二世では、北朝鮮金日成金正日のしていることと同じではないか。安倍は実はそれで行き詰まったのである。だから麻生が継げば、日本はゴルゴ13になる。平和では、知恵や勇気よりも「名誉」が重んじられるのである。それにしてもいつも思うが、「正日」とは、正に、「日本を正す」という意味ではないか。私はアジアの知恵として、隣国のしていることを、もっと「参考」にすべきだと思う。
知恵のない人に支配されると国家は行き詰まる。それによって罪のない人が苦しめられる。ひどい場合は「原爆」が落とされる。
私は、麻生がなったとたん、吉田茂の「怨霊」によって、安倍共々「抹殺」される宿命にあると思う。鳩山にはなかなか見所があるが、やはり3代目、名家ゆえに「フィクサー」はできない金丸団子
2007-09-15 日々机上
_ 日々机上
後継が福田らしいと知れると、「ではなぜあのときは福田にしなかったんだろう」という思いが走るから、自民党の人選びは相変わらず「打算的」なのである。この「相変わらず打算的」なところを抜け出せないところがダサい。官房長官が舛添ならば結構面白いがそんなことはあり得ないだろう。
今夏から、私は野菜を作り始めた。猫の額の3分の1以下のところに、ナス、トマト、シソ、キュウリ、アシタバ、モロヘイヤ、シシトウを植えた。
農業は難しい。まず草取りが大変である。草はあっという間に生える。次が虫取りである。都会の真ん中での畑にどうしてこうも沢山の虫が来るのであろうか。ハンミョウ、夜盗虫、アブラムシ、イモムシ‥…。仕事が忙しくて、ちょっと目を離すと、すぐ大量発生する。もちろん手で取るのであるが、目が離せない。そして、蚊である。どうかすると、すぐにあちこち刺されてしまう。でも、オンブバッタやまるまると太ったコオロギに逢えたのは良かったかも。
肥料も大変だ。油カス、腐葉土、石灰、ガバナ(コウモリの糞)。播いてやると、2、3日して野菜が喜んでいるのが分る。水も良くやった。これも撒くと、野菜が歓んでいるのが分って愉しい。
でもなかなか上手くいかない。キュウリは極めて順調で八岐大蛇のようになったが、いかんせん、暑さのためなのか、できかけてはしぼんでしまう。そしてある日大量のアブラムシ同時多発テロで沈没した。
せせこましく植えたためか、トマトの隣のナスは元気がない。トマトは、恐ろしい勢いで生い茂っている。暑いのが好きらしい。キュウリの陰になったシシトウもほとんどならなかった。難しいはずのアシタバはどういうわけか生き残っている。モロヘイヤも元気である。
鉢植えで試みたルッコラは結構収穫したが、イタリアンパセリはヒョロヒョロである。ローズマリーはまるでサボテンのように姿が変わらない。
秋はホウレンソウとカブをやろうと思う。間引きしながら食べようっていう算段だ。
これが猛暑下、私の唯一の「趣味」だった。
ヒマを見て随時、プランターを増やしたい。
今度、レタスとブロッコリーも買って来よう。
水槽の中の魚の動静がここのところヘンである。
何かにおびえているように見える。
何か悪いことがなければ良いが。
9月に入って、このところ原稿三昧の日々である。
良い景色とそれを楽しむ余裕が欲しい。
2007-09-20 母の庭
_ 母の庭
火曜日また一つ脱稿した。
「お手伝い」の次は、「勉強させる」である。
脱稿したということは次の原稿に取りかかるということである。
しかし、次も、その次も、そのまた次も待っているのである。
その間もクライアントが来続ける。
9月から、1日3コマまでとしたが、「どうしても」と、土日休日は4件になってしまう。
17日も4件あったので、「休日か。でもどうして休日なのか。」と思ったが、帰宅=執筆なので、そのまま走りっぱなしで終わりまで済ませると、明くる日の夕方になってしまった。
ここでふと気がついた。「いったい昨日はなんで休日だったのだろう?」
手帳を開くと小さく赤い活字で、「敬老の日」と書いてある。
「敬老の日」だけは文字を大きくしないと目が悪い老人の敬老にはならない。
急遽実家に顔を出す。用事もあった。
_ 「昨日は敬老の日だったんだって、忘れていたよ」
「そう。私も今日まで知らなかったよ。それで誰も来なかったんだね」
目の前の庭はものすごいことになっていた。そもそもこの庭は「過栄養」で、植物が成長し過ぎる傾向を年々強めているが、今年の夏はひときわすごかった。
咲き終わってなおも残るユリの「木」は、小高い垣根のように伸び、その後ろには、まるで熱帯のようにサトイモの大葉が無数に広がる。さらにそこにシソの大木が重なり生え、奥の「ドクガ地帯」には、ミョウガが竹のように生い茂っている。しかしジャングルをかき分け、そこへ辿り着くことは不可能だ。そのジャングルの上に、柿の木だけが伸び上がり、大きな実をいくつもたわわにつけている。
暑い中頑張った植物の成長は大きく、秋の実りも大きいようだ。
「ちょっとはねえ、なんか抜いて、次の球根を植える準備をしなければならないんだけど、ここのところ蚊がものすごくってねえ」
2007-09-23 予備校断末魔
_ 予備校断末魔
最近、「このブログを書くヒマがあるのに、自分相手の私信、乃至は自分相手の仕事をしないのはオカシイではないか」との感を抱く人がいる。思われたとき即座に、「現実的な空想力の弱い人間とは縁を切りたい」と思ったりするが、それを相手が気づかぬことを、指摘するヒマは無論ない。これは「傲慢」ではなく、「現実」である。これは極めてブログ的な記述。
このブログの1回分はほとんどが最大限10分以内で書かれており、アクセス数が予め規定した数を超えると、次を書く「義務づけ」になっている。もちろんそう決めたのは筆者であるが。
私にしてみれば、現実的な空想力を持たないものの代表に大手塾と予備校と教師たちがある(もちろん公教育は、現実以前の「空想力」を持たない存在なのであるが、まあ「社会民主主義」ならぬ、「社会主義」を正しいと主張する人とは、彼ら事情を鑑みて、真面目に議論しなければならないのであるが‥…)。
現在時点9月中旬であるが、生徒たちから、「予備校が繰り返し電話して来て、冬期講習をできるだけ多く取るようにとしつこく勧誘するがどうしたら良いか?」という相談を多々受ける。
冬期講習を積極的に取るのは現役だけだろう。現役でも、真に現役で合格したい連中は、後は自分の足りない点の克服に最大限の時間を用いることだろう。それはもはや、予備校の教室で学ぶことではない。自分との戦いの時である。
以下「砂時計」。
読者は慶應塾高が良い教師を集めるのが上手いことをご存知だろうか。良い教師とは、教師を仕事にすることを上回る能力を保有するのに、教師に甘んじてしまうものたちである。私の知人も何人か、将来の教授職を捨てて慶應塾高の教師を選択した。
給料が高いから?いや違う。子どもを優先枠で入学させられるから?もちろん違う。
では何なのであろうか。慶應は、有名高校の有名教師を簡単に引き抜いてしまう。それはなぜなのか?桐蔭にいた名物英語教師、将来音大教授決定の音楽教師、大学で先端科学を学び続ける研究者。
読者は、いささか僭越ながら、私を含めて、こういった優秀教師の共通点をご存知だろうか。
それは、「できるだけ教える時間を短くして、残りを自分の活動に充てたい」ということなのである。
慶應塾高の教師たちは、3時15分に日吉駅で急行に乗る。なぜかと言えば、教えること以外に「仕事」がないからである。「教務」から解放される教師。教える仕事が終われば「自由時間」。教えることだけを仕事にできること。これが優秀教師が最終的に求める一つの理想型である。そして、これこそが、予備校人気講師たちの実の姿であろう。
「教えるだけで教務がない」―この魅力に耐えられる教師はあまりにも社会奉仕的な社会主義的人間であろう。
教師の仕事は、教えることである。個別の生徒の状況なんて考慮外であるのが本音だろう。
そして、正にこの観点で、合理的に金を儲け続けて来たのが予備校なのである。最も最近は、親を不安にさせて金を絞るという「詐欺」に近い行為が常識と化しているが、これも簡単に引っかかる人がいるから致し方がない。
高度成長期時代、予備校が、可能な限り設備投資しない教室に、可能な限り多くの生徒を詰め込んで、超優秀教師に授業をさせることによって商売をアジア的に大成功させて来たのは、その後も続々と「後発部隊」を産み出して来たことからも明らかである。つまり、予備校も吉本興業も、その社会経済学的観点からすれば、何の変わりもないということだ。
しかし、恐るべきことに、世は少子化社会になって、生徒が確実に目減りし始めた。ここで多くの予備校が過ちを犯した。予備校が、少子化の中で利潤をあげるためにできることは、個々の家庭から徴収する資金を大きくするか、サービスを限定することである。そこで、そもそもは、生徒たちの教務兼チューティングをすることで予備校の人気と高額授業料を支えて来たはずの人材が、経費的に節減の対象になって来る。サービスを限定するとは、人件費をケチることであるから、結果的に、予備校クラス担任チューターを、ノルマを課せられたセールスマンに変えることが必要になる。これは摘発件数が不充分の警察官が年末取り締まりにかり出されるのと同じで、「冬期講習生徒獲得件数不充分のもののボーナスを軽減する」といったような経営側の気分を醸成することだろう。
予備校は、かねてより前記納入分を、後期納入分より著しく高額にするという作戦を取って来た。しかし、私の考えでは、半年以上受験機関に通うのは愚かなことである。
チューターがいて、冬期以降の生徒が減ると、やがて塾や予備校は経営困難になるのである。
優秀な教師を集めるには、教務からの解放が必要。しかし、教務人材を雇うと経費がかかる。
教師の質とは、「教務からの分離」なのである。教師とクラス担任を分ける必要があるのである。
ゆえに私は「予言」する。
この数年内に、多くの予備校と進学塾が大きく再編されると。おそらく予備校は低価格競争に走ろうが、優秀教師たちは、人材難から、法外の賃金要求が通ることをお見知りいただきたい。
地方分権型と同様、教育も役割分担化して行くのである。
これに最も気がつかないのが当の教師たちであることは、本当につくづく考えても非常に可笑しい。
以上、つい、「冗談」ではなく書いた。
2007-09-25 山形大学学長選挙
_ 山形大学学長選挙
学長選挙では勝ったものの学長選考会議で選ばれなかった山形大学前工学部長の小山清人氏のブログを見た。ユーモアと抑制に富んだ、典型的な精神衛生の良い学者に思われた。教育者としてもなかなかなものがある。教職員の大きな指示を受けているのも当然に思われる。写真から「灘高東大」の一類型をイメージしたが、山形同様森林濃い和歌山県出身で、山形大学、同大学院出身で、プラスティック成形加工等の専門家のようである。
一方、今回新学長に就任する結城章夫氏は典型的な地元出身のエリート。山形東高を経て東大工学部卒。科学技術省出身者で初めて文部科学省事務次官に就任しているから政治的な手腕もなみなみならぬものがあるに違いない。官に勤めた後、貧しい郷里に尽くしたいという気持ちはよく分かる。
山形大学は、2010年に創立百年を迎える。人口減に苦しむ地域に残る人材を育成する大学として全力を投じたい構えだろう。
私は、国立大学法人化には、二つの側面があったと思う。その一つは、経営効率を考えない地方大学に独自の経営をさせることによって「淘汰」を行わせる。山形大と福島大の教育学部合併騒動もその一つだった。もう一つは、あくまで財源を文科省が握り続ける支配の継続である。私が驚いたのは、200名以上の文科省OBが、中央との交渉役として地方国立大学に天下ったことである。私は、これは当然そうなることを予め読んでの文科省行政だと思った。もはや中央官庁が何か新しいことをするときは、人事ポストを作ることが前提目的というのは常識だと思って良い。同時にこれは地方分権化に抵抗する一つの政治的な手法とも言える。
今回の、前学長主導による学長選挙結果を無視する結城氏選出は、どう見ても民主主義的ではなく、多くの人が納得しないことだろう。でも結城氏ならば中央から金を引っ張れる。大型医療施設が山形大へ誘致されれば、医学部収入も上がって人件費が出る。貧しい地域の涙を飲んでの選択とも見て取れる。医学部が欲しい重粒子線治療装置はガン治療のものだが、必要だがペイしない装置の典型とのことだ。医学部はどこでも装置が高すぎて死にそうである。すると装置を降ろす会社と官学の癒着もあろう。
安倍首相を入院させた遠藤元農相は山形選出である。しかも農協組織によって支えられている人物であった。貧しい地方には旧態然とした支配と慢性的な資金不足があり、その苦肉の策が、中央とのパイプを持つ人物をトップに据えることになる。
でもなぜ山形大は、暫定次期学長として、結城氏を副学長に選び、小山氏を学長にしなかったのか。そもそもは地域のための旧制高等師範を大学化した国立大学で、急務である教育学部の立て直しが優先されないことはきっと将来に禍根を残すことだろう。これが分らない工学部も医学部も、象牙の塔の中で、文科省同様、末端の人々が求めることを深く考察できないのは残念なことだと強く思う。
2007-09-28 黒鶏
_ 黒鶏
_ 近地満月カミのみぞ知る。
_ ほとんどの鶏は自分で卵を温めない。
―いつものように腐った卵を捨てようとした。
そうしたら中からもぞもぞヒヨコが現れたのよ。
びっくりして抱き上げると、ピヨピヨ言うの。
目が合った‥…ということは。
_ <大中略>
_ 細身の奥さんが、「ピーちゃん」と言って座敷を走る。
すると、生まれたばかりのヒヨコが彼女を追って懸命に走る。
小さい羽をパタパタさせて大はしゃぎで走り回る。
やがて彼女の掌に包まれて、広い座卓の上に来た。
すぐチョロチョロする。絶え間なくピピピピ鳴きながらコツコツと何かをつつく。老眼ではない。
しかし、母役が、「ピーちゃん」と呼ぶと、あっという間にその前に戻る。
「ピーちゃんえらいねえ、呼ばれているのが分るの、アタマいいのねえ」
生後10日あまりのヒナ。いくら何でもそれはないだろう。滑稽である。
「信じられないんなら、自分でピーちゃんて呼んでみればいいじゃあない」
そう言われて、半ばバカバカしいやら恥ずかしいような気分で、
「ピーちゃん」と呼んでみると、信じられないことに見事鳥は一目散にこちらへ来た。
明らかにヒヨコである。まだ、毛の色が薄暗い鶏のオスのヒナである。
また向こうで呼ぶと、あっという間にあちらへ行く。
わざと渋い声で、「ピーちゃん」と言ってみる。
まるで当然のように、すぐにトリはこちらへ来る。
向かいのご主人も、まるで命ずるように「ピーちゃん」とやる。
当然トリはそちらへ行く。
この後トリは、約2時間、卓の上をぐるぐる動きながら絶えず何かを食べつつ走り回りクソも漏らし飛び跳ねっぱなしで茶碗に落ちても休むことなく運動し続けた。
「ピーちゃんもう寝る時間よ」と呼ばれて奥の部屋の鳥かごに戻された雛は、まるで戻せと叫ぶがごとくしばらくピピピピ鳴き続けたが、その声はやがてほぼ同音の外の虫の音に紛れて聞こえなくなった。
名月がまた雲間から顔を出した。
鳥の種類は烏骨鶏だそうだ。