2007-12-04 進学塾へ通わない学習法
_ 進学塾へ通わない学習法
進学塾へ行かない指導法が本格的に功を奏している。
特に5年生たちにその効果が如実に現れる。
私は、「実験結果」をもとに、メソッドの正しさを追確認しているのであるが、サピなど猛烈進学塾に通ってヘトヘトになって、生気を失った子どもたちに、塾をやめてサイコロ学習法に算数問題集使用法、カタカムナ音読に抽象構成作文法、漢字のイメージと連想による学習法、それに読書の習慣を提示して、約3ヶ月して、元の塾の模試を受けさせると、以前よりはるかに良い成績になるのである。
面白いのは、ほとんど勉強していない社会や理科までもが成績が急上昇する点である。
塾へ通わないのであるから、友達と遊ぶ時間も、家族で出かける時間も充分にある。子どものコンディションはみるみる良くなる。それは子どもらしさを取り戻した顔つきに現れる。模試も、私の見解に従えば、「出来ないところを確認して、そのための復習を徹底するために受けるのであって、偏差値に一喜一憂してはならない。」のであるから、塾へ行かない時間を利用して充分にその復習をする時間がある。
やはり子どもに先ずするべきことは、国語力の本質的な増強と暗算力の徹底的な訓練なのである。はじめは半信半疑であった親たちも、「先生のおっしゃる通りでした。この結果から考えると、塾に通うことは本当に意味がなかったことが、今さらながらつくづく良く分ります。」と驚く。
子どもは生き生きして、お金はかからず、自学の習慣がついて、成績が急上昇する。たかが中学入試のために、長期間塾に通うことは本当に意味がないことであることが知れる。それどころか、不安な親を誘導して入塾させて、チェーン店化した内容で、能力に劣る進学塾教師の授業を受けてただただ余分に長時間勉強することを強制することは、まさに塾の営業のためであったことが簡単に知れてしまうのである。
程よいテキストを選び、自発的に学習する習慣がつけば、後は分らないところを解説してくれる大人がいるだけで充分なのである。
実は私は、最近の私立中学の入試問題の傾向からそのことを読み取っていた。どの試験も、強制された暗記の有無よりも、自ら疑問を持ち、その答えを得ようとする習慣がある生徒が欲しいことがミエミエの試験なのである。というよりも、進学塾で詰め込み教育をされ過ぎて、伸び代がなくなった子どもたちを、できるだけとりたくないというのが進学校の本音なのであろう。
本来、入学試験とは、その時点で得点力のある生徒をとるのではなく、塾を離れて入学後に自分から伸びていくと思われる生徒をとることが目的なのである。海城、城北、渋幕の2次試験問題は、痛切にそのことを物語っている。
もし入試に失敗しても、公立中入学後にじわじわと頭角を表すような子どもを作っていれば、最終的には力が伸びて、大学進学時にはそれなりに納得がいく学校に合格することができるのである。
最近大学生を雇うと、ほとんどの学生家庭教師が、子どもを伸ばす方法を知らないことが分る。彼らの学歴はただ単に塾での詰め込みに耐えた結果であるだけ。大学でも社会でも無用の長物候補であろう。彼らは親になった時にも、自分の子どもを賢くすることが出来ない人材なのであろう。家庭教師として使える学生は、勉学に直面して、自らその打開策を考案したものたちである。
このことは、一流大学も一流高校も私立中学校も同様であろう。全て試験の最先端校である慶應同様、これからの受験生に期待することは、自ら学び自ら成長する素養を持った生徒たちなのである。
2007-12-08 吉野家牛丼
_ 吉野家牛丼
PISAについて書きかけたが、やっぱりこちらの方を優先して先に書くことにした。
私は吉野家の牛丼を当面食べないことにした。
そもそも私はファーストフードが大嫌いで、西荻南口の「笠置そば」以外は滅多に口にしないが、吉野家の牛丼は、忙しい時に、「並み卵お新香みそ汁付き」で、年に2回くらい食べることがあった。
私には下着をわざわざユニクロで買うことに快感を覚えるという、女房の顰蹙を買う庶民感覚がある。それは安いからではない。最低ラインで庶民感覚を共有することが好きなだけだ。みんなと同じパンツを着用することはえも言われぬ快感である。ちなみに西荻超安飲み店「戒」を愛用するのもこの感覚と同じである。都立高出身の私は、自分が「庶民」の一人であることを確認することに快感を覚えるのである。
マクドナルドは不味過ぎて食べられないが、吉野家ならたまに食べてもかまわない、と思っていたが、今回、「超大盛り丼問題」で、二度と食べないことを決意した。
一連の賞味期限切れなどの食品問題には辟易したが、それとは全く関係がない「超大盛り問題」をマスコミが大きく取り上げ、その結果、吉野家ホールディングスが、「厳正処分」を発表するのは、超いただけない。
これは単なる若者の「ジョーク」ではないか。「超大盛り」を食べてみたいというのは、あの超薄切りの牛丼を食べれば、多くの若者が望むところであろう。だからこそこのジョークがあったと思う。
本来、お腹がすいた若者こそが、吉野家のお客であるはずだ。そしてその店を支えるのは、同じく若者のバイトであるはずだ。その若者のジョークに目くじらを立てる大人もいただけなければ、それを「ニュース」として取り上げて歓ぶマスコミも質が悪い。いったい彼らが誰に迷惑をかけたというのだ。さらにはそれを受けて、「厳正処分」を発表する吉野家が、ビジネス戦略に則って、「処分」を発表するのは、若者にはミエミエであろう。吉野家は、「危機管理」の意味が全然分かっていない。若者よ、私に続いて、吉野家が謝るまでは不買運動を展開しよう。
私だったら、「ジョークを本物に!若いお客様のご期待にお応えして、超大盛り豚丼500円!」と新ビジネスを展開するところだ。
自分たちがろくでもない不正を行って、「記憶にございません」とやって平気でいるのに、若者が何ら害のないジョークを行うと、それを「厳正に処分」する。これでは若者が浮かばれない。
これは、関東学院大麻問題にも通じる。大麻はすでにオランダなどではほぼ解禁。イギリス、アメリカでもほとんど問題にならない。我が国では、「神宮大麻」として、伊勢神宮のブランド品である。そんなに騒ぐほどのことではないはずだ。本質的に害があることが明らかである覚醒剤やヘロイン使用とは異なる問題だ。
法律に反することをするのは良くないが、過剰に捜査して、部活そのものを禁ずるのはキチガイ沙汰である。「連帯責任」なら、大学全体が入学試験を取りやめるべきである。そうでなければ、自衛隊や防衛省が連帯責任で活動を停止するべきではないのか。そうでなければ、薬物や大麻で作ったことが明らかのビートルズを代表するロックや文学や美術作品を完全否定するべきであろう。モロッコ産のハッシッシがなければ、ヴォードレールの文学や印象派などの絵画作品ががあり得なかったことを、もっと積極的に報道するべきではないか。
マスコミの書き方もよろしくない。過剰な処罰が、かえって学生や若者の大人への反感や絶望を大きくすることを憂慮すべきである。人権無視の「婦女暴行」なら、連帯責任に結びついてもしかたがないとも思う。だが、若者の「逸脱」について、過剰に取り上げてこれを楽しむのは大人のするべきことではない。高校野球についても同様である。
せめて春口監督には、辞任会見で、「法を犯すことは良くないが、将来ある若者を、必要以上に苛んで欲しくない。」と言って欲しかった。これまで懸命にスポーツに打ち込んで来た若者を、たった一回の「過ち」で、社会全体で悪者扱いすることを、若者たちがどうとるのか、もっとまじめに考えて欲しかった。
この若者たちが、反社会的になることは当然のことだろう。彼らは大人社会そのものを否定する方向に走ってしまうことだろう。
形式だけの謝罪や処罰に若者が辟易していることを、もっと大人全体が自覚的になるべきではないのか。高学歴者の高給団体のマスコミにももう少し度量が欲しかった。
話が逸れたが、私は若者の「敵」の吉野家には当面入店しないことにする。
以上、当然のように、「冗談」で書いた。
2007-12-10 PISA
_ PISA
経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)結果で、15歳時点における日本の生徒たちの、科学的思考能力の学力低下が再度確認された。
これは、知識よりも思考力が問われる記述解答型のテストで、センター型の選択肢試験が依然として中心的な日本の子どもには苦手なものであったためであると考えられる。
しかし、私は最大の問題は、読解力=国語リテラシーが依然として低迷する傾向に現れていることであると見る。
前回当ブログで明らかにしたが、国語力(音読力、作文力)をつけると、理社もできるようになるのである。当然社会科学的な思考力や、科学的応用力も伸びるのは当然のことだろう。
各国ごとの言語が異なるのに、どうやって言語了解能力の違いを審査できるのかは謎だが、私の目から見れば、国語力の低下は一段と大きくなり、高度な事柄の学習能力は減退する一方であるのは確かなことだと思える。
しかし、子どもの国語力が低下するのは、単に学校教育の低下のためだけではない。教師たちを含め、社会全体の大人の国語力が著しく低下していると思われるのである。日常の会話力の低下もさることながら、拙劣なテレビ番組、マスコミの報道姿勢の程度の悪さは年を追って強まっている。
不肖私も、「先生の言葉そのままでは難しくて読者がついて来れない」と、リライトを要求されるのは常のことである。親たちからは、「言葉がポンポン口をついて出る松永先生と会話すれば、塾や学校の先生の言葉は簡単に理解されるようになるのは当然だ」と言われて久しい。ということは、その子どもの周囲の誰もが子どもの国語力を高めるような会話が出来ないことが暗示される。
私は、センター試験を導入した文科省の中心目的は、国民リテラシーの全体的低下であるとかねてから主張して来た。暗記中心の教員採用試験も同様である。だからこそ、「指導者」たちの国語力が低下しているのである。これは、漢字を禁じた韓国政府同等、難解なマルクスなどの左翼哲学書を読めなくする「国策」であったと思われるが、ついでに指導層、マスコミを含めた国民全体の国語力低下を招いてしまったとは皮肉としか言いようがない。
もう一つ国語力の低下の原因がある。それはテレビである。どこの国でも革命が起これば先ず占拠されるのはテレビ局であるが、テレビの持つ力はまことに大きい。中国、北朝鮮を見ても、テレビは国民統制の重要な政治手段であることは明らかである。近くは小泉/飯島のポピュリズムが記憶に新しい。テレビモニターの視聴は、読書と同時存在できない。読書しなければ、やはり国語力は減退せざるを得ない。
生徒の一人が言った。
「学力では台湾に負けたが、野球では台湾に勝った。」
学力と野球を同じ次元で扱っても無意味であるが、大衆にそれを感じさせないのがテレビである。
最後になるが、米国、ドイツ、フランス、イギリスなどの資本主義最先端国でも、学力上位国に顔を出すものはない。ということは、消費の盛んな国家では、上下の学力格差が大きいことが分る。つまり学力の高い層が、低い層にモノを上手に売っているということが理解される。やはり、我々の豊かさは、一定数の低学歴層、すなわち、国語力の低いものによって支えられていると言えるようだ。そしてこの人たちは、所得減税よりも消費税増税を「社会民主的主義的」に願うのである。私はこれを大変興味深いことだと思う。
以上言論の自由に基づいて、「冗談」で書いた。
2007-12-16 宗教的「自覚」
_ 宗教的「自覚」
一神教とは、ある意味で名前へのセンスを問うている宗教である。
アッラー、クライスト 何ちゅう良い名前であろうか。
我が国では、アマテラスオオミカミという。これは音より意味性が強い名前である。つまり後世の「偽造」である。しかし、そこに、その「存在」を信じた多くの人があった。だからこそ、アマテラスは存在するのである。でも、なんでアメノミナカヌシとは言わなかったのかという疑問も残る。
まあどうでも良いが、「宗教」に自覚的になることは面白い。
実家で母が見ろというので、ヨハネパウロ2世の戴冠式で、カラヤン=ウィーンフィルが、モーツアルトの戴冠ミサを演奏する映像を見た。かの地の音楽声楽のなんと優れたることよ。ローマ法王も美しい声で歌うかのように語りかける。そして例の煎餅をちぎって人の口に投げ込む儀式をやっている。はっきり言ってやり過ぎである。もしキリストがこれを見たらおそらく笑いを禁じ得ないだろう。これは私にはモスクのイスラム教徒のようになじめない。
この宗教がなければ現在の西洋型の近代的生活はなかった。この宗教は、明らかに「理知」を生んだのである。しかしそれは宗教そのものによるものではなく、「学問」によるものであった。この宗教がなければ、ローマもイギリスもドイツもフランスもスペインもイタリアもなかった。これらは同時にキリスト教同様サッカーも盛んな国である。イスラム圏でも盛んである。日本でも流行らせている。「サッカー」と「アッラー」は音も似ている。同時に「咲花」とサッカーも盛んである。もしサッカーボールにキリストのマークとアッラーのマークと世界平和のサクラのマークが入っていてそれを蹴りまくる競技になればいっそう面白い。面白いのは、サッカーでは「自爆テロ」はなく「ファール」があり、それをやっちゃおしまいなのがオウンゴールなのである。ベースボールに「犠打」があるのがかえって面白いが、ボーイスカウト的に可愛いもんである。青年たちに「カミカゼをやらせること」が誤りであることを我々は歴史体験的に知っている。「靖国」はその産物だ。そこには子を生んだ母親の悲劇が捨象された男性中心のカルチャーがある。
世に受け入れられないと思われるものはたくさんある。
しかしそれがすでに世に存在することも事実である。
そしてその中では、見つけようとすれば、むしろ受け入れることができる共通点の方がはるかに多い。
「グローバル化」の究極は、「非差別化」なのではなかろうか。その人が何人であり何教であろうが関係ないのである。大切なのはその人がその時点で何をしているかなのである。
だからこそ、我々は、「宗教」を意識的に捨象した考察も試みるべきなのである。
そして驚くべきことに、例えば仏教や神道の本質は、他のいかなる宗教とも矛盾しないのである。個人内部の瞑想的知性に優れること、自然環境からの波動感受に敏感であること。
本来、宗教とは、我々に進化を目覚ませるものである。つまり、未来思想的なものである。これゆえに宗教は、多くの場合、知性の発達を促す。ということは、ここで突然、「知性の発達は、自発的冗談行為にこそよる」とする当ブログの本旨と矛盾する。この問題をどう解決するのか。まさか、「宗教は「冗談」という結論はかえって「無差別テロを招く愚行」であろう。しかし実は、それはいとも容易きことである。個物の存在非存在を究極伝達できないと思われる言語は、ある特別な神の存在を規定できないのと同様に、宗教や冗談を明瞭に区別し得ないのが当然であると。「アナキスト」の私は、宗教を、グローバル下の個人的趣味ととらえてしまう。というか、どうでも良いことなのである。
いかなる場合においても、人間間のコミュニケーションにおいては、「オモロいこと」は「信頼できること」に先行する要素であると強調したいのである。
狂うのでもない。変態になるのでもない。「冗談」でやるのである。
明日から、このクソ忙しいのに長野カンヅメ。これを最後に来年からは自分でオモロいと思う出版物しかやらない予定。
2007-12-23 師走のココロ
_ 年の瀬とて、皆様ご多忙の折であろうが、門主(「冗談」の)より礼申し上げる。
風呂入りしゃべり飯を喰いしゃべり風呂入りの繰り返しの長野カンヅメはいつものこと。一般ツーリストより従業員取材。時間給から正月特給の金額、りんご露天風呂のサル対策、男女同一建物の社員寮の有り様などにつきまして、かなり興味深い供述を得させ致しましてございますが、そのことはさておき、アサマヤマは美しかった。
_ 雲間にも あさのはかほる 夕月夜 (冗兆)
_ 小生には官公庁の汚職を一掃する企画がございます。
それは、例えば各官公庁ごとに、「天下り」の年間件数を算出して、そのトップに輝いた大学出身者を向う3年採用しないという決まりです。つまり、彼らからすれば、ある意味で、新たなる「利権」の分配です。
これを実行すれば天下りは即座になくなるはずだが、福田首相は、これを気づかずフリもせずにするまい。「保守」の意味が分からぬ知識エリート層による保守。平和を考えることを慎んだどこかのpresidentより愚かな存在である。ガソリンの値上がりの代わりに焼酎を飲む。武蔵の出題がじわじわと麻布開成を追いつめる。
「学閥」は「民主的」ではない。
本来能力的に劣るものが、その出身大学名によって救済されることは、民主主義的矛盾である。
民主主義なら、自己の立場保全より、集団未来の栄光を乞い願うのが「本質」であることは疑うべくもない。その「冗談」が学閥か。
いいじゃあないか。日本が特別な(温泉付きの)極めて四季感受に適した気候風土にあることを高らかに、述ベることは。左も右も中道も学会も東一早慶日東駒専ポンキンカン関係ない。ゆえにここで突然国会内に巨大スパを建設することを提案する。そうすれば彼らももう少しマトモな議論や決定をするようになるかもしれない。裸になれば学閥なんて消滅してしまう。
いいですかあみなさん。これは「冗談」で書かれているブログですよ。マジになって腹を立てたりしたらおしまいです。
でも、忙しい。
_ 師走の心 父心 押せばイノチの いずみ湧く (詠み人知らず)
_ 最近遅ればせながら面白いことに気づいた。ここ数年、どうも体調が悪い。医者に行くと尿酸値しか問題ないといってユリノームを処方される。何と言うか疲れが取れない。常に体のどこかが痛い。それも過労運動不足焼酎といえば当たり前である。
で、分ったのである。このすぐ疲れるし、無理があまり利かず、おまけに疲れがとれることがない状態を「老い」というのではないかと、リアップに手を出したのもそのためである。ハゲだけでなく白髪もある。これらは体重と違って制御しがたい。目は疲れを通り越して良く見えなくなりつつある。
しかし、不思議と悲しくも何ともない。
「なあ〜んだ歳取っただけなのか」という心境である。
年内もう一度通信するが、皆々様の本年のご厚冗に満腔の謝意を籠めて、良いお年を過ごされますように、というのはやっぱりこの温暖化ではどしよもない風情のことなのかもね。
2007-12-31 穀物
_ 掉尾にて読者に重ねて御礼申し上げる。
筆者にとって、本年はかってない多動の年であった。
新年に新居引っ越しをした。初めて多額の借金をしたが、どういうわけか同時に出版物がかつてないほど売れ始めた。リライトされていることを考えると、売れているのはソフトやコンセプトのせいであると思われる。相変わらず「当たり前」のことが受けるので、あまり「手応え」がない。
4月に長年療養した父親が他界した。「謝」の一言である。彼の「寛容」がなければ、今日の私はなかった。同時に第二子(♂)が中学生になった。彼はバスケとラグビーの両天秤である。
その後、顧客出版雑誌講演と相次いで、切れ目なく「人生最多忙」を味わった。人に逢い過ぎである。しかし、振り返れば、私が、私とは何ものかと問いかけるところの私であることにはかわりがない。
「愚か者」を、心底自認する私には、大衆社会の「地すべり」は、お笑い沙汰ではない現実である。
権益保存のために、できるだけ覚醒させない方向性は何と世論と一体化した。日本の株価の下落は、外国人が実際接する日本人エリートの程度の悪さに対する「見切り」とも言えよう。
「植民地」から抜け出せないのであれば、その状況下における自らの「旨味」を追求することが生存的に正しいと思う人が大多数になりつつある。これは、地球環境問題を軽視する(誰かがこの問題を解決してくれるという消極的な思想)国際的方向性とも一致する。
でも「関係」ない。最もひどい目に遭うのは、その「準備」のない「下層」である可能性が高い。「危機管理」とは、子どもをキャンプに連れて行くことである。芸術などの「暇つぶし」の手段を体現させることである。文章を含めた表現活動を行わせることである。
未来認識が混迷化するとき、既成の価値は効力を喪失する。最下等の穀物を粉にして油で揚げたスナック菓子のようなものである。人々は簡単に「家畜以下」になる現実的宿命にある。
人類はなぜ進化したか?それは、火の使用により「種」である穀物を大量に食べる習慣を持ったからである。タネは遺伝子情報の集積である。優れた穀物は、それを食むものの文化の進化を保証する。したがって、良質の米がいかなる値段になろうが関係ない。完全無農薬有機アイガモ玄米なんて食べているものが一番リッチであることは明らかである。優れたタネ=穀物を食らわずして類人猿の最先端を走ることはできない。だから農家にもっと質の良い米を大量に作ってもらうことはいいことなのだ。しっかりした備蓄に余れば、それを食糧難の地域に寄付してもいいではないか。
正月といえば餅米。これほどリッチなものはない。お餅よりうまいものが、最上質のパン以上にあり得ようか。
穀物は無限大に美味である。
高品質の米を使った煎餅はウマい。
ゆえに、このことを追求すれば、能力のあるものは全て「リッチ」になれる。しかし、「皮肉」なことに、それには、「味わう能力」=感性がなければあり得ないのだ。
ここで、Happinessが、感受性に保障されることが明らかになろう。
Happinessは、知的に了解されるものではなく、感覚的に感受されるものなのである。
「差別化」の無意味化。
新しい年は、宗教や政治を越えた、「人間としての納得」をより深く求める時代になろう。
読者にとってもまた、「乾坤一擲」の年であることをお祈り申し上げる。