2007-12-16 宗教的「自覚」
_ 宗教的「自覚」
一神教とは、ある意味で名前へのセンスを問うている宗教である。
アッラー、クライスト 何ちゅう良い名前であろうか。
我が国では、アマテラスオオミカミという。これは音より意味性が強い名前である。つまり後世の「偽造」である。しかし、そこに、その「存在」を信じた多くの人があった。だからこそ、アマテラスは存在するのである。でも、なんでアメノミナカヌシとは言わなかったのかという疑問も残る。
まあどうでも良いが、「宗教」に自覚的になることは面白い。
実家で母が見ろというので、ヨハネパウロ2世の戴冠式で、カラヤン=ウィーンフィルが、モーツアルトの戴冠ミサを演奏する映像を見た。かの地の音楽声楽のなんと優れたることよ。ローマ法王も美しい声で歌うかのように語りかける。そして例の煎餅をちぎって人の口に投げ込む儀式をやっている。はっきり言ってやり過ぎである。もしキリストがこれを見たらおそらく笑いを禁じ得ないだろう。これは私にはモスクのイスラム教徒のようになじめない。
この宗教がなければ現在の西洋型の近代的生活はなかった。この宗教は、明らかに「理知」を生んだのである。しかしそれは宗教そのものによるものではなく、「学問」によるものであった。この宗教がなければ、ローマもイギリスもドイツもフランスもスペインもイタリアもなかった。これらは同時にキリスト教同様サッカーも盛んな国である。イスラム圏でも盛んである。日本でも流行らせている。「サッカー」と「アッラー」は音も似ている。同時に「咲花」とサッカーも盛んである。もしサッカーボールにキリストのマークとアッラーのマークと世界平和のサクラのマークが入っていてそれを蹴りまくる競技になればいっそう面白い。面白いのは、サッカーでは「自爆テロ」はなく「ファール」があり、それをやっちゃおしまいなのがオウンゴールなのである。ベースボールに「犠打」があるのがかえって面白いが、ボーイスカウト的に可愛いもんである。青年たちに「カミカゼをやらせること」が誤りであることを我々は歴史体験的に知っている。「靖国」はその産物だ。そこには子を生んだ母親の悲劇が捨象された男性中心のカルチャーがある。
世に受け入れられないと思われるものはたくさんある。
しかしそれがすでに世に存在することも事実である。
そしてその中では、見つけようとすれば、むしろ受け入れることができる共通点の方がはるかに多い。
「グローバル化」の究極は、「非差別化」なのではなかろうか。その人が何人であり何教であろうが関係ないのである。大切なのはその人がその時点で何をしているかなのである。
だからこそ、我々は、「宗教」を意識的に捨象した考察も試みるべきなのである。
そして驚くべきことに、例えば仏教や神道の本質は、他のいかなる宗教とも矛盾しないのである。個人内部の瞑想的知性に優れること、自然環境からの波動感受に敏感であること。
本来、宗教とは、我々に進化を目覚ませるものである。つまり、未来思想的なものである。これゆえに宗教は、多くの場合、知性の発達を促す。ということは、ここで突然、「知性の発達は、自発的冗談行為にこそよる」とする当ブログの本旨と矛盾する。この問題をどう解決するのか。まさか、「宗教は「冗談」という結論はかえって「無差別テロを招く愚行」であろう。しかし実は、それはいとも容易きことである。個物の存在非存在を究極伝達できないと思われる言語は、ある特別な神の存在を規定できないのと同様に、宗教や冗談を明瞭に区別し得ないのが当然であると。「アナキスト」の私は、宗教を、グローバル下の個人的趣味ととらえてしまう。というか、どうでも良いことなのである。
いかなる場合においても、人間間のコミュニケーションにおいては、「オモロいこと」は「信頼できること」に先行する要素であると強調したいのである。
狂うのでもない。変態になるのでもない。「冗談」でやるのである。
明日から、このクソ忙しいのに長野カンヅメ。これを最後に来年からは自分でオモロいと思う出版物しかやらない予定。