ブイネット教育相談事務所


2008-01-07 寒中V-net

_ 寒中V-net

新年やや仕事を休んだが、「もっと休みたい」と思う気持ちが残るまま、受験と出版の最前線に復帰。皆様、このつまらない問わず語りに、いったいいつまで続けられるか分らないが、何卒よろしく今年もお付き合い願いたい。

V-netは例年通り、さながら受験の道場の様相。自習組のせいで、今日は全ての予備デスクがふさがった。

今年の中学受験組もなかなかユニークな連中である。

「母が美味いと言って飲みまくってそのまま寝込んだ純米吟醸を、自分も飲んでみるとこれが結構美味しい。調子に乗ってつい飲み過ぎて今日は二日酔い」と言う自衛隊ヘルメット姿で早稲田中狙いの戦闘小説作家君。

「ダメなら公立へ行く。僕はこの学校以外に行きたい学校はない。」と、最後まで走り続ける武蔵一点狙い読書三昧君。

「何としても箱根を越えて都会の学校へ出たい」と言う超器用新幹線聖光浅野狙い撃ち君。

「ボクはうるさいオンナのいない普通部しか眼中にない。オンナはオレが選ぶ。早稲アカの正月特訓も軽かったぜ。」と軽口を叩きながら、嫌がらせで早稲アカ鉢巻きをして自習する超ハンサム君。

「妹や親の気持ちなんて分らないが、どうしても麻布の国語がマトモに書けるようになる記述力が欲しい。」としつこく過去問を繰り返す湘南ライナー蕎麦好き君。

「お母さんに、ゲームに加えてマンガも取り上げられました。先生のグラサンの本もマンガに入って捨てられていました。でも、本屋で読んでいますから大丈夫です。麻布に受かった瞬間に、もう母には何も言わせません。オチンチン力です。ヒッヒッヒッヒッヒー。」と不気味な笑いの算数天才君。

JGやってもいいのに自宅近くの吉祥で完全合格狙いのご両親超ご協力の一人娘。

大きなお父さんに奥手の自分でそれなりに作戦を練って最低でも芝に潜り込みたい慶應狙いの意外としぶとい君。

本年度最奥手、芝狙いのサピ長年通いの単刀直入君。

明の星、余裕合格のはずなのに、わざとさりげなくモタモタして、母親の愛情を搾り取るおませちゃん。

この他中学の部、高校の部、大学入試の部と、「個性的」というよりも、自然にそうなっている人材多し。成長過程の彼らは、V-netの自由な空気で勝手に学び勝手にほざき、キャロムをやりまくる。全国津々浦々で通じる人たちもこれに同じ。偏差値を気にする人は一人もいない。

正直例年ながら恐れる。もしこれで例年通りに合格者連続ならば、世のほとんどの教育機関は「詐欺」である。V-netの生徒たちは、いわば強制されずに勝手に学んでいる学徒たちである。責任者は吉田松陰の足下にも及ばないが、ともあれ彼らは自発的に勉強している。それに感謝する「差し入れ」も多いが、焼酎同様あっという間に「蒸発」する。

「発電所」というのが相応しい。生徒に乗せられた教師たちが発電してエネルギーを売り渡す。

そうなのだ。教師とは「娼婦」なのだ。ストレス発散と同時に、明日への希望を与えるものたちなのだ。「知識」を与えるだけなら簡単だ。そうではなくて、自己の体験に基づく「エネルギー」を出してこそ、「教師」なのだ。

私はほとんど全ての子どもたちがそれを望んでいることを冷静に観察する。

そして、何を行うにおいても、そのことを、「賢くなること」の題材にすることを提案し続ける。

しかし、私は年老いた。元気な諸君と付き合うことは楽しいことこの上ないが、家人同様、いささか身から出た錆ではあるが、この自由奔放のクソガキどもにマトモに付き合っている体力は最早ない。彼らは歳とったとき元気が当たり前ではない事実に盲目である。

と思うと、私のように、若い時に自らの好奇心に忠実である者は意外と少なく感じる。

自分のやりたいことを識ることは意外と難しい。


2008-01-08 ガス抜き

_ ガス抜き

たった半日でアクセス数が500件を越えるとは尋常ではない。ゆえに「調査」のためのフェイントをかます。

皆さんこのブログは「冗談」で書かれているのですよ〜、「フェイント」で書かれているのですよ〜、とか言っても今さら遅いか。

改めて、「冗談教」の「信者」に礼申し上げる。

しかし、理由が知りたい。どうしてこのアホなブログにこうもたくさんのアクセスがあるのか。あんたもワテと同じ「アホ」やろか(一応関西系も意識)。

今日は朝から久しぶりの私立中2年と対峙した。

身長176センチ。足は29センチ。たまげない方が異常である。たぶん次回に合う時には見下ろされる立場であろう。

「国語記述でもっと得点したい」と言う。

ダイアローグと抽象構成法で、学校模範解答より優れた解答が簡単に作れることを教える。しかし、45分で終わってしまう。しかたがないので、韓非子の思想と儒家の思想を、各々テキストを示して解説する。これも約15分で終わってしまって、まだ物足りない顔をするので、臨斉録、無門関、と進んで、般若心経解説。ここで、

「お腹いっぱいになった?」と尋ねると、

「なりました」と答えるので、キャロムでボコボコにする。

こういう生徒なら教えていて申し分ないが、読者ご存知の通り、私の生徒は受験直前で助けを請う者ばかり。

次も音読を習いに来る遊び盛りの中2。言い遅れたがこの子もバスケ部所属。音感は素晴らしいが、キャロムは今のところ「バカ」。「うちの父ちゃんは異常に強い」と言うからたかが知れる。

次が、慶應狙いの小6。過去問3年分あっさり終わって、教師の疲れた隙を抜いて、キャロムで勝利の凱旋帰宅。キャロムで上達する者は入試に強いー塾にダマされる親には信じがたいことであろうが、これはV-netの常識である。<キャロムが欲しい人は、六角堂中村に、アクセスして欲しい。「松永紹介」といえば5000円引きだそうである。しかし、手作り手工芸品ゆえ、ボード管理は各々「襖滑り剤」購入の上、磨き上げられたい>

お次の本日「最終バッター」はなかなか来ない。

「母に無理矢理早稲アカ麻布特訓に入れられ、その後も勉強させられたために、風邪をこじらしてここのところ腸が不調、トイレに長い時間行って遅れました」と、ウソかホントか全く分らないが疑うことは出来ない「供述」。

とまれ、麻布コレラ社会問題記述演習。以前より字がきれいになり、適当な文章構成をする力が上達。ただ根源的なダイアローグが不足。この生徒には、離婚した父親から、写真入り年賀状が来ていることを、どうしても言えなかった。授業が終了すると、

「先生、何かが忘れられているような気がしませんか」とキャロムの催促。

「ばかやろう!遅れて来た生徒とキャロムをやれば、僕はキミにとってただ甘いだけの人になる。 

そんな役割は引き受けられない」と言うと、

「先生、今日やっと、学校で、不平等条約と「治外法権」についての授業がありました。」と突然言うので、

「領事裁判権は、治外法権の部分集合であることをとらえ、治外法権で文章が書けるような練習をせよ。麻布は、数国で66%。社理で50%あれば必ず受かる。国社で人が書けないところを適当に書いてしまうのがミソだ。算数で限りなく50点(60点満点)以上、国語で50%(30点)を切らない。後は社理で40点(50%)で確実合格する。国語過去問、最後の最後まで繰り返し、見た瞬間にダイアローグ記述解答する癖を付けよ。社会はウソでもいいからもっともらしいことが書ける練習をせよ。受かった瞬間から、完全キミの自由選択だ」と、アドバイス。

以上、アクセス者のチェックのために連日で書いた。読者諸兄におかれましては、いたずらにクリックすることなきよう。

当然のことながら、ライブドア、以下の広告はバカの見本である。


2008-01-09 セイタカアワダチソウ

_ セイタカアワダチソウ

おかしい。「変化球」が効かない。もう一発かますことにする。それよりだれか、どうして新年から急にアクセス数が増えたのか教えて。

_ セイタカアワダチソウ刈りワークショップに行って来た。

セイタカアワダチソウは、全国至る所で見られる背の高い黄色い花である。もともと北米産で、第二次大戦後に日本に入って来たが、まるでザリガニのように、ものすごい繁殖力で、特にススキ野原にポツンポツンと生え始めると、数年でセイタカアワダチソウだけになってしまう。実はバッファッローはこれを食べていたのかバッキャローと疑りたくなって来るが、今目の前に一面に、そのセイタカアワダチソウの冬枯れの原野が広がる。ムカつくくらいの花穂をつけ、我々の顔より高いところに、まるで幽霊の頭のようなワタをつけて立っている。

読者はその穂を見たことがあるだろうか。タンポポのワタのようになった種子が、びっしりとアワの穂のように付く。これが飛散して着床すれば、考えられない量が広がることになる。マクラの中身にでも利用すればと思うが。

すすきも同種の飛散型の種子。でもセイタカアワダチソウが勝つ。セイタカアワダチソウの上に伸びるスピードは速い。先ず他の植物の上までセイタカ伸びて、その上で例の黄色い花を縦横にアワだたせるのである。

私は解決策として、先ずススキのタネを取って、その上で火をつけて焼いてしまい、春になったら、発芽させたススキの苗木を植えるのが良いと思うが、燃え過ぎて危ないか。

今日の仕事は、野原一面に生えたセイタカアワダチソウを、鎌で刈り取り、それを次々に火にくべるという作業である。

スゴい!眼前一面にセイタカアワダチソウの原野が広がる。

刈ろうとすると、ツタもカラマり大変なことになっている。究極、広範囲に地面をなぎ倒してそこに倒れた植物を集めるのであるが、切っても切ってもキリなくアワだって増えているのである。

野焼き。

それを火にくべる。

ワタの部分を束ねたそれは、数秒で、「ボッ!」と音を立てて発火する。まるで良質の油分が燃えるかのようだ。メリメリという音を立てて、たちどころに燃え上がる。風呂のお湯ぐらい湧かせそうだ。私がカウボーイならば、「発火剤」として、常備品にする。でも西部ではおそらくそこら中に生えていたのだ。

セイタカアワダチソウがオイリーなうちに収穫して、それを燃料として使う習慣が出れば、我々はこの植物をコントロールすることができることになる。

利用目的がない場合、既存の植物を守るために伐採し続けるというのも人間の仕事の一部なのだと妙に教えられた気がする一日であった。


2008-01-13 受験風俗ナマ情報

_ 受験風俗ナマ情報

相変わらずアクセス数が減らないのでここで突如方向変換焼酎ソーダ割り。

新年よりの新読者の皆様、どうぞよろしく、私がこのジョーダンブログの責任者、Joker.Nobiこと松永暢史です。

ここで、新規の「Fan」の方々は、我が子が受験する親御さんではないかとの示唆を受けて、その意味も込めて一筆つかまつる(大丈夫だって、既読者には重層的に愉しめるように書くようにするからさ)。

_ 忙しく ありても情けは あらまほし

_ 埼玉or「僻地」特進向け選抜試験一過す。

ここにはかつて中高一貫私立が準名門校化することに営業的に協力した進学塾と学校との、新たなる「提携」がある。塾は受験者数や受験校を増やしたいから、積極的に欲目がある学校経営者に「売り込み」をかける。

これらの学校は、経営者たちに収容所家畜養成的発想があるところが多い。相変わらず高度成長前の教育と、少子高齢化共存社会以降との落差が見えない潰瘍学園オヤジたちなのである。気の毒なのは、塾同様、「従業員」なのであるが、かつての日能研サピックス教師たち同様、「子どもを壊すことに力を貸してしまった」という嘆き(「冗談」)は、杉並ワダ中がサピを採用せざるを得ない状態に現象してしまうのである。

子を思う親たちが「迷妄」になることを目覚めさせるのではなく、かえってそれを利用して余分に料金を得ようとするのは、最早早稲田大や立命館大などの入試経営戦略以下の倫理観である。偏差値表をたよりに志望校を選ばざるを得ない親たちに、「特進科」は、「隠し球」を行うのである。

人々の不安を利用した「教育犯罪」。そして、どういうわけかこれを是認する文科省と国家。右翼でなくともこの現状を、日本の未来を考えない自らの利権しか顧みないバカどもの所行と判断しない方がオカシイ。組織ぐるみでお客をダマすのは、「詐欺」より質が悪い。これに自覚的でないとは、「教育機関」とはおおよそ考えられない。おまけに、教育改革は不可能なのに、あいかわらず「教育改革」の御旗を掲げるのは、石原都知事よりも劣るバカリーダー。ホントに、アタマがいいやつが大衆をダマして利潤をあげるのは良くないことダベさ。詐欺罪より上の、「狂気準備集合罪」の法整備が、行われるべきですな。品質が良くないのに高めにお金をとるのは、皆文化的に詐欺ですよってに。でもそれを黙殺するのが「高学歴者」。

合格者偏差値を高めるために厳しく選抜する→何回も受験料を取ることもできる(塾は新たなるビジネスチャンスを作れる)→子どもたちは負担が重くなって、精神的肉体的にズタズタになる→一般入試に専念できない〜→そして、一般入試では実は未来発展的な子どもが勝つような試験が指向される。

入試とは「水物」(見ずもの)である。受けてみなければ結果は分らない。偏差値は関係ない。戦術とその日のコンディションが全てである。最低ラインより上で生き残るということ、それは「テクニック」である。そして、その「テクニック」の本質は、脇を固めてミスをしないことに尽きる。これさえあればほとんどの学校に落ちない。しかし問題なのは、12歳という年齢でそれを制御するのには、「智慧」が必要であることだ。

欲を上回る好奇心。

分らないやつには永遠に分らない。


2008-01-15 枯れ葉

_ 枯れ葉

セイタカアワダチソウの次は、「枯れ葉」である。

渋谷東急本店西側、観世方面郵便局の先の崖下を左に曲がったところにあるJM GALLERY(火〜日/12:00〜18:00、27日まで)で、『川村忠晴 自然 光 影のオブジェ展』を見た。

小さなライトが埋められたケースの中で、色とりどりの秋の枯れ葉が天然アート世界を繰り広げる。周囲には、枯れ枝が人像に昇華して舞い踊る。

非常に美しい。

個人というよりも、レストランやブティック、それに人が多いホテルロビーなどにあったら良いだろう。ここには何気なく通りかかる人を素通りさせない何かがある。

この作家は、自然を自己の感受性に忠実に対象化するというアートを試みて、既に充分な期間を経て活動しているのであるが、そこには、「きれいな自然を演出すること以上にきれいなことは、まずあり得ない」という透徹した人間謙虚な哲学が現象するのである。造形以前に、自然と対峙することが「アート」なのだ。

造形作家の川村の目からすれば、秋の落ち葉と木々の陰影は、芸術作品以上に感受する連想の活性化をもたらすと映るのであるか。ここには、セザンヌが対象としての自然に対して自らの「感受性」を高めて適用しようとする姿勢のポストモダンの一つがある。考えてみれば、そもそも芸術とは、感受した自然の「逆噴射」であった。

人は「奇跡」と呼ぶが、我が中に、子どもの感性が自然の美に接した時の純粋な感動体験を年を経れば経るほど深めていく感受性のすばらしさ。しかもこの人は、男性なのである。

自然と造形の一体化。自然が芸術を模倣するワイルドの極致。

私はこれを楽しむ女性を「sexy」だと思った。

_ 冬枯れに もののあはれが もえ上がり (冗)


2008-01-17 のろし

_ のろし 

困ったねえ。ネタはあるけど時間がない。寿司屋ならばお客が怒鳴り掛かるところだ。

今回入試、N研はややえげつなかったね。実はそういうわけで政府教育諮問団体に名を連ねているわけね。もうすぐ経団連入りかもね。高木のところの玉川育ちは無事に跡目を継げているのであろうか。いやオヤジが完全に株式で握っていることだろう。まあ、ダマされる私立学校がアホなんだけれども、それに乗せられた保護者は本当に気の毒だと思うが、乗せられた側が気がつけないからいかんともしがたい。まあ四谷にしろ最近はサピにしろ、他も似たようなことしているようだからしかたがないが、上が腐れば下も腐る。文科省も旧日教組もよく噛み締めて欲しい。これは公教育から私立教育への「移民」がさらに堰を切って一般化する決定的なのろしとも言える。国税の無駄遣いの結果が、子を思う親たちの家計を必要以上に圧迫する。しかもその教育には未来ビジョンがない。おい、教育学者どももだぜ、オマエさんたち、この状況でいまさら、「国費」で研究する「資格」なんてないだろうが。カゲヤマは岡大法出身だぜ。塾や予備校の教師で教育学部出身なんてほとんどいないよ。優れた未来ヴィジョンを提示できないと同様に、優れた教師を輩出できない教育学者なんて、限りなく存在の意義がない。「アイデア」がないのは、文科省と全くおんなじよ。国立大学教授は、全てとりあえず「疑い」の対象である。そこには国家によるインチキ「優秀者」の「天上がり」の可能性がある。

社会民主主義者指向者である私であるが、こと教育の現場の人材についてばかりは、「新自由主義」を掲げる。なぜかといえば、他ならぬそれを受ける多くの子どもたちがそれを強く希求している声が大きいからである。楽しくてためになり、しかも示唆に富む授業をする能力がなくてどうして教師を名乗れようか。教師は有機野菜と同じである。子どもの健康には旬で栄養がなければ話にならない。「知識」ではなくて「経験」を語るものでなければならない。我が国の未来を背負う教育において、このハードルは絶対に譲れない。しかしもちろん、強ち年齢のことを言っているのではない。能力のないものは、自発的倫理観に基づいて教職を去れ、と言いたい。

組織権益保存を優先させて、国にも教育者にも積極的な未来教育を提言する気がないのだ。そんなことはもう30年来続いている。「私立」と「公立」の最も大きな違いは、「私立」が、「国家教育」を逸脱できる点である。実は進学塾もそうかもしれない。その「私立」に多くの人が殺到する。ここにすでに、公立教育が「民主主義的」に見切られているのは明らかだと思う。

やっぱり最も悪いのは、これを放置する(=無意味に規制し続ける)国家教育機関の「方針」なのである。

そしてその「指導者」たちだったのである。

彼らは、「グローバル社会」をも「少子高齢化社会」をも、マスコミより遅れて認識した意味において完全に「無能」である。

以上当然のごとく、養老タケシ風に、「冗談」で書いた。


2008-01-20 センター試験

_ センター試験

読者ご存知の通り、私は死刑廃止論者であると同時に、センター試験廃止論者である。

死刑は、民主主権在民の原則に矛盾してしまうから、センター試験は「亡国」を政府が行うという論理矛盾からである。

私は、センター試験というよりもマーク試験に反発しているのかもしれない。どこかそこに人間を審査するには非人間的の感を禁じ得ないからでもある。

実は、統一的な試験とは階層差別することである。しかし、18歳時点のマークシート試験で階層差別化などできるものであろうか。それを信じるのは人としてバカバカしいことである。そしてそれを国家が機械を使って料金をとって行い続けるのはとんでもない愚行である。しかもデータは保存される。

少子化社会において最も大切なことは、減少しつつある人口の中でお互いの存在をより尊重する心を育成することである。それを知識とレトリック読みで差別化して「非活性化」する。これは預けると損をする金融機関に金を預けるのと同様である。予備校がこれに参加するのは、これが遍く儲かる「公共事業」だからである。

ネットでもマスコミでも、センター試験を「既成の事実」として扱い、これを批判する姿勢はほとんど見られなかった。未来国民の家畜的「重量測定」を国家が子どもにしても「オカシイ」と思わないのである。ねえ皆さん、相手は子どもだよ、子どもにこんなバカな試験のために勉強させてどうするの。その間に海外でもほっつき歩いてこさせる方がよっぽどいいじゃあない。これ以上鬱病的未来人を生産し続けてどうするの。

これは牛に牛の骨粒粉を食べさせるのと同様にやってはならないことなのである。機械で人間知性を測定することは間違っていることなのだ。ソクラテスやキリストやブッダやアッラーがセンター試験で高得点するとは思われない。

すでに「利権組織」と化した大学入試事務局は、50万人強の受験生から1万8千円(2教科だと6千円引きだってよ)を集めて90億円近くの収入を得ている。大学会場代も職員費用もほとんどタダ。その他のことと「人件費」に金がかかって、会計は収入と支出が毎年ほぼ同じ。「不正」が行われていないわけがないが、マスコミは書かない。

こういうことが教育の場で行われるのはいかがなものであろうか。この人たちは世代交代される非差別者たちの冷たい怒りを畏れることはないのであろうか。だからこそ、国立大学こそがセンター試験に反対するべきである。しかししないところを見ると、やっぱり独立学校法人化したとかいう国立大学の職員人事は相変わらず「文科省」が握っているのネン。

半世紀前の左翼反乱を恐れるあまり、国民リテラシーを劣化させる政策はもう充分なのではないか。ロシアと中国は今や新興「資本主義国」である。未来ヴィジョンとアイデア不足のエリート多出の現状からすれば、実体験濃く、本を良く読んで、文章発信力があるものを期待する試験に早めに移行するべきであろう。

ちゃはは、それもマークシートや機械採点でやっちゃったりして。

ともあれ、ワセダも立命館入試も全くかなわない、「親方日の丸公営ギャンブル」センター試験であった、

以上当然のごとく、全て冗談で書いた。


2008-01-24 「先達」

_ 「先達」

満月の日、わずか一日のうちに偶然、お二方の大先達にお会いした。

一人は古典文学上の恩師のT、もう一人は芸術上の恩師のNである。

T師に初めてお逢いしたのが、私が15歳の時で、20歳年長。N師には私が26歳の時で、16歳年長である。双方独身で子孫がない。つまり、世代交代しなかった。しかし両者とも驚くほどの子ども好きである。二人とも、異常に動物好きである。

この二人は、私の人生を決定的に方向付けた。おのおののことについて語れば、有に数冊の本に余る。

T師は、与えられた事象の解析に世の人の数十倍勝っていた。これほど論理的知性に優れる人にかつて私は遭ったことがなかった。そして、天才的な教育者であった。筆者の今日があるのは若き日のこの人の指導の賜物である。

N師は、天才的な芸術家であった。デュシャンよろしく、芸術には面白味がなければ話にならないことを私に伝えたのは、まさにこの人である。「Joker」を生んだのがこの人だと言っても過言ではない。私はいまだかつて、この人を上回る感性を持った人に出逢ったことはない。

そもそも読者ご存知の通り、私はLD=教室では学べないものであり、畢竟、一対一の個人指導でしか学びようがないものであった。

学ぶためには相手が魅力的でなければならないのは恋愛と同じである。滅多にない、どうしても素通りできない、「これ」と思う人物に出逢うのは、まさに千載一遇=あたかも偶然のごとくの必然である。

とてつもない相手に出逢った時に生ずる、心底からの敬服感ほどの快感はない。

さよう、私は精神的には完全にホモセクシュアルである。

オモロイことについて、女が男に勝ることはまずない。

女は愛らしく魅力的であるが、面白くて「病み付き」にはさせない。

美しい女は飽きる。しかしオモロイ男には飽きさせない何かがある。

今T師は、多年を費やした源氏研究の著作整備に余念がない。

一方N師は、長期沈黙後の一斉芸術活動の爆発準備に余念がない。

彼らの「成就」は「必然」と察知した。

長い時を経て、いよいよ時代が彼らに追いついて来たのである。

高度な話に夢中で、T師とは湯豆腐で唇の左側を、N師とは春巻きで唇の右側を火傷してしまった。

時代のはるか先を行って、現実を顧みることのなかったお二人であるが、師らのお仕事の成就

は、私の新著書成功ににも一端保障されていると、勝手に強く元気づけられた幸福な一日であった。「やる気」が出た。

こんな方々が、わざわざ遠方吉祥寺まで尋ねて来て下さるとは、本当に頭が下がることこの上ない。彼らからすれば私は、ただ適当なことを書き散らしている「愚物」にしか過ぎないのに。

目が覚めると、雪がふっていた。

なぜだか感謝の心につつまれた。

自分なんてない。

みな外部存在のおかげである。


2008-01-28 エリート株下落

_ エリート株下落

進学塾先導による一月入試は、年金問題同様、少子化社会への「勝負」をかけて苛烈に行われ続けている。

私は、すでに確定している2月初頭の各校入試問題を「予想」する必要がある。

上の方ではもうこれ以上難しくできない。やれても二百字作文をかませるくらいである。

あとは「変化球」。子どもの感受性と直結する筆記力を試すことになる。こんなことは対多数の塾教育ではまず無理だ。だから結局、国語はそんなに難しくならない。

選択肢の嫌がらせは結果的にセンター試験的バカを作る。海城、聖光、芝、渋幕あたりがこのことに気がついていないわけはない。一流校は、バランス感覚と柔軟性がある子どもをとりたいのである。合格が難し過ぎるトップ校は「変態集合」になりつつある。

ほとんどの子どもは勉強し過ぎると、器が小さくなるか「変態」になる。しかし、そんなところで陰で意外と勝利をものにしているのは、いわゆる「できるだけ塾に通わず受験に勝つ」子どもたちである。そしてそういった子は、実は別に私立に行かなくても公立でも充分である。世に出てリーダーになる前に、「世渡り」を知ることも大切である。本当の勝負は14歳以降だ。

世では、「バカの可能性」を心配するために、あらかじめ保険のために受験をする人たちが主流であることが顕現する。そして年齢的にまだ大人になり切らない若い母親を不安にさせることにより、塾「経営」が成り立つというわけである。もっとも、このレトリックが読み取れるのであれば、もっと塾に金を使うことをやめて、自立家庭学習の習慣を付けてキャンプや旅行に行くご家庭が増えるはずであるが、現実はそうならない。老人用のゲームを買い与えて平気である。ネットで出会い系サイトが隆盛する。

もうかつての「東大」のようなものを目指しても致し方ないのに、東大をヒエラルキーの頂点だと錯覚/確信する人たち。それは、個人権益を優先させて、全体利益を忘却する反グローバル反少子高齢化未来破滅的思考法に結びつく。他ならぬ東大法卒が官公庁より外国企業を選んでいるという現実。日本国内における地位学歴よりも、個人の可能性追求が優先されるという事実。

この世でたった一人の「いい女」を見つけられないならば、「東大卒」など何の意味もない。この世で、どうしてもこれがしたいということを見つけられなければ、いかなる社会的地位もナンセンスである。そして、グローヴァル化の流れの中で、すでに東大とかのブランドは、単なる「差別意識」の確認に過ぎないものになっている。我が国窮地を救うものに、東大卒が、諸手を振って「名乗り」を上げないのはいったいどうしてなのか。

世界的に株価は下がったが、特にどうして日本株がその中でも一番下がるのかの説明は禁句のようだ。諸外国には、実際接した、日本の「エリート」の多くが、自分のことしか考えない、他に自分の考えのないバカだと映るのである。ここまで教育の状態が悪いのに、「リーダー」たちが声を潜めるのである。国語リテラシーを悪化させることが明らかの、諸悪の根源のセンター試験に反対する教育学者やマスコミ人は一人もいない。これらは、「教育」よりも「政治」を優先することに忸怩たる思いのないものたちなのである。子どもたちの可能性は「無限大」なのに、自らの権益保守のために、自己反省と未来提言をしないものたち。キミたちには、子どもたちの「悲鳴」が聴こえないのか。

とは言うものの、実際の入試は、公立嫌いがいよいよ本格化して、国語漢字慣用句、社会理科重要語暗記を詰めたものが最低ラインで合格しやすいようだ。算数国語で冴えた得点ができるのも、脇を固める練習が満ちたものたちだろう。

さあもう泣いても笑っても残りあとわずかだ。月のWAVEで言うと、最後まで最大限の調整がないと、本年二月初頭の入試では実力を発揮し辛い。受験生は気力を充実して本年入試に挑んで欲しい。受かるも落ちるもそのとき次第よ。試験には、美しくやるココロが欲しい。そして勝っても負けても、昨日までと同様に明日がやって来る。