ブイネット教育相談事務所


2006-06-23 雑感

_ 雑感

_ 最近考え続けていることがある。

もし我々が、何かを学ぼうとする時において、その教えてくれる相手が愚かであると思われた時、どういうことが起こるか?

相手から「技術」を学ぼうと思っている時、知能は関係ないからそのまま我慢して聞き続けられる。自分が知らない「やり方」を教えてくれるのであるから相手はまさしく「先生」である。

では、授業などの知能を向上させる学習をする時はどうであろう。相手の説明を聞いて、この思いが3回以上起こった場合、解説をそうは熱心に聞き取ろうとする気がなくなるのが普通だろう。そしてこれが連発されるとき、我々は学んでいるものそのものへの好奇心を失うのである。

職場ならばし方がない。我々は賃金を得るために組織に従属しているのである。いかに上司が馬鹿であっても、多くの場合それに逆らわない。

教師の職にあるものはどうであろう。

彼らは、組織人として、馬鹿らしいカリキュラムと、馬鹿らしい上司と、馬鹿らしい評定基準に順じなければならない。

できない仕事を、できない仕組みで、できない環境下でさせられようとしている。

これは教職者が長い長い「ストライキ」に入っていることを暗示する。

でもね、やはりちょっと不思議に思ってしまう。どうしてそのことと、今目の前にいる、将来を背負った子どもたちが関係あるの?

何も教育だけではない。自らの生活を支えるべき労働で、どうして積極的にエネルギーを投入しないことがあろうか。競争原理がなくとも、目の前の人のために最善を尽くそうとすることは、代価を得るのなら、医者も娼婦も自転車屋も同じである。

これは宗教や思想を超えた人間真理であると私は思う。ここでは、「代価」とは自分が活かされ続けることである。

目の前の子どもの多くがウンザリしていることを知りながらそのことを継続すること、これは愚かなことなのだろうか非倫理的なことなのであろうか。

オモロいことへの評価観点、つまり税金の代償の「サービス」であることを捨象するところが現行教育の最も大きい欠点である。

アタマに良くてオモロくなければ教育ではないと思う。