2006-05-01 教育関係者の無自覚
_ 新聞で国立大学教授の意見を読んでいつもと同じような気分を味わった。
「教育には教育の論理がある。教育の場を経営や効率の論理のみで語ることはできない」。私はこういうことは言う意味がないと思う。本稿の目的はこの人を攻撃するためのものではないので詳しくは書かないが、教育学者たちはしゃべればしゃべるほど,自らが生身の生徒たちの意見にじっくり耳を傾けたことがないことを露呈してしまう。彼らの収集する情報は、学校や塾組織から上がって来るデータであり、生徒たちから直接聞いたものではなくて、教師やマスコミ関係者から聞いたものばかりである。そしてこれら全体のおおよその共通点は、子供たちから見て「交信不能」な、正直なコミュニケーションを取れない大人の集団であることである。子供たちは、校長先生に絶対に本心を開かないであろう。すぐにはコトバが通じない。また相手にそんな時間があるわけがない。子供たちはまずほとんどの教師に本心を開かないであろう。多くの子供に取って教師は、「人前でまともにしゃべれず,まともに仕事ができない、頼りにならない大人」である。教育委員に逢えば,ほぼ間違いなくほとんどの子供が、「こりゃダメだ。典型的な話が通じない大人」と即断するだろう。新聞記者に逢えば、「いい人だけれど、どっか敏感でない優等生タイプ」と感じることが多いだろう。教科書会社の人を見れば、「言われたことをやっているフツーのサラリーマン」と思うだろう。
教育の問題の最大の根源は、教育関係者が子供とまともなコミュニケーションが取れないことである。こんなにも多くの子供たちが、「先生の言っていることが分からない。先生の教え方はつまらない。教科書は重いだけ。」と感じているのに、「教育には教育の論理があって、教育の結果はすぐに目に見えるものではないから、世間にいろいろなことを言われても困る」と反論する。
つまり、「当店は,決められただけの材料で決められただけのサービスしかできませんので、お客様のお口に合わなくても我慢していただくしかありません」と毎日行く一軒しかないレストランで言われるのと同じだ。
学力低下とか言うけどもね、最も大切なサービス、教師の指導能力の圧倒的な改善と意味のあるテキストの配備、これがまずそろわなくていかなることを行っても意味がない。これ以外の改革はお金の無駄である。しかし、それがどういうわけか諸般の事情でできないから、お金のかかる新しい組織や設備を作る。一方で親たちはいよいよ当てにならなくなった学校に背を向けて、安からぬ代金と引き換えに過剰サービス教育の塾体勢にはめられて、つまらない子育てをしてしまう。大切なのはテストで点を取ることではなく、将来役に立つ技能や知識や判断力を身につけることなのに、そのための環境整備には目を向けない。
教育学者や教育行政のトップにあるものの覚醒を祈りたい。もっとも、充分に目覚めているのに、わざとそうしているとのたもうのなら、それはそれで格別であるが。最早これ以上申し上げることは何もない。
2006-05-05 子供の日
_ 子供の日
何とも忙しい連休を過ごしている。今日は子供たちは「天敵」の実家に行っていていない。10時からデスクワーク。返しきれなかったメールを打ち、今やっとこの頁を開いた。たまにはひねくれずに子供の日にふさわしいことでも書こうとしよう。
いや〜今年のV-netにはオモロい生徒が集まっていて本当にオモロい。去年も結構面白かったが今年はまさに「爆発」と言ったところ。どのボックスからも笑い声が絶えない。
男子が断然多いが、全員オモロい。そもそも実は全ての子供がオモロい潜在性を持っているのが、V-netに来るとそれを自由にさらけ出すことになるのかもしれないとすら思ってしまうほどだ。どうしてこう「オチンチン小僧」ばかり集まるのかとも思うがそれも嬉しい悲鳴である。教師全員ヘトヘトになるまで相手をさせられる。以下にその代表メンバーを抜き出してみよう。
1 食通鈍足異常国語能力ラグビー少年
2 音感抜群高潜在能力ドラマー合気道少年
3 サピックス超シニカルライター少年
4 実は多くの大人が馬鹿だったと早や悟ってしまった文学少年
5 ソロバンアタマ行過ぎのハニカミ数学少年
6 カンケリ冒険話しゃべりっぱなし作家少年
7 母親の嘆き知らず超ふざけ好き笑い上戸早稲アカ少年
_ この他にもまだまだオモロい少年が沢山。ざっと書いても分かるが、そもそもユニークな人間作りを掲げるV-netに通わせようとする親御さんのお子さんなんだから、オモロいのも当然といったところか。夏にキャンプ(合宿じゃあない!)でもやったら、可笑しいことこの上ないだろう。多分もの凄く疲れるだろうが、やってみたい気持ちを禁じ得ない。なぜならもっとすごい彼らの潜在能力が見出されると思うからだ。
だがな、キミタチ,忘れてはならないよ。女の子たちは君たちの多くとは違って,言われた復習や宿題をかなりきちっとやっているぜ。オモロいことはいいことだが、静かに今日学んだことを噛み締める時間も大切だぜ。しっかりすることもできなければ、本当に高度なオモロさを知らない大人になるのだよ。こら聞いているのか!そこのキミだ!人の話を聞きながら鼻で笛を吹くのは止めたまえ。とにかく大声で音読せよ。自分の書いた文章を繰り返し読んでより良いものにせよ。寝る前の暗記確認をさぼるな。
分かった子は元気に遊んでいてよろしい。
2006-05-06 物語指導
_ 物語指導
_ 作文の授業は楽しい。特にこちらが予想もしなかったことを物語るために文章を書こうとする子供の手伝いは実に楽しい。
なぜ一見自分勝手な男の子にクラス中がついていくのか。
ませていて体が大きくて口が達者だからと思って話を進めていくと、実はこの男の子が次々に新しい遊びを提案する子で、クラスのみんながこれに遅れをとらないように注意するからだというまるで猿山集団のような事実が判明する。
彼が「やろう」と言えば周囲が行い、彼が「やめた」と言うと、その周囲もやめるが、さらにその外周部は彼がいったん始めた遊びをし続ける。
これは古典的なガキ大将の姿である。しかしまた、この少年の家庭生活を語らせると、強い兄がいて、母親は家出していることが分かると言った、まるで文学のような世界が広がる。
これを第三者的な視点で一人称を用いずに、自分を登場人物の一部として埋没化させ、物語化しようとする営為は、このしゃべり好きな少年の未だ至らない知性を確実に育成させる作業になる。そしてまさに、「作家」の強さはここにある。
同一集団内において、「作家」ほどヤバい存在はない。彼は、主人公のガキ大将を客観化する立場に身を置くことによって、誰よりもその集団を把握している存在となる。権力を握るガキ大将ですら一目置く存在。実際彼は、「作家」であることを知られずに、すでにそれを手中に収める。そしてこのことを知るものは、彼と私のこの世でたった二人の存在である。
書けることは、いかなる権力をも上回る。
書けることは、個人の自由を保障する。
ゆえに作家は,権力を求めない。
2006-05-08 国語能力獲得の資質
_ 国語能力獲得の資質
_ やっぱり音読が上手い生徒ほど国語ができるようになるスピードが速い。
音読技術は、多少の耳の差はあっても、努力するもの全てに与えられる能力である。
しかし、困ったことに、いくら言っても私が要求する大きさの声を出さない生徒たちがいる。この子たちは本当はすぐには国語ができるようになりたくはないのだ。塾のテストで点を取ることしかアタマにないのだ。
音読は簡単なのである。大きい声で一音一音切って読みさえすればいいのだ。
音読は誰でもできる。だが、思いのほか奥が深い。
それは日本語の深さを暗示している。
教室で、グルベローヴァの歌うモーツアルトのオペラを聴かせることがある。そのコロラトゥーラの演奏を耳にすれば、誰でも一瞬何事も忘れて耳を見張らずにはいられないと思うが、そうなるのは母親の一部で、それでは残念だから,子供たちに「いいのあるから聴けよ」と大きな音で聴かすと、「スゴい!」と分かる子供が何人か出る。そしてその子供たちは音読が上手い。そもそも音楽的感性に優れるか、音読が上手くなって耳が開いているから分かるかのどちらかであろう。ところが、女の子たちは、たとえ音読がそんなに上手くなくても、たいてい分かるのである。ここには人の声の聞き分けには女性の方が男性より優れること一般であることが現れている。ということは、女の子が国語ができるようになることと、男の子が国語ができるようになることは同じアタマの働きではないことになる。
何もクラシックに限らない。超素晴らしい音楽を理解しないものが勉強できても意味ないのではないかと、直観的に思ってしまう。なぜだろうか。それは、超いいものを理解することの方が、勉強ができるようになることより容易いからであろう。
大きな声で音読するものは、きっと国語力の増強より、そのこと自体における自己の言語能力向上の手応えが楽しいに違いない。私にはそう見える。
言葉そのものへの好奇心。優れた国語能力獲得の資質とは、ただこのことのみであると言えよう。
2006-05-09 母親似
_ <母親似>
連休最後の日にやっと家族で実家を訪問。病床の父を見舞いつつ母の手料理を食べて談笑する。
明けて、小学六年の女子生徒に初めての授業。不思議なことに,この生徒は顔立ちが私の母に似ている。いや顔立ちもさることながら表情の作り方が似ている。さらに驚くことに、思考回路も似ている。アタマは正確に働くのに素直で意外と簡単な選択肢を読み落とす。手先も器用であるというのに、実際何かをやらせるといい線まで行った後はいい加減で狙いを定めることを怠る。
長い個人指導活動でもこんなことは初めてである。
私は母の教育なんてしたことがない。あるとすれば,無鉄砲で心配や苦労をかけて忍耐力をつけさせたことぐらいである。「天敵」には、一度だけ、「そんな考え方しているとやがてアタマが悪くなっちゃうよ」とアドバイスして、「私をあなたの生徒と同じようにとらえるものの考え方はなしにして下さい。」と切り返されて、以後「指導」を断念している。人呼んで、「見殺しの松永」と言われるが、辛い思いを禁じ得ない。
長いことこの仕事をしていると、生徒がそれまでの誰かに似ていることが多くなるが、これから先、「天敵」に似ている生徒や、「初恋の人」に似ている生徒が出て来たらどうしようか。本心お断りしたいが、好奇心を抑えることはできないだろう。
母に似た生徒が現れるとどういった気持ちになるのか。それは自分でも納得の行く「敬虔」な意識なのである。教師であることも生きていることもなかなか面白いことだ。
2006-05-10 宮崎哲哉氏
_ 宮崎哲哉氏
たまには一日の終わりにあらかじめ何を書くのか決めずに書くのも良いだろう。
この季節の日本の気候に文句はない。熱くも寒くもない。雨も晴れも良い。
5月9日朝日夕刊で、宮崎哲弥氏の文章を読んだ。
彼は,保守思想の空疎化を指摘し、それが「散乱」することを指摘する。
私は驚く。この人は62年生まれで私よりも5歳も年下である。宮台氏と香山氏にも驚くが、この「現象学的な記述」には、「反論」の余地がない。
私は思う。この観点はどこからもたらせられるのか?
私は想像する。この男は、一般教育に完全に背を向けることを自ら選んだ私と同様の者だ。教育を受けるより、自ら読書し判断することの方が正しいことを確信できた者だ。彼と私はルーツも道程も異なる。しかし、認識する現状はきわめて近い。しかも、彼は、「朝日紙上」ゆえに、「左翼」ではなく、「右翼」に光を当ててみせる「芸人」なのである。
右翼とか左翼とかはない。そこには、「馬鹿」と「利口」があるだけである。「古い」と「古くない」があるだけである。
私は観察した。
左翼知識人も右翼知識人も、両方さぼった。
彼らの「経済」に背を向ける姿勢はある意味で正しい。
しかし、彼らは来るべき世代に向けての納得できる「思想」を提示し得なかった。
その理由の根本は、思想警察の統制が功を奏したことである。
しかし、今となっては、公案も「公務員」、しかも「天下り先」がきわめて少ないと来ては、官僚としての未来志向性もない。
ソ連崩壊と中共資本主義化で、左翼思想は非現実化した。世は、「競争原理」を選んだのである。
礼拝的儒教主義を標榜した結果、右翼思想は沈没した。皇室が「現代的保守」を選択したのは明らかである。
左翼も右翼も経済的に大変貧しい。世代交代でさえ危うい者が多い。
この対極が天下り官僚である。
しかしこれらはアタマが良くて、右翼と左翼の対立を隠れ蓑に自己の権益を確保している。
このことに気がつけない段階で、右翼と左翼は形骸化する自分たちに無自覚である印象を与える。
それにしても、宮崎氏の優れた文章は、いかにして体得されたものであろうか。この人は実は作家志望者だったのではないか。
何を書くか決めずに書いてもいつもと同じようなことになった。私も自分の「形骸化」に無自覚なのかもしれない。非常に悔しい。
2006-05-12 教科書検定は無意味
_ 教科書検定は無意味
建設行政がチェックしきれなかったために問題が肥大化したしたのが「姉歯」事件。そしてこれとそっくりなのが、中学教科書誤記脱字問題。
新聞の目立たないところに、文科省の緊急調査で、中学校教科書の65点に計208カ所の誤記脱字があることが分ったとの記事が載った。
なにが、「緊急調査」だよ。いかにも文科省が急いで対処したかの印象をどうして新聞が与えてやる必要があるのか。新聞社にも文科省の天下り先があるのか知らん。「大慌てで調査」と書かんかい。
なんで大慌てかと言うと、これは構造計算問題と同様の構造の問題であるからなのだ。文科省の錦の御旗、「教科書検定」が、つまらないことにうるさいくせに、検定本来の仕事は丸投げしていたということなのだ。次に彼らが言うことは分り切ったことだ。「検定業務の確実なる遂行のために、必要な人員確保の予算を組む。できたら検定請け負い天下り法人を作る。」と来るに決まっている。我々は,これを絶対に許してはならない。なぜなら、検定そのものを廃止することが正しいからである。検定をなくせば誤記の多い教科書は売れなくなる。さらにそれを実際に使う教師たちに自分で選ぶ権限を与えれば、自分で苦情を会社に言えるようになる。そしてやがて、何年読んでも歯ごたえのある良い教科書が出るようになる。あまりに良く読んだために使い終わっても捨てる気になれない教科書。家族が読んでも感心するような本。こういうのを本当の「教科書」というのだ。
それにしても誤記が最多なのが国語教科書というのは笑わせる。彼らの正体見たりと言った思いだ。補助予算が多い役所ほど天下りが多い。これでいくと、検定の誤記が多いところほど天下りが多いはずである。我が国の国語教科書の拙劣さは、こうした癒着によって作られていることにもっと多くの人が気づくべきだと思う。そこには子供をおもう心は不在なのである。
2006-05-13 焼き鳥屋のカウンターで
_ 焼き鳥屋のカウンターで
金曜日。今、西荻の焼き鳥屋のカウンターで飲みながらこれを紙に書いている。
左は洗濯しまくったアロハの長髪男。あまり風呂に入らないタイプ。腋臭が強くて閉口する。もうその季節か。
右は、一目で分かる証券マンかエリート銀行マン。彼は、最初サッポロビール小瓶(360円)。つまみはバリバリキャベツ(100円)とテッポウ(90×2円)。42歳。受験勉強の痕跡の残る顔。整髪の髪に白髪。女の子がいる顔立ちだが、奥さんとの関係は最悪だろう。
左の男が立つと、背が高くて深く帽子をかぶった彫りの深い男と編集関係小さい安眼鏡の女。いかにも早稲田演劇マンと元同級生と言ったところ。赤貝と明太子スパゲティを注文。酒は、サッポロ中瓶が最初。その次が焼酎ロック。スパゲッティの食い方が下品。女の話し声には、知的女性に共通のこびやセクシーさが全く交じらない魅力の薄い印象。この二人が抱き合う姿を想像するのは難しかった。
右隣のエリ銀マンが、牛筋タケノコ(350円)を注文。表情は全くない。箸の持ち方にやや上品さ。その体得が家庭教育によるものか、就職後かは判別不明。もしもやや上品さを装わなければ、かなりダサイ顔。都立から一橋法出身に見える。単身赴任ではないが、すでに女房に逃げられたとしても可笑しくない男。こういうタイプはまず結婚相手と上手く行かない。悪い男では決してないが、価値観に柔軟さがない。しかも優柔不断。
明日は土曜日。終日事務所で相談の仕事。14日日曜日は,朝音読会で、午後から相談指導。
音読は「徒然草」。いつものごとくお暇な人は、参加してみて。大学受験生と高校生と教員の方と国語教育に興味のある親御さんにお勧めです。
2006-05-15 ゲーム報道
_ ゲーム報道
13日の朝日2面は、「PS3:Wii:Xbox360 次世代ゲーム商戦激化」と大きく報じた。私は初め勘違いをして日経を読んでいるつもりだった。
当然文面のどこかに,最近岡田尊司氏らによって指摘されるゲーム機の害についての記述があるだろうと思って、最後まで目を通したが、ついにその記述のかけらも見つからなかった。
明らかにこれは、普段の朝日のチックリ皮肉を付け足す書き方からすれば、「意図的」である。朝日は将来的に、「テレビゲームの社会責任が問われることはない」という確定的な根拠を持つのであろうか。これまでにも岡田尊司氏のことはほとんど報じない。しかしTVゲームの新しい商戦については大々的に報じる。私は,この朝日の「選択」は,後々大きな後悔をもたらすに違いないと思う。
今回の記事の理由については、
_ 1 朝日は、TVゲームファンの読者が、まるで創価学会員の読者のように怖い。
2 本当は、ここに別の記事が載るはずだったが、急遽差し替えて掲載したためにやや手薄な記事になった。
3 そもそも「記事」の形を使った「広告」でクライアントがいる。
_ 以上はどれも可能性があると思う。金を取って購読させている新聞が、読者に大切な事実を意図的に伝えない。朝日はその対立するNHKと全く同次元にあると言える。多分朝日は「悪意」ではないつもりなのだろう。だが、そう思われないようにすることに無自覚なのである。苦労知らずの高学歴集団ゆえに、自分たちの作った紙面が読者の目にどう映るのかに充分には自覚的でないのだ。これは他紙においても同じなのかもしれない。高学歴者は常識的であるが、その常識を駆使することに内省的ではない。高級官僚と同じく、こうして長い坂を転がり落ちていくのだろう。
彼らには、センター試験を初めとした選択肢試験を本格的に批判する力がない。お茶濁しの教育レポートや、学力低下教育を批判するばかりで、我が国の子供たちが置かれ続ける未来性がない教育の本質に切り込む力がない。
最後の頼みの綱のメディアに期待することができずに、一介の市民である私は、どうやって教育の本質的な改革の実現を夢見ることができようか。暗澹たる気持ちを禁じ得ない。
2006-05-16 友達効果
_ 友達効果
振り返れば、今月になってから完全に休みになった日が一度もない。その上、こうして毎日のようにブログも書いているし、大学の仕事の仕込みもしている。もちろん次の出版のための腹案も練っている。遊びが必要と思っても、遊ぶ時間がない。自著では、「男の子は遊ばせることが大切」とか言っておきながら、自分をリフレッシュすることは後手に回っている。焼き鳥屋での一杯も効果的でない。露天風呂サウナも、かえってそこにいる人たちを視て、我が国の暗い現状を思ってしまう。皆何かに囚われている。つまり今の自分と同じだ。
こりゃいよいよいかんというので、夕方OKをもらった友人宅を夜訪問すると、友人に「オマエはウヨクだ」とか完全に見当違いの罵声を浴びせかけられる。意見されることは常に感謝するべきことなので、議論すると、相手が夫婦喧嘩で機嫌が悪いことが分る。すると信じられないことだが、「人間が最も必要とすることは相手に存在を認められることだから、目の前の相手を認めないことは自分も認められないことだ。それには最低限きれいな言葉でしゃべろうとすることが必要だ。」と、普段の自分が全然守れていないことが口から出る。最近私は家族とともに食事をすることが苦痛である。なぜかと言うと、連れ合いが、「家族のための労働に感謝を期待するのは間違っている」と言ったことがどうしても受け入れられなくて、食事をしている家族を見ているとどうにも腹立たしさを抑えられなくなってしまうからである。私は自分が自由に遊ぶ暇もそのためのお金もない状態で働いている。やりたい放題の家族は、より良い生活は期待するが、私が疲れていることには一切無関心である。食卓での話題はバカの極みで、バカを自認する自分にすら到底受け入れられない。つまらない新聞よりもつまらない。「老化」と自認すればそれまでであるが、私は家族との手切れ金を払うために稼いでいるような錯覚を覚える。
で、家族のことを考えると精神衛生上悪いので、できるだけ関係ないようにする。
しかし、そのことは、先の私自身の言葉からすれば、家族の生身の人間としての存在を認めていないことになる。そして、それは明らかに人間的でない。せめてやや上品でまともな対応をするべきである。
喧嘩の仲裁は上手く行ったようだが、私にとって大きいのは以上の認識を得たことである。
やっぱり無理にでも友達に逢って正体をさらし合うべきなのか。そういえば最近生徒と話していて、もう一つ意外なことを力説する自分に気づいた。それは、
「友達は大切だよ。特に心をさらけ出し合うことができる友達は、いつまでも大切だよ。そしてそういう友達は、長年にわたる人間的な努力がなければ手に入らないんだ。」
家族を愛することを忘れかけた自分にはこのことを主張する資格はなかった。
友達に感謝する。
2006-05-19 ある認識
_ ある認識
大学で教えていると今さら当たり前だが少し不思議なことに気づく。それは、大学生が知ったら少し憤るかもしれないが、「中学生」か「高校生」に教えているのと同種の感覚を得ることである。
そもそも小学生とも対等に付き合ってしまう特殊な体質である。若い頃にはこのことのために,年配者から「長幼の序がない」と良く叱られたものだ。逆に外国人とは誰ともすぐに友達どうしになれる。その自分が,相手を「子ども」と当然のように認識してしまうのである。
子供たちに教えていると、自分がいかに馬鹿な子供であったかを思い出す。大学生に教えていると、いかに自分がこの年齢の時にアホだったかを思い出す。しかもアホのくせに粋がってもいたのだからなおさらその恥ずかしさには耐えられない。今も自分をサル同然の裸のアホだと露天風呂サウナに行かなくても強く思うが、私が言いたいのは、「人を年齢であまり区別しなかったはずの自分が、実は当然のように年齢差を認識している」という事実である。
これをハゲ同様、「老化」と認識するべきなのか、それともそれなりの経験が積もった成果と見るべきなのか、どうもよく分からない自分がいる。30歳以上歳の離れたものを「子ども」と認識するべきなのか、「若者」と認識するべきなのか。そういえば最近,30歳くらいで頑張っているものを見ると「若者」と認識する。
「子ども」と「若者」とどこが違うか。私にとって、「子ども」とは可能性の大なるものであるのに、それに自覚的ではないものたちであり、「若者」とは自己の可能性に賭けて鋭意努力して生活するものたちである。
ところで、ここで、彼らから見た場合の自分のことを考え始めようとしたが、それはあまりにつまらないと判断する自分がある。この瞬間何かが分った気がするが、それも書くことはやめる。まあ春は遥か、秋は諦め。愉しむことと収穫量の違いよ。オジさんは秋に向けて全力疾走し続けるのみ。なんちゃって。
2006-05-20 学校研究会
_ 学校研究会
金曜日の日経新聞夕刊に、どういう「利権」の結びつきか、「クラスルーム」と称する現職教師執筆のコラム欄がある。毎度さりげなく、現職教師の「奮闘」を載せるが、この世で最も不思議なことに、同僚批判はこれまで一度も見られない。私は現職教師のさりげない味方のつもりだが、今回のはあまりにもいただけなかった。
見出しは、「英語必修か 準備不足、人材に課題も」とあり、内容は、総合的な学習の時間を英語教育に充てることに石原東京都知事と同様反対の立場なのだが、市の依頼を受けた業者の派遣した講師の質を批判しているのだ。明らかにこれを書いた現職教師はアタマがオカしいか、優れて「政治的」である。こんなことを書くことが、自分たちの無自覚の表明につながることに無自覚である人物の記述である。
彼は(彼女は)、英語教師の「当たり外れ」を問題にし、「そうでなければ、全員に英語教育を保障することは、できないと思う」と臆面もなく書く。
業者派遣の英語教師は、苦情が出れば、クビになるか、再教育されるに決まっている。対して学校教師は相変わらず教える力がなくても「高みの見物」である。私の調査では、実に教師の8割以上が、生徒たちによって、「自覚のない大人」、「賞味期限切れ」と認識されている。これはこれより小さく見積もっても50%を下らないであろう。もちろん本当に悪いのは旧態然とした文科省の利権と深く結びついたシステム運用であろうが、生徒たちのほとんどは、学校の先生を「役に立たない大人」と認識している。当然親御さんもそう思っている。
このことを自覚しないで、総合学習の時間に雇われた外国人教師を批判する。これは、「能力のない教師は困る」と言っているに等しいが、自らの同僚の大半がそうであることには少しも触れない。こういう人は、自らの害に気づかぬ、即座に教師の立場を離れるべき人である。また、この人物の書いた文章を平気で載せる日経新聞デスクは、バカ以下の無能高学歴者であることに自覚がないものたちであろう。
すでに子どもたちの間では「進化」が進行しているのに、それが分らない「新聞」は、いったい何のためにあるのであろうか。ホリエやムラカミを嗤う間に、新聞がネットに喰われる日が来るのは時間の問題のようだ。書けるものが組織を作って、有料の時事サイトを構築すれば、広告収入が主体の新聞はなくなって、新聞少年は「解放」されることだろう。最後になるが、もしこれが文科省定番の「広告欄」だったら、それはそれで格別である。
2006-05-21 教師とケーキ職人
_ 教師とケーキ職人
実は前回ブログを書いてまだ15分しか経っていないが、虫の知らせで表を見ると、先ほどまで降り続いた雨が上がっている。外へ出ると、歩くより早く過ぎる雲が頭上を行く。「モンスーン」である。お百姓さんじゃあるまいし、「天候不順」に不満を唱える人がいるが、私は地球環境変わっても、この温帯モンスーン気候のオモロさを愛でてやまない。なんちゅうオモロい気候であろうか。半年先の気分が、初夏前に味わえるのである。これはカリフォルニアのスカッと晴れたsky!の爽快さに断然勝るオモロさである。この微妙かつダイナミックな変化。これは我が国でしか味わえぬ特殊な気候なのである。大陸東岸列島温帯モンスーン気候。右翼も左翼もこれが楽しめぬものは「日本人」ではない。こんなに面白い気候は世界にない。と、深夜、女子大前のケーキ屋が明かりをつけずに開いている。体格の良い男たちが、出て来る。彼らは隣のインフォームドコンセント中毒の医者のドアを開けて入っていく。いや、彼らが入ったのは、その手前の歯医者が潰れた後の空間だった。今その内部が見える。内部にはびっしりと棚があり、そのどれも、小麦粉や砂糖、そして、ケーキの材料の上から下まで山である。普通ケーキ屋が儲かると、歯医者も儲かると思うが、ここではそれはなかった。このケーキ屋は、主人がフランスのお菓子コンクールで金賞取りまくりの上凱旋した店で、その美味しさは常に通常を上回るのである。最近、自分の指導力が向上していることを実感する。教師にしろケーキ職人にしろ、仕事のさらなる向上を願わぬものはその仕事をする資格がない。世の中は変わる。お客も子どもも変わる。どうしてケーキ屋と教師も変わらずに済ませまいか。若い世代の「進化」を受け止めることができなければ、ボケ老人を嗤うことはできない。(5月20日未明)
2006-05-22 教育問答
_ 教育問答
生徒曰く、「先生、地球から全天一に明るい星シリウスまでの距離知っていますか?」
教師答えて曰く、「知らない」。
生徒曰く、「そんな大切なこと知らないで良く先生をやっていられますね。答えは、8,6万光年です。覚えるために復唱して下さい。」
「8,6万光年」
「そんな言い方じゃあ忘れてしまいます。もう一度はっきりと。」
「8,6万光年」
「もう一度!」
「8,6万光年!」
「あれ?おかしいな。あっ、すいません間違えました。本当は、8,7万光年でした。もう一度言って下さい。」
「8,7万光年」
「もう一度!」
_ どなたか、こういう子どもの対処方法を教えて下さい。
2006-05-23 ・・・っていうのは一種の冗談でしたというシリーズ1
_ ・・・っていうのは一種の冗談でしたというシリーズ1
_ 南無妙法蓮華経のサッダルマプンダリーカ(正しい教えの百蓮)にも『方便品』が、バイブルにも「初めに言葉ありき」とあるから、表題を開始することにする。もちろん前回書いたことは一種の冗談でした。それもその前のブログに基づいた。
最近このブログを飛ばし読みをして重要ではない内容を抽象構成して私の人格を勝手に決定する人がおられるようなので、ここに正直に冗談な告白をさせていただく。
最近右翼と思われる人に、「自分は右翼ではないが、貴兄はウヨクだ」と言われると、自分がウヨクなような気がして、左翼的と思われる人物に、「キミはアナキスト的体質だね」と言われるとそんなような気もし、中道左寄りの人に、「あなたみたいな人を典型的な保守主義者というのですよ」と言われるとそんな気もし、インチキ教育評論家に、「あなたは確信論的現代教育破壊主義者だ」と言われるとそんな気もし、「何という無教養!」と言われるとその通りだとも思い、キリスト教者に、「あなたは大切なことが分っていない」と言われると、その通りだと思い、現実的に生きることこそが現実的だと信じてやまないエリート銀行マンに、「わけが分からない存在」と受け取られて、ほとんど自分が何者か分らなくなるが、ほとんどの人が私より気候の変化や月の満ち欠けにふだん興味がないことに驚愕する自分がある。
天ハ人ノ上に人ヲ作ラズト言へリ。この「テン」が、頭の上の空のことを言うのであれば、空について語れぬものたちは、人以前の存在だということになろう。もちろんそれが「ハゲ」のことを意味するのであればそれはそれで格別であるが。
以前に山尾三省の訳でラマナ・マハリシの本を読んだ時に、「自分とは何か?=What am I?」の問いかけを断続的に行ったことがあった。それはグルジェフの「自意識的苦痛」を公案にしていた時と同時期だったかもしれない。2週間目に「回答」を得た。その答えは、きわめて即時的に、まるでフェンスに当たったボールのように跳ね返った。「そう尋ねるところのオマエである」というのである。
長くなるのでこの「冗談」はこれくらいにするが、自分の環境と自分の境遇に自覚的でないことは、一種愚かなことではないのか。
2006-05-25 習慣性
_ 習慣性
_ マイケル・ジョーダンが引退する時に、カツラ業界から「待った!」が掛かったというのは前回同様つまらぬ冗談でして。
現在の自分に悩む前に、現在の自分が一つの習慣性によって生かされている存在に過ぎないという事実を認識した方が良い。例えば、我々の思考は言葉によって支配される。そこにはある言葉を使って生活する習慣がある。だいいち、一人称ですら、「僕」、「私」、「オレ」、「わて」、「わい」、「ワシ」、「ウチ」、「朕」、「ワレワレ」、「ボクちゃん」その他無数の使用語があり、その使用によってその人の思惟形態は方向付けられる。やくざの親分がボクちゃんを使えばマンガであるが、小泉首相が使っても問題なさそうなところが可笑しい。同一の一人称を使ったからといって同一の思考が生まれるわけではない。さらにその内側にはその人の思考習慣がある。例えば、同一の言葉による祈りの習慣などは必ずその人の思考形態に大きな影響を与えるだろう。またここには言語による習慣方向性もある。中国人と日本人で考えが違うのは言語が違うことによる面が大きいだろう。同様に英語を母国語にする人たちと、アラビア語を母国語にする人たちでは思考の習慣性が違うだろう。つまり日本人は、その使用する日本語によってその思考習慣を支配される。さらに言えば、現代の日本人は現在使われている標準語によって思考習慣が支配されている。また、TVはインパクトの強いものであるから、モニター上のワイドショーにアタマを支配されるものは、必ずTVの言語パターン思考習慣の支配を受ける。
自分の今の悩みは、自分の現在の思考法によってもたらされているものであり、ある種の習慣性の発露である。こう思うと悩むこと自体が馬鹿らしい。しかしこれに気がつくことは、若い間は並大抵のことではないだろう。そしてそれに気づくことなく歳取ることが、あはれなのだ。
2006-05-28 片岡義男「雨の日のカフェ」
_ 片岡義男「雨の日のカフェ」
相変わらずの「冗談」でこれを書く。
日曜日経文化面で、「雨の日のカフェにて」という題で、片岡義男氏のエッセイを読む。
この人は植物の芽のような柔らかい文体で、奥行きがあるかのような感触を与える文体を持つ。
話は、ハワイ生まれでハワイ育ちの彼の父親が、若い時に過ごしたカリフォルニア南西部の町ニードルズ(本当は、横文字で記したいのであろうが、この人は敢えてそれをしない)について、それがいかに熱くて乾燥していたかを語ったことを伝う。
その上で、それに連想される、レイニー・デイ・パンケーキという滅多に降らない雨の日にのみに提供されるメニューについて語り続ぎ、そしてそのことを記す理由が、西麻布に移転した出版社の地下に、「レイニー・デイ・ブックストア・アンド・カフェというスペースがあることが紹介されて、今そこにいてこれが書かれていることがタイトルから暗示される。
これは一種の「広告」作品かもしれない。
連想は、雨の日のここでの最適のメニューへの考案に至る。
しかし、これはあくまで「随想」である。それも本質的に「随想」である。そして我々は、「随想」というものの本質が、このようなテキトーな事柄についての「ポエジー」であることを再確認する。とりとめがないと言えばそれまでであるが、そこには、もし時間があれば、つきあっても良い何かがある。
筆者は、村上春樹氏の文章に、どこかふっとさせられるものを感じることを認識しながら、これを「下らない」と分別する性向を持つ。対する片岡義男氏には、「淡いけど真似できない」硬質さを感じて来た。ひょっとしたら音読に適する作家なのかもしれない。村上氏は、音読すると、まるで大江ノーベル先生のように、馬脚が現れてダサイ。片岡氏は、音読すると、日本文学の流れに関係なく、なぜか甘い。
2006-05-30 エリート主義
_ エリート主義
前回のも一種の冗談だが、日経で、西沢潤一氏のインタビューを読んだ。氏は、元東北大の学長で、世界を代表する半導体関係の研究・開発・発明者だ。我が国には少ない独創的な学者である。教育にも積極的に参加する人物だとは思っていたが、今度は首都圏大学東京の学長になっているとは知らなかった。
氏は、国力の源泉は国際的な競争力のある工業製品の開発だと述べ、にもかかわらず、我が国では独創的な研究者を支援する体勢が出来ていないと指摘する。さらには独創的な研究者を産み出すには旧制高校的なエリート主義の復活が必要であると言い、「16歳くらいで暗記中心の勉強から解放し、幅広い知識と理解・思考力を身につけさせる」と語る。
79歳である。その見識は若々しくて尊いが、やはり我が国の教育の構造的な問題点が分っておられないのではないか。
筆者は、旧制高校的な学校存在に肯定的である。その理由は、若者を無意味な勉強から解放し読書させる環境を整えたいからだ。しかし第二次大戦を挟んで、旧制高校はエリート主義の行き過ぎで形骸化し、結果的に志に関係なく東大などの最高学歴を持つことに国民的幻想価値を与え、現況の高学歴指向社会を作り、教育は空疎化された。多くは家から遠く離れた旧制高校に通うことが出来たものは、親にその財力のあるものが大半を占め、金のないものは地元に残って高等師範に通うというのが定番だった。16歳で大学合格資格を与えるとは、それを目指してさらに受験教育の低年齢化が求められることになるに決まっている。そしてそれには、子どもが小さいうちから金をかける力があるものだけが参入することになるのは明らかだ。結局少子化もさらに加速されよう。旧制高校合格を現在の親が求めるとどうなるか。まず、授業効率の悪い公立小学校に通わすことを出来るだけ避ける必要があるから、小学校入試が激化する。さらにその小学校は中学校と合体して、小中一貫校となり、その上で進学塾教育が加熱し、未来のエリート候補たちは今よりも過酷な少年時代を過ごすことになる。そうでなくても、中学受験はさらに前倒しで過酷なものになろう。なぜこの人は国立大学が自ら独創的な学生を採る試験制度を導入するべきだと語らないのか。なぜまず諸悪の根源のセンター試験の廃止を叫ばないのか。「エリート教育」の主張により、エリート以外のその他大勢が大きな損失を被ることをなぜ顧慮しないのか。だいいち過酷な詰め込み教育を受けた「エリート」が独創的な人材になる可能性が大きい可能性は限りなくない。そうではない。独創的な考え方が出来るものがたまたまエリートの中に含まれていたに過ぎないのではないのか。そしてそうではない学歴だけの無能力者の山の輩出が現在の教育問題の最も大きなところではないのか。だから、独創性のあるものを多く育てたければ、即座に、文科省の教育システム全体を見直し、同時に公立小学校の教員の質を向上させ、入試選抜基準を変えるべきということになるはずなのだ。それをいきなり「エリート主義」では、「日の丸」と言っているのや、「儒教教育」と言っているのと同じである。
良い老人は子ども時代の思い出を語るべきである。野山を走り回って友達と切磋琢磨した経験、それが彼らの独創性を育んだことを思い起こして欲しい。
こうした偉い人にこそ、「愛国心」という言葉の取り扱いで長々と議論して国民をしらけさせ、その間にすぐに着手するべき教育改革を先延ばしにして子どもや親を幻滅させる政治家たちを批判してもらいたい。