2006-07-01 無能教師と無能教育関係新聞記者
_ 無能教師と無能教育関係新聞記者
相変わらず教育業界からは干されっぱなし。10冊以上出しても一度もインタビューすらされたことがないのだから、新聞社からも完全に意図的に無視されている。郵政民営化の今日、我が国の教育が近未来にはどうなるのか、そんなことは見え見えなので別に話してやる必要もない。
朝日は、全国版の夕刊トップに、「渋谷区の小学生の25%が、私立・国立小に通うこと」が「本社調べで分った」と書く。「公立不振も」と書き、その原因は「円周率3」以来であると書く。バッカじゃなかろか。公立離れは、教師の質が悪いことが最大の原因なのである。またそれに対処できない教育委員会に対する反発なのである。郵便小包より宅急便を選ぶのと同じなのである。誰だって金があれば、子どもにサービス精神と責任感のある教育機関で授業を受けさせたい。しかし、このことは書かない。明らかに朝日には、教室で新聞を使ってもらう代わりに教師のことを悪く書かないようにする意図が見える。全国版のトップになぜ東京都内の公立中だけの調査結果だけを載せるのか。せめて関西や名古屋の現状も比較のために乗せるのが当たり前であろう。百歩譲って、そこに政治的な意図がないとしても、朝日の教育関係の記者は完全に森前首相のように能力の劣ったものが配置されていると判断できる。悔しかったら、本当はどんなに子どもやご家庭が無能教師に苦しんでいるかを記事にして見ろと言いたい。
朝日と日経しかとらないから他の新聞のことはよく分からないが、日経は、さすが経済新聞だけのことがあって、教職者とはしがらみがないはずなのに、朝日よりさらに馬鹿な記事を平気で乗せる。30日夕刊では、「変わる土曜日の学校」と称して、「公立高復権へ入試に的」(意味不明日本語)と来た。土曜日に授業時間を増やす学校が増えていることを報道している。私は公立高で優秀な成績を収める生徒を何人か持つが、どの生徒も、「聞いていても何にもならない教師が80%を占める。授業では寝て、家で勉強する。都立校進学校が健闘しつつあるのは、周囲の進学機関を上手に利用しているから。」と断言する。だから新聞は、どうして都立校の教師の質が向上しないのかを書くべきなのだ。
子どもたちの本音はほとんど取材しない。公立高の指導法が30年前から変わらないことも明らかにしない。これでジャーナリストをやっているつもりなのだろうか。彼らはクビになることがない公立学校の教師たちと相似である。
いい忘れたが、教師の給料が低い現状では、私立の学校も良い教師を抱えるところはきわめて少数である。
以上もちろん「冗談」で書いた。
2006-07-03 陰山英男氏立命館に奉職
_ 陰山英男氏立命館に奉職
百マス計算などで有名な陰山英男氏のインタビューが日経夕刊に連載されていた。彼の教師としての履歴には、私の経験とやや重なるところもあり、興味深い。
まず、彼は教育学部出身者ではない。大学は法学部で、哲学書を愛読した。私はかねてから言っているが、国語能力の高いものは法学部と哲学科に多い。ただ知識を覚えることが主体の国文科と違って、法学や哲学の世界は、暗記より理解することが主体であるからだ。しかも自分で本を読んで考えることがほとんどである。ちなみに私は哲学科の出身である。
彼はそもそも教師になるつもりはなかった。私も同じである。私は作家を志してバイト生活をした。彼はアナウンサーを志したが試験に落ちて、短期間の暗記学習で教員採用試験に合格した。そもそもの集中力も知的能力も高いのだろう。そして、この体験が、「徹底的に繰り返して覚えれば脳が自然と記憶してくれると知り、この体験が後年読み書き計算の実践を支える精神的な支柱になった。」と語る。
教師の仕事は最初のうちは失敗の繰り返しで、都市部の学校での教育に失敗して、過疎地の学校で百マス計算を利用して効果を出した。私は百マス計算は、都会の学校では通じないと主張して来た。彼は、「単純計算の繰り返しで脳が変わった」と書く。さすがに単純計算学習の主唱者だけあって、なかなか認識も単純である。
私は、単純計算の繰り返しで脳が変わったのではないと思う。彼以前の教師たちが、基礎計算を確実にしかも速く計算する練習をすることで暗算力を高め、後々の算数学習の土台を作ることをないがしろにしていたのだと考える。音読学習も同様、先取り漢字学習も同様である。つまり、私と同様、世間の教師が見落としていたことを、教育学部的な指導方法を学んでいなかったために実践できたのである。都会の、特に東京の教師たちは、この基礎的な学習を家庭と塾にゆだねている。
今彼は立命館大の教育学部の教授に招かれ、立命館の小中高の教育の方向性を導くことも任された。さすが試験のうまい立命館である。立命館は柔軟だと思う。教育学出身の大学教授たちがよく許したものだと思う。というよりも、一般もそろそろ気がついている通り、実は大学の教育学部はもはや完全に行き詰まっているのではないのか。私も今春から大学で文章構成について教えるようになったが、一発でほとんどの生徒が文章が書けるようになり、その後の進歩も驚くほど著しい。もし彼らがこの力を小学校でつけていれば彼らはこの大学に来ることはなかったはずだ。他の教育についてもそうである。私には、彼らが日本の教育の「犠牲者」に見えてしまう。
陰山氏を雇うのが私立の大学であって、国立の大学ではないことを誠に不思議に思う。でも実体はやはりそうなのである。
誠に僭越ながら、陰山氏を遥かに上回る教育メソッドを開発して来たと自負する私は、「いろいろなことに手を出す謎の人間」と捉えられて敬遠されるのが一般である。いつも先へ行過ぎるために、一般の理解を得づらいが、どうせやがてはみんなが始めることと確信して、体力の続く限り後に続く有志たちに伝達して行こうと思う。
2006-07-06 朝日スポーツ新聞よさようなら
_ 朝日スポーツ新聞よさようなら
4日付の朝日朝刊一面トップを見て、ついに怒り心頭に達した。サッカーの中田選手が引退表明をしたと報じているのである。何度も朝日の一面に怒っては止めて、他紙をとって幻滅して、また朝日に戻して来たが、もう金輪際とることはないつもりだ。読者をバカにするなと言いたい。私は最近『正論』などにも寄稿しているが、決して右寄りの人間ではない。『正論』が「書きたいことを自由に書いて下さい」と言うからこれに書いているだけだ。文春や『世界』が同様のことを言ってくれれば、喜んで書くつもりである。私は、自身の考えに基づいて行動する一般市民のつもりだ。私は本当のことを伝えたいし、新聞にもそうあって欲しいと願って来た。しかしここまで「大衆」として見下されるのであればもう読むつもりはない。
私がとっているのはスポーツ新聞ではない。朝日の幹部はどうしようもない無能者の集団である。文春などに攻撃されて発行部数が減って苦しむのは分る。しかし朝日は真面目な読者がいることをあまりにないがしろにし過ぎる。高学歴者が一般大衆を見下した姿勢に許しがたい怒りを禁じ得ない。朝日が創価学会の記事を書かないのも、日教組の圧力について書かないのも、皆発行部数のことを考えているからであることは想像に難くない。朝日は学校教育同様、断末魔の状態にあるようだ。
実はこれには多少の伏線もある。昨日私は教育関係執筆の情報要素として、週刊朝日臨時増刊の『一流校に入る』(700円)を買ってしまった。その内容は、朝日が真似したPRESIDENT誌よりひどかった。これは大手塾関係者の情報を公器を使って「広告ではなく」提供するものだった。だったら、700円は高過ぎる。200円で良いではないか。つくづく役人を含めて日本の高学歴者はバカだと思う。彼らは世間が見えない人たちである。
この怒りは、NHKに対するそれと全く同等である。私は朝日の有意の記者を本当に気の毒だと思う。君たちは公立校の有意の教員たちと同じ扱いを受けているのだ。内部告発も許されずに。政治や経済や外交ではなく、たとえいかに優秀な選手であっても、一スポーツ選手の引退について朝刊一面トップで報ずるのはおかしい。朝日にはどうして内部告発する機能がないのか。組織的に完全に不能状態にあると言えるのではないか。
明日調べて、中田選手の引退記事を一面トップに掲げなかった新聞に変えるつもりである。真面目に宅配してくれて来た配達者と販売店には誠に心苦しいが、最早堪え難い。
2006-07-09 原稿快調
_ 原稿快調
期末テストが終わって、夏期休暇が近づく中、アポで手帳がどんどん真っ黒になる一方で、快調に原稿と企画を進めている。こうなると寝ている最中も食事の最中も原稿のことを考えてしまう。しかし、昔から不思議に思って来たが、忙しい上に忙しくなっても、「死にそう!」とか口にしながらも、なんとかやっていけてしまう自分がいることに改めて感心する。私は神に対しての信仰があるわけではないので、周囲の人や環境に感謝することになる。
朝日を辞めて産経にしようと思ったら、何と産経も一面トップに中田選手の引退を報じたそうで、以後ネットで情報を得ることにしようと思うが、テレビを持たない私としては日経だけではどうも寂しい。それにしても日本のマスメデイアはついに地に落ちた感がある。さんざん他者批判をしながら、自己批判ができない体質はいかんともしがたいようだ。
実は、夢の中でいいことを思いついたので寝床を抜け出して机に向かったが、どうしてもそのことを思い出せない。台所で「天敵」と出くわして2〜3会話してしまったのが行けないようだ。誠に情けない。これはいつものことで、散歩中の曲想を、机上でリアルに思い出すことができたと言うモーツァルトの才能を羨ましく思う。
今日は、午前に作文指導、午後からホビット村でカタカムナ音読会、その後教育相談と国語記述指導。明日は午前が編集者と打ち合わせ、午後から4件の国語指導をこなす予定だ。その間に2つの企画案と執筆を行う。その背後でやらなくてはならない仕事がどんどん後ろへ流される。昨日が誕生日だった病床の父を見舞うこともできない。
だめだ。どうしても思い出せない。最近このブログの読者の方が増えて、コメントなどもいただけるようになり、それを励みにこうして書いているが、大したことが書けずに申し訳ない。
以上久しぶりで「冗談」抜きで書いた。
2006-07-11 四面楚歌
_ 四面楚歌
今日もしんどかった。午前に出版社と新作打ち合わせ。続けて一橋大国語記述指導を3時間。その後、都立国語選択肢指導、武蔵中学国語記述指導、高校地理教科書学習、各々2時間解説。都合13時間連続の仕事である。密かにキャンセルを願うがそれもなし。回復遅い中年男、昨日の音読会の疲れが大きいが、我ながら不思議なことに最後までもってしまう。座り過ぎでお尻が痛い。
午前零時。こうして机に向かう。これから執筆を開始するが、その前に自由に書いてみたい。もちろん今日は、いつも通り、「冗談」である。
朝日が一面トップに中田選手の引退を掲げたことにより購読を打ち切ったことはすでに書いた。またその代わりに取ろうとした産経も同様なことによりその購読を控えた。では読売はどうか。読者の方で、読売の4日一面トップが中田であったかなかったか知る方はコメントして欲しい。
考えた。そして「情報収集」もした。
なぜ、有力一般誌が中田引退を一面に掲げるのか。
すでに私は、文科省も教科書会社も日教組も批判の対象にして来た。右翼も社会主義も、「時代遅れの非現実路線」と切り捨てて来た。宗教団体も「単なる営利組織」と認定して来た。この上でマスメディアを批判の対象にするのであるから、まさに「四面楚歌」を自ら選択していることになる。ゆえに「冗談」という「戦術」を取っている。
少なからぬ方からご意見を賜った。
「新聞は売れないから、そうせざるを得ないのよ」
「活字読者の減少により大衆路線を取らざるを得ないのだよ」
「イギリスのタイムズ紙は、BBCのサッカー称揚路線を批判した」
そしてついに、「中田引退を掲げてくれるなら、わざわざスポーツ新聞を買う必要がなくて助かる」というコメントを頂戴した。
以下に、思いっきり「冗談」で、思うところを述べたい。
読者は、Jリーグが始まった時の新聞の一斉の協力報道をご記憶であろうか。読売が巨人を利用して発行部数を伸ばすことに対抗して、朝日などの各紙は大きくサッカーを取り上げる路線を取った。
どうしてであろうか。
我が国の新聞は、政府の規制により、「第三種郵便物」の扱いを受ける。第三種郵便物は、広告面が全体の半数以上を占めると取り扱いの対象から外れる。ご存知の通り、大手新聞も週刊誌も、その収入の大部分は広告収入によるものである。つまり、テレビ同様、雑誌や週刊誌も広告がその収入の主体である。広告面を増やせば増やすほど大きな収入をあげられることになる。でも「規制」がある。どうしたら良いか。それは紙面を増やせば良いのである。そしてそのためには、「記事」を増やすより、スポーツ面での写真や図解を増やせば良い。写真は活字と違って、引き延ばしが自在である。つまりサッカーなどの記事を増やせば、付帯する写真によって紙面の記事の占有率を容易く増やすことができ、その結果多くの広告を載せることが可能になることになる。W杯の間は、全面新聞広告が多くなる。新聞社にとっては膨大な収入である。だから、新聞にとっては、W杯サッカー様々なのである。それだからこそ、新聞があまりにW杯よりの報道をすることに私は怒るのである。お金を払って読むことが馬鹿らしいではないか。しかし、新聞のそれを選択せざるを得ない苦悩を思うと、文科省主導の、センター試験に代表される、国民の国語力を低下させる教育行政に怒り心頭になる。さらには新聞がこれとつるむことに許しがたい思いを禁じ得なくなる。読者の活字離れの大元の文科省行政を批判せずに、スポーツ記事の増幅により、利益を上げることを優先する。こうなると新聞は、行政監視の役割を果たせなくなる。また新聞に載る個人執筆の記事のほとんどが、「癒着」によるものであることを推察することが正鵠を得ていることになる。新聞は絶対に自己批判しない。真面目に新聞を読み続けるものを嘲笑する。読者を嘲笑して、どうして公器たる新聞が成立し得ようか。毒矢は新聞に書かれることを常に何か別の事情か意図のあるものかと疑わざるを得ない。これでは全人代検閲の中国の新聞と変わらないではないか。できることはただ一つ、新聞購読をやめることに他ならない。
2006-07-15 気候と能力向上
_ 気候と能力向上
出版物の売れ行きが好調に伸びているせいか、ここのところ、当ブログのアクセス数が多くなって来ている。それにともなって、かねて筆者が願って来たコメント数も増大し、結果的に、このブログを読んでいる人が、意外にも、愚直で不真面目で不謹慎な筆者を遥か上回って知性的な人が多いことが伝わって来る。
海抜1600mの高原牧場から降りて来ると、灼熱の東京があった。
しかし、私はこの夏決心しているのである。我が国の気候に文句を言うまいと。
我が国の気候が変化に富んだ世界に類い稀なるものである認識はすでに何度も表明した。ゆえに私は、気候に文句をつける癖をやめようと気張っているのである。この世界に類い稀なる気候をオモロいと捉えることによって、その変化をストレスの解消に使おうと思っているのである。
西荻焼き鳥カウンター。編集者到着を待つも、「校了いまだならず」と連絡が入る。隣の御仁は、「今日の暑さは戸外労働の身には本当にきつかった」と語って、ビールを飲み干す。この人は誠実でいい顔をしている。忍耐に忍耐を重ねた顔をしている。同年輩だと思う。家の近くに、作家の志茂田景樹氏がいることを嬉しそうに語る。
教育者に最も大切な能力、それを私は、「観察力」と述べて来た。しかし、その観察力とは、生徒に適宜にエネルギーを注入するために必要な能力であった。教育にもっとも大切なこと。それはエネルギーの注入である。自分の体力や、その日の家族との時間を、「仕方がない」と割り切って鋭意努力しないと、有能なサラリーマンが労働するのと同様の仕事はできない。毎日くたくたになるからこそ労働は尊い。何となれば、その渦中で自己向上があるからである。神経的にもかなり参る。しかしそれを克服しなければ、胸を張れる仕事はできない。
あらゆる学習の目的は、単なる知識獲得やそれに基づく偏差値上昇ではない。そうではなくて頭そのものが良くなってしまうことである。能力が向上し続ける習慣をつけさせることこそが教育の目的である。そしてそれは川島教授らが語るように単純なことではない。
変化すること、この脳が最も求めることを自ら与えて行こうとする決意と実行が大切である。それには好奇心の中心点に自己の能力の変化向上を掲げることを常に意識していることが欠かせない。日本の気候は絶えず変化する気候である。能力向上にぴったりではないか。これを利用しない手はない。
2006-07-17 現状学校教育実情
_ 現状学校教育実情
出版物では読者水準が限られるため本当のことが書きにくいので、いよいよ読者の水準が確認された当ブログで本格的に書いてしまおうと突然決意する。テポドン発射である。建前は金正日同様、「冗談」である。ご理解いただきたい。これからはいよいよ「危険領域」に足を踏み入れることになる。つまりは「連載」の開始と思っていただきたい。
そもそも私は、中学受験に積極的ではない立場であった。それは、つまらない受験勉強で子どもの純粋な好奇心に基づく追体験の時間を奪いたくないからである。しかし、子どもが最も多く時間を費やすのは、学校における時間である。そしてこの時間は、悲しいかな、現状では限りなく無意味に近い。
公立学校に通うとアタマが悪くなる。その理由は、教師が能力的に劣ることと、テキストたる教科書の制作観点が劣悪であるからであり、さらにはこれを容認するシステムがあるからである。以後しばらくそれらを明瞭に解説して行くことを当ブログの目的としたい。
現在私のもとに教育相談に訪れる方で、学校教育のどうしようもない現状に不満を述べない方はほぼ皆無と言って良い。しかし、何度も言っているように、新聞などのメデイアは絶対にこのことを書かない。ここには「密約」があると思ってまず間違いないと思う。
反面私は、教師と新聞記者の両者に同情的である。彼らの立場ではそれを自覚することもほとんど不可能だし、またたとえ自覚したとしてもいかんともしがたいのである。もうどうしようもないのである。
それはなぜか。その理由は、彼らが現在の地位を得るために、我が国現状の試験システムの中で高得点を目指して学習を重ねた人たちであるからである。
我が国の現状の試験は、知識のクソ暗記と、無意味なレトリックの読み取りに尽きる。選択肢、さらにはマークシートでの高得点学習はろくな人材を産み出さない。そして、この方面での高得点を目指してその「資格」を得たものたちが、教師であり、マスコミ記者なのである。
なぜ彼らの「質」が劣るか。その理由は、バカな試験のためにバカな努力を重ねたものたちであるからである。
教員採用試験は、単なる知識暗記の試験である。単なる知識暗記の試験は絶対に頭に悪い。物事の理解より、結果的な知識を記憶しようとした場合、そのものは必ず知性を減退させる。これは必然である。以下、次回よりそのことについて徹底的に書いて行こうと思う。
2006-07-20 現状学校教育実情<連載2>
_ 現状学校教育実情<連載2>
一冊の本に書くべきことを、このブログの読者諸兄にお伝えするために書くこと、光栄に思う。書き手にとって、真面目な読者に恵まれることは大いなる悦びである。
本欄では、なぜ我が国の教育が改善されないのかを明らかにし、その上で、できればその解決のためにはどのような認識が必要であるかを表明して行きたい。
_ 筆者は、高校時代にご多分漏れず思春期ノイローゼになり、その自己解決のために哲学科進学を志したが、2年浪人しても私の学びたい哲学を教えてくれそうな国立大学に合格できず、私立の慶応義塾大学文学部に進学した。1977年のことである。
ここで私は3つの不思議な事態に遭遇した。まず、私学とはいえ、一応最難関の文学部に、ごく一部を除いて優れた指導者がほとんど見当たらなかったことである。特に、50前後の助教授連中はひどかった。「文学部唯野教授」、学者として尊敬できる人は、やけに高齢な人たちに限られた。後は、専門分野を研究することによる人間的な輝きや高度な精神性が見られないものばかりだった。どうして入学試験が難しいのか全く不思議に思ったものだった。別の学校に進学した高校時代の友人たちに確認すると、ほぼ同様の答えが返って来た。
次に、驚いたのは同級生たちだった。文学部というのに、バルザックやドストエフスキーはおろか、スタンダールすら読んだことがない人間がほとんどだった。哲学書に至ってはほとんどの全ての学生が読んだことがなかった。本を読んだことがないものが文学部に集まること、不思議としか言いようがなかった。私は高校後半から読書にはまり、浪人中は2日に一冊の割合で読書し、文学部に入学すれば同様の友人に多数恵まれて大好きな文学議論が展開できると大いに期待していたので、スタンダールの名前すら知らない者にも驚いたが、「文学史でやらなかったの?」という発言に至っては心底幻滅したものだった。
3つ目は、現役で入学した優秀な女子学生たちのつまらなさである。この人たちは、まるで小鳥がさえずるように英文を読み、これを見事に直訳する力があったが、背後に表現されるものを読み取ることができないものばかりだった。彼らは、文学作品上の「嫉妬」とか「皮肉」を読み取ることが全くできないようであった。また彼らの多くは芸術鑑賞の能力がほとんどなかった。作曲家の名前などは良く知っているのであるが、モーツアルトですら心から楽しむことはできないようであった。彼らにしてみれば、「モーツアルトであるから良いものである」のであり、「快感を与えるものが結果的にモーツアルトである」ということはなかった。例外は、慶応女子校からワグネルソサイエティーに入部した人たちで、この人たちは輝かしい高嶺の花に感じられた。反面外部から厳しい入試を突破して入学したものたちにはそういう素養がある女性はほとんどいなかった。また、外部受験者たちは、自律神経的に病んでいるものが少なからず見受けられ、このことも不思議に思ったものだった。
つまり、この文学部に外部から入学したものたちは、勉強はできるが芸術や文学に疎いものたちばかりだったのである。このことは上智大学でも同様で、唯一違うのが早稲田の男子学生の一部だったと記憶する。早稲田には女子の付属校がなかった。私は高学歴の女性たちは知識は豊富でも感受性が乏しいものが実に多いことを観察した。しかも彼らはプライドだけは妙に高いのであった。つまり、知識はあるのに感受性に劣ることに自覚的ではなかったのである。私は実に不思議に思った。私は今日に至るまで感受性のない女性に魅力を感じることはできない。オモロい男の友人に恵まれた自分にとって、女性とおつきあいする悦びは男性にはない感受性の強さに驚かされることだけだった。
2006-07-21 現状学校教育実情<連載3>
_ 現状学校教育実情<連載3>
純粋な好奇心―サヌキ。
伸びやかな感受性ーアワ。
この2つが教育上最も大切なテーマであることは明らかである。
伸ばすべきものは、自己の純粋な好奇心に基づいた成長とその自覚である。
「感受」すると同時に、発信しようとする「対向発生」の気づきである。
創性をともなう心情には、先行して好奇心が欠かせない。
知性の源は好奇心である。
アソビ心とフザケ心である。
感性に伴う好奇心には、心情が欠かせない。
感受性の源は、快感認識である。
思わず「オモロイもの」と思わず「ココロヨイもの」。
「どうしても素通りできないもの」(『FOUR WINDOWS』)。
これが「進化」の原点であろう。「コワイもの」は二の次である。つまり、「アドレナリン認識」は、「ドーパミン的認識」の部分集合に過ぎないのである。
天空の星と雲と月と太陽。
地上の波と「波動」の感受。
両者の共通点は、「変化すること」である。
この変化の観察がないものは、常に論理理性的な因果の解明の呪縛に落ちる。
予測不能なもの、それに欠かせないものが、「直観」であることは言うまでもない。
つまり、「予測し得ないもの」を感受するのが「知性」の本質なのだ。
「知性」とは「勃起」している。なぜなら、「快感」を求めるから。
「感性」は、「自己湿潤」する。なぜなら、「快感」の可能性が高まるから。
このような「真理」を子どもが知るはずがない。
この「真理」は、16歳以上まで感性と創性を持続できたものにのみ体得される。
これを「抽象化」すると、「知性、感性に先行して、快感を示唆するものがある」ということになろう。我々は左右脳以外にそれに先行する脳で快感を感じることができるのだ。
エクスタシー(=極めてまれに見る、同一時間的に乃至は結果的に必然としか言いようのない偶然的「遭遇」)の法悦)を感受できないものたちは、絶えず「左脳」に支配され続けるものたちである。美味しいものに「分別」はいらない。
「エクスタシー」とは、偶然とは思えない、必然的遭遇の快感追体験である。心の奥底で強く求め続けたからこそ、そもそも「それ」がそこにあったことを追体験する。エクスタシーは重力を感受しない次元の快感認識である。
「オーガスム」は、世間的欲得の観点で「価値判断」できるが、これに対して、あたかも重力場を超越する体験を垣間みさせるエクスタシーは、生命エネルギーそのものの認識印象として残る。ここには快感に対する価値判断がない。存在したことへの感謝の念があるのみである。
エクスタシーは、知識では得られない。体験しなければ分らない。
「無分別無重力境遇」。
この体験にはいかなる意外なこともあり得るという充分な試行体験がなければ、よほどの幸運がない限り、簡単には到達できない。
私は宗教家めいたことを言おうとするのではない。快感には、「種類」があると言いたいのだ。「オーガスム」なら商取引可能だが、「エクスタシー」だと、「縁」が生ずるため、「無条件愛=存在愛」が必要になって、これは逆転的にそれを感じることが尊い人類愛に転化するのだ。さよう、習慣的「不倫」は、最も常識的に優れて人間的に「倫理的」になり得ない。つまりエクスタシーの共有は、他者存在感謝の共有のもとの認識となる。
ここでいささか不謹慎ながら面白いのは、エクスタシーは性の営みにおいて最も得易いということだ。三島の『沈める滝』や中の『銀の匙』ではないが、エクスタシーは、「一期一会」の体験的「暗示」である。
そんなことも、あたかも気のせいである。
エクスタシーに好奇心を持ったものは、「千載一遇」を座右の銘にするべきである。エクスタシーには「予想」がない(「予感」はある)、来るべくして来てしまうのがそれである。そのためには、自分以上に存在を賞賛したい人間を見つけることである。この人物は、この共同体に参加している以上、捜せば最低1人は、「論理的」にあり得る。
特定の対象に至る恋愛なんてつまらない。恋愛に筋書きを書いて何がオモロいか。
畢竟、我々の「脳」は、偶然の「出逢い」を望んでいるのである。
「必然」では、「予測可能」なので、エクスタシーには至らないのである。
お天気や、気候や、経済の動向が、「予測可能」と思うものは、「キチガイ」である。彼らは「UFOを見た」と主張するものと同様、「気のせい」と「実際」の区別の認識がない。
しかし、‘WAVE’は多様である。「WAVE」は複数のWAVEの総体である。
「WAVE」を言い換えると、「法則」すなわち「道(タオ)」であろう。「タオ」の本質は、その玄妙さにある。つまりあたかも必然のごとく偶然に作用するものが「タオ」である。
いかに「万物の霊長」であろうが、必然的法則には「偶然」的に支配される。テポドンも金正日も、邪馬台国女王卑弥呼も、「日」の運行に支配される。もし、金正日が「助平」ではないことが立証されれば、筆者は、一生性の営みではなく性の妄想を断ち切っても良い。
「マスターベーション」と認識されたとき、全ての男の行為は、無意味なことになってしまう。「夢精」を語る小泉は、森的に「幼稚」である。福田は禁欲的オナニストなので、阿部が踊るが、テポドン同様、踊るだけでしかとした未来哲学はない。阿部は目的地を想定しない船頭2号である。
21世紀の展望は、力をつけつつある、中国、インドとの外交関係にあり、アメリカとはヨーロッパと同様の「距離感」が必要になろう。さらに西アジアまで。もしもアジアが一体化すると、お互い資源に不足することは絶対にない。するべきことはアジア安定政策である。必然的に、ユーロ同様、「通貨」の問題になる。ここまで来て初めて、なぜ米英仏が対北朝鮮制裁に前向きに賛成なのか知れるのである。もちろん彼らはシリア、イラン、イスラエル情勢も見据えている。私はオセアニア諸国との外交が重要ではないかと思うが・・・。ともあれ、アジアは「美味しい」のである。以上全て「冗談」で書いた。
2006-07-24 現状学校教育実情<連載4>
_ 現状学校教育実情<連載4>
この前河原でたき火をした時に、大合唱のカエルたちを前に、カタカムナ詠唱をかましたら、最初のうちはしきりに反応(=対向発生)していたのに、カタカムナが終わった瞬間、しばしそこに自然界のあたかも偶然のごとくの沈黙が広がった。
どうやら筆者よりも優れたる読者諸兄よ、いよいよ自由に「変化球」を投げる機会を与えてくれて本当にありがとう。ここで半生上、一つだけ確定している事実を申し上げるが、私はさもそれらしきものを投げるが決してそのものを投げることはできない「執ピッチャー」なのである。限りなく微妙にズレることによるリズム音痴。あくまで微妙にピントがズレたイチビリを無意識的に希求してしまうこと。私の「アナキズム」の原点は、この運動神経のズレにある。周囲おおよそと同じことは、絶えず「退屈」なのである。この克服のためには、完全に「フザケる」ことが前提になる。
ふざけることの問題点は、そうすることが、「真面目に考えることが真理を生む」と信じ切っているものたちにとっての嘲笑になることである。もし現状が笑わざるを得ないものであるならば、それを敢えて笑おうとしないものたちは「不真面目」なものたちである。
現行日本の教育を笑うことができない人は、精神に異常がある可能性が高い。
いかなる観点から見ても納得がいかない、完全に利権のためだけの教育行政。役人より企業の方が賢い人材を持つことが勝負の分かれ目だった。バカか?そんなケチな金を得したいならとっとと公務員なんて辞めて自分で起業すれば良かったんだよ。金だけが価値のところがいただけない。しかもその金はケチなものでたかが世間並みの年収の2倍である。稼ぐ方法なんていくらでもあるではないか。こうしてウンコつまって天下りだけが最終ゴールとなる。興味も能力もないくせに試験で受かっただけで権力機構中枢に居座るものたち。私は、この人たちは、もし「土下座」しなければ、「死刑」にされることを覚悟するべき代表的人たちである、と心よりの「冗談」で思う。やいテメエら、テメエら実は、「財産や社会的地位を第一義にして、魂の最大向上を後回しにしては絶対にいけない」との内容を伝えるプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んだことがないのだろうが。このことはこれらの人が「アレテー」についても了解してないことを暗示する。軍人のアレテーは、「勇気」。庶民のアレテーは、「節制」。さて指導者のアレテーは?
指導者のアレテーとは、「知恵」なのである。知恵を実践しようとする心がなくなればもう社会的な指導的地位にはいられないのである。そして、我々にとって恐るべきことに、我々は「指導者」を現行試験システムでは「選出」できないのである。この社会学的論理的矛盾。民主主義がはらむ大いなる現実的矛盾。アナキズムが大いなる理念上の矛盾をはらんでいるからこそ観念的に成立しているというのは、的確な認識ではあるが、我々は常に当ブログにおいては、哲学的議論よりも、教育的観点を優先するべき宿命にある。哲学はナンセンスである。哲学は、「言語」を規定できないから、正確な表現ができないために芸術より一段次元が劣るのである。
未来を想定するという中心点において、教育は、文学より哲学より宗教より芸術より以上に現実的に現象する人間的営為の総体である。
つまり少なくとも、「芸術」を前提にしなければ「教育」は存在しない。
そして、芸術とは、精神と心情の対向発生の営みである
教育における一切の法則はここに「包摂」される。
ここにおいて、人間の成すべきことは、好奇心と感受性の向上のみである。
ソクラテスが語るのはまさにそういうことだろう。
2500年も早いとは、実にFresh!なことである。
2006-07-27 現状学校教育実情<連載5>
_ 現状学校教育実情<連載5>
志望校合格が金で買える。他ならぬこのことの真実さゆえに私の仕事が成立してきたとも言えよう。
一流大学合格実績は、首都圏私立進学校の教育が良いためだけではない。というよりも、受験成功者は、とどのつまり、周辺進学機関の使い方がうまいのであり、そしてまたそれを買うだけの余力的資金があるのである。そしてさらにこれゆえにまさに首都圏に進学機関が営業可能なのである。ということは、ここには実際、ある学校の「受からせ方」、「受かり方」があるのであり、その究極の答えは過去出題問題研究と合格最低点考察を連動させた「読み」なのである。ここにこそ私の仕事があった。私が相談客を「クライアント」と呼ぶのはこのためである。「投資」以上の結果を与えるのがその仕事の目的である。この世界の上部では、苦労して受かることを「成功」とは呼ばない。さしたる苦労はなく、あれよっ!という間に合格するのが理想なのだ。そもそも、人に呆れられなければ「受験パフォーマンス」の意味がないではないか。
具体的に言うと、この方面でただ今最もお買い得なのが、早大高等学院合格、早大政経合格、おまけに慶応湘南と慶応文学部合格である。多数の客を相手にするプロは、『ドラゴン桜』のような東大一直線はマンガの中でしか商売にならないと上手に笑わせてもらっている。そしてこの逆に、最も割りに合わないのが、上智受験とセンター試験高得点受験である。両者の共通点は完全マーク方式であることであり、高得点のため欠かせない闇雲な暗記学習とレトリック読み取り訓練が待っている。つまり、「学習」=「労働」の世界である。
最近上智大四谷キャンパスでは、一般入試入学者差別が広がっているのだという。これを隠さずに冗談で申せば、実は筆者はこれを30年前に三田キャンパスでやっておったのである。上智では、主として帰国子女たちが「一般入試生」と言って差別するのだという。「一般入試」というのは、闇雲な暗記学習には勝ったけれど、通常の同年代女性ならば健全に持っているであろうはずの感受性にやや劣り、知識は死ぬほどあるのに自分の意見が言えなくて、なぜか知らぬがプライドだけは妙に高い学生たちのことである。これらの人は、例えば一緒に昼食に行くために、「何が食べたいか?」と聞いても「別に」とか「何でもいいわ」とか「あなたにまかせるわ」とか「分らない」とか答えるのであり、席についてメニューを前にしてもなかなか自分で食べたいものを選べないのである。こういうのを、極めて健全的にも、帰国子女たちは「変」というのである。どうして自分が今食べたいものを言うことができないのか?30年前の私も同様のことを感じたものだった。目の前の女性たちは外見上好ましい人もいるが、話しても面白い人は稀なのである。はっきり言って全然「手応え」がなくてつまらない。フレッシュでない。自律神経を患うものや急にガリガリになるものも多かった。今にして思えば彼女たちに欠けていたものは感受性だったように思う。不感症というのではない。彼女たちは無理な知識修得のせいで感受性が未発達なのである。でも世の中では試験に勝った「才媛」と言うことに一応なっているから、それにそもそもただでさえダマされ易いのが女だから、実は何もない自分に、あたかもお茶女卒的な意固地なプライドを持つのである。正確に言えば、「vanity」なのであるが、幼稚な彼女たちには冗談や皮肉は一切通じない。またそのことを自覚するほどには賢くはないときているのである。つまり一種の「馬鹿」なのである。性的にチャーミーの薄い馬鹿は性的なチャーミーしかない馬鹿より劣る。彼女たちは優れて「フェミニスト」的である。フェミニストの自覚のないフェミニスト的である。ともあれ、人生最美の20代前半で対人的魅力に欠けるのはもったいないことである。人生で最も敏感な頃にその能力を解放してコミュニケーション拡大に役立てようとしないことは後悔のできぬ「見越し」である。もちろん人によって諸処それなりの事情があることは当然考慮すべきであるとの自覚を強く持って書いておるが、多くのものが獲得できる「存在表明」を、自ら選ばない作戦をとることに無自覚的な人たちというべきか。あくまで一般論として読んでいただきたい。人間的発育にマイナスになりながらも敢えて受験に全力を投ずるのはなぜか。読者高水準を鑑みて、この答えは敢えてここでは書かないことにする。
_ (問い)筆者は、「読者高水準と鑑みて敢えて書かない」と記述しているが、これはどういう読者コメントを期待していることになるのか。「冗談」でコメントしなさい(東大志望想定者は13.5センチ×2行、京大希望想定者は4行。SFC志望想定者は800字以内。正解者には昼食(西荻)同席の上拙著進呈する。)
_ これぐらい、「冗談」で返せなければ、当ブログの主要読者とは言えないということに同意しない?
以上一種の「挑発」ーもちろん「冗談」でーである。多忙中ゆえ、回答数が少ない場合、それが満つるまで記述を若干控える所存。すでにお分かりの通り、もちろん、以上全て、「冗談」で書いた。この項、私のペンネームは、「Joker」である。ということは、すでに別のペンネームがあるのである。乞うご期待。
_ なつまだし あせをかけずに アセちまう (冗)
2006-07-29 現状学校教育実情<連載6>
_ 現状学校教育実情<連載6>
立教と上智を比較する「資料」がある。
以下は、立教高校内部進学失敗、2ヶ月準備の一般入試で立教上智受験、各々2勝1敗、1勝3敗で、上智経済に現役進学した生徒から聞いた話である。この生徒はそもそも記憶力にやや優れ、社会は世界史を選択した。
「立教と上智では試験会場の雰囲気が違う。立教では試験前後の休憩時間に、どよ〜んとした空気が流れる。席を立って煙草を吸うものも多い。ところが上智の試験会場の雰囲気はまるで違う。まず試験会場に入ると、何ていうか明らかに空気が女っぽい。女が濃くいる匂いである。彼女たちは膝掛けにもなるかのちょうどいいコートを椅子の後ろに掛け、ちょうどいい大きさの一切が入ったバックから、例えば一時間目が英語なら、ボロボロになった英単語集や熟語集や、きれいな字でびっしり書いたノートを出し、最終確認に余念がない。中には過去問に目を通しながら何やらヘッドフォンで聴いていることをつぶやくものもいる。おしゃべりしたりダランコとした人は問題外って感じだ。そして試験の時間が来る。彼女たちの備品は可愛いお弁当なども入っているカバンに見事に吸い込まれ、まるでゲートインした馬のように息を整えている。さあ試験が始まる。ワーッ、信じられない!僕はこれまでにこれほどまでに高速で鉛筆が走って行く音がする会場に来たことがない。まるで勝ちどきを上げようとするワーッとしたような気配の中で、彼女たちは休まず怯まず一線に解答をマークして行く。残り5分を切ってもその勢いは少しもたゆまない。ごくわずかの終わったものも最終確認に余念がない。そして終了30秒前。終了して片付け始める音がする。しかし、鐘が鳴った瞬間の、「みなさん、鉛筆を置いて下さい!」の一言まで少しも揺るがない。さて終わるとどうなるのか。確かに立教同様「あ〜あ!」と言った伸びをする光景は見られる。しかしそれは瞬間のことだ。トイレに立つものが若干いる。しかし、その他の全員は、信じられないことに、立教みたいにダラ〜んとしないで、一気に次の教科の国語の知識問題などの最終確認に走るのである。軽食をとるものもいる。その時も参考書からは目を離さない。ポットに入れたコーヒーの匂いを漂わせながら、外国語が書いてあるチョコレートとか出して食べたりもする。休み時間などあったものではない。彼女たちにとっては、次のテストの最終確認時間である。その他のことは考えない。さて2時間目の試験が始まる。もうほとんど試合開始のゴングと言って良い。予想通り、またしても信じられないことに、最早当然のごとく、一斉に、ワーッとやり始めるのであります。国語は英語より時間が短いからなおさら飛ばすのか、あの人たち何ものですか?こちらはもう匂いと迫力のダブルパンチで正直完全に押されてしまいます。素早く紙をくくる音。シートの上を滑る確実な鉛筆の音。こちらから見ると何か書類でもチェックしているかのような姿ですよ。さて、先生もうお分かりですよね。2時間目のテストが終わるとどうなるのか。そうなんですよ。信じられないことに、彼女たちはほとんど疲れらしきものを見せず、一斉に世界史の最終確認作業に入るんですよ。年季の入った素晴らしいノート。最終語句確認シート。それだって超細かいオレが覚えるの諦めたようなのばかりですよ。なぜか、こういう試験でコーヒー持って来るって言うの利口だと思いましたよね。親が準備してやるんですかね。まあどっちにしたって同じことですが。で、もう言う必要がないでしょうが、3時間目が始まると、また一斉にワーってやるんですよ。あいつらバケもんだ。疲れることを知らないんですよ。そうしてついに試験が終わる。こっちが最早何もできないほどヘトヘトになって机に倒れ込んでいると、彼女たちはまるで仕事が終わってさっさと退社するかのようにさっと席を立つんですよ。それと同時に、今までおくびにも出さなかったのに、同じ会場に何人か親しそうな知り合いがいて、「できた?」とまるで自信の確認のように声を掛けながら後ろ姿になってスタスタと消えて行くんです。あの軍団は、立教の会場にはいなかった。僕が最後に経済だけ受かったのは、経済が一番女の子が少なかったからですよ。いやそれにしても「奇跡」でした。先生本当にありがとうございました。」
最後はいつもの癖の余計だが、その後彼のようなことができたものに逢ったことはない。彼は優秀だった。立教に内部進学拒まれて、2ヶ月で上智に現役合格するのは並大抵の能力ではない。
F選択肢が現れてから、私の指導法だけでは上智で高得点できない。必要以上の暗記がなければ絶対に受からない。つまり、上智一般入試現役合格者は、死ぬほどの暗記に耐えられたものたちである。全然関係ないが、東条英機は類い稀な暗記能力の持ち主だったそうだ。
暗記が強いことで試験に受かることを、「アタマが良い」と錯覚するのは危険なことである。情報化社会では、必要以上の暗記力は必要とされない。考えてみれば、私の主張する「合格最低点法」は、いかに暗記の量を減らせて受かろうかとさせる指導法だったかもしれない。
とまれ、この優秀な彼女たちの多くが、実は知らずして、「一般入試合格差別」を受けるのだから、世のセンスも笑ったものではありません。