2007-04-04 桜
_ 桜
12時半に就寝し、5時起床。昼間音読指導を多く行うと、夕食後全く執筆が出来ない。今日は11時過ぎまで客人がいたので、その後机に向かおうとするも疲れていて全く無理。就寝すると、夢ばかり見る。目覚めると、外ではどういうわけかうぐいすが鳴いている。
不思議なことに、今年は桜を見ても全然感動しない。芥川のように、向島の桜を襤褸のように見るわけではないが、モコモコと咲いた別の花のように思われてしまう。これも温暖化のための「不都合な真実」なのであろうか。そんなバカな、オレには心の余裕すらないのか、と思って、二三日前、高井戸温泉に夕方行ってみた。
ここの露天風呂には大きな桜の木があり、昨年毛虫(チャドクガではない)にやられて完全に丸坊主になったので、それでも今年咲くのかどうかに興味があったのである。
桜は咲いていた。とは言うものの、善福寺や東京女子大の桜のように綿アメのようには咲いていなかった。まるで梅のようにチラホラと間を開けて咲いているのである。そして、驚いたことに、まるでいつか見た山桜の一つのように、すでに葉が青々と完全に生えてしまっているのである。満開前に完全葉桜になっているのである。
勝手に解釈する。去年葉っぱが喰われたので、今年は早めに光合成を開始しようとして、まず葉が芽生えてしまったのではなかろうか。自然は、状況に応じて「調整」しているのである。
歳のせいかもしれないが、最近あまりにもだらしなくて気持ち悪がっていた若い人たちの間に妙に魅力的な男女が確実に増えていることを感ず。ごく普通の若者たちの中に、別に着飾っているわけではないのに、同世代の人が見たらチャーミングに思える人が増え始めている気がするのだ。どうしてであろうか。これは別に「上品」なわけではないが、なぜか「なまめかしく」感じてしまうのだ。私にはそれが世代交代のための準備を若者が自然にしようとしているのではないかと思えてしまう。
私は普通、指導を請う若者たちに、その条件として、「4人以上の親になろうとすること。すでに自分と結婚して世代交代する相手がこの世のどこかに生活していることを意識すること。」を「冗談」で掲げているが、早期に結婚するためには、艶かしい魅力があることが欠かせないのかもしれない。大衆も自然物の一つだ。だから「保護」が必要だ。
厚労省と文科省にこのことに留意することをお勧めしたい。
2007-04-08 ムジナの韜晦
_ ムジナの韜晦
4月3日に最遠最小満月経過す。気象に欺かれてはならない。
私にとってこれが今年の「正月(新年)」だった。
新たなる著作を試みるための観察と思考を重ねると、結構興味深いことが見えて来る。
文科省を見切ろうとすることの前提に立つと、社会学的統計学的に、「もしこの統計値を調べるならば、教育の現状が確実に客観化される可能性が高い」観点が得られる。これからネットで調べてみようと思う。全部を調べることは出来ないが、そこは「統計学的還元」(勘弁)して欲しい。
しかし、「為政者」側からするとどうなのであろうか。私には、ここまで来ても、彼らがこの統計値の組み合わせを握っていないとは思われない。我々が「想定」する「彼ら」は、「賢い」はずなのである。だからやっぱりこの観点が分って行動しているのだ。文科省の内部に、あるいは、文科省に「情報」を提供するものに、東大の刈谷や佐藤と同レベルのものがいるのだ。知能的に劣る寺脇なんぞ、その「露払い」に過ぎぬ存在なのだ。
もちろん私は、こんなことを本には書かない。
私はその「観点」で著作を試みるだけである。
ブログ諸子には、持って回った言い方で申し訳ない。
Vnetパーティーでならば、ちょっとだけ触れてもいい。(詳しくは3/23当ブログへ)
私は書かない。なぜなら、書いたことを読む対象が「想定読者」から外れるから。
人を完全に「バカ」とする効果があるものは出版物のすることではない。
以上もちろん、完全に「冗談」で書いた。
2007-04-12 ギックリ危篤
_ ギックリ危篤
5日の朝、いつもの通り、朝風呂に入って、台所に立つと、右腰の辺りでピキッと来た。
「ヤバい!」と思ったが、「大したことはあるまい」と念じた。
そのまま処置せずに、放置すると、徐々に症状は悪化した。
10年ぐらいぶりの「ぎっくり腰」である。
二、三日経るとさらに悪化、30分以上座ることができなくなる。
その間も、春休み期間中、朝から晩まで次々と生徒が来る。出版社も、雑誌取材も来続ける。
いまさら膏薬を貼るも、効果なし。非常に疲れる。頼みのサウナも当然効果なし。
痛みに閉口していると、母より疲れ果てた声で電話。
「お父さん、ここのところ全く食事をしない。もうダメだと思う。」
てなこと言われたって動くに動けない。
が、生徒キャンセル、意を決して実家訪問。腰はパンパンに痛い。
老父は虫の息だった。
昏睡状態。
母と、「これはダメかもしれない」と話す。
「とにかくこのままでは仕方がないから、整骨院に行ってくるわ」と、西立川の構造医学名医へ。
何と一発で痛みが取れる。
しかし、駐車場で、運転席から駐車券を入れようとすると、またピキッ。
それでも前より大分いい。
なんとか夕方指導1件こなすと、実家へ直行。相変わらず昏睡状態で、反応はあるも全く意思疎通はできない。
明くる日は、大学授業初日。6時に起床して、下準備をして、埼玉山奥大学へ。車の運転をすると、腰の痛みだけではなく右足がしびれる。
すると、何というバカなことか、大学開校は明日から。しかし、助かった。そのまま実家に取って返す。
やや落ち着いているが、状態は悪い。母と葬式の打ち合わせをする。
一旦用事を済ますために家を出ると、庭に驚くほどの種類の花が咲き乱れている。
フリージア、チューリップ、ヒヤシンス、牡丹、海棠。この他に名の知れぬものがいくつもある。チューリップは30本近く咲いている。一瞬心が和む。しかし、「親父の世話で全く家を離れられないから、徒然に庭いじりをした結果だな」と思う。
家に帰り、冷蔵庫のもので昼食。息子がかえって来る。すぐに泥だらけの車を洗ってGSへ。その間も、仕事の電話が入り続ける。
戻ると家は空っぽ。空模様が怪しいので、洗濯物を入れて片付ける。1時間ほど机に向かって原稿を書くと、娘より、「雨が強いから駅に迎えに来て」と電話。せっかく洗った車で、迎えに行く。気のせいか、腰は徐々に良くなって来る。痛いとか言っている場合じゃない。ありがたい。
さらに原稿を書くと、雨の中息子が帰って来る。
「お父さん、V-netまで送って。」
「おじいちゃんを見舞いに行こう。これが最後かもしれないぜ。」と言って娘も誘う。
息子をV-netで降ろすと、またまた実家へ。急の雨で下手な車が沢山出ている。
父の様子は、午前よりやや良い。水分大量補給。パインの缶詰の汁も飲ませる。
「またダマされたって言うこともあるのかな」と呟きつつ、台所を片付けて、自宅へ戻り、娘を降ろして、取って返して息子を迎えに行く。そして、またまた実家へ。父は、息子に会うのがいつも楽しみなのだ。元気が出るかもしれない。
水分大量補給。呼吸数がやたら多い。肺の悪い祖母が亡くなった時のことを思い出す。
「今日はここまで。何か異常があったら、いつでも電話してくれ。明日午後に時間を作ってまた来る。」と帰宅。
久しぶりで家族と夕食。
夕食後机に向かうが、11時頃、起きていられなくなる。就寝。
午前6時。起きてこれを書いている。
腰の痛みはほとんどない。
これから、今日来る出版二社用の草案を練る。
2007-04-16 父永眠
_ 父永眠
13日午前4時30分、それまで速かった呼吸数が安らかになり、ここ2、3日の疲れもあって、「やや持ち直した」と感触し、帰宅して編集者宛のメールを書いていると、午前5時30分、母より電話があり、「呼吸停止」確認とのこと。即座に「喪主挨拶」を書く。
仮眠後、11時、実家訪問。老父の死に顔は安らかなものだった。
庭では父の愛した海棠がピンクの花びらを散らしていた。
葬儀社接触後帰宅。出版社用原稿吹き込みを行う。
オランダより妹帰国。家族で夜訪問す。
明くる14日午前10時よりカタカムナ音読会。盛況の後、午後二時よりVnetパーティー。
これも多くの人が集まる。父死を伏せて行う。多くの人に喜んでもらって大変うれしい。
_ 散り逝くも 花は我が身を たたえけり
_ 記
2007-04-21 喪主謹言
_ 喪主謹言
おかげさまで、通夜、葬儀は無事盛況に終了しました。
弔電、会葬出席者欄に、「ブログ読者」というのがあって、驚かされました。合わせてここに厚く御礼申し上げます。
「喪主」というのを務めたのは初めてなので、結構疲れました。葬儀屋さん、親族、旧知の友人、坊さんとたっぷりと歓談し、面白い話が沢山聞けました。また、これほど多くの人を観察したのも滅多にないことなので、「小説家」として、興味深い経験も多々出来ました。
肩の荷が下りたと感ずる一方、やはりもうこれからは故人と会話することが出来ないと思い、人並みの悲しさも味わいました。
その後も、今日も事後の仕事に追われ、なかなか忙しくしていますが、明日からこれまで同様の活動モードに戻ります。
以下に、稚拙ながら、喪主挨拶を添付します。
_ *
皆様 本日は、ご多忙中のところ、また遠方からも多数の御会葬出席下さいまして誠にありがとうございました。ここに、そのご厚情に心より御礼申し上げると同時に、まことに僭越ながら、親族を代表して、故人について一言申し挙げたいと存じます。
故松永太郎は、1924年7月8日生まれ。新潟上越市出身の松永藤吉松永キヨの長男として、東京東中野に生を受けました。兄妹には、高橋なか姉、松永次郎、松永三郎、松永幸雄があり、昭和30年に、経済学者篠田勇長女稲子と結婚、不肖私こと松永暢史、松永敦子の二子をもうけました。
もとより、学業不出来の私とは相異なり、小学校より頭脳明晰成績優秀、当時名門の府立一商、早大第一高等学院を経て、早稲田大学商学部在籍中に、学徒出陣、終戦は、陸軍将校として千葉県千倉で迎えたとのことです。
性格は、聡明反骨的でありながら、一方極めて柔軟変幻自在、融通無碍。世間状況を鋭く鑑みながら、心優しく、人の人生、絶えず弱者の味方をするべきことを旨としました。文学芸術歴史学への造詣深く、常に自己の見解をもつことにやぶさかならぬ知性の持ち主でありました。また世間一般の人間観察に抜きん出て優れ、この性情は、弱者への慈悲、社会一般常識への適応の必要性、と言った、まさに庶民として生きると同時に、自主独立の精神を有し続けるという類い稀な人材でありました。しかも、決して自己の資質に驕り高ぶることなく、絶えず庶民としての謙虚な姿勢を貫き、慈愛寛容の精神に満ち満ちた、その包容力のある人間性は、多くの人々の敬愛を得て恥ずるところがありませんでした。
復員後、配炭公団勤務を経て、塚本商事株式会社に奉職。労働組合委員長を経て、弱者への慈愛深き性格からは意外なことに、良き上司に恵まれ、良くその資質を理解され、若き日より役員昇進、最後は監査役としての要職を勤めて、1985年惜しまれつつ退職致しました。
その後は、地域活動に協力する傍ら、ヨーロッパを中心に歴史遺跡探訪の旅を行い、なおも濃き人生を過ごして参りましたが、90年代後半に肺気腫を病み、99年初入院後は、自宅療養を旨としながらも、体力減退の天命に抗することならず、平成19年4月13日、家族親族に見守られ、苦しむことなく、安らかに新たなる人生の旅へと発たれたわけであります。
私は、父が生前、悲惨なニュースを目にする度に、その罪を犯したものを咎めるよりも、まず、「そんなことをしてしまうなんて可哀想なやつだ」というのを繰り返し耳にして参りました。また、「肺を病んでいるなら、南の島にでも行って療養したらどうだ」という私に、突如いきりたって、「馬鹿野郎、沢山の友人が死んで行った戦地で、今更のうのうとオレが足を伸ばして過ごすことなどできるとでも思っているのか」と叱りつけました。長年良きパートナーとして仕えた母が、地域の青少年の育成に尽力したのも、父のこの、常に弱者の立場に立つという思想あってのことだと確信致します。
病床にあり、看護する私に、父は、繰り返し、「すまないね」と口にしました。父の、他者存在を尊重する精神をすでに良く知る齢となった私は、自身の文学哲学シルクロード旅行中の行方不明、定職なき結婚といった滅茶苦茶な生き方を、絶えず容認、見守り続けて、自己犠牲による献身を、全ての自己行為に優先する姿勢を示してくれ続けたことへの御礼として、「全ては、お父さん、あなたが黙って働き続けた結果だよ。よくぞ自分のような人間を許して、その成長を見守って下さいました」と繰り返し語り続けました。父は黙ってそれをうなずいて受けとめてくれました。
今、父が生前最も愛し続けた淡いピンクの海棠が自宅庭に咲き誇る中、何の苦しみもなくあたかも自己の末期を選ぶかのごとく、昇天されたことをここにご報告申し上げて、皆々様の生前のご厚情に、改めて深く感謝申し上げる次第であります。今後とも、残された母、親族に引き続きの御厚情を賜りたいと切にお願い申し上げます。
最後に、まことに僭越ながら、ここに一句つこうまつります。
_ 散り逝くも 花は我が身を たたえけり
_ 皆様、本日の御会葬誠にありがとうございました。
また、主に塚本コーポレーション関係各位など、ご協力下さった方々に厚く御礼申し上げます。
_ 平成19年4月19日 喪主謹言
2007-04-26 家族
_ 家族
本当に日々慌ただしくて、まるでおでんの具をミキサーで混ぜ合わしたようなアタマの状態。
書かなければならない原稿はたまる一方で、すぐに答えなければならない懸案事項がメールで押し寄せる。1月に引っ越したというのに、旧知にその報告をする暇もない。もう教える仕事を減らすしか方法がないかもしれない。
てなことを考えていると、ここで、「お父さん何やってるの?」と息子。これはカラムの誘いと了解。ゲームをやりながらいろいろ話す。すると、「御飯よ〜!」の声。今日は娘の勉強を見るために、7時で仕事を切り上げて帰宅したのである。
夕食の席で娘と口論。そういえば、こうして家族で家で食事するのも久しぶりだ。予備校選びについて「正論」を吐くも、受け入れられない。無理もない。たまに話すのでは間合いが取れない。彼女は、怒って席を立つ。
夕食後、「勉強はどうするの?」と聞くと、「やって欲しい」と言う。
つまらぬ学校の国語の要約宿題を、抽象構成法で15分で終わらせて、入試国語記述を教える。
その間に母より、香典返しについての相談の電話。編集者からも電話。仕事の催促は,「遠回し」でも、「ストレート」でもうんざりだ。
夕食の時の話題を持ち出すと、あっさり了解。忙しくて相談にも乗ってあげられなかったことをすまなく思う。
あちらを立てればこちらが立たない。今日は、大学に行って二コマ教えて来て疲れた。その上で、やけに紫式部に興味を示す中1少女に、『紫式部日記』の音読授業。この授業こそ娘にしてやりたかったと思うが、最早娘にはその時間がない。
明日は、超真面目な編集者と山ごもりカンヅメ。温泉付きだが、懸案事項が多くてゆっくり出来ない。
いかにも「ブログ風」の文面で読者に申し訳ない。
2007-04-29 連休地獄
_ 連休地獄
いよいよ本格的に家族関係がまずくなって来た。
土曜日曜と9コマ総計22時間仕事をした。夜は一応机に向かうが原稿を始めたとたん疲れで眠くなってしまう。
本日も夜帰宅して、初めて新居を訪問した母を家まで送って帰って来ると、家族はどのクラブに入るべきか,どの習い事をやめるべきかで議論している。食卓上は散らかったまま。それを片付けて机の隅で食事していると、家族三人は喧々諤々の議論。側聞するに、各々甘えと自己主張の押しつけでらちがあかない。たまりかねて、「好きにさせればいいではないか」と提案すると、まず息子が腹を立てて席を立つ。なおも息子のことについて自己主張の強い女二人が議論し続けるので、「大変僭越だが、キミは今日の公開模擬試験でできなかったところの復習をするべきではないか」と、本年も学園祭活動に邁進することを決定した娘に口にすると、「好きにしろといいながら、毎日こうしろああしろと意見を言う」と反論される。「私は学歴がないので子どもを説得できない」と昨日口にしたばかりの女房は、「あんたが口を挟むから子どもが腹を立てる」と言うから、「キミこそ、子どもの時間を奪って自分に付き合わせているではないか」と言うと、「ヘッ、また始まったよ、今度は私が悪いことにするのね」と怒り出す。「しまった」と思うが遅い。彼らは議論を楽しんでいたのだ。家庭に不在の私が彼らに意見する資格はないようだ。
娘は,「読め」と言った本を全く読まない。女房は、自分の立場しか眼中にない。息子はあくまで自分の「甘え」を認めさせようとする。
かくして、完全に疲れ果てた50男は孤立する。これでは教育コンサルタントとして立つ瀬がない。
そもそも「不良」のはずの自分が、真面目に仕事ばかりすることに問題がある。
しかし、女房は飽くことない「乳搾り」を要求し続ける。そのプレッシャーは編集者よりキツイ。編集者の方がよっぽど私の状態を了解している。
家族のことなど知ったことではない。思いっきりぐれたい自分がある。『桜桃』でも読み返したい気分だ。
全部仕事など擲って、どこかに無限に一人旅でもしたい。自分の書きたい小説でも書きなぐりたい。
私は、彼らは正しいと思う。彼らは自分の好きなようにやっている。その結果など考えることは好きではないから好きにやれている。
おそらく娘は来春受験に失敗するだろう。そしてその浪人費用は私が父親にさせた通りに私がまかなわなければならない。息子の学業も混迷するだろう。
知ったことではない。勝手にすれば良いのだ。自分の人生のことは自分の好きにすれば良いのだ。馬鹿な家族にそのことが理解されるのは30年以上先のことだ。
何も言わずに「不良化」することを決意する。
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