2007-03-01 大ハラン
_ 大ハラン
春になった。28日は私の誕生日だったので、仕事を休み、私の特集記事が出た『週刊女性』を手に、実家訪問。父に雑誌を渡すと、かねてから母に頼まれていた庭の穴掘りをした。場所は、昨年夏、ミョウガを採ろうとしてチャドクガにやられたあたり。山茶花など、完全に丸坊主にされた灌木を3本掘り取る作業。
初め簡単だと思っていたら、これが意外と強く根を張っていて難航。すぐに汗びっしょりになり、セーターを脱いで腕まくり。ようやく二本を抜き去ると、最後は一番奥塀際の人跡未踏の地に生える木。その周りには大きな葉の葉蘭が一面に生えており、シャベルが入らないので、大鋏でみな刈り取る。
と、その中の大きな葉の裏側一面にドクガの幼虫が、思わず「ウワッ」と声を出すほどびっしりと越冬中。生き物の執念はものすごい。山茶花と椿を喰い尽くした後、大葉蘭の裏に民族大移動し、ここで冬を越して、春になって山茶花が息を吹き返したらまた活動しようというわけだ。すぐに新聞紙にくるんで火をつける。ざまあみろ。活動停止中の虫なんか人間様の敵ではないわい。と、いうのは甘かった。突然昨年同様、腕の内側が猛烈に痒くなって来た。おまけにどういうわけか、まるでインキンのように股のあたりが痒い。すぐにウナコーワを塗りまくるも手遅れ。みるみる赤く膨らんだ。なんとか最後の一本を抜くと、毎度おなじみ、苦しい時のお湯頼み、高井戸の温泉に直行。ここで内側から汗を出して被害を軽減しようというのだ。ところが何と風呂屋は休み、家へ取って返して入浴した。
文科省の抵抗で、最早完全にしないことになった教育改革。私は燃えて灰になるチャドクガの幼虫を文科省官僚に重ねて憂さを晴らした。
教育改革は行わない。なぜなら既存の権益が損なわれるから。これはガン細胞に犯され始めた体の治療をしないのと同じである。ゆえにやがて確実に死に向かう。具体的には、最早先がないと思われる省庁や教育機関を、安定志向の優秀君が嫌い、代わりにより程度の低いものたちが仕方なしに就職するようになる。学校現場と相似である。こうして、いよいよ徐々に能力の劣るものたちが役所に集まり、にっちもさっちもいかなくなった段階で「解体」を選ばずにはいられなくなるというわけだ。それはそれでかまわないことだが、その間、私立に逃げることが出来なかった多くの子どもたちが犠牲になる。
教育は地方分権化によってしか再生しない。植物にあっては再生は、枯れたものを引っこ抜き新たな苗を植えることである。しかるに安倍政権にあっては、元の腐った木をなんとかそのまま添え木して誤摩化していたずらに立っている状態を保とうというのだ。
そして、その周りでは、隙あらばもう一度食い物にしようとするドクガの幼虫が息をひそめて隠れ待つというわけだ。食い物にされるのが将来を担う子どもたちであることが平気である行政の人たちの神経が信じられない。しかし、そもそも「支配」とはそういうことなのだ。
2007-03-06 ムジナのぼやき
_ ムジナのぼやき
ブログコメント氏から、私が「大衆」についてどう思うのかと、問われたのでここにその答えを試みる。
小六息子のクラスは担任の力不足で学級崩壊した。
最後の頃は、先生が黒板を向くと、その背中めがけて一斉に輪ゴム鉄砲が発射されていたが、これに対して先生は一切無視した。
考えてみれば、ローン返済も家族もある50才女性が、今さら退職するわけには絶対にいかない。だから彼女は耐えるのである。今彼女は、職員室でポテトチップスを食べまくり、校庭でブランコを揺すり時が経つのを待つ。そして、多分、彼女は副校長試験に受かって新たなる学校に赴任するのである。
彼女のせいで、公教育に完全に見切りを付けた生徒たちは、大量に私立中学に流れる。では、公立学校に進む生徒たちはいかなるものたちであろうか。
そもそも完全にアホだと思った担任に、率先して輪ゴムを打った生徒たちは私立受験組である。そしてここに、それを見て真似をするものたちが出る。この生徒たちは、教師が至らないことをアタマで分るのではなくて、他のものたちがやるから真似をするものたちである。事実、新しく担任になった副校長にも輪ゴム鉄砲を食らわしてしまう。
私はこの人たちをこそ、「大衆」と呼びたい。彼らは自己の判断があるのではなく、あくまで他の人がやるからという理由でそれを行う人たちなのである。
世の中には、基礎学習が充分ではない我が子を、世の人たちがそうするからという理由で進学塾に通わす人たちがいる。この人たちの子弟の成績が上がることはまずなく、完全に塾のカモになる。もちろん、「脱出」に成功するものも出る。
自己自身の価値判断がないから、テレビや新聞の情報を真に受ける。そして多くは消費行動に移る。これが大衆である。小泉はこのことが実によく分かっていた人物であった。
今、そういった人たちは確実に増えて層をなしつつある。教育の成果である。
その人たちの中には、無目的に進学を志したものと同様、社会不適応者が多く出よう。つまり、一段落した今、一段とフリーターや非結婚者が多く出ることになる。彼らの中からは、犯罪に走るものが多く出よう。彼らは上が良からぬことをやれば右へならえで良からぬことを平気でするのである。車内での化粧や飲食を平気でするものが出る。他者の迷惑になることをものともしない人たちがいる。そして、それを見て真似するものが出る。そしてこの人たちが最も大きな「犠牲者」になることになる。
教育改革は行われ得ないことが分る。多くのものは、私立に逃げようとする。この真似をしようとするものが見事に塾の営業戦略に引っかかる。また犠牲者が出る。
教育改革が行われないことの延長線上には、まともな社会生活が送れないものの量産がある。おそらく10年以内に凶悪犯罪がより多発する社会が来る。学歴は凶悪犯罪の攻撃対象に十分なりうる。池田小事件の実体はそれだった。教育改革をしないならば、刑務所の収容数を事前に増やす必要があることになる。
こうして、あるとき、彼らが賛同する稚拙な社会政策を掲げるものが現れ、多くはその流れに雪崩的に迎合する。歴史は繰り返される。第二次大戦は大衆の支持によってこそ成立したことを忘れてはならない。そして最も多くその犠牲になるものが大衆なのである。
我々は、10年、20年後の社会を見越すべきである。そこには自分のことだけを考えて勝利したごく一部の学歴エリートと、敗残してコンプレックスの塊となった犯罪予備軍がある。
覚醒したものがするべきことは、読書と外国語学習に力を入れ、いつでもこの国から逸脱する準備をすることになる。
私はもう、教育改革を求める視点は放棄した。未来を担う子どもたちを犠牲にすることに本当に腹が立って仕方がないが、最早諦めざるを得ない。だとすればどのような社会内存在を目指すべきかを考案することが正しいと思い、それを考える。
自らの子どもの未来について自らのビジョンをもつことが出来ないもの、それが「大衆」である。しかし生きていくために働くことで精一杯の彼らにそんなことは望むべくもない。だからこそ公教育があったのである。そして、私もなすすべなく子どもを公立に通わせる「大衆」の一人である。
2007-03-11 ムジナの「内省」
_ ムジナの「内省」
前々から考察して来たことではあるが、やはり「作家」とは、娼婦以上に社会階級的に劣る存在ではないのか。
「作家」は大衆を避けずに、大衆と「混浴」して会話を交わすのである。娼婦は、まず顧客と「入浴」しない。
最近、出版計画の多い私に対して、同業者的意見として、ブログなどで抽象思考結果を垂れ流すのは得策ではない、と助言する人たちがある。それは正しいと思って、密かに誰にも見せない小説を書く。
現時点で、出版企画案は10本以上を数える。考えただけで気が遠くなる。比較してもしょうがないが、バルザックよりルーベンスを思う。ルーブルで見たルーベンスは、「仕事」だった。しかし、ドレスデンで見たルーベンスは「芸術」だった。ボードレールの、「ルーベンスは忘却の河(レテ)」は、パリの「ルーベンス」を指すのだ。ドレスデンのそれではない。
ともあれ、10作以上とは尋常ではない。
すでに私の見解は、「4人以上の親になれる子ども」or「学歴より、読書と賢さを」と、決定しているので、それを分りやすく多種に書き散らばめることになる。
『男の子』はなぜ売れたか?
それは何らかの「核心」を突いたからであろう。
しかし、その「客観化」は容易くない。
私は、「新しき親友」の言に従い、深夜小説を記す。
そのペンネームも、その作品名も、誰も知ることがない。
それでかまわない。
しかし私は、小説を書くモードに入った瞬間、アイデア自由の存在と化す。
私は、独り物語るとき、「私」である。
2007-03-12 「勧告」と「助言」、「指示」と「援助」
_ 「勧告」と「助言」、「指示」と「援助」
「勧告」と「助言」というのは分りやすいが、「指示」と「援助」は分りにくい。
「勧告」と「指示」は、命令乃至は行政令の行使という意味であろう。「助言」と「援助」は、「余計なことは出来るだけ言わないが、助成金のことがあるのは覚えていてね」という意味である。
上は、中教審の教育委員会についての諮問のあり方であるが、自民党は本当に「政治」というものがよく分かっている。支持者層がよく見えているのである。
おそらく、子どもを私立に逃すことが出来たものたちは、そうではないものたちよりも圧倒的に裕福な階層であろう。彼らは、「訓練」が必要な、愚かとしか言いようがない階層を見切ったのである。
私立は、言うことを聞かない子どもを退学にすることが出来る。能力のない教師を辞めさせることが出来る。対して、公立ではそのどちらも出来ない。少なくとも都市部の公立は、文科省に見切られているのである。彼らが必要とする未来社会のエリートは私立に出させれば良く、下等労働に甘んぜざるを得ない人々を公立で「飼い殺し」にするのである。「教育の機会均等による格差是正」とは、首相も良く言ったものだ。
自民党と公明党の政策一致点は、共産党の排除である。
しかし、私は最早共産党には力がないと思う。公明党支持者をはるかに割り込んでいると思う。
私は共産主義者ではないが、共産主義者が良く読書して能力が高い人を多く含むことを知っている。
マスコミ、高校社会科教師、これら文系高学歴者が、反体制的なポジションをとることは必然であり、そのことがかえってこの社会のバランスを保っていると私は認識する。私は、教職者組合は、全体を網羅するものではなくて「有志」のもののために、働く気がないものを切り捨てるべきだと思う。働く気がないものを「労働者」とは言わない。労働者とは、真面目に働くからこそ、正当な賃金を求めるものたちであり、その意味では極めて資本主義内の存在である。資本主義がなくなれば、「労働者」は存在しなくなる。そして、「労働者」がいなくなれば、資本主義は成立しない。
教育荒廃は、文科省支配と教職員組合の権力争いによって起こったことは間違いがない。両者とも、自己の立場保全を、子どもたちがひどい目に遭うことに優先した。お互いに責任をなすり付け合った。
政府のするべきことは、「思想」の排除ではなく、「無能者」の排除であるべきである
上からの教育改革が出来っこないことを知らぬ振りをし続けること、それは犯罪多発社会をやむを得ないと容認する「犯罪」である。
いじめも自発もなくならない。自覚なき庶民は互いを攻撃し合うことで憂さを晴らし、それを包み込む政治状況は了解できない。
左も右もどうでも良いではないか。
ただただ子どもたちに未来的教育を与えるビジョンを示して欲しいと思う。
それが、「教育勅語復活」や「儒教倫理導入」では話にならない。
中教審と再生会議委員に問いたい。
「君たちは恥ずかしくないのか。どうして辞任しないのか」と、私は、「指導」でも「勧告」でも「助言」でも「援助」でもなく、問いかけたい。
2007-03-16 山崎正和
_ 山崎正和
いかにもやる気がなさそうな山崎氏が、どうして中教審のとりまとめ役になったのか。それは「使命感」からではなく「老い」からなのであろう。
彼は、いつも問題になる、中教審の意見と文科官僚がまとめる文書ニュワンスの差を折衷させる「ガラス細工」レトリックのために雇われた。使命感ではないとするならば、それは文化勲章が欲しかったからに違いあるまい。
彼は「辛口」の人間である。伊吹同様、これまでの言説から、ほとんどの人間をバカだと見下していることは明らかである。
知識階級が、下層階級ををバカにするのは勝手だが、今回の任務を引き受けるにあたって自身の教育観を全く述べなかったのは「卑劣」としか言いようがない。我々は、山崎が、これまで一度も未来ビジョンを述べなかった人間であり、同時に悪しき部分もあるはずの保守陣営に対してほとんど苦言を呈しなかった人物であることを冷静に認識するべきである。彼の哲学は、「大衆はどうしようもない存在だから、出来るだけ自分にとって損になることを避けて上手に生きること」を第一義に考える選民思想にあると思ってまず間違いがない。これは、相手にしたくないくらい「卑小」なものであり、そのために「曖昧」を利用することを処世術とする「確信犯」である。こういった人物には、「文学」を語る資格が微塵もない。
今回彼は、「啓蒙」よりも「盲まし」を、「仕事」として行ったのであり、我々はこういった知識人存在を絶対に許すべきではないと思う。たとえどれほど大衆を「愚か」と認識したとしても、これを救おうとする気概がなければ知識人として存在する意味はない。
我々はもう、再生会議も中教審も相手にするべきではない。委員を引き受けた段階で、見識のないエセ知識人と認識するべきである。
教育委員会に対する文科省権限を温存するために活動する人物。我々は末代までもこの人物の子孫をあざけ笑うことを正着としよう。
彼の駆使したレトリックを理解できたものは、おそらく国民の1%未満であろう。大衆を見下して、突き放すとき、知識人はその存在理由を根源的に失う。
我々は、最早文科省を相手にしない。
その代わりに、より良いメソッドを提言・実施することを眼目に掲げたい。
69年の東大入試中止以来、政府の行って来たことは「愚民化政策」であり、出来るだけ多くの国民が曖昧かつ巧妙なレトリックを見抜けないことを前提に、国民の国語力低下を画策して来たのである。国民の能力低下を画策して自己保存を計らんとする政権が、前近代的島国根性であることは最早隠しようもない。そして、彼らの眼目通り、大衆がそれに気づくことは全くない。「格差是正」ではない、「格差是認」を国民に求めているのだ。してみると、公明党は馬鹿丸出しの団体である。もちろん、労組の呪縛を断ち切れない民主党も共産党もバカ丸出しの団体である。私は彼ら全体に、瞑想を未来提言的にお勧めしたい。
最後に、子どもたちへ。「我慢して下さい。本当に申し訳ないけれど我慢して下さい。そしてあまりの大人のくだらなさに呆れて自己放棄になるのではなく、自ら積極的な読書に覚醒することが正着であると認識して下さい。」
2007-03-22 春のV-netパーティー開催並びに音読指導者養成講座再開のお知らせ
_ 春のV-netパーティー開催並びに音読指導者養成講座再開のお知らせ
_ 拝啓。
桜花の候、皆々様においてはますますご清祥のことと拝察申し上げます。
さて、V-netでは、皆々様の日頃のご愛顧に感謝申し上げて、ささやかながら春の集いを催すことに致しました。また、松永多忙のため、中断していた『音読指導者養成講座』も再開することも、ここに合わせてお知らせ申し上げます。つきましては、皆様の積極的なご参加を期待申し上げます。
敬具
_ V-net教育相談事務所
_ 記
2007-03-25 知識と思考
_ 知識と思考
いささか当然のことを書いて恐縮だが、教師としての私は、知識獲得よりも思考経験を重視する。いよいよ本格的にネットの時代となって、その思いはますます強い。
ある程度の基本的な知識が必要なことはもちろんだし、興味のある事柄についての活き活きとした知識も悪いものではない。しかし、「知っている」ということで、自分のものになっていると錯覚することは極めて危険だと思う。
ヨーロッパの西の大西洋の彼方がどうなっているのか、好奇心を抱いたものは多いだろう。しかしそれを、「海の割れ目がある」と教わって真に受けると発展性がない。同様にインドにおいて、太陽の沈む西の彼方に「極楽浄土がある」と捉えたことを真に受けることは馬鹿らしい。
分らないことを「分らない」と捉えて、それについての思考を停止しておくことは正しい判断である。死後の世界がどういうものであるか、誰にも分るわけがない。果たしてそんなものがあるかどうかも定かではない。ゆえに、それがあることを前提に活動することは、たとえそこに安息があるとしてもナンセンスである。自殺がナンセンスであることの本当の理由はそこにある。
宗教が倫理観を伝えることは大切なことだが、本当は分らないはずのことを分っていることにするのは迷惑なことである。
分らないままでもかまわない。しかし、分らないことを考えようとする時に、人のアタマは進歩する。
多くの人が、教育にあたって、知識を与えてそれで善しとしようとする。子どもが考えている最中に、それを中断させて、答えを与えて済まさせようとする。子どもが頭の中で何をしているのかを観察することは容易いことではない。しかし、考えている最中に何らかのアタマの発達があることを忘れないようにして教育することが肝要である。
あまりに受験合格ばかりが重視されて、子どもの知能の発達を顧慮しない教育方法の蔓延に改めて苦言を呈したい。
<22日付V-netパーティーのブログもご参照下さい>
2007-03-28 ムジナの垂れ流し
_ ムジナの垂れ流し
実を言うと、筆者はカラオケやキャバクラといったものが嫌いである。両方ともこれまでに3回ぐらいしか行ったことがないが、カラオケは、自分も含めて他人の下手クソな歌を聴くことに耐えられない。だったら金を払ってプロの歌を聴きにいった方が良いではないか。キャバクラは出版関係ご招待とかで何度か行ったが全然愉しくない。銀座のクラブもちっとも面白くないのでいつかオカマバーに挑戦しようと思ううちにその機会を逃して今日に至っている。なじみの編集者にその旨を伝えると、「そりゃそうでしょう。先生は、仕事上生身の女の子の話を聞く機会が多いんですから。」と言われた。しかし、教師でキャバクラ好きという者もいるのは事実だ。
しかし、考えてみれば、最近の少女たちの話は、男子生徒の話よりはるかに面白いかもしれない。以下にいくつかご紹介する。
「先生、最近の同年輩の男の子は本当に不作です。はっきり言って幼稚。しかも精神年齢が低いくせに、すぐにHしたがるから理解不能。だからこの前、オジさんキラーの友達と、新橋に行って来ました。」
「新橋」というところが面白い。ちなみに彼女たちからすれば、「オジさん」とは、30前後の男のことを指すので、私の年齢の男はすでに「対象外」である。つまり、私と同年齢で、キャバクラに通うオトコは完全に「お客さん」である。
「で、すぐにオジさんが引っかかるの。少しは大人のムードを味わおうと思いきや、これが爆笑もの。」
「少し話をするうち、『オジさんの奥さんはどんな人?』と尋ねると、とたんに出るは、『カミさんは女らしくなくてコワい』という泣き言。この辺りでシラケ切って、『早く家に帰って奥さんの相手でもしな!』と言って、ムナシク席を立つの。」
また別の少女。「先生、女性専用車両なんてなんであるの?」
「はあ?」
「女がこんなにしゃあしゃあにになっているのに、女性専用車両なんて意味不明。そんなことしたら、いよいよ女がつけあがるだけなのが分んないのかなあ。」
「そんなこと言ったって痴漢がいるから女性専用車両があるんでしょ。」
「痴漢なんて、本来女の人にまともに相手にされない気の弱い男たちなのよ。だから、安全ピンさえもっていればイチコロよ。」
植草教授がこれを聞いたら何とのたもうか?
また別の少女。これはなかなか含蓄があった。
「今時テレビを見るなんて貧乏人のすることでしょ。」
「えっ!なんで?」
「だってテレビはタダじゃあない。お金がある人はテレビなんか見ないで、ネットかDVDを見るんじゃあない?だから、テレビは貧乏でお金がない人が暇つぶしに見るものなのよ。立ち読みするオッサンと同じ。」
ネットもただだと言いたいが、テレビを所有しなくなって20年が経過する筆者もこれには驚かされる。
彼女たちが語る父親観、これはここに記すことはとても出来ない。なるほど、「色気」より、「オモロさ」を追求する筆者には、キャバクラの幻想が不要であるのは必然である。こんなことを記すよりも、出版社約束の原稿を書くことが優先されるのが当然であるので、これでやめにすることにする。
2007-03-31 公立炎上
_ 公立炎上
『公立炎上』(光文社ペーパーバックス)を読んだ。筆者は公立高休職中の国語教師。岡田尊司以来、久しぶりで自分が書きたいことを書いてくれる筆者に出会った感触。ただ最後まで読むと、元ポルノ映画研究家で嘘つき寺脇のレトリックを読み切れていないところが疑問だった。
元文科省生涯教育課長、内閣官房の寺脇とは、一度だけ「対峙」したことがある。
平井雷太主催のパネルディスカッションで、適当にお茶を濁す寺脇に、会場にいた私は問いを投げかけた。10年ほど前の杉並公会堂でのことである。
「貴兄は、最近の中学生が、『自分の理想とする教育の仕事ができないことが分り切っているのに、わざわざ教員採用試験を受けて教職に就いた大人など信用できるわけがない。』といっているのをどう思うか?」
これに対して寺脇曰く、
「そういう人もいるし、そうでない人もいると思う。」
こういった発言こそが寺脇の本質であり、山崎同様、極めて官僚的なレトリックで国民を欺けると高家に構えているのであることを我々は絶対に忘れてはならない。
さらに、私は突っ込んだ。
「ふざけてもらっては困る。はぐらかさないで欲しい。私の質問に真面目て答えて欲しい。貴兄は、生徒が信頼できない無能教師が、全体の半数以上である実体をどう思うのか?」
答えに窮した寺脇は、「ご意見を参考にさせてもらいたい」と解答した。彼は分っていなかったのである。平井はその後、「私の会に来るなら、事前に質問を教えてくれよ」と言ってのけた。その後平井は文科省相手に目論んだビジネスをしそこなった。
その寺脇が、
「ゆとり教育の意味を現場が分っていなかった」と、全面的に教師の責任にするのである。
教師が無能であることは事実だが、それを捉えず実行不能な命令を下して現場を混乱させた責任はどこにあるというのだ。
自らの失政について土下座することがない文科省官僚はさらに質が悪い。
我々は絶対にダマされてはならない。彼は、文科省の責任を極小化するための「大使」である。
本当は、彼がするべきことは、「切腹」である。広島県の校長を見殺しにして平気であるのは彼ではないか。
いかなる意味においても、文科省には、教師に責任を押し付ける資格はない。
教師と文科省の両方に責任があることを忘れてはならない。
文科省のまずするべきことは、教科書検定の廃止と、センター試験の廃止であるはずだ。教育委員会の権限など、どうでも良いことだ。これほど確実なことを実行出来ないのは、自らの天下り利権を捨てる気がないからだ。
『公立炎上』の結語は、「最早公立は民営化するしかないから、エリート候補は、私立に通うべきだ」と言うものである。ひょっとしたら著者は、文科省とグルかもしれない。我々は、自らの過ちを決して詫びることのない文科省を、子どもたちのために絶対に許すべきではない。光文社編集部は「かつがれた」のではないだろうか。
末筆ながら付け足させていただくが、私は、教組幹部に「自己批判」を要求する立場である。私は「愛国者」ではあるが、「右翼」ではない。『正論』に寄稿するが、断じて「天皇崇拝主義者」ではない。私は未来を担う子どもたちに申し訳なく思う大人の一人であるだけである。