2007-05-01 桜井章一
_ 桜井章一
桜井章一著『人生を変える美しい勝ち方』(宝島社)を読んだ。
桜井章一は、20年間代打ち稼業を務めて一度も負けたことがないという伝説を持つ人物で,古くから麻雀劇画のモデルとして有名な人物である。
この人の考えの基盤にあるのは、おそらく陽明学的な哲学であるが、私の考えに共通するところが多い。
以前に私は何をやっても不器用で、得意なことが一つもないと書いたことがあるが、実は一つだけ得意なことがあるのである。それは、トランプや麻雀と言ったものでの勝負強さである。
14歳になった時、「周囲の方が愚かなのに、自分の方が勉強ができないのはオカしい」と思ったことの起点は、実は周囲の誰もが私より勝負事に弱いという点であった。
勉強ができるやつの多くが、ゲームをやる際に圧倒的に私に劣る。後ろで見ている時など、こいつは馬鹿じゃあないのかと思うカードの切り方をすることがほとんどだった。
高校へ入ってからも、私はトランプや麻雀が圧倒的に強かった。大学へ入ってから、一学期に麻雀を13回打って、一度も負けなかった。私には記憶がなかったが、同級の鈴木光司とも一度卓を囲んだことがあったとは後で友人から聞いた。彼曰く、「一人で上がり一人でしゃべりまくり,しまいに役満まで上がって、全員ハコテンにしやがった。」そうである。
同級生と対戦することは、あたかも20歳でパチンコを卒業したように飽きたので、街でフリーで打つようになった。実を言うと、往時は、雀荘で「マラリア」という異名を持ち、高収入の家庭教師収入以上も勝っていたことがあるのだった。
私は不良であった。15歳で酒と煙草を覚え、友人と吉祥寺の街を練り歩いていた。出し過ぎたパチンコ店では、店員に不正を疑われ、奥の部屋で脅かされてコワい思いもしたものだった。飽きることについては、他者をはるかに上回る才能があったので、20歳以降パチンコはしたことがない。
その後、シャーマニックな感受性を持つ女性たちから、自分が独特の感受性を持つことを知らされ、普通ではないことを納得するようになった。
その私にとって、桜井の主張することは実によく分かるのである。
考えてはならない。パターンがあると思ってはならない。常にその場その場の波と判断がある。
結婚後も長く街で麻雀を打ち、その上がりでよく家族に御馳走したりしていたが、良い打ち手が少なくなってつまらなくなったのでこれもやめてしまった。
古くから、私の座右の銘は、「臨機応変」、「変幻自在」、それに「出前迅速」というものだったが、最近は吉本隆明の言葉である「重層的な非決定」という言葉を大切にして来た。
人生において同様のパターンは二度と現れない。前もっての準備なぞ、いざ実践では役立たない。大切なのは最後の瞬間に、直感的にことを決めて行動することである。
「直感と決断と行動に、30秒以上かけてはならない。それ以上かかるものはみなニセモノである。」とは私が敬愛する童話作家太田博也の言葉である。
2007-05-06 関西受験事情
_ 関西受験事情
私は長らく関西人の国語力に敬愛の念を持っていた。
しかし、それは無惨に打ち砕かれた。
灘、甲陽の入試問題を見ると、その秀逸さに圧倒される。「言語ニュワンス」ということについて、この2校には、「了解」がある。
しかるに、最近H学園を初めとする進学塾で伸び悩むお子さんの相談を受けると、やはり関西も関東同様、マトモな国語教育がないことが分ってしまう。
結論から言えば、韓国同様、関西も、世知辛く自分の子どもの学歴を金で買うことができると信じる思いから、塾の詐欺商法に引っかかりまくりなのである。
Hでは、国語の力はつかない。それは、Hの試験問題を見れば分る。
抜きだしと穴埋め。学生バイトに採点させるのがミエミエの、営業戦術がある。
しかし関西の親御さんが、関東同様に「盲目」なので、国語力とほとんど関係ない試験における「偏差値」を真に受けてしまう。
今日、関西から上京したご家庭のご要望で、中高一貫進学校のKSの入試問題を見た。平成18年度前期の、その試験問題は、ラサール以下のひどいものだった。愚かな国語教師が、上からの強制と、思い上がりで作成した、国語力とは関係ない出題。
この学校の医学部合格数が多いのは、国語科がバカでも関係ないか、親御さんが外部の教育機関に出費する「余裕」があるからだろう。
関東ばかりではない。国語無能は、全国的な現象である。
その自覚が全くないところが恐ろしいところである。
2007-05-09 韓国行き
_ 韓国行き
なんとか連休を抜けたが、次の週の予定を見ると、出版社接触以外で22コマある。むろん大学出向もある。来週の韓国訪問用語学学習はできそうにない。隣国の言語をもっと若いうちに学習していなかったことの報いである
今最も不安なのは、我が国よりもさらに受験熱が強い韓国で、何をしゃべればいいのかということである。
小生オモニは、韓国ドラマにハマっている。庭いじり同様、老父看病の合間の絶好の趣味であったらしい。
聞けば、韓国では、受験と並んで整形美容が大流行りだとのことである。
心より外見。心だけでなく外見。潜在的知性より学歴。「知性」よりも「学歴」。
日本も韓国も、儒教主義が先行する裏で、「世間体」が第一義であるようだ。
「バカ」としか言いようがないが、そんなことは口が裂けても言えない。
私も資本主義社会の申し子であり、金を払うものにサービスする原理を免れ得ない。
自己を限りなく「微分」すれば、批判すべき官僚と体制と同様の認識が現れる。
私は人をダマしたくない。同時に、誰かにダマされることに無意識であることはまっぴらだ。
私は知ってしまった。本当は、教育が何のためにあるのかを。
韓国でも、メディアを意識して、言うべきことを語らないことに留意しなければなるまい。
でも、ウソをつきたくないというのは傲慢なのであろうか。
どうも、個人の幸福ためには、本質に触れるべきではないようだ。
ここのところ、「正直」な私には最も辛いことだ。
読者の皆様に感謝申し上げます。
おかげさまで、拙著翻訳本、韓国出版に引き続き、台湾出版も決定しました。
2007-05-12 チョッキン
_ チョッキン
急に夏になって、夏用のジャケットですら袖を通すのが嫌なほどだ。
しかし、次々と訪問者が訪れる。生徒、クライアント、出版編集者、で一杯のところに、ついに、「一時間でも、もしそれができなければ電話でもかまいません」と言って、雑誌の取材の申し込みがある。もちろん本以外の執筆依頼もある。
そもそも授業の予習はしないタイプだが、さすがに講演の準備はして来た。だが、そのヒマはない。昨夜は夢の中で講演の準備をしていて、朝起きるとだいたい考えがまとまっているというから、便利というべきか、いかに切羽詰まっていると言うべきか。
大学生たちが書いて来た文章の添削をしなければならない。彼らを招待するブログを構築して、案内状を出さなければならない。20日の音読会のテキストも作らなければならない。生徒数を減らそうと、他の先生に紹介しようとすれば、これまたそのための時間を設定しなければならない。床屋に行く暇がない。家族と話す暇は全くない。そこへ雑誌のインタビュー用の大量FAXが届く。
最近は、私の本を読んで、自分の子育てに失敗したことを悔やむ相談客が多い。涙ながらに話すこの人たちの話を聞けば、男親が全く無知か無協力であることが分る。医者、歯医者、銀行員、みな超高学歴である。「だから、そんな男にならないように育てることをこそ、勉強よりも優先させるべきではないか」と答える。
昨日は、小6の男子生徒に海城中14年度第二回の国語問題の解説をした。この生徒は、小5の時から、「塾に行かないで、松永先生のところに月に2回だけ1時間でもいいから行かせて」と親に頼んで通って来た可愛い男の子で、それだけの学習でメキメキ成績が上がって、塾に通っている子がアホらしくなるような偏差値を得るようになってしまった。この4月から塾へ通い始めると先生に、「キミはセンスが良い」とほめられまくりと言うから可笑しい。
海城問題は、高校生らしき男女生徒が次々にスッポンポンになって湖に飛び込むという話で、開成落ちの頭コチコチ生徒が受けると目ん玉が飛び出るような話なのである。飛び込んだ時に、急所と肛門を打つというような表現があり、二人でゲラゲラ笑いながらやっていると、登場人物の一人に「阿部貞子」というのがおり、「オジさんはこの名前にも笑いを禁じ得ない」と口にすると、グループサウンズも知らないこの生徒が、何と、「えっ、これってあれでしょ」と手ではさみを作ってチョッキンする仕草をする。真面目で奥手のこの生徒がそんなことを知っているとは驚いたが、彼は、「なんでアソコをチョッキンするの?」と真顔で聞くから、仕方がないから説明した。「それはね、恋人とセックスするうちに相手が死んでしまったから、アソコを切って逃げちゃったんだよ」と言うと、「どうしてアソコを切っちゃうの?」と聞くから、「キミだったら愛する人が死んだら形見に何をとっちゃうと思う?」と聞くと、「骨かなあ」というので、「骨なんか肉を切らなきゃ取れないじゃあないか。普通髪の毛とかなんだよ。死体を損傷するのは罪なんだよ」というと、まさかこの生徒の父親がそうなのではあるまいが、「でも、もしハゲだったらどうするの?」と来た。これには爆笑で、他のボックスの授業の邪魔になることこの上ないことだった。
忙しいが、愉しいこともある。こういう生徒には麻布に行ってもらおう。
2007-05-21 SEOUL紀行
_ SEOUL紀行ー連載第1回
羽田発のKALで金浦空港に着いたのは午後10時10分。同行秘書役、扶桑社小生担当編集者の田中氏。
入国審査を終えてゲート外へ出ると、カードを掲げた若い女性が待っていた。この人が、今回私を韓国に招いた「21世紀ブックス」の担当編集者のソージョンさんであった。
「アンニョンハセヨ!」
私が覚えたばかりのたどたどしい韓国語で挨拶すると、彼女からは滑らかな「アンニョンハセヨ」が返った。
建物の外にはハイヤーが待っていた。
夜の闇の中、オレンジの道路灯が転々と続く中、車は滑らかにソウル市内へと向かった。
*
事務所にたどたどしい日本語で電話が入ったのは3月下旬のことだった。若い女性の声だったが、当を得ず、韓国に来てもらいたいということしか分らない。クライアントの相談に加えて次々と現れる出版企画に襲われて、私には家族と話す時間もない。
事務所では常に相談中か授業中である。断ろうと思ったが、電話番の高木さんに変わって、一応内容確認のため、メールを送ってくれるように頼んでもらった。北朝鮮絡みということもあり得ると思った。不肖私は、日本語教育の「専門家」である。
2、3日して、以下メールが届いた。
_ 松永暢史 さま
はじめまして。
私は韓国で<男の子を伸ばす母親はここが違う>を 訳した出版社のソ ジヨンと申 します。
とてもいい本を書いてくれてありがとうございます。
松永暢史 さまに会いたいです。
韓国に先生を招待したいですけど、予定はどうでしょうか。
新刊の広報のため招請講演を開けたいと思って、新聞社と接触しているんですが、
まず、先生の予定をどうか、聞きたいんです。
韓国にいらっしゃってくれますか。
返事を待ちます
私、日本語が下手なんです。間違いっても理解してください。
2007-05-23 SEOUL紀行
_ SEOUL紀行-連載第2回
どうするべきか。見ず知らずの、しかも外国の人から、突然、「自分の国へ来てくれ」と求められる。国内ならともかく、国外へ一人で行くのは、今の自分の立場上、やや危険でもある。本を作った扶桑社田中氏に相談してみた。この男は、仕事に楽しんで打ち込んで、同時に成長し続けるタイプの、極めて常識的な人物である。「常識的」と言うよりも、いつも「真面目」で「本気」と言うのが相応しい。
「あの、韓国で出版された本って売れているの?韓国へ来て講演してくれって言うんだけど、どう思う。」
「韓国からですか。それって、どなたからの依頼なんですか?条件とかの提示はあるんですか?」
「それがよく分からないんだよ。多分、訳して出版した出版社の編集者なんだけれども、向こうは日本語がそうは達者じゃあないみたいで、要領を得ないんだよね。」
「分りました。しかし、実は間に入ったエイジェンシーとの契約で、こういったことはエイジェンシーを通してすることになっているんですよね。調べてみますからちょっとお待ち下さい。」
しばらくして、再度通話した田中氏は語った。
「エイジェントに問い合わせました。先生、バカ売れですよ。ネット出版では6位、書店売り上げでも上位に食い込んでいます。」
「どうして日本人の本が韓国でそんなに売れるの?韓国は日本を嫌っているんじゃあないの?」
「どうしてでしょうね。そんなこと、それこそあっちに行ってみなければ分らないんじゃあないんですか。」
「そうかあ。行ってみようかなあ。でも、僕、貴兄もご存知の通り、全く時間がない状態なんだよね。行くとしても、
せいぜい1泊か2泊しかできないよ。」
仕事一途の彼は、執筆者に対して「同情」することはまずない。
「いつだったら可能でしょうか?向こうに問い合わせてみましょう。」
「水曜日は大学出向。土日は先の先まで一杯。だからできるとすれば、月曜火曜か木曜金曜しかないな。5月中旬頃なら空けられるかもね。それとね。一つお願いがあるのだが、もし行くとなったら同行してもらえないか?そうすると安心だし、とても助かるんだけどな。」
「かまいませんが、私からは言えませんので、直接上司に電話してもらえますか?」
「わかった。」
すぐに彼の上司のK女史に電話すると、二つ返事で承諾を得ることができた。
2007-05-26 SEOUL紀行
_ SEOUL紀行ー連載第3回
私が最後に海外へ出たのは、1989年のスペイン&グラン・カナリア並びに、ベルリンの壁崩壊直前の旧社会主義圏東欧旅行だった。この時は、東西両ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、イタリアと二ヶ月に渡って夫婦で回り、社会主義が末期的状態にあることを肌で感じたものだった。帰国直後にベルリンの壁が崩壊した。
そもそも私が家庭教師の仕事をし続けたのは、外国旅行をしながら文章を書く生活のためだった。就職をすればそれができないからであった。
しかし、90年に長女が生まれて、生活に追われ、海外旅行ができなくなったのだった。
そして私は、旅行へ行く代わりに絵画を収集し始めた。そして、その間に、知り合った芸術家たちをモデルにした小説を書き続けたのだった。
95年に長男が生まれると、芸術家たちとの付き合いにも距離を置き、『我が子は最低点法で勝つ』を出版した。その結果、全国からクライアントが訪れるようになり、99年に、駅の近くに教育相談事務所を設けた。これが、V-netの始まりである。
そもそも私は極めて飽きやすいタイプである。好奇心は強いがすぐ飽きてしまう。自我の強い女房と結婚したのも、彼女が私を飽きさせない不動のタイプであったからだと言える。
40歳を前に思った。
―人の人生究極飽きないものは、文学、芸術、旅、そして、オモロい人に出逢うことである。
これだけはいつまでも飽きないことだと思われた。
子どもをもうけて、できなくなったのは旅であった。いや、以上四つの全てに制限がかかった。私は生活のために働き続けた。かろうじて続けたのは小説を書くことと、オモロい人との出逢いを大切にすることであった。
2007-05-28 SEOUL紀行ー連載第4回
_ SEOUL紀行ー連載第4回
ソウル市街へ向かう車の中で、私は問いかけた。電話ではややこしくても、面と向かえば何とかなる。
「どうして、韓国で本が売れたのですか?」
これに対する答えは、通り一遍のもので当を得なかった。
「それは先生の本が良かったからですよ。」
「韓国人は日本人が嫌いじゃあないのですか。」
「そんなことはないと思います。韓国の人は日本に興味があります。」
道路は、片側四車線である。完全に有料高速道路の態であるが、そうではない。路標には、「80km/h」とある。他の車に抜かれようとも、運転手は80キロ以上出さない。極めて慎重である。緊張感が伝わって来る。右側に漢江が流れる。中州がなくて、隅田川の河口のようにぶっとい。私は、ブダペストを思い出した。
道路の幅の広さは、ソウル市内に入っても同様である。片側四車線、いや五車線のこともある。右側通行で、左折できる所が極めて限られ、目的地を大きく過ぎてUターンしなければならない。我々は、元朝鮮総督府があった光化門前でUターンした。
宿泊は、朝鮮日報社の隣のコリアナホテルである。
2007-05-30 SEOUL紀行ー連載第5回
_ SEOUL紀行ー連載第5回
チェックインした時は、11時を回っていた。シングルの部屋は申し分なく、私はカバンの中のシャツと下着を引き出しに移し、すぐにロビーへ戻った。ソさんには、私が飲まないと眠れないことを告げてある。
しかし、韓国の夜は意外と早かった。ホテル周辺には開いている店がほとんどなかった。車に乗って移動することも提案されたが、近くで軽く飲める所を捜すことにした。
一軒だけ、地下の店が開いていた。機内食は少なかったので、夕食を採っていない我々は空腹だった。機内食は、最終便らしく、慎ましいもので、御飯とタラの大きな切り身、これには赤くて辛い味がついていた。我々はビールとピーナッツをお代わりした。羽田で夕食を食べる暇がなかったので、ソーセージの盛り合わせと、何か辛そうな魚介類の炒め物を注文した。
ここで困ったのが、この店には、焼酎というものがなかったことである。韓国人は焼酎をあまり飲まないらしい。ブランデーもなかった。仕方がないのでジャックダニエルと氷とソーダを注文した。しかし、「ソーダ」は「サイダー」で甘かった。
我々は水割りを飲むことにした。実は私はウイスキーは翌日に残るので普段滅多に口にしないのである。
ソーセージは、フランクフルトの大きさのものが5本に、野菜や惣菜がついた大皿のものだった。一口食べて、私は言った。
「これは小麦粉が沢山入っている。」
申し訳ないが、不味くて食べられない。田中氏も食べない。
もう一方の野菜炒めのようなものは、魚介類がふんだんに入ったものだった。他にスナック菓子がついたが、私はそれも食べる習慣がない。
やせているくせに大食漢の田中氏が、「辛い、辛い」と言ってもりもり食べる。彼は私同様、新陳代謝が良い辛い物好きで、とたんに顔は汗まみれとなる。それでも、「これは辛いや。」と言って、もりもり食べる。私より10近く若い彼は、食事をしっかりとる必要があるのである。
明日の打ち合わせをする。
10時半からプレスインタビュー。その後、記者たちと昼食会。講演会は夜7時なので、その間は市内観光と決定した。しかし、実は、講演会で話すことをほとんど考えていないのである。
ソさんが私に尋ねる。
「どこか行きたい所がありますか?」
これにはあらかじめ用意してあった答えを伝えた。
「朝鮮総督府のあった景福宮と戦没者墓地。」