2007-09-01 「支配」について補足
_ 親が子に学習を教える場合、そのほとんどが「超支配的」になるのはなぜであろうか?自分の子どもに教えるときは、「仕込む」「躾ける」と言ったペット対処的無意識が強くなる。親子であれば同居しているのであるから行動の規範を示すことは当然のことであるが、アタマの中のことについてはどうであろうか?いったい何を基準に子どものアタマの中で起こる諸処の現象のどれに特定して「学習」を行わさせるのであるか。いずれにせよ、何かアタマの中のことをできるようにさせるとは、最低限まず自分がやってみせてその通りにさせることになるだろう。そしてそれを絶対に拒ませない意識が働く時、教育は「支配」=「調教」になるのである。
したがって、一般に、教育の本質は、ある意味で「支配」を前提とする。
しかし、国家がその認識で教育をし続けようとすると、やがてその「矛盾」が顕在化し始める。
国家は、「反抗期」を「反抗期」として認識できない。「守旧的」であることに自覚的であることはできない。
「国家」には、「これまでの国家」と「これからの国家」が内包される。「これからの国家」より、「これまでの国家」の認識が優位に立つ時、「国家」は停滞する。
権利(利権)団体の「代表者」としての政治家は、その「存続」を願い続けることは現実にはできない。いずれ石油はなくなり、資本主義的経済競争の全世界的追求によって地球自然環境危機が逼迫する。しかし、もし「科学的」力によって、個人の食料/エネルギー生産が増加すれば、究極的に一般的な個人が必要とするものは、自然環境に負担をかけない活動、つまり、農業と芸術と「人間交際」になる。さらにこの三者を抽象すると、「個人が自らの手で産み出し続けるのが可能なこと」という、ドラスティックな「マニファクチュア的転回」になる。現代の教育がとるべきはまさしくこの方向性ではあるまいか。
個人が自分で補い切れないエネルギーの使用は、環境問題的に抑制される方向性にある。だから、個人がエネルギーを創造しなければ地球環境は終局に近づく。
教育は、「現世利益」を望むものではなく、「未来貢献」を期待すべきものである。犯罪者を生まないような教育は未来社会的に利益的である。刑務所を増やすより犯罪者を減らそうとする方が合理的である。
多くの犯罪の共通点は、政治的経済的な要因をのぞけば、判断力や自己制御力の欠如と社会的コンプレックスであろう。自己制御には、「畏怖」よりも「自負」が有効である場合が多い。一般的な大衆犯罪の多くは、怖れより自信のなさの集積の結果ではあるまいか。ニートの問題もこれに近いものがあろう。
そして、支配的国家教育の本質的目的は、半ば「無意識」的に、できるだけ多くのものに自信を喪失させることによって、「迷妄」に導くことになる。たとえ支配者がそれを意識的に望んでいなくとも、体制を維持することに自らの生活がかかるものは、必ず無意識的にこれを行わざるを得ない。しかしその場合、最早「民主主義」を名乗ることはできない。教育における機会均等が得られない時、人々は税を積極的に納める気持ちを失うことだろう。
我々は生物の一部であるから、当然自分のことだけを考える。しかし、それは、「未来的」なことではない。生態系には、「バランス」という掟がある。これによって全体の生存が保証されているのである。
以上は拙き一庶民の考察に過ぎないが、少なくとも、こういった「哲学」的考察を表明することが全くないものたちが、どうして教育行政の上部に君臨することができようか。どう考えてみても、彼らは教育行政を、「経済行為」の一部と見なしているとしか思われないのである。そしてそのことは教育を未来収入への「投資」と人々がとらえる姿と見事に一致してる。
以上当然「冗談」で書いたことにするが、最近ライブドアブログの下に勝手に広告がつくが、当方は関知しないことなので勘違いのないようにお願いする。