ブイネット教育相談事務所


2007-09-04 「反抗期」

_ 「反抗期」

何度も書いていることであるが、「反抗期」とは、それまで親の「強制」に、暗黙の同意のもとに従って来た子どもが、いつしかそれに不満を抱くことが「着火点」になり、親との関係を再構築しようとする時期である。そして、多く「反抗期」は、一般に、子どもが親を社会的に客観化した時に収束へ向かい始める。

価値観は、時代とともに変わる。現代社会ではその変化のスピードがなおのこと速い。

だから、子どもの価値観が親の価値観と一致することはほとんどあり得ないことになる。そもそもものの受け取り方が違う。

しかし、本質的にオモロいこと、ワクワクすること、キモチ良いことは、価値観が変わってもあまり変わらないものだ。学問/勉強は明らかにオモロいことに入る。アタマが良くなることが快感でないはずがない。だからこそ古代から人類が愛してやまなかったのである。

ゆえに親は、勉強させることよりも勉強をオモロがらせることに傾注するべきである。そしてその「奥義」は、親が自分で何かに夢中に取り組んでオモロがる姿を見せること、というよりも、子どものいる家の中に、何かを学んでいる「波動」を充満させることであろう。もちろん、皮肉なことに、「反抗期」で、子どもがかえって逆に不愉快に感じる可能性もなきにしではあるが。

いまさら比較しても始まらないかもしれないが、平安貴族男子は、12〜14歳で元服し、何らかの形で官職を得、同時に狩猟等の自由行動が認められた。もちろん女性と交渉しようとするも可である。平均寿命が短い時代のことで、男子への労働力期待が大きかった時代ではあるが、これに比べると今の子どもは大人になるのがあまりに遅い。子どもの自立を願う時、親は究極、子への「干渉」を止めなければならない。できることは、「波動」を出すことだけなのである。実は我が子は「他人」なのである。

このブログに毎度コメントする「クマさん八つぁんたち」の共通点は、子どもに何かを学ばせながら、同時に親の方が何かを学び続けている人たちであることだろう。これは少なくとも本人にとっては「幸福」につながることである。幸福とはやってみせようとすることで、人に期待するべきことではない。なぜなら、「幸福」の基準は、個人において異なるからである。しかし、こちらには大人として確信できる追体験がある。

そうである。好奇心と追体験―こんなオモロいことを、ヒマがあるくせにせっせとやらない人たち、アタマが良くなることよりボケッと受動的に情報吸収することで満足できる人たちは、我々とは別の種族に属する人たちであろう。たとえそれが実の親子でも。我々は勝手に成長し続ける。それが子どもにできる最良のアドバイスだと私は思う。