2008-02-01 不安
_ 不安
過労気味のところに、追い討ちをかけるように、母親たちの相談がうち重なる。
不安。
男なら、「現象以前の不可視」=「ナンセンス」とするところだが、女性にはそうはいかない。
男より感受性が敏感な女性は、潜在的に「サスペンス」を欲求するのである。だから女性は涙する。
そして、受験産業がつけ込むのはまさにここである。
この辺り、男性が「スリル」を満喫するのとエラい違いである。
不安を払拭するには、愛に関することが必要だろう。
女性は、情報的不安を自ら創出し、そしてその恐怖に耐えられない。
愛は、受ける側と与える側で意味が180度異なる。商売も同様である。
でも、それに自覚的であることはなかなか難しい。
だいいち、もしそれに自覚的であるなら、その女性は可愛らしくないかもしれない。
ということは、可愛い女性こそが不安を抱きやすいことになろうか。
それゆえに、不安を笑い飛ばす我が家人は、可愛らしくない。
いずれにせよ、自己存在の意義確認が子どもを通して行われるのである。
少子化社会の母親はますます子どもと一体化している。
試験は「先」にやった者の勝ち。
バーゲンセールの買い物と同じ。
難しくなればそれはなおさらのこと。
買い物なら先手必勝は当たり前と思い込むのが必定。
しかし、そこには、「高く」無意味な商品を買わされる危険性がつきまとう。
以下に、あるご家庭への受験直前教育相談メールを引く。
_ 「試験とは機会均等の社会的試練だ。そこでは、『入れて下さい』という態度より、『この私なら如何ですか?』という態度が肝要である。同一集団内で他の者より優れることを表明する機会が『試験』である。新聞配達の少年が、寒かろうが暑かろうが雨が降ろうが雪が降ろうが雷が鳴ろうが、確実に一軒一軒予定のポストに投函し、しかも配送先には笑顔で挨拶する「自己責任」。こういった「仕事」をして来る自覚がなければ試験を受ける意味はない。取れるところでミスをしない。取れそうなところでは背伸びしてでも相手の要求に合わせる答を書く。脳内酸素が充分である自覚と呼吸に長け、最後まで緩みなくやり切る。「面倒くさい」とか「どうでもいいや」と言う邪念を最後まで払拭する。入りたい!それには「サーヴィス」よ。どんなにアタマが良い子どもでも、親以外に認められるためには、世に「サーヴィス」よ。塾の先生も親も関係ない。ただ試験に向かう自分があるだけ。「サーカス団のブランコ乗り」。相手の求めるところを受けとめて、受かるのは自分である。倍率が高ければ、前後右左を『ご苦労さん』と見る。『私を入れなければこの学校の将来はない』ーこのくらいの意気込みでちょうど良い。早咲きの桜を見るために、敷地内に立って、入学前にそれを軽く味わっている自分をリアルに想像してしまう。受かるのは自分だけである。あとはキャベツとハクサイ畑。意図的に自覚的に受かること。真の必勝法は、合格最低点を想定した完全なる自己制御である。」
_ 試験にしろ、恋愛にしろ、現象するのは、自己の欲求である。自己欲求が受け入れられるとは、最大限の努力とサーヴィスが受け入れられるということである。これ以外の他の一切は、新たに答案に加象しはない。筆記を含む試験の本質はここにある。これが分らぬ者は、永遠に試験の意味を了解しない。下がる株式、不味い高級料理を味わう者たちである。
ゴール前のフェイントキックの余裕。
覚醒と自己制御の認識。
しかし、大人にはできても子どもには難しい。
だから、親の波動が一切を決定する。
不安を外に表すスポーツコーチがいるだろうか。
「不安」は人から「実力」を奪う。
2008-02-05 敗戦の弁
_ 敗戦の弁
「敗軍の将、兵を語らず」とは言うが、読者に今年度中学入試のaspectを伝えるために冗談抜きで「本気」で書く。
本年入試は、出題傾向を変えた学校が続出した。まだ実際に全ての入試問題に目を通していないので確たることは言えないが、特にそれは社会理科に現れたようだ。また、医学部や理系を目指す女子が多くなったことからか、女子校での算数の難化が目立った。国語は、当ブログ予想の通り、例年と大きく変わるところはなかったようだ。
社会理科の変化については、PISAの結果影響が大きいと見る。既成の知識よりも時代状況に直結した新しい知識/概念を要求する傾向が強いと思う。とは言うものの、あくまで知識なので、時事問題的に事前に対処があれば得点するのは容易だったろう。
実際入試では、合格最低ラインに多くの受験生が集まるから、例年であれば、理社詰め込みを抑えても、国語で高得点させれば、ギリギリで合格してしまうわけであるが、今年は逆に、5点足りなくて失敗するものが続出した。試験問題が変化して難しくなったのに、合格最低点が下がらないので、例年的な得点だとギリギリで不合格になってしまうのである。これは特に上級校でその傾向が強かった。
結果的に本当に不本意なことに、長期の勉強に耐えて基礎事項を完全吸収して、その上で新傾向を読んだ知識を入れ切ったもの=私がバカにする連中が勝つことになった。つまり算国だけの高得点では受かりにくいのが今年の入試の特徴であった。国語で高得点しても、あと5点不足してしまう。
私は今年は日能研が強かったと思う。日能研は、長期に安定して生徒を通わせる傾向が強い進学塾であるから、基礎知識を無理なく吸収させ、その上で予め入試傾向を予測した対処を行ったと見る。スッタフも優秀なのであろうが、ここは高木幹夫代表の先見性に軍配が上がったと見るべきだろう。試しに彼の書いたものを調べて見たが、家庭のあり方について、驚くほど私と一致点が多く、呆れたというよりも感心して若干畏怖の念さえ抱いた。彼の息子は成城学園に通い、私の子どもは公立都立を選択する。サピックスは苦しかったろう。2月4日に行うと宣言していた結果発表が未だなされず、おまけにその宣言すらも削除されている。
ご存知の通り、私はこの一年間忙し過ぎて、多すぎる生徒に対して細かい対処はできず、PISAのことがアタマにあったにもかかわらずその対策を錬る余裕がなかった。そして、できるだけ勉強時間を少なくして最低ラインで合格させる作戦は、10年に一度くらいの入試変化の時に、今年と同様、理社で得点が足りずに合格が苦しくなってしまう。「国語は本当に力をつけていただきました」とは言われるが、第一志望に入れることが仕事の受験屋としては申し訳なく思うことこの上ない。
第一志望に破れた諸君には、誠に申し訳ない。本年は、私こそが「詐欺」であった。しかし、捲土重来、すでに来年度の方向性は立てたが、それはここには書く分けにはないことは、既存の「冗談」読者にはご理解いただきたいと思う。ギリギリでこのラインを隠蔽しなければせっせとこれを読んでいる同業者を助けることになってしまう。
しかし、面白いことに(と言っては僭越であるが)、結果的に偶然、皆自宅近くの私立に通うことになった(実はこれこそが、私が一番推奨していることである)。
それにしても、我が愛する麻布はどうしたことか、トップ校の慢心であるか、国語出題は四谷に見抜かれ、社会出題も日能研に見抜かれ、私は実は危ういと感じていたが、教師の質の低下が垣間みられた出題であった。
このようなていたらくな本年V-netの有り様であるが、ほとんど全ての人に、「先生のところで学ばせていただいたことは実に大きかった。中学以降も是非よろしくお願いしたい。」と言われて、恐縮すること限りない。ご理解あるご家庭に心底礼申し上げる。
しかし、我々は続いて、本業の高校大学入試に取り組む。
まだ「春」は来ない。
以上、「冗談」でもなく、「営業」でもなく書いた。
2008-02-11
_ 百花繚乱抽象アート
相変わらずネタは積もるが(すぐに忘れる)書くヒマがない。
野菜作りが一段落した昨秋以降の「趣味」は、リビング脇の狭いテラスに花を並べること。
60センチプランター7つ一つあたり最低7種はあるから、50種以上が植えられている。その向こうの猫額庭には、カブ密林、ホウレンソウ林、カリフラ/ブロコリ盆栽、その他花卉とくる上に、ネギでもアシタバでもルッコラでもレタスでもミントでもところ狭しと生えまくるから、冬なのに「百花繚乱」状態である。
パンジー数種、オキザリス数種、水仙多種、アリッサム、アマリリス、クリスマスローズ、福寿草、すみれ、ラベンダー、マーガレット、花かんざし、雲間草、シクラメン、ローズマリー、アネモネ、ムスカリ。イチゴ、チューリップ、クロッカス、フリージアは、春を待って勢い良く生え初めている。その他名も忘れた数々の花々が咲き誇るから、実際目にした人は驚く。
これらはヒマさえあれば、花卉屋を巡って、咲いているものや咲きそうなものを片っ端から求めてプランテーションするのであるから、当然と言えば当然の結果である。育てるというより植えているのである。
まずプランターで「抽象構成」する。さらに個々のプランターの配列順を変えることによりもう一段上の「抽象構成」をする。朝、軽く30分以上の鑑賞に堪える。受験勉強中のはずの娘はデジカメ写真を撮りまくりである。
「無常」なんてあったものではない。次々と新しいものが植えられ、次々と新しい花が咲くのである。今朝はついに、ウグイスまで登場した。彼らはハエ同様、咲き誇る花の密を吸う。
雪が降れば、朝風呂後に、残り湯を如雨露で播いてあっという間に「平常」に戻す。
受験屋の陰の趣味が、焚火と花作りとは我ながら笑える。
でも花は、子どもたちや女たちのように新鮮で美しい。
土いじりは、頭脳労働の疲れを確かに癒す。
私はこれを万人にお勧めする。
2008-02-15 「冗談」について
_ 「冗談」について
読者多くご存知の通り、私は「確信論的哲学出身者」である。
私は哲学するために大学に入る勉強をした。
なぜ自分はこの社会内に存在するのか?
自分と「社会」の関わりとは何なのか?
この社会においていかに生きることが正しいのか?
それにしても、確かに美しいと思われるものが存在するのはなぜなのか?
これらのことの答えを得なければ人生を始めることはできない。
そしてあらゆる宗教典を、「文学」として読み漁った。
しかし、その答えは、21歳の時のボンベイ〜パリ間ユーラシア横断自動車旅行の体験で明らかとなり、おまけにボチボチ分りかけていたことを、すでに分っている哲学者に出逢うことによって終了した。
その哲学者とは、ヴィトゲンシュタインである。
彼は、哲学することのナンセンスを説く。
なぜかと言えば、哲学する時に用いる言語が不完全なものだからと言うのである。
これは奇しくもそれまでの私の哲学的認識と一致した。
分りやすく言えば、男がいくら女のことをアタマで考えても分らない、女がいくら男のことを考えても分らないが、セックスすれば考える以上の答が得られるということである。
味も素っ気もないが、世の中まあ大方こんなものである。
言語は本能ではなく体験によって修得される。
言語を「不完全」なものとして認識したとき、我々は次にいかなる判断/行動をとるべきか。
その答えは即時に出た。
それは言語で遊ぶこと,わざと戯けることである。
そもそも文学とは,言語で嘘を語ることである。
そしてそれは、誠に驚くべきことに、翻訳してもそのオモロさが伝わることが確認されるのである。
大脳の時点で、人類には共通する特質がインプットされている。
すべて人は言葉に「過剰反応」する性質を持つ。
それがなければいかなる神も宗教もあり得ないだろう。
存在しないものを存在すると言えるのは言語が不完全なゆえである。
そんなことは「サンタクロースの体験」でも分る。
言語の実態を知るためには、言語でふざけることが欠かせない。
そしてそのふざけるは、第3の認識、自ら意識することで「保障」されている。
言語では「確定」できないことがある。
そもそも言語で言語を確定できないのは明らかではないか。
つまり、言語的思索で真面目に答えを得ようとすると、必ず光明ではなく混冥に行き当たる。
そして、この解決案は、言語を意識的に用いること、しかし倫理学的には罪がないこと、畢竟ふざけることになるのである。
だから私は、言語で意識的にふざけるのである。
そして実はそれが、「恒常的」なことなのである。
まさかふざけないと思われる局面で,当然のようにふざけて見せること。
すると、「認識」を自覚する伝達が可能になる。
主義主張や社会的立場が異なる人とでも深く交流できる。
これはより多くの人に情報を伝達する新しいやり方だと思う。
さてそろそろ、今日も一発書かなければ‥…
以上全て「冗談」で書いた。
2008-02-19 ヘンな人格
_ ヘンな人格
「技術」ではなくて、「人格」(「品格」ではない)を理解する生徒たちがいる。
彼らは私から、「冗談」を捨象して、私の側を離れない方が利口であることを察知する。
私の「人格」とは、接した全ての人の能力向上を無意識的に「後押し」することである。
賢くなることを知る子どもたちは、私のもとを離れない。離れてもまた訪ねて来る。そして、そうしない子どもたちの中には驚くほど自己開花に忙しくて訪ねるヒマがない連中がいる。
ネバダのホテル観光科カジノ経営コースに進んだ学習院中退ギャンブル狂いはどうなったろうか。
どこか忘れたがアメリカ3校出して全勝した都立高出身スポーツ医学生は、いったい今何をしておるのか。
今朝、一浪生より電話。工学部に続き、情報何タラも合格したとの電話。
最近は、受験校のに名前と受験番号を入れるだけで、全教科の得点と最低点情報が即座に分るとのこと。
一日目は、「先生やりましたよ。合格最低点より1点上でした」
二日目は、「先生、今度こそは合格最低点ドンピシャリです。僕はこの大学に決めました。慶應経済通っても、ここにします。だから、関西圏の生徒を僕が引き受けます」
私だって、学生生活をするなら、東京より京都の方が快適であろうことは容易く推測する。
とまれ、本年を見ても、例えば、開成合格を初めとする繰り上がり合格諸君もそうだが、最近「最低点法」の「精神」が浸透し過ぎていささか気持ち悪い。実は背後でギリギリ苦戦し続けるものもいるのに。
学歴には意味がない。
特にトップの東大は、今や「屍の山」である。
真面目以外に何の取り柄もない連中の巣窟と化している。
九州大ではAO入試をやめるんだとさ。その理由は入学後に優れた学生がとれないから。
AOは、面接によって大学当局者が生徒を選ぶ試験である。ということは、選ぶ側に選ぶ能力が備わらないことになろう。
詐欺のような試験を行い、ろくな指導者を持ち合わせない。
これが日本の大学の実体である。
日本の一流大学出身者は、米国の大学院に進学できない。
しかも彼らは、「エリート」であるそうである。
全ては「嘘」なのである。
「指導者」たる学者の多くが、実はパーなのである。
学歴も東大ヒエラルキーも全て嘘。
ヴィジョンや価値判断を持たぬものは無用の屑。
同様に、学力と引き換えに、健全な感受性の発達を得ないものは、存在の意味がない存在であることを自覚しないものたちである。
どうしてそれを「エリート」なぞと呼べようか。
最早、上級公務員や企業トップを目指すために勉強するものは、時代錯誤の「バカ」である。
自らの好奇心に忠実なものだけが人生90年の勝利者となる。
そんなことは、人の人生の一回性からも、多くの人に薄々分り切ったことであったろう。
さしたる興味の湧かぬものを世間体で学習するものはその時点で「バカ」の道を歩み始める。
そして、好奇心の捨象どころか、感受性の摩耗を自覚せずに味わう。
自らの権益保全のために「歴史」を裏切るもの。そして、その根底を支えるのは、「大衆」の「信仰」である。
自らの「有利」を守るために「改革」を躊躇するものたちには、彼らにとって名誉であるはずの「歴史」が報復する。
新指導要領を見たか。彼らには「対処」以上の能力がない。もちろん「国家哲学」も希薄である。
官僚たちは、私立学校、進学塾同様、民主主義的機会均等教育の「臨界点」を、自ら踏み越えたことに「自覚的」ではない。
ここに、新自由主義的競争原理と現状教育との明瞭な落差が現象している。
私は、地方分権社会民主主義路線の方が、大衆を感化し易いと考える。
そして、国家は全てに優先して資金を教育に投ずるべきである。
しかしまた、バカなことにどの政党もこのことに気がつかないんですわ。
上下差別のない教育は犯罪を減少させる。
こういったことが、割と「当たり前」ではなくて、「発想の転換」位の認識に留まることがアホなことに決して自覚的になれないのですな。
新自由主義は、グローヴァル的「共存」の理念に絶対反している。
いや、もし反していないとすれば、人間とはなかなか恐ろしい生き物である。
まあ、どっちにしても、アタマが良くなければマトモには生きて行き辛いことは確かなようだ。
家族は、本日産経朝刊の写真を見て、「ヘンにしかできない男」と宣った。
2008-02-22 「セコムさん」
_ 「セコムさん」
何が悪いのか「冗談」で分らないけど、筆者夏のいでたちは麦わら帽子にサングラスで自転車上、花粉の春はマスクにサングラス。これは夏以上に評判が悪い。何せ道行く子どもは息を飲んで隅に寄る。
先日、このいでたちで我が門前に着くと、そこに警官がいて、何やら近所を調査している。
イヤな予感がしたが、やはり声をかけられる。
「すいません」
マスクとサングラスを外す。
警官はと言えば、もう一度「すいません」と言って、見ると門前に止まっている白い自転車を背を丸めて移動させている。
ひょっとしてこのあとで来られるのも面倒だから、ここで済ませておこうとした。
「私は一年前に同じ町内からここに引っ越して来ました。」
すると、
「吉祥寺はいいですか」
と尋ねる。
「いいですねえ。何でもあるからねえ。一度住んだらやめられませんよ。」
と言って、ここらで最近始めた公務員を上手にほめて必要以上に歓ばせる遊びを開始。
まず、
「この辺の最近の犯罪発件状態は如何ですか?」
と聞く。すると、
「この辺は、この4、5年空き巣などはありません」
「なるほどねー、人通りが多過ぎるからねえ。それに何と言っても、こうしてお巡りさんたちがしっかりと見回ってくれているおかげじゃあないの、それは。」
予定通り、やや意外なことに、この言葉に相好を崩したお巡りさんは、
「いや〜とんでもございません。セコムさんとかも頑張っていますから」
と笑顔で言う。
セコムさん?どうして「さん」が付くのであろうか。
ダイアローグ!
どうしてセコムに「さん」を付けるか?
―それは警察からセコムさんにたくさん天下っているから。
本当にそうだろうか。
今度は何とかして、「ヤクザ屋さん」と言わせてみよう。
この天下りはさすがに少ないと思われるが。
2008-02-25 ブロッコリー ピヨドリパロリ カラッポロー
_ ブロッコリー ピヨドリパロリ カラッポロー
武蔵野市在住のMさんは、筆者行きつけの花卉店で偶然お逢いした人物で、こんな話をした。
Mさんは、長らくの自然食愛好家で、産地直送の有機自然食野菜を味わううち高じて、自分も作ってみたくなって、プランターで野菜を作り始めたそうだ。ナス、キュウリ、トマト、自分の作った物は信じられないくらい愛おしく美味しい。しかし気候が変わって来ているせいもあってなかなか上手くできない。で、秋以降も連続して冬の作物に取り組んで来た。ホウレンソウは面白くなかった。カブもいまいち。レタスもこんなものかと言う感じ。ところがブロッコリーは違った。やせたキャベツのような葉を広げて、だんだんだんだん大きくなり、ついに青い花心が現れた。これが大きくなるのが、まるで「娘」の成長のように、毎日毎日楽しみで、しかも春が近づいて庭に花がたくさん咲き、ウグイスなどの鳥も現れ、愛おしいことこの上ない。だからであるか、Mさんの手にする籠にはブロッコリーの可愛い苗が並んでいる。
Mさん曰く。
ある朝、寝床で、窓から漏れる、まるで『墨東奇譚』の終末部のような気持ちの良い陽光のもと、外ではピヨピヨと鳥のさえずりが聴こえる。
「春眠暁を覚えず」などと一人ごちながら目を閉じて、鳥たちが自分の庭を天国のように舞い楽しんでいる姿を想像しながら安眠をむさぼる。。
ややしばらくして起床してリビングのカーテンを開けて庭を見る。
目の前の花は何も変わりはない。相変わらずなんて美しい。
しかし、Mさんの目は、花の向こうのブロッコリーのあたりに釘付けになった。
そこには、悠然と葉を広げているはずの植物はなく、あるのはただ芯と化しただけの緑の針金細工のようなものだけだった。
走り寄って見る。
芯じられない。完全に喰われちっまっている。
一瞬アタマが空っぽになった。
すぐにグーグルで、「ブロッコリー 食べる 鳥」で検索すると、
「私のブロッコリーもヒヨドリにやられました」と言うブログのオンパレード。
そして、その瞬間Mさんの頭に浮かんだのは、
「ブロッコリーを餌に、ヒヨドリを完全に捕まえる装置」であるそうだ。それで新しいブロッコリーの苗を買いに来たところだとのことである。
また、捕らえたヒヨドリはブロッコリーの代りに焼き鳥にする予定だそうだ。
鳥インフルエンザが怖くないのか?
自然への好奇心もここまで行くと「変態」である。
しかし、それをやるのはイノシシのワナを仕掛けてイノシシ鍋をする百姓と同等に「自然」でもある。
Mさんは、私と同様、紺のコートを着てマスクをしている。私と同様、年齢は分らないが、肌の色と毛髪の状態から、私より一回り下、30代後半とお見受けした。平日の午後ここにいると言うことは会社勤めではない。
そのMさんが、「今日は僕のつまらない話を聞いてくれて感謝します。でも、その「御礼」とも言えないが、もう一つだけ、貴兄に、大変恥ずかしいのだが、これにちなんだ俳句を詠んだ。何かのご縁だから、貴兄に聞いてもらえまいか?」と、真顔で請うので、これに快諾してもらったメモが巻頭である。Mさんは私の答えを得る前に、高級外車に滑り込んで発進した。多分「通院中」の方ではあると思うが、最近遭った中で最もオモロい人物の一人であった。
以上全て「マジ」で書いた。
2008-02-29 「予測」
_ 「予測」
何が正しい選択なのかを自発的に考察すること。それが未来社会人の保証である。
高校2年の時に気がついた。
自分は必要以上に他者の心の有り様に好奇心を持つ人間である。
他者は、考察や観察を敢えてしない人がほとんどである。
_ 哲学科の学生の時、現象学の授業中、
「どうして言語そのものを現象学的還元しないのですか?」
と発言すると、教授がしばし絶句して、
「それは哲学することを否定することを意味する。キミはその問題の解決がどうやってできると思っているのか?」
と言うので、
「僕はこのことは、禅の例で見ても、すでに東洋ではほぼ解決されていたと思う。現代社会においては大脳生理学の発達を待つしかないのではないか。」
と答えた。
今、世の中は大脳学者が隆盛である。
_ 卒論テーマを決める時に、指導官に、「チベット密教と西海岸ヒッピーの思想の関連について」と答えると、人をチョー見下した微笑みを浮かべ、「キミは入る大学を間違えている。福沢先生は、西洋の学問を日本に導入しようとされた方である。したがって、ここにはその方向性の指導をする教官はいない。」と言う。
今、時代は、仏教的にはチベット密教が中心点であり、西海岸カルチャーの産み出したものは人類進化に欠かせぬものであることが明らかになった。これらは両方とも、脳の新しい領域認識に関係がある。
_ 自身の怠惰もあったが、私は教育機関に絶えず自分の好奇心をへし折られて来た。その結果選んだ哲学科でもこの有様である。
新しい時代が来れば、現在私たちが難しいと思っていることは簡単に解決されよう。
と言うことは、現在私たちが悩んでいる問題は、未来において簡単に解決される。
未来とはそういうものだ。
_ 私の「予測」がおおむね正しいことは少し経ると知られる。
すると、私のするべきことの本線は、「未来予測」である。
_ 脳学者がいかに優れた存在であろうとも、日本人なら米を食わずにはいられない。日本の米は世界一うまい。中国人リッチは魚沼産コシヒカリを食べている。こと食生に関する限り、我々は自然と「意識的」に関わっているのだ。だから、今年あたりから米に関する学者が、いよいよ本格的に世間をにぎわしてくると「予測」する。
そして地球環境問題の解決は全ての人が植生に関わることになろう。
そして教育については、「古いこと」をし続けるものは、愚かであったことになろう。
学問は、純粋な好奇心に基づかなければ意味がないことになる。
―できるだけ環境エネルギーの浪費をしないで個人がするべきこと。
それは「学問」と「芸術」である。
なぜならそれらは人を自ずから高めるものであるから。
そして自分以外のためになることであるから。
禅は、「真理」が言葉で表せないものであることを、ヴィトゲンシュタインの遥か千年前に洞察していた。