ブイネット教育相談事務所


2008-02-19 ヘンな人格

_ ヘンな人格

「技術」ではなくて、「人格」(「品格」ではない)を理解する生徒たちがいる。

彼らは私から、「冗談」を捨象して、私の側を離れない方が利口であることを察知する。

私の「人格」とは、接した全ての人の能力向上を無意識的に「後押し」することである。

賢くなることを知る子どもたちは、私のもとを離れない。離れてもまた訪ねて来る。そして、そうしない子どもたちの中には驚くほど自己開花に忙しくて訪ねるヒマがない連中がいる。

ネバダのホテル観光科カジノ経営コースに進んだ学習院中退ギャンブル狂いはどうなったろうか。

どこか忘れたがアメリカ3校出して全勝した都立高出身スポーツ医学生は、いったい今何をしておるのか。

今朝、一浪生より電話。工学部に続き、情報何タラも合格したとの電話。

最近は、受験校のに名前と受験番号を入れるだけで、全教科の得点と最低点情報が即座に分るとのこと。

一日目は、「先生やりましたよ。合格最低点より1点上でした」

二日目は、「先生、今度こそは合格最低点ドンピシャリです。僕はこの大学に決めました。慶應経済通っても、ここにします。だから、関西圏の生徒を僕が引き受けます」

私だって、学生生活をするなら、東京より京都の方が快適であろうことは容易く推測する。

とまれ、本年を見ても、例えば、開成合格を初めとする繰り上がり合格諸君もそうだが、最近「最低点法」の「精神」が浸透し過ぎていささか気持ち悪い。実は背後でギリギリ苦戦し続けるものもいるのに。

学歴には意味がない。

特にトップの東大は、今や「屍の山」である。

真面目以外に何の取り柄もない連中の巣窟と化している。

九州大ではAO入試をやめるんだとさ。その理由は入学後に優れた学生がとれないから。

AOは、面接によって大学当局者が生徒を選ぶ試験である。ということは、選ぶ側に選ぶ能力が備わらないことになろう。

詐欺のような試験を行い、ろくな指導者を持ち合わせない。

これが日本の大学の実体である。

日本の一流大学出身者は、米国の大学院に進学できない。

しかも彼らは、「エリート」であるそうである。

全ては「嘘」なのである。

「指導者」たる学者の多くが、実はパーなのである。

学歴も東大ヒエラルキーも全て嘘。

ヴィジョンや価値判断を持たぬものは無用の屑。

同様に、学力と引き換えに、健全な感受性の発達を得ないものは、存在の意味がない存在であることを自覚しないものたちである。

どうしてそれを「エリート」なぞと呼べようか。

最早、上級公務員や企業トップを目指すために勉強するものは、時代錯誤の「バカ」である。

自らの好奇心に忠実なものだけが人生90年の勝利者となる。

そんなことは、人の人生の一回性からも、多くの人に薄々分り切ったことであったろう。

さしたる興味の湧かぬものを世間体で学習するものはその時点で「バカ」の道を歩み始める。

そして、好奇心の捨象どころか、感受性の摩耗を自覚せずに味わう。

自らの権益保全のために「歴史」を裏切るもの。そして、その根底を支えるのは、「大衆」の「信仰」である。

自らの「有利」を守るために「改革」を躊躇するものたちには、彼らにとって名誉であるはずの「歴史」が報復する。

新指導要領を見たか。彼らには「対処」以上の能力がない。もちろん「国家哲学」も希薄である。

官僚たちは、私立学校、進学塾同様、民主主義的機会均等教育の「臨界点」を、自ら踏み越えたことに「自覚的」ではない。

ここに、新自由主義的競争原理と現状教育との明瞭な落差が現象している。

私は、地方分権社会民主主義路線の方が、大衆を感化し易いと考える。

そして、国家は全てに優先して資金を教育に投ずるべきである。

しかしまた、バカなことにどの政党もこのことに気がつかないんですわ。

上下差別のない教育は犯罪を減少させる。

こういったことが、割と「当たり前」ではなくて、「発想の転換」位の認識に留まることがアホなことに決して自覚的になれないのですな。

新自由主義は、グローヴァル的「共存」の理念に絶対反している。

いや、もし反していないとすれば、人間とはなかなか恐ろしい生き物である。

まあ、どっちにしても、アタマが良くなければマトモには生きて行き辛いことは確かなようだ。

家族は、本日産経朝刊の写真を見て、「ヘンにしかできない男」と宣った。