2008-02-15 「冗談」について
_ 「冗談」について
読者多くご存知の通り、私は「確信論的哲学出身者」である。
私は哲学するために大学に入る勉強をした。
なぜ自分はこの社会内に存在するのか?
自分と「社会」の関わりとは何なのか?
この社会においていかに生きることが正しいのか?
それにしても、確かに美しいと思われるものが存在するのはなぜなのか?
これらのことの答えを得なければ人生を始めることはできない。
そしてあらゆる宗教典を、「文学」として読み漁った。
しかし、その答えは、21歳の時のボンベイ〜パリ間ユーラシア横断自動車旅行の体験で明らかとなり、おまけにボチボチ分りかけていたことを、すでに分っている哲学者に出逢うことによって終了した。
その哲学者とは、ヴィトゲンシュタインである。
彼は、哲学することのナンセンスを説く。
なぜかと言えば、哲学する時に用いる言語が不完全なものだからと言うのである。
これは奇しくもそれまでの私の哲学的認識と一致した。
分りやすく言えば、男がいくら女のことをアタマで考えても分らない、女がいくら男のことを考えても分らないが、セックスすれば考える以上の答が得られるということである。
味も素っ気もないが、世の中まあ大方こんなものである。
言語は本能ではなく体験によって修得される。
言語を「不完全」なものとして認識したとき、我々は次にいかなる判断/行動をとるべきか。
その答えは即時に出た。
それは言語で遊ぶこと,わざと戯けることである。
そもそも文学とは,言語で嘘を語ることである。
そしてそれは、誠に驚くべきことに、翻訳してもそのオモロさが伝わることが確認されるのである。
大脳の時点で、人類には共通する特質がインプットされている。
すべて人は言葉に「過剰反応」する性質を持つ。
それがなければいかなる神も宗教もあり得ないだろう。
存在しないものを存在すると言えるのは言語が不完全なゆえである。
そんなことは「サンタクロースの体験」でも分る。
言語の実態を知るためには、言語でふざけることが欠かせない。
そしてそのふざけるは、第3の認識、自ら意識することで「保障」されている。
言語では「確定」できないことがある。
そもそも言語で言語を確定できないのは明らかではないか。
つまり、言語的思索で真面目に答えを得ようとすると、必ず光明ではなく混冥に行き当たる。
そして、この解決案は、言語を意識的に用いること、しかし倫理学的には罪がないこと、畢竟ふざけることになるのである。
だから私は、言語で意識的にふざけるのである。
そして実はそれが、「恒常的」なことなのである。
まさかふざけないと思われる局面で,当然のようにふざけて見せること。
すると、「認識」を自覚する伝達が可能になる。
主義主張や社会的立場が異なる人とでも深く交流できる。
これはより多くの人に情報を伝達する新しいやり方だと思う。
さてそろそろ、今日も一発書かなければ‥…
以上全て「冗談」で書いた。