2008-09-13
_ モンスターペアレント
本屋に行って驚いた。そこにはモンスターペアレントのコーナーがあった。一目見て不愉快になった。
モンスターとは、「怪物」であり、得体の知れない存在のことを言う。
モンスターペアレントとは、学校に不可解な注文や苦情をする親のことで、そもそもは「M家庭」=「問題家庭」と、教師の間で語られ、名簿にMの字を書いて、次の担任や学校に分るようにしたものである。
私はこれを、自分の著書で、「公務員たる者がやっては行けないこと」と重ねて主張して来た。
例えば、子どもが学校で問題を起こしている時、教師がその対応を願って家庭に電話すると、「私は仕事や生活で手一杯だから、公務員として給料をもらっている先生が対処して欲しい。」と言って電話を切ると、「M」となる。感情的になって大きな苦情を言ったり、「教育委員会に言いつける」と言ってもこれになるらしい。
私も仕事上、何を言っても話にならない自分の考えだけを主張する親には何人も会ったことがある。はっきり言って参る。大きなストレスになる。しかし、「気の毒なのはそんな親の子の方だ」と思い直して、できるだけ子どもが救われるように粘り強い対処を心がける。
モンスターペアレントと呼ばれる人の中には、精神的にオカシイ人が多く含まれる。仕事や生活で疲れ果ててしまって、自分以外のことを考えられないのである。不幸な結婚をして子どもを作った上で離婚して、働きながら家事育児を同時にこなせば、「もうこれ以上何もできない」と考える限界状態の女性がいてもおかしくない。彼女たちの欲しいのは理解と助けのみである。子どもが被害にあったときなど、感情的になりやすいのも理解できる。こういうことを「モンスター」に含むのは明らかに間違いだ。「キャパオーバー」というのが相応しい。
もちろん、この他に、あまりに社会的常識から外れた人たちもいる。お金があるのに給食費を払わない親などというのもこの部類に入るかもしれない。V-netでも、個人教授の相手に金を払わないという理解不能の人たちがまま出る。
私はその時点で、「精神的におかしくなった気の毒な人」と認識して、子どもを救うことを第一義にする。自殺する人がこれだけ多いのであるから、アタマがおかしくなった人がたくさんいることは街でいくらでも観察できる。自分がしっかりしてないから起こったことを他人のせいにする人も多い。しかし、気の毒なのはそうした親の子である。親がアタマがオカシクて子どもがまともに育つわけがない。こうした子どもをこそ、積極的に救うべきである。そしてそれが、消費税を取る国家の役割ではないか。そういう状況に彼らを置いた国家の責任ではないか。
だが、どうして「モンスターペアレント」になるのだろう。先に書いたように、精神的にオカシイだけではなく、明らかに異常なワガママを世間に表してしまう人は最近多いと思う。この人たちがこうなるのは、この人たちが親や教師から受けた教育のためである場合が多いと思う。事実、私は有能な子どもが、担任と親の両方の誤った対処で、能力を伸ばせずに非行化した例を何例も観察している。
教師の仕事かどうかは一概に決められないが、こうした人の対処をするのが公務員の仕事だと思う。
医者は聞き分けのない患者を「モンスター患者」とは呼ばないだろう。レストランも細かい苦情を言う客を「モンスター客」とは呼ばないだろう。あくまで「お客」として扱う。
無能な教師を棚上げして、対処の難しい家庭を「モンスター」として切り捨てる。明らかにこれは「差別」であり、それに乗じた本を出すことは社会的な「いじめ」である。そんなことをタイトルにした本がたくさん出ることを私は残念に思う。
学校教師の約半分が「不適正」であり、さらにその約半分が「無能」であることを思う時、庶民であるご家庭の非常識を、わざわざ「モンスター」などと名付けて強調するのは、会話の段階にとどめて欲しいと思う。
しかし、私の目から見れば、全ては国語表現の問題である。学力低下もそうであるが、日本語能力がどんどん低下している情勢でその対処を全く行わない文科省に問題がある。的確な言語コミュニケーションができないから「モンスター」なのである。ここで気がつくが、全ての役所が、「モンスター官庁」と呼ぶと実にしっくりする。問題があるのに即座の対処をしないでのうのうとし続ける。国家予算を食い物にして飽きることがない。まさに理解不能の「怪物」である。私はこういうのをこそ、「モンスター」と呼ぶのが相応しいと思う。
社会的弱者を「モンスター」と呼ぶのは、すぐれて新自由主義的である。