ブイネット教育相談事務所


2008-10-01 「常識外」

_ 「常識外」

学生時代に現象学の勉強でいささかそのご著書のお世話になった哲学者の木田元氏が、日経夕刊コラムで、氏が最も愛読した大哲学者ハイデガーが「性格が悪い」ことを述べ、それが歴史や社会について革新的な見方や常識を外れたすごい思想をもたらすベースになっているというのを読んで、微笑を禁じ得なかった。

常識的な人は、常識的ではないこと、つまり、非常識なことに不愉快なのであり、保守的な普通の人であることが多い。これに対して非常識な人は、世の中が常識的であることが不愉快なのだから、通常面白くないことが多かろう。

と、二分法して見たが、実は常識的な人の中にも非常識が、非常識な人の中にも常識があるのが当然であり、また、常識的な人が、常識的には非常識であるべき事態で常識を保つという「非常識」にも陥りうるので、関係ないと言えばそれまでであるが。

鹿児島ラサール東大法学部大蔵省卒業にもかかわらず、あまりにバカで非常識(写真判定)なために小生密かにファンとなっている中山道路交通相が、多分本当はなりたかった役職に就けなかったことをゴネて確信犯的に辞任した。ちなみに中川も東大法出身である。

この人は部分と全体の関係という考察ができない典型的な古日本人である。多分、東条英機同様、抜群の暗記力の持ち主であることだろう。この人は、日教組には良いところもあれば悪いところもあるということを知らない。また良い県教組もあれば悪い県教組もあることも知らない。良い日教組の先生もいればだめな日教組の先生もいることも知らない。そして、九州東部で起こっていることが日本全国で同様だと考えてしまう。日教組を包括的に攻撃するよりも、日教組の問題点をこそ指摘するべきなのだ。しかもそれも文科省大臣になって。道路交通と日教組の問題は全く関係がない。だからこの人のやっていることはめちゃくちゃである。市井にあるバカボンのパパ以下のパフォーマンスを公の場で平気でやるのだから、これほどおかしな人物はまずいない。しかし、非常識の極みのこの人物が、革新的な見方や常識を外れたすごい思想をもたらすとは思えないから、これはモリエール的喜劇である。セルバンテス的ドンキホーテである。辞任は誠に残念である。バカ殿森さんの直弟子が、師に輪をかけた失言連発するのを見れなくなるのは。こういう人は逢えばたいてい気の良いオヤジであろう。

と、冗談でこれを書く私は、「常識」でも「非常識」でもない、「常識外」とさせていただく。

文科省は、この件について、村山内閣合意のまま、日教組と手を組んで行く意向を表明した


2008-10-03 ゲラゲラ

_ ゲラゲラ

ゲラ渡し、また別のゲラ渡される。ゲラゲラー「ゲラ」が分らぬ一般読者にはこれが理解不能冗談らしい「ユリゲラー」。なんちゃって、反復するなかれ。つマラぬ連想である。「疑う」ことは「正道」だが、それは単なる貴兄(貴女)の「習癖」である。

源氏物語本、学習コア本、一人っ子本、キャンプ本、働くママへの本、男の子を育てる父親向け本、昔の遊びの考察本、公立通い対策本、超秘密本、超冗談本‥…、いくつ先まであるのかもオボロ毛だ。

大げさに言えば、スコットの「極地探査」である。いつかはそこに至るのであろう。

ここに、「正直」に書くのは、このブログに「冗談」の「流動性」があるからであろう。

この項まだ「無理な読者」は、すみやかに日常感官的認識の境界に帰還せしめよ。マジメなだけではダメなのよ。

けっこう「確信犯的」に出した『超音読法』は、「今のところネットでは出足好調であるが、書店販売はいまいちであるとのこと。」

ガッハッハッハッハ!『冗談』の勝利!

ワタシはねー、これまでにこれ以上に正直に自己メソッドを伝達しようとしたことはないのだよ、韜晦のコジマの位相。

『超音読法』―この本は私の「メソッド伝達」の、本格的試みの第一段である。

日本語が本格的にできるようになりたい人、日本語の本質を体感したい人、日本のスパイになりたい人よ、私はこれ以上の日本語音読メソッドはないと表明する。

人間何よりも大切なことーそれはアタマがヨクなることではなかろうか。

そしてそれは、コトバに優れることが前提である。

みんな来いよ。

こっちのみーずはあーまいぞ。

槍は通すを旨とする。

たまには「直球」を買ってよ。


2008-10-06 劇団 無=魂第 10回公演

_ 劇団 無=魂第 10回公演

六本木のアトリエフォンテーヌで、劇団 無=魂 第10回公演〜漢達の祭り〜を観た。

ストーリーは、開発の波が迫る海辺の町の漁師たちが過去の葛藤を越え、12年ぶりで祭りを開き、海と漁を守り続けて行く誓いを打ち立てるというもの。

神田3兄弟は、長男が良く目が見えず、次男は良く耳が聴こえず、三男は難病で余命幾ばくという限界状況でも漁を続けている根性一家。ライバルの漁家(すいません名前を忘れました)は、長男がテキ屋に身を落として半ば捨て鉢になりながら糊口をしのいでいる落ち目の三度笠。

実は、12年前、両家は各々2艘の船に乗り嵐の中、神田家の先代の先導無理が祟って、高波で転覆。乗組員12名のうち生き残ったのは神田の長男次男と、ライバル家の長男の若い三人だけだった。

町に開発の波が押し寄せ、港湾の埋め立て開発計画で、さびれいく漁業に終止符が打たれる直前に、神への信仰厚き難病の三男が、神社の神主や境内にいる酔っぱらいの老人に元気づけられながら、命を賭して両家の軋轢を解き、太鼓祭り実現を成就する。この過程で逆に神田兄弟の遭難救助を受けたライバル漁家も漁業を再興する決意をする。他に政治家一家も登場し、これを総勢8名の男で演ずる。

この劇団の公演はこれで3年連続観たことになる。友人に誘われるからであるが、ご存知の通り、私はつまらなくなるとその場所にいられなくなるという「習性」がある。また谷川俊太郎でさえ白ける性分なので、涙なしには見られないこの劇団の公演に、誘われるとまた行きたくなるからいささか内心不思議である。

この劇団は男優だけで構成される。メンバーは、超ハンサムではないが、みな味のある顔をしたカッコいい男たちである。『7人の侍』や『太陽に吠えろ』の世界を思い出す。『大脱走』もそうかも知れない。女優が出ないのだから、女性客が多いと思いきや男性客も多い。思うにそれは、この劇団の芝居が、観る人に「元気」を与える力があるからである。この劇団は、少なくとも2〜3日のエネルギーを与えるのである(だから私も今書いているのである)。

少子化社会で男が純粋に群れてやり合うことが少なくなった世の中で、男ならではのこだわりで一つのものに向かって行く世界は、前々回のペンキ職人の話も、前回の特攻隊員たちの話もそうだが、単純な友情/努力/勝利の少年ジャンプ的モチーフをもたらしながら、見るものに新たにフレッシュな感動を与えるのである。

今回は、中心となる宇都照洋が公演直前に怪我をして、細部を詰める稽古が不足したか、あるいは脚本の完成度が低かったからか、前半は、良くある揚げ足取り的な低調なコントでやや退屈させたが、素人っぽさを残しながら全体構成に良く考え込んだものがあるので、後半に入ると劇的な効果を次々に展開し始める。特に最後の祭太鼓のシーンで、舞台二階上の神殿を模したところで、境内の酔っぱらい老人が神と化し、兄弟の目と耳を癒し、死んだ3男を連れて天に昇る構成は、あくまで重くなり過ぎないようにしながらも、能の要素も取り入れて行こうとする意気込みが感じられてますます今後の大きな発展を期待させた。これは公演を重ねるとますます良くなる要素だろう。頑張ってくれ。脚本を俳優のキャラクター作りが上回っているぜ。何と言っても、ここで今度はつか劇団を思い出させてしまうのだが、各々の役者の役作りにかける執念が互いを刺激し合って、これが本人の本当の持ち味なのかもしれないと感じさせる深い人物造形に成功しているところが魅力だ。役者の力は余り余っている。脚本は、「地獄」を覚悟して、本質的なメッセージの深化と、細部のコントの「詰め」を目指して欲しい。構成観には才能が見られて、「波動」というコトバの使い方もまあしっくり来た。九州弁に着目したのは秀逸であったが、玄界灘の歌は練習不足だった。歌が上手くなることはいずれこの劇団の「課題」となろう。また滑舌についても、これ以外の方向性があることを捨象するのは、やや「田舎的」である。これは「持ち味」で開き直れることではないと思う。ゆえに私はこの人たちにもカタカムナ音読法を勧める、なんちゃって。


2008-10-09 進学塾2学期

_ 進学塾2学期

二学期になっても相変わらず量を重視する塾の営業戦略教育で成績の停滞が見られる生徒たちに、「時間の無駄だから塾をやめて自分で勉強せよ」と言うと、「でも‥…」となる。

早稲アカの夏期合宿に参加した中3は、陶然とした顔で、「早稲アカはすごい!しかも大サービスで安い!」と言う。「すごい」と言わせるのでも大したものであるが、「安い!」と言わせるのは、なかなか味なことやるものである。

まあ中学生ならぬ小学生を洗脳することは容易きことだろう。

最近、「負傷者」が多いために進学塾を敬遠している父兄が多い。また小生のように、「中学受験でするべきことは、受験する合格最低点のクリアーあるのみ。そんなことよりもいかなる中学に入ってもやって行ける能力の育成が大切。」などと、「真言」を伝えるものもあるので、夏休み以降、各進学塾の「塾をやめさせない工夫」が数多く比較されてなかなか劇団のように面白い。

サピでは、「サピについてさえ来れば絶対志望校に合格する」と言うらしいが、この時、「ついてさえ来れば」は聴く側には聴こえないらしい。また、「もしやめたくなっても、共に努力する仲間を裏切る行為として、先生が親に言ってやめさせない」と言って、子どもに「諦め」の気持ちを起こさせることも定番であるらしい。この他にもいろいろあって、有名校に合格した優秀君を次々と登場させて、「サピの先生を信頼して最後までやり抜けば他の塾の生徒に負けることは絶対にあり得ない」と繰り返し言われるから、やめようがないそうである。サピでは教師に口答えや意見を言うものはまず皆無だそうである。「そんな雰囲気にない。ここ(V-net)はその全く逆です」。この劇団の電話攻勢はすごい。

しかし、いくらサピでも「絶対」はあり得ない。まずやり切れない課題を与えてそれができたもののみ絶対合格というのだから、能力があることを前提にすれば論理的には誤りではない。しかし、そもそもあまりに優秀か、仕事が好きな子どもにしかこなせる量ではない。サピαクラスへ通ってもおかしくならない子どもたちの多くは、「僕は全部やらないで適当に済ますの。親もそうしろって言うし。」と言うそうだ。こういった生徒はどこの塾に行っても変わりはないだろう。そうでない生徒は、あのもうすでに30代銀行マンのような顔になって通塾するのである。男にとって何より大切な「オモロさ」を捨てた彼らがこれからの女性を捕まえられない可能性は高いだろう。

小学生の自由時間を奪い過ぎることは、「倫理的」には誤りである。サピでは、芸術などの習い事も制限されるという。猛烈進学塾を信じる親に入れられて、自由時間をほとんど奪われて、「ある型」にはめようとしてはまりきれなかった子どもたちは、「負傷者」になる。つまり、中学以降の次の戦いができない。合否に関わらずこの危険性があるのに、営業をチェーン拡大化しつづけるのは、トップだけが儲かる早稲アカ魂と同様である。早稲アカ社長の早死は、海外資産を右翼に突き上げられて苦しんだことと無関係ではなかろう。

トップとその周辺だけが儲かるようにすることはマクドナルドと同じ考えである。ということは、お客はマクドナルドに満足する人たちだということになる。これが見事に重なると感心するのは私だけだろうか。

私はこれまで、「サピに通ったためにその後勉強が嫌いになった」という生徒に少なくとも10人以上遭っている。これは他塾に比べて圧倒的に多い数字であろう。志望校合格を果たした優秀君も言う。「はっきり言って、量があまりにも多過ぎ。あんなにやる必要全然ないじゃん」。

どう考えても、2学期以降はあまり熱心に塾に通わないで、自分でじっくりと入試問題に取り組むのが正しいと思うが。

受験には「忍術」が必要である。しかし、その忍術も自分でやるものである。全て学問は「受け身」ではなくて「自らやる心」がなければ、その本格的な成就はない。

今さら分り切ったことをつい「冗談」で書いてしまった。

「口直し」に、以下秋の猫額小景をよっこらしょ。

_ オクラホハ カワカムリ筒 デカくなり

_ ナスノ実ハ デカくなりつつ 垂レさがり

_ シシトウは シボんだママで カタさ増シ  (以上、冗兆)


2008-10-14 ダイアローグー一番大切なもの

_ ダイアローグー一番大切なもの

相変わらず、次々と現れるゲラに追われている生活であるが、昨日朝、ついに、一つのゲラをやっている最中に次のゲラとその次の執筆用の章立てが同時にやって来る状態に陥った。こうなると、昼間は机にしがみつき、夕方から夜は生徒諸君に学習指導、夜帰宅後また執筆というパターンになるが、以前と違って飲みながらやるとすぐ眠くなって、気がつくと、机の下の床で眠っていることが多い。

最早そろそろ指導と執筆の両立は無理かなとつい思ってしまうが、こういう私にとって、平日短時間の指導はかえって気分転換になるから申し訳ない。

最近私は、小学生の国語指導で、西鶴の『本朝永代蔵』を音読した際に、ダイアローグ練習のために、「君の一番大切なものは何か?―僕の一番大切なものは何か?」

というのをやっているが、この答えがあらためて人間をというものを見直させて面白い。

_ 小4男子「地球!、家族、カードゲーム、テレビゲーム」

小5男子「親とお金の両方」

小6男子「自分!」

小6男子「命」

小6女子「食べ物!」

まあこうなるのは永代蔵を読んでいるからなのだが、なかなかよく分かっていると感心してしまう。これが中学生になるとまた一味違って面白い。

「自分」

「時間」

だいたいこう収束されるから、なかなか見捨てたものではない。

まあ、「好奇心」とか「体験」とかいかないところがこの世代の限界なのであるが。

ちなみに私も自分でやってみた。

―自分にとって一番大切なものは何か?

この答えは、自己予想に反する、とてもではないがここに書けないものであった。

ダイアローグは面白い。

ここには考えることとは異なる直感試練の場がある。


2008-10-17 第3回Vnet焚火の会

_ 第3回Vnet焚火の会

秋好日、朝10時現地スタート。

総勢10名。小五4名、小六5名、中三1名、他に教師4名。

今回は、三カ所に別れて、「燃やす基地」作り。

燃やしてしまうことが前提の構造物の建築作業。

着火を前提に作るのであるから、これは一種の「理科実験」でもある。

何も言わずに見守っていると、ワイワイ騒いで軽く身の丈倍以上のものを勝手に作っている。

できたのは、インディアンティピ風3基。

あちこちに燃える工夫の新聞紙詰めなど見えて微笑ましい。

刈って来た枯れ草も山盛りである。

早く火を付けたいらしく、急かされるが、日が傾くまで引き延ばし。

その間に竹を切る子ども、竹を裂く子ども、草を刈る子ども、犬の散歩部隊。子どもたちは実際的に道具を使うことが好きである。こちらの焚火でソーセージを焼くものもいる。今回はシシャモが新登場。指示がない状態で、皆活き活きと自分のやりたいことをやる。

晴天である。のどかな秋の日である。

4時前、最早我慢できなくなって着火。

しかし、予想に反して燃えるのは新聞だけ。枯れ草に火が移っても、本体には火がつかない。

そこで「うちわ作戦」。でもなかなかつかない。結局小さく切った竹を燃やして、その火をだんだん大きくする作戦で着火成功。一側面からまるで逆流する滝のように昇った炎は、天をめがけて燃え上がる。しかもこの構築物は、中太の竹を50本以上組み合わせて作っているので、火が強くなるにつれて、パンパンと凄まじい爆発音を炸裂させながらド迫力で燃え盛る。

みんなあっけにとられて見ている。

ついに崩れ落ち、さらに燃える。

子どもたちが周囲の燃え残りをどんどん中央にくべる。

セイタカアワダチオイル草もくべる。ブスブス。やおらして、ボッと燃えて煙が出る。

この火の上を、飛び越え合戦が始まる。

完全燃焼。

後は、完全に墨と灰だけと化したものを周囲にまき散らし、土地を浄化して終了。

夢中の2時間があっという間に過ぎた。

子どもたちよ、どうか、この焚火に夢中になるように自分たちの勉強にも夢中で取り組んでおくれ。

画像の説明

2008-10-21 「不良」

_ 「不良」

どうせアルコールを飲むのが目的なら、お通しなしで最低料金で飲みたい。

都立校育ちなら誰でも考えることだ。

なんちゃって西荻北口いつもの店。

焼き鳥、揚げ物を主体とした調理場をカウンター40席がぐるりと囲む。

常連のバンソコメガネ以下、50代以上のオッサン、ウヨウヨ。

このカウンターで、奇しくも最近、ここ数週間前から、働き過ぎた中年が不良化するにはどうしたら良いかの議論が盛り上がっていたのである。

「不良」というタイトルの、おそらく地方都市カルチャー向けの雑誌の提示もあったりして、考えることもバカらしいこの世の中で、人生半ばをはるかに過ぎた男たちが、「不良」になるための条件をあれこれうんちく語り合うのである。

こうしたある日、やや日数が空いてこのカウンターに止まり木すると、

「クロカメと炭酸、1、1氷!」の声のカウンター内変態刈りの声の直後に、常連二人に挟まれて、もう我慢できないと言った様子で、まるでピストルを脇腹に突きつけるような口調で、

「松永さん、あんたから提案された不良中年の考察、もうオレたち昨日から止めることにしましたよ。オレたちオレたちなりによ〜く考えたんだけどさ、とどのつまり、「不良」になるには、まず家族より自分を優先させる精神がなければならないじゃないかということになったのです。そうしたら、同時に、あんた以外の全員が「家族がない」ことが判明したのです。つまり、あんた以外の全員、みんな独身なんだよ。そのアンタが、不良になることの問いかけをするのは、「資格がないのに営業する弁護士」、「年金生活者を嗤う金満家」、「無能な大学教授」、「不良債権に税注入する政治家」と同じ、ということになったんだよ。」

「ちょっと待ってくれよ、だとすれば、「不良」になるには、不良でない状態、つまり、逆に家族がいる状態が前提ということにはならないのか。独身にふマンな男は、すでに「不良」だ。独身には「不倫」がない。私が話題にしているのは、やや罪悪感の伴った日常性からの逃避だ。だから、不良になることを語る資格がないのはむしろキミたちの方ではないのか。そもそもその提案をした私を「たわけ者」として扱うのは極めて正しいが、そのとき密かにストイックな自分を感じちゃったりしない?」

「何とおっしゃるウサギさん。世界のうちであなたほど、西荻でヒロサワさん以外に、ストレスのない人間はいないとは、カウンター内のヤギアンテナすらも、「ミエミエ過ぎちゃって困るわ〜」なんちゃって言っちゃっています。だから、あなたには、他人を「ストイック」とか「アナキスト」とか呼ぶ資格がないのです。」

断崖絶壁孤独。

これが「現実」の会話なのであるから世間は恐ろしい。

「ところで、こうして生ガキのひだひだを啜る男は一種の不良なんでしょうか、それともそうではないのか。もしレモンかけても?」

「不良でしょう!」

単に酔っぱらっているだけなのである。酔っぱらっているときは、お互いの「バカ」が許せる。そして、それでいいのだ。我々はここでだけ遭っている間柄なのである。

男が「不良」に憧れるのは、日常=世の中がやっていられないと感じるからであろう。西鶴しかり、山東京伝しかり、色川武大しかり。

―もうけっこうです。営業外の労働は堅くお断りします。とにかく、タンパツレバー一々塩ですね。

―いや麺単品一発、塩でなくてドラドラで。

―いいかげんにして下さい!うちは飲み屋です。酔っぱらい相手の冗談屋ではありません。

―アンタ最近不幸なの?

―やめて下さい。考えないようにしているんです。

最近私のことを、「あー言えば、Joゆう」と呼ぶ者が多いが、これはゲラゲラ、ゲラのせい。


2008-10-25 冗談考察

_ 冗談考察

言語を用いる文章家が、言語であり得ない世界を描き出そうとするとき、「真実」を知ることの対偶の「冗談」を「マジ」で受ける、という共同幻想確認のバランス行為が起こる。

言語は究極真理を伝えない。これは、「真理」である。

いかなる真理も、ひとたび人の手を経れば、「真理」となって、「起源」とは変容したあとのもの。

「愛しているよ」と言った瞬間、それは「以前のもの」になる。

パラドックスは、新たなるパラドックスを規定しようとしているのであるから、実は「パラドックス」ではない。

言語の微分。言語の積分。言語の行列。

このように認識上、「真理」が真理と異なることが前提とされる場合、我々は、狂気や覚醒した認識が周辺にある次元にあると言えよう。

性卑しからざらぬ証左ではなかろうが、同時対象が複数になった場合、私は美味しそうな方を選ぶ。

時には大失敗することもある。

しかしこれは、きっと他の人も同じであろう。

快感には天秤にかける何かがある。

そしてその基準は、個人内の状況によって可変的である。

しかし文章家は、その両者が同時に叶う設定を書いてしまうことができる。

コトバに移そうとする冗談は、実は善意が前提である。


2008-10-28 近況実態

_ 近況実態

どうもまたシッチャカメッチャカになってきてしまった。

ゲラが一つでゲラ。二つでゲラゲラ。これが四つになるとゲラゲラゲラゲラ。

『子どもを無理なく志望校に合格させる方法』の改訂版のゲラに苦労しつつこれをあげると、連続して『源氏物語の読み方』の最終ゲラ確認。この合間に、10月20日に渡す約束の『公立本』原稿催促。泡喰ってこの執筆に取りかかると、そこに『一人っ子本』のゲラが送られて来る。そんなことするうちに、また別の本のゲラが上がって来てしまう。インタビューや取材もある。

世では株価暴落、一流企業倒産目前で、ものすごい事態になっているが、バブル崩壊時同様、私にはなぜか何の関係もないのが幸い不思議である。貯金も株もないが、借金だけがある身分には変わりはないが。そして相変わらずお金は仕事をした分だけしか入らない。

「これでいいのだ!」は赤塚不二夫。

今日も昨日と同様終日原稿。こうして原稿ばかりやっていると、だんだん自分が自分でなくなって来る。自らの観念を文字化した瞬間、その記憶は過去の彼方に消え失せる。そしてそれは、個々の職業の人しか分らぬ職業的精神状態。追いつめられて、ものすごくはっきりしたストレス解消―「自爆テロ」でもやりたいが、それは「冗談」でしかできない相談。とにかく、その間に入った連絡必要事項の記憶が飛んでしまう。

それでも机に向かい続ける。ことによると、ものすごく良いアイデアがこれから生まれる直前かもしれないからだ。

書けなければ猫額をうろついて精神を鎮下しようとする。

風呂に入れば瞑想排出。可能な限り空になるようにすでに体内にあるものを全て「昇華」してしまおうとする。

書き過ぎることによる自己存在の喪失の問題の解決は、今のところ焚火以外にはない。

はっきり言って、「限界状態」に近い。

しかし、これまで何度もそれを越える度に「天啓」を得られたことを思うと、前に進まないのは自分の怠惰でしかない。

自分の中からオモロいものが生まれるかもしれないと思うことは、一概には言えないであろうが、ひょっとして株式を買うことと逆かもしれない。


2008-10-31 読者

_ 読者

以前にクライアントの建設業者の男親から、「実は教育の世界のことがてんで分らない私が、先生にお願いする根拠は、先生が忙しいことであります。我々の業界では、忙しいことが仕事をする力がある証左だととらえているのが普通です。」と言われたことがある。最初はその意味が判然としなかった。

ある編集者が言う。

「先生は基本的に締め切りを裏切らない。どんなに忙しくても、書く作業は遂行する。出版社としては非常にやりやすい相手です。」

私の座右の銘は、「臨機応変、出前迅速」である。気の短い私にとって、「他にしようとすることがあるのか」というのが正直な感覚である。「仕事を他者状況に合わせて適宜に前に進める」、他にはなにもすることがないと思う。「完全」の「捨象」とも言える。

ともあれ、私が忙しいのは、書くことが「速い」からだということになる。

ブログ読者もご存知の通り、私は命令に従って直球で仕事をする人間ではなく、相手の要求の裏を読んで、適宜に「変化球」を投げて済まそうとする人間である。ある意味、適当なことを書き散らしてそれで済ましている人間と言える。

しかし、それには、書こうとすれば、そこに適当なことを書く能力が前提になるらしい。世には適当なことをそれなりに書いて済ます人が意外と少ないことが暗示される。

信じられないことである。

どうせ便所に行くなら、「空想と思考」を同時に済ますことが合理的である。楽や「節約」をしようとするのは、人間本性ではないのか。

できる時にできるだけ出し、出ない間はそのエネルギーを得る活動をすることが正着である。

しかし、それを実行すると、すぐには書けない人より優先順位が高いことになるらしい。

こうして、「キチガイ」=「理解不能な人間」が現象することになるらしい。

私には、いまだ「世間」が知れない。それどころか、「個人にとって世間とは、永遠に分らないものだ」と認識している。

同時に、その「世間」を対象に書く作家の仕事の本質も分らない。

思うことを小説に書けばそれは出版されない。つまり、金の入らぬ「趣味」と化す。

読者にとって、究極金を払って読むだけの価値がなければ、子どもの作文と同じである。

私は己の愚かさを痛烈に自覚して生きる人間である。

何度試みても本当に賢くなる実感を持ったことがない人間である。

その私が書くことは、「試行錯誤」の過程に他ならない。

「結果」ではない。

ゆえに私は、自分の本当に書きたいことを知るために文章を書き続ける人間ということになる。

私は、私の読者に、本当に、心の底から感謝する。

多くの人が苦痛であるらしい「書くこと」が、私にとって何とかできてしまうこと。だとすれば、人に比べてそれは楽なことであるはずである。

しかし私は、こういった自分に忸怩たる思いを禁じ得ない。