ブイネット教育相談事務所


2005-05-09

_ 愛とは、無私のものであり、而して個より全体のためのもの。 生き残りは全体への意識のもとに志向されるものであって、個に固着して求めるものではない。 ごくわずかの優れた「生き残り」を目指すのではなく、群れ全体がそれなりに育った中に偶然光り輝くものが出る。もしそうでなければ、誰も真実の努力などなすことはできないはずである。空には様々な星があり、ごく一部の星だけを尊宗するのはナンセンスであることは明らかだ。  少子化の原因は、結婚するものが少ないから。あるいは結婚しても、積極的に子供を作らないから。どちらの場合も他者を愛することの大切さを知らないから。 中山文科相は、「競争原理」と言うけれど、周囲を競争相手と見なす教育を受ければ、他者を愛する心が弱まるのは必定である。他者の中に自分にないものを見い出しそれを尊敬したり、愛情を感じたりするのがそもそもの人間の姿ではないのか。 競争原理と言ったって、単に人より勉強ができるようにというのがその根本の考えでは、未来社会はさらに殺伐としたものになろう。競争原理より、他者愛や共存を教えるのが未来的な教育ではないのか。  教育は自分だけのためになるようにと施されるものであるわけがない。全体のためになるようにと導かれるものであるはずだ。だから、他者に勝つことを目的に学ぶことはナンセンスである。少なくとも上に立つものが堂々と口にすべきものではない。 自己の純粋な好奇心や他者愛を捨てて、ただ他人に勝つために、理解の伴わない必要以上の暗記やレトリックの習熟を目指すものは、イメージする力や着想する力を失う。このことは、最近の高学歴者において明らかである。彼等には創造力や感受性が欠如し、唯一の価値判断は学歴や社会的地位と経済的優位である。こんな人間たちが社会の指導者になることはゆるすべからざることである。それどころかそんな人たちがまともな世代交代を行う可能性はまことに少ないことだろう。 暗記力とレトリック読解力に尽きるセンター試験の当初目的は、思想を持たない人間を生み出すことだった。本を読んだり他者との意見交換をする機会を奪うことだった。そしてそれは「成功」した。しかし、その結果、役に立たない高学歴者と、他者を思いやる能力のない人間たちが量産された。 こういったことこそが問題であるのに、教育行政にあるものも教育学にあるものもほとんどそれを口にしない。まさに無能の極みである。 少子化の本当の理由は、こういった人たちの存在を是とする社会の風潮が生んだというのが私の見解であるが、いかがなものだろうか。 


2005-05-13 「文字活字文化振興法案」

_ 超党派の国会議員が作る活字文化議員連盟が「文字活字文化振興法案」を今月下旬にも国会に提出することになった。これは、読書週間初日の10月27日を「文字活字文化の日」と定め、「言語力」を育てることを目指した法案である。PISA(国際学力試験)や教育政策研究所が行った学力試験結果で、我国の子供達の国語リテラシーの低下が明らかになったことが起因となっていると思われる。法案骨子によると、「人類が蓄積して来た知識や知恵の継承や向上、健全な民主主義の発展には文字・活字文化が欠かせない」とある。「言語力」という概念を規定し、教職員の資質向上、学校図書館の充実などを通じて、学校教育における言語力の涵養を図るように国や地方公共団体に求めている。 筆者は、多年にわたり、国語力増強の独自メソッドを掲げて活動して来た。その内容は、 ・独自の音読法によって読解力やコミュニケーション能力を高める ・これも独自の作文法によって文章を書けるようにする ・タイミングの良い読書指導により、良書を実際に手渡して読ませる、の3点である。この結果筆者の教室で学んだ子供達のほとんどが、現代文読解力、古文読解力、作文力、高級読書術を身につけ、本来教室で力がつきにくいとされて来た国語力を飛躍的に向上させて、国語以外の教科の成績も急速に伸ばすことに成功して来た。 国語ができるとは、言語処理能力とコミュニケーション能力が身につくこと。このことがあらゆる学習を含めた日常生活に大いに役立つことは明らかなことだろう。国会の超党派議員たちもこのことを国策として是としたのも当然のことだろう。普段教育行政に不満を持つ筆者も歓迎したいと思う。では、こどもたちの「言語力」が落ちた原因は何であろうか。 その原因の一は、テレビ文化の普及のために社会全体の国語力が低下したためである。 その二は、毎度の見解で申し訳ないが、記述表現が全く認められないセンター試験を代表とする記号選択の試験の隆盛・定着化である。 その三は、国語テキストの劣悪さである。 その四は、国語科教師の指導力の圧倒的な低調さである。 これらの問題の抜本的な解決はどれをとっても大変な困難を伴うことだろう。今回の法案が、少しでもこれらの問題の解決に向けて全力で取り組むきっかけになって欲しいと切に望むところである。


2005-05-14 「組織人の無自覚無責任」

_ 筆者は就職というものをしたことがない。また、学校以外のいかなる組織にも属したことがない。その理由は若き日の旅行の経験による。 21才のとき、インドのボンベイからフランスのパリまで陸路自動車旅行をした。インドでは自動車事故に、アフガンの砂漠では危うく死ぬ目にも遭った。革命直前のイランでは戒厳令も経験した。 この旅行中、筆者は大自然に密接に生活する人たちの暮らしを多く見聞した。その結果驚くべきことを知った。これらの地では、全ての子供の目が輝き、大人の男は歳を取るほどイイ顔になるのである。日本の電車の中の人々の顔にうんざりしていた筆者にはそれは実に新鮮且つ不思議なことだった。「なぜだろうか?」その理由はすぐには分からなかったが、筆者は大卒後も就職せず普通の日本人とは別の生き方を選択することにした。アルバイトをして芸術活動を行い、機会があれば旅行する人生を選んだのである。無鉄砲には不安がつきものだが、その生き方を理解し、筆者と結婚してくれる人も見つかった。可愛い子供も二人できた。 最近、ギャラップの調査で日本人の会社への帰属意識や仕事への熱意が世界最低水準という結果が出た。すでに我国では、公僕たる公務員の怠慢が目に余るものになっている。人のためになる仕事に就いて一生懸命働くことができない人たちを理解することは極めて困難なことである。なぜだろうか。特に未来の子供の教育を請け負う教師たちが積極的に仕事をする気がないのはどうにも理解ができない。すると、教師たちと同様に自分の仕事に意義を見い出しやすいはずの警察官たちの不適切な現場対応が相次いで報告されるようになった。痴漢の犯人もこれら公務員が一番多い。どうしてだろうか。 子供達の学力低下は全て大人社会のせいである。公務員たちの職務怠慢はその上にいるものやシステムが悪いためである。思えば田中角栄氏の頃からであろうか、政治家や官僚トップが自らの利権に公然と走るような風潮ができた。すると、下位のものたちにもその傾向が伝染した。文句が出なければ、表ざたにならなければ構わない。企業は自己利益のみを追求する。労働者はできるだけ働かずに高賃金を得ようとする。こうしてオレオレ詐欺のような拙劣な犯罪が横行し、電車内の痴漢行為が横行する世の中となった。バレなければ社会の害になることをしても構わないという忌むべき風潮は、間違いなく上のものを見本に拡がった。 こうしてあっという間に日本は倫理観のない国になった。すると政府は、道徳教育だの教育勅語復活だの言い始めた。これはどこかオカしい。教育勅語は儒教主義思想そのものである。そして、その儒教とは社会の上層部である「君子」対しての思想である。庶民に対してのものではない。これは「矛盾」としか言い様がない。上のものが反省するのではなく、下のものが言うことを聞かないことがイケナイのだと言うのである。これは儒教主義ではなく、法家主義である。法家主義を徹底すると、世の中に不信感が募り暴動が起るのを待つようになる。これはお隣の中国を見ても明らかである。人口の5%の共産党執行部が、資本主義化した国家の権力を普通選挙なしに握り続けようとする。これは明らかに矛盾である。 教育の現場では、理念に燃える教師たちが排斥され、残った自覚のない教師たちには、日の丸と君が代を押し付けようとする。もちろんこれは逆効果で、そのつけを喰らうのは我国の将来を担う子供達である。しかし、このことについての真っ当な批判はあまり見られない。つまり、この国では、子供達がやる気が無くなる教育を設定することを容認すると言うのだ。しかし、もちろん、こんなことは許されるベからざることである。結果的にニートとフリーターが量産されて年金は風前の灯の状態になった。 未来を担う子供達に最高の教育環境を設定しようとすること、我がVーnetでは、あくまでこれを第一の眼目に掲げ続けたいと決意を新たにする所存である。


2005-05-16 「クールベ展」

_ 友人に誘われて、三鷹駅南口の市民美術館で「クールベ展」を見た。ガラガラである。ゆっくりと堪能することができた。最近鬱屈していた心が洗われる思いであった。 筆者は19世紀フランス文化に強い関心があるものである。その理由は、筆者最大信心の文豪バルザックがこの時代を描いた作家であるからだろう。また、この時代は、今日の飽食の日本社会を写し出す鏡としても最適である。 グスタフ・クールベは1819年生まれ、中西部スイス国境近くのオルナンの出身である。自己流の作家で、キャンパスを室外に移し、写実画家の大御所として活躍した。詩人ボードレールとも親交が深かった。反教条主義であり、アタマの硬いカトリック側から度々作風を批判された。 筆者は、初めてルーブルで彼の大作に出逢った衝撃を忘れられない。それはワナにかかった鹿の絵とオルレリアンの葬儀の絵と画家のアトリエの絵だった。「こんなにも観るということに徹底するのが画家と言うものなのか」。それがその時の感想であった。 その後機会がある度にこの作家の作品に親しんで来た。今回その作品を鑑賞すると、その絵の背後に印象派のマネが見える、モネが見える、そしてセザンヌが見える。我国で愛される印象派の絵画は、この作家の影響なしには語れない。 作家の年譜を見て笑ってしまった。クールベは、1871年、パリコンミューンに参加して、ナポレオン記念碑を破壊したかどで逮捕・投獄され、政府に32万フランの損害賠償を要求されている。 裕福ではなくとも、素晴らしい作品群を生み出した気骨の作家に、まるで靖国神社を公式訪問する我国首相と同じ心情を禁じ得なかった。 お暇のある方に是非訪問をお勧めしたい。


2005-05-20 五月晴れ

_ 大風一過。 初夏を思わせる善福寺公園。 人が多い井の頭公園と異なり、いつもこの公園はガラガラ。 さらに、この公園の池を囲む緑の背後にはビルがない。 ただただ、緑、みどり、碧! 今年はクチボソが大量発生。 ひょっとしたら、ギルやバスの卵を食べてくれたカモ。 誰もいない池面に、一人で漕ぎい出す。 暑い。 家鴨たちも陸の木陰で休んでいる。 中央の睡蓮の囲みの杭の上に、 種々のカメが甲羅干し。 木陰に入り、靴も靴下も脱いで、 私も 仰向けにひっくり返って午睡。 目を開けると、栗や桜の若葉。 その合間から、陽光が、チラ、チラ チラ。 湖水を渡る涼風に 気絶と眠りの区別がない。 天敵女の 怒りも忘れて、 こんな日に 働かないことの いったいどこが悪いのか。 いったいどこが悪いのか。


2005-05-23

_ 世情では、多くの人が学力低下を憂いているという。そんなことは実は真っ赤なウソである。メディアも国立教育政策研究所と同じ手法をとる。共通点は両者が試験に勝っただけの高学歴者による組織である点である。 新聞やテレビで騒いでいる最中に、アンケートを取れば、そんな結果が出るのは当たり前のことではないか。大衆が、テレビと新聞に翻弄されるのは分かり切っていることである。 学力低下とは国全体の問題であり、個人や個々の家庭にとってはどうでも良いことであるはずである。現在の日本国民が国全体のことを憂える可能性は、自己の立ち場だけを考えている文科大臣と同様に限りなく薄い。 上から下まで、高級官僚から下級官僚、民間人まで自分のことだけを考えているのは否定せざる事実であろう。まずそのことを強く認識しよう。我々は、自分達のことを第一義に考える。フランス人と同じである。 何と先進国家的考えであろう。帰属意識が高いのは、後進国にこそ充当であろう。 人々が怒っているのは、税金で行うはずの教育サーヴィスが充分に行われていないことだ。 公共サーヴィスが充分に行われていないこと、そしてそのことについての情報が隠ぺいされ続けていたこと。このことが、90年代の社会主義政権の崩壊の原因であったことは、これまた否定せざる事実である。中国もそうなるだろう。北朝鮮もそうなるだろう。そしてその後には、日本もそうなるであろう。 公共の場にある人たちが積極的に働く気が失せるシステム。そして、学歴と試験高得点だけを目当てに大人になる人たち。談合に天下り。そういう人が支配する社会システムは、自己の立ち場的優位を利用することにやぶさかではなく、反面同時にできるだけ楽をして労働をケチる人を生み出すことは、20世紀的に明らかなことである。 そんな世の中の中で、自発的に努力する人が、自分のことだけを考える人がほとんどであるのは当然のことであろう。 これは現実である。 国民が、自分のためだけに学問を行う時、国家はマイナスの方向性を取らざるを得ない。これは歴史の必然である。国家のことを思わずに、誰が特攻隊の藻くずと消えることを望み得ようか。 理念の欠如して行く社会。これが我々の志向する社会である。 もちろんこれは、不幸なことである。 なぜなら、自己存在は他者愛においてしか確認されないからである。 してみると、真に他者のためになることを思わない学問は、未来社会における幸福、つまり、存在の歓びから限りなく遠ざかる営為であろう。


2005-05-25 「愛国心」ー入江昭ハーバード大教授

_ 24日付の朝日朝刊で、入江昭ハーバード大教授が、愛国心の議論が盛んなことについて以下のように発言しています。「『国を愛せよ』と言って育てなければならない愛国心は、本当の愛国心なのでしょうか。そんなことを言わなくても、国を美しいと思い、伝統を評価するのが、自然な愛国心ではないか。むしろこれからの時代は、国の単位ではなく、環境や人権など人間社会全体を見渡した価値観を重んじるべきでしょう。」 これは筆者のこれまでの見解と最も近いものです。私は、日本が世界で最も美しい気候と自然に恵まれた島国だと思います。また我々の用いる日本語は他に同様なものが見られない素晴らしい言語の一つです。君が代の歌詞はどうもしっくり来ませんが、日の丸は国旗としてのデザインセンスが抜群です。我々は充分に誇りを持つことができます。そして世界はボーダレス、グローバル化の時代です。環境と人権こそ宗教やイデオロギーを越えて共に語り合うことができるテーマであるはずです。 それにしても、どうして国内の識者たちがこれをまっ先に唱えずに、在米の入江さんが唱えるのでしょうか。この考え方が徹底できれば、現在の靖国問題も解決できるはずだと思います。教育問題にいついての発言もそうですが、もっと国内の学者、識者に意味のある発言をしてもらいたいと願うのは私だけでしょうか。


2005-05-26 教育産業

_ そんなことは当り前だろう、というようなことが意外と分っていないのが世間である。

大学で教員資格を取るべく学んだはずの学校教師たちが、青二才であるはずの塾教師に劣るのはなぜだろうか。

その理由は、第一に、学校教師たちが、たとえ無能であろうとも、減給や免職にならないように身分を保証されていること、第二に、天下りの延長線でできた拙劣な教科書を使うことが義務付けられることと、第三に、末端に働くもののやる気を減退させる教育システムによることは明らかなことだと思う。

予備校や塾では、テキストを独自開発し、それを用いて、努力さえすればそれなりの効果が出せることを前提とした教師採用を行い、はっきりとした結果の判定ができるシステムを用いている。

ここには、お金をとって生徒を預かったのであるから、それなりの効果が出せなければ、事業を連続できないという、必然的呪縛がある。

塾経営は一対一では、成り立たない。最低20人のクラスを作り、自前の編集テキストを配り、教師に時間給三千円以上を支払い、それが連続できなければ採算があわない。

20人クラスで、週一回で月1万5千円(=30万円)を集め、講師に約月3万円の謝礼を払い、テキストと設備費、広告費と人件費並びに事務経費を支払った残りが利益となるのであるから、一クラス20人でやっとこさ利益が出るのが実体である。

つまり、教師に払う給料を限りなく圧縮する必要がある。

すると、能力のある教師は引き受けない。

学生家庭教師の平均的時間給が2500である時、能力のあるプロの教師たちは、最低でも時間当たり5000円以上でなければ真面目に働く気がしない。しかし、そんな人を雇っていてはとてもじゃあないが経営は成立しない。

例えば、近年、「現役生のための予備校」として有名を馳せているWでは、若手教師の時間給は4000円程度。90分の授業で6000円というのが実体である。これは院生家庭教師の平均的な時間給である3500円より若干上回るが、これでも予備校としては詮方ない思いであるはずである。

一クラス100人200人と大量に生徒を詰める予備校の黄金時代は去った。予備校側としては、一部の優秀な教師たちに優れたテキストを作らせ、それをカリキュラム通りに若い教師たちにやらせるというのが落としどころだろう。これは小中有名進学塾では定番の経営方法であり、大規模な広告にモノを言わせて多くの生徒を集めて、クラス数を増やすことによってしか、大きな利潤をあげることはできないのが実情である。そして、これらの予備校では生徒の半数が落ちこぼれ、さらにその半数は、以後全く成績の伸びない生徒を生み出してしまっている。

私の主催するV-net教育相談事務所を訪問する顧客には、6年生私立のなりふり構わぬ成果戦術や有名進学塾で勉強する気の失せた人たちの相談が後を経たない。


2005-05-29 ナチュラリスト・田淵行男の世界展

_ 恵比須ガーデンプレイスの東京都写真美術館で田淵行男写真展を見た。

田淵は、1905年鳥取生まれ。日本のネイチャーフォト、山岳写真の先駆的存在

として活躍、89年に他界している。

4才で母に死別、10才で父に死別。母方の親族に引き取られた彼は、東京高等師

範博物学科で特待生として学んだ後、高校生物の教師を勤め、45年に安曇野に疎開

し、そのまま定住して北アルプスを中心に精力的に登山し、数多くの優れた山岳写真

や蝶類や植物の写真を残した。

面影は、実に自然を愛する純真な生物学者そのもので、私は強い親しみを禁じ得な

かった。

その作品はどれをとっても豪壮な山の姿に繊細な美しさを写し取ったもので、日本

の山の美しさを余すところなく伝えている。鹿島槍、槍ヶ岳、五龍岳、常念岳、浅間

山等これでもかというほどの登山を繰返し、その全てを喩えようもないほどの美しさ

に収めている。御子息に「穂高」という名をつけるほどの日本の山への入れ込みよう

である。

クールベも田淵も山の景色を愛した。山の姿は美しいとしか言い様がない。私もや

や歳を取ったか、つくづく常に山を間近に見る生活をしたいものだと思う今日この頃

である。


2005-05-31 国際基督教大学

_ 教え子の演劇を観るために、三鷹市の国際基督教大学キャンパスを訪ねた。

緑に囲まれた広大なキャンパス。おそらく都内でもっとも人口密度の少ないキャンパスだろう。

先ずは食堂へ。やはり人の有り様を観察するのは食事の光景に尽きる。

1月毎に約5種類の主メニューが変わる仕組み。今月は、カキフライ、チキンミソ漬けカツ、ハンペンの肉詰め、スパイシーチキン。各々350円。ライスが60円。この他に定番メニューなのか、チキンカレー290円、ザ−ジャン麺360円、焼肉丼440円。ハッシュドビーフ360円など。材料に比例する値段というのは他の大学の学食と同じ。ザ−ジャン麺と迷うが、ハッシュドビーフを食べることにする。

トレーに注文の品を載せて、やや離れた中央の売店で料金を払う。食券がない。これは考えようによっては食い逃げが可能なシステム。よほど生徒が恥ずかしいことをしないことが前提か。

食堂内は一見してクリスチャン風の米国人が多い。学生の印象は、パリで見られるアジア人顔。上智や慶應で見られる派手なタイプの女子学生はあまりいない。男子学生は、無理をしない分別っぽい無難なタイプが多い。倫理的。総じて耳が良さそうな学生が多い。超デキるものはいないが、見事に下の者がいない印象。プライドもそれなりのものがある模様。東大や一橋大の格好の滑り止めのようだが、人種のゴッタ煮の早稲田と違って層が薄い。多分地方には知名度が低いのだろう。この大学と慶應や上智に同時合格したらどちらに行くのだろう。青山とだとこちらを選ぶだろう。しかし、妙にカラーがある。キリスト教兼この広大なキャンパスに憧れている類型であると思われる。他の難関大学同様、感受性が弱まっているものが多く見られるのはそれなりに苦労して入学して来ていることを暗示している。

日本人かと思ってみていると、英語を話しているので、アジアからの留学生と知れることもある。立地柄、名前柄、入試問題の特徴から、CIAエイジェント抽出が2次目的かと半ば冗談で思っていたが、これは間違いのようである。私だったら、四谷よりここを、ここより三田を選びそうだ。金を払って通う価値がある大学としてはかなり申し分ない。教授たちも、一目でカスと分かるものは意外と少ない。外国人講師も多く、お勧めの大学と言える。

それにしてもゆったりしたキャンパスに新緑が本当に美しかった。