ブイネット教育相談事務所


2005-06-01 教育学者とニート

_ 教育社会科学者で、お茶の水女子大学教授の耳塚寛明氏が、日経コラム「まなび再考」で、参議院調査会でフリータ−とニートについて参考人として発言した報告が出ている。

それによると、「相対的に低階層出身の高校生が、求人数激減の直撃を受け、さらに経済的理由などから学力と進学機会を奪われるという二重の機会喪失の末に、フリーターやニートになる。問題を個人化するのではなく、教育と就職支援の必要性を訴えた。」とある。

耳塚氏は、学力が家庭環境によって階層化していることを指摘している教育学者であるが、そんなことは調査して裏づけを取らなくても昔から当たり前のことである。そして、問われているのは、学力向上を可能とする教授法なのではなく、日本社会の競争の仕組み自体であるというのである。

私は耳塚氏の発言を聞いていると、わざわざ分かり切ったことは論証するが、本質的な切り込みの発言は自分に不利にならないように巧妙に避ける印象を禁じ得ない。これはほとんどの教育学者に共通の印象である。彼等のほとんどは実際に充分な期間教壇に立った経験もなく、教育の現状に、大学の教育学部などで学生の指導に当る自分達教育学者に巨大な責任があることに無自覚であることに寛容である。

ニートやフリータ−の問題は、親の経済的格差や学歴格差だけにあるのではない。

現場最前線で働く我々からすれば、親の学歴や経済力にかかわらず、やる気が失せたり社会不適応な習慣を抜けだせない子供達が沢山いる。その多くは、価値観を持たない親の無自覚と、本当のことを言えない学校環境や教師たちの不適切な対応と、それらを生み出す超劣悪で無自覚な教育行政システムの犠牲者である。そして、これを救済するには、私たち大人が、個人として、我が身を捨てるようなギリギリの限界努力が必要である。

「常識人」である耳塚氏は、システムのことのみを問題にしたがる。それはもちろん正しいが、教師の質の向上を図らなければ現場で喘ぐ子供達の救済に全く繋がらないことは明らかである。教育学者が、ここを巧妙に語らないのは、明らかに卑怯であると私は思う。耳塚氏だけとは限らない。教育学者が「相対的に」無能だからこそ、教育の現状が一向に改善されないと自覚して欲しいと思う。

「教育学者」を標榜するなら、我が国の将来を背負う子供達の心を深く理解し本当に良く働く教師達が多数輩出するシステムこそを提案せよ、と私は言いたい。


2005-06-02 チキンラーメン

_ 私は化学調味料が苦手である。食べた後、頭がジンジンしてしまう。高級中華料理店や人気ラーメン店でも、これが入っていることが分かると二度と足を向けない。したがって、ほとんどの外食産業チェーン店に入ったことは各々一回づつくらいしかない。そもそもテレビと同様、我が家には化学調味料というものがない。

しかし、時には、「発作」ということもある。

新聞に、清朝最後の皇帝で、不遇な晩年を送った宣統帝(愛新覚羅溥儀)がチキンラーメンのファンだったことを知り、深夜コンビニで何となく買って食してみた。結果はゲロゲロ。さっき食べたが中和することが未だできない。アタマはジンジン。胸はムカムカ。若い人たちの食感をあらためて畏敬すらする。

しかし、不思議なのは、また一年近くたつと、この毒に当りたくなる自分を発見することである。マックのフィレオフィッシュにもこれは言える。

同僚の教師に、「化学調味料入りラーメンを食べた後味を中和するために、家でサッポロ一番を食べ直す」と言っていたものがいるが、確かにここには不思議な原理が内在する。

アジア諸国でもインスタントラーメンは人気であると言う。「天皇陛下も深夜に食されている」と右翼の人が怒っていたのを聞いたこともある。そりゃ奥さんの御実家から送られて来るのだろう、と思うが、「たまには」という不思議さは否定できない。

化学調味料は一種の麻薬であると思う。コマーシャルと同様である。マコトに現代社会にふさわしい合法的な食べ物である。

私のようなものがいる以上、時間の問題で、自然食カップヌードルが発売されよう。奇妙なことだが、これがサッポロ一番より美味しくないであろうと思うのは私だけであろうか。

面倒で、割高だが、やっぱり自分でラーメンを作って食べることにしよう。


2005-06-06 ある日曜日

_ 朝起きると、V-net教育相談事務所へ。高校1年の漢文と英語の予習を行う。生徒の吸い込みがいいので、資料を多数拡げて中国の地理や気候や歴史について概説し、その上で科挙試験について解説して、なぜ盛唐に漢詩の華が開いたのかを説明した。この生徒が、李白や孟浩然等の詩の素晴らしさが分かると言うので、つい嬉しくなってサービスしてしまった。良い授業ができると心嬉しいのはいつものことだ。

家へ帰って、昼食に焼そばが食べたいと思い、それには吉祥寺の製麺屋で蒸し麺を買う必要があるので、ついでに女房と息子が武蔵野市のグラウンドで行われているラグビー祭へ行っている間に、久しぶりで夕飯用に餃子を作ることにする。

ケーキを作っていた娘に台所を片付けて明渡すように言って、その間に全室に掃除機をかける。

自転車で、吉祥寺の製麺屋に行く。道で馴染みの植木屋に会ったので、「雨が降らないと今度は暑いね。」と話し掛けると、「ホントに!」と答える。好いお天気だ。

麺屋で蒸し麺と厚めの餃子の皮。皮はいつも足りなくなるので100枚購入。隣の肉屋で、挽肉と豚肉。今日も肉屋の前は、メンチカツを買う人の行列ができている。店の中では恐ろしい勢いでメンチカツを作っている。タマネギを刻むもの、肉と混ぜてこねるもの、玉にするもの、パン粉をつけるもの、揚げるもの、袋に詰めて売るもの。列はすでに百人近くになっている。食べ物の列に絶対に並ばない主義の私は、相変わらずこのメンチカツを食べたことがない。メンチカツの整理券なんて馬鹿げていることこの上ない。

帰宅途中で、自然食品屋で、無農薬(と書いてある)のキャベツとニラ。家へ帰って調べると、シイタケが切れている。もう一度自然食屋へ。帰って来て、シイタケを刻むと、好い匂い。これに酒をかけて挽肉と混ぜる。同時にキャベツを洗って、餃子用と焼そば用を準備。キャベツを細かく刻んでサイババのように握りしめてこれを絞る。肉とシイタケに混ぜて、先ず餃子を三個作り、試し焼き。同時に肉を炒めて酒を振り、キャベツとニンジンとニラを加えて、お多福ソースで焼そばを作る。餃子は、女房と娘が匂いが強いと嫌がるので、ニラもニンニクも入れないのを作ってみる。まあまあ。冷蔵庫にあったと思った蟹の残りはなくなっている。焼そばは思い通りのものができて一応満足。

さて、餃子作り。本日は三段階制を取る。先ずは肉とシイタケだけのものを20個作るこれを素早く冷蔵庫に入れると、次はニラ入り20個。さらにニンニクとショウガもおろして入れたものを30個作ると、皮が30枚残った。冷蔵庫に一昨日作ったキーマカレーがある。これとジャガイモを混ぜてサモサの具にしたら、今日みたいな暑い日の格好のスナックになる。ジャガイモとキュウリを買いに、再び自然食屋へ。植木屋は道路でのびていた。

どうせならポテトサラダも作ってやろうと思い、ジャガイモを10個購入。ついでに、これも高いが無農薬トマトとキュウリ。これで冷蔵庫のサラダ菜があれば、夕食はバッチリである。

家へ帰って、ジャガイモを煮始める。その間に早くも良く乾いた洗濯物を取り入れて畳む。本当に暑い。チュー杯が飲みたくなったので、コンビニへ行って炭酸水を買って来る。新聞で、野田聖子の妊娠奮闘記を読みながらガブガブ。イモが煮えたので、アッチッチ、皮を剥いで、擂り鉢擂粉木で潰す。サモサ用に分けた残りに、スライスしたタマネギを水洗いして、薄切りにしたキュウリと湯通ししたニンジンを加えて塩胡椒マヨネーズで味付け。

サモサにかかる。キーマカレーと混ぜるが味が弱いのでカレー粉と胡椒。これを2枚に重ねた餃子の皮で包んで、油で揚げる。揚げながら、台所を片付ける。床も拭く。サモサを揚げて、油鍋を洗って片付けると、玄関で「ただいまー!」の大声。炎天下で動いていた息子と女房が、「わ−、今日はこんなのが食べたかったんだ!」。娘の作ったケーキも食べ終わると、息子が「ねえ、釣に行こうよ!」。

コーヒーを入れて、さっとシャワーを浴びて、夕暮れの善福寺公園へ。先ず30秒でエサのミミズ10匹捕る。先客の子供たちが何も捕れないのを尻目に、極微のタナゴ針でホイホイとクチボソを釣る。何も捕れない彼等は、岸辺の桑の実を、「ラズベリー」と呼んでむしって騒いでいる。今日は子供たちが騒ぐのを幸いにギルが全くかからない。

日が暮れたので、子供たちが散らかした跡を清掃して帰宅。

サラダ菜にトマトにポテトサラダ。冷蔵庫で冷やす。三段階餃子は、二段階目の、ニラ入りニンニク抜きが好評。食後、後片付けをして、睡魔に襲われて仮眠していると旧知の経営コンサルタントから久方ぶりの電話。家族が寝静まると、机に向かう。メール・BBS対応の後、合間に書くつもりのブログが長くなった。これから金が払われる原稿を書く。今日も夜が白むまで執筆である。良く汗をかいた一日だった。


2005-06-07 「裸の王様」ー中山文相

_ 6日付けの朝日新聞によると、中山成彬文科相は、日本青年会議所九州地区宮崎ブロック協議会主催のフォーラムで、「教育の世界においてもジェンダーフリー教育だとか過激な性教育とかがはびこっている。」と述べたそうだ。続けて「私たちはこれからの日本で生きて行く子供たちを素直に育てたい。できれば世の中に貢献できるようになって欲しいと思っています。」と発言したそうだ。

朝日は、「性差教育はびこっている」と発言と見出しを掲げ、文化的・社会的に形成された性差の解消を目指すジェンダーフリー教育などを批判したと書くが、朝日記者の記述も相変わらず舌足らずかついいかげんな印象を禁じ得ない。中山さんは、「そんなつもりで言ったのではない。男女平等は日本国憲法にも歌われた大切なことである。私はもっと九州男児が男らしくしても批判されないような世の中の風潮が必要だと言いたかっただけだ」と、きっと後で弁解することだろう。

前にも書いたが、この人は本当にお気の毒な人である。頑固一徹真面目に勉強したおかげで、世の中のごく一部分しか分からないまま出世してしまった人なのである。本来は相入れるはずのない儒教主義と競争原理を同時に主張するなど、かなりアタマの悪い人なのである。儒教主義以外の思想やジェンダー運動がどういうものなのかも実はこの人には良く分からないのである。この人が、師匠のこれまた文教族でありながら愚かな発言を繰返して余儀なく辞任をされた森元首相と同レベルの人材であることは疑う余地がない。この人には本来教育のことなど何も分かっちゃあいないのだ。私は最近、このマンガの主人公のような壮年男を見ていると、哀愁すら禁じ得ない。さぞお疲れだろう。「もう辞めたい。やらなければ良かった。」と思っているに相違ない。目にする度に笑いが込み上げて来る。

教育のことが全然分っていない人が、組閣の都合で教育行政のトップである文科大臣になった滑稽さを楽しんでしまうのは私だけであろうか。いや、おそらく、彼のもとで働く文科官僚たちはもっと楽しんでいるにちがいない。何せ、この人のおかげで、これまで自分達が繰返した教育行政の失敗の印象が薄まるのであるから。

私は、我が国教育行政の実体をここまで素直に伝えてくれる要領の悪い男のファンになってしまったようだ。もっとどんどんハチャメチャな爆笑発言を是非繰返して欲しい


2005-06-08 旅立ち

_ 中3の教え子の父親が他界した。10年近い闘病の末である。息子さんが修学旅行に出発した朝に亡くなった。

実は、筆者は、地元の公立小に通う子供がいるので、自分の仕事を地元には隠している。

著書でも、公立教育の欠陥をズバリと指摘して来た。公務員としてより熱心に働く気がない人たちを強く批判して来た。だから、学校の先生に知られると実に不味い。今春中学を卒業して高校に進学した長女からは、

「今のところバレてないけど、できたら本名でやらないで欲しかったよねー」

と、言われてきた。

従って、全国各地からのクライアントの教育相談には応じているのに、地元の相談には応じていない。授業参観にも来ないで欲しいと言われている。そしてもとより、V-netでは、広告も看板も出してはいない。何とか地元には知られずに済ませて来た。生徒もいなかった。

しかし、この中3の教え子だけは例外である。

なぜかと言うと、息子が小二の時、六年生だった一人っ子で兄弟のいないこの子が、小学校校庭でやっていた野球に入れてくれ、しかも息子の打順が来た時には、仲間を制して、定位置より前から、下手投げで投げて打たせるのを偶然観察したからである。私は言わなかったが、心の中で恩に感じた。なぜかと言うと、私は、少子化社会の中で、「縦割り」の集団構成の再構築こそ、最重要と捉えているからである。

聞いてみると、この生徒の父親は、生徒が小学校に入学する直前に、心臓を悪くし、以後半身不髄の車椅子生活を余儀なくされたとのことである。こういう状況下で生きる子供が、幼い子に優しくすることは、かけがえのない美徳ではなかろうか。

V-netでは、「自分より弱者に対して優しくすることは、人間として生きて行くことの基本だ」と常々指導している。中山文科相の「競争原理」の逆である。

また、男の子は、14才いっぱいまで、大いに外で遊び、友達と群れる実際的体験をすることが勉強するより優先されるべきであるというのが、私の終生変わらぬ主張である。 中一より野球に打ち込んだこの子は、同時にV-netに通い、中三になって、作文力を身につけ、漢字も計算も英語も飛躍的にできるようになりつつある。私は、こういった子を社会に役立つ人間として育むことにこそ、生き甲斐を感じて教育の仕事をして来たのである。

今、ようやく勉強も追い着き、そもそもの才能が開花し、頭角を現わし始めたまさにその最中に、あたかもそれを見届けたかの様に、父親が他界する。泣けて泣けて仕方がない。

学校の先生たちは、多少の素行のアンバランスさと勉強ができないというだけでこの子を蔑んで来た。何という価値観の狭量さであろう。

息子さんが、修学旅行に出発するまで耐え忍び、その旅立ちに合わせて永遠の旅に発たれたお父さん、貴兄のお子さんは私が引き受けました。かならず立派な男に育て上げ、貴兄の遺伝子を引き継いだ多くの子供を持つ父親になるようにすることをお約束申し上げます。

どうか安らかなる御冥福を。誠に僭越ながら、私がこの子の未来を見届けることをお許し下さい。


2005-06-09 中学入試国語記述必勝法

_ 今年は、すでに5つ以上の出版計画があり、そのうち一つが、現在執筆中の有名私立中学の入試国語問題に必勝する方法についての本である。

まだ正式な名称は決まっていないが、今私の机の上には、出版者から届けられた全国の有名私立中の入試問題が山と積まれている。ざっと挙げてみると、灘、開成、麻布、武蔵、駒東、ラサール、久留米大付設、東海、洛星・・・etcと、そうそうたる学校が並んでいる。

私は、言わずと知れた中高大の国語入試の必勝対策法を教えるプロである。私はこのやり方でおよそ20年以上飯を喰ってきた。事務所のVーnetでも、毎年のように、生徒が受験する学校の国語の問題を分析し、その対処法を伝授し、アッと驚く合格をものにしてきた。東大合格も、慶應合格も、早大などの推薦入試合格も、世に決定的な指導者が少ない国語の指導でものにしてきたのである。

そのやり方の中学入試版を、読者一般に明らかにしろというのである。

私の生徒たちは、年齢にかかわらず、皆文章が書けるようになって私の元を巣立って行く。このことは、すでに、『常識破りの日本語文章術』、『親子で遊びながら作文力がつく本』(以上、両者とも主婦の友社刊)などで明らかにしてきた。

今回は、中学入試国語の記述解答の秘伝の公開になる。

人には「秘伝」とか言われるが、実は実に簡単なことで、なにも自慢するほどのことではない。ダイアローグ法と抽象構成作文法と言う。私は、どうしてこのやり方を、他の教師や教育機関が思いつかないのか、常々不思議にさえ思って来たのである。

秋に出版の予定である。このブログの読者には、是非楽しみにしていただきたい一作である。正式な書名が決まり次第、このブログで紹介したい。乞う御期待。


2005-06-10 第2のセンター試験

_ 教育制度研究フォーラムというNPO法人が、全国統一学力試験の実施を決めたそうである。「センター試験は選抜の論理が優先されすぎている」として、高校卒業程度の知識が身についているかを判定する出題内容になるそうで、推薦入試などで早めに優秀な学生を確保する動きが活発な大学が判定基準に利用できるように10月に実施する予定であると言う。

周知の通り、センター試験事務局は、国立教育研究所や国立国語教育研究所同様、文部官僚系の天下り機関の一つである。センター事務局の独擅場である全国一斉統一入試に風穴を開け得るという点からすればこれを評価したいが、しかしここも会長は、元文部省官房審議官の中島章夫氏である。この試験が施行されても、1月に行われるセンター試験の受験者がそう減るわけではないから、新たな期間に試験をして受験生を集めてウマイ金もうけをしようと言うこまっしゃくれた下心が丸見えである。国民は、センター試験で1万円、この試験でも1万円を徴集されるわけである。

私立大学の試験が合否にかかわらず35000円という法外な値をつけているのに対して、これは1万円くらいだから安いではないかと取るのは甘い。なんとなれば、この試験も、センター試験同様のマークシート試験だからである。そして、センター試験の結果を用いる私立大学の入学試験はさらに15000円を徴集するのが一般である。

私は多年に渡りセンター試験の廃止を訴えて来た。その理由は、センター試験事務局が天下り機関の一つであることと同時に、我が国の学生の学力低下を招いた最大の原因がこの試験にあると喝破するからである。マークシート試験では、つまらないレトリックの読解や暗記の成否以上のものを問うことはできない。そこには創造性や自己表現力を判定する可能性が限りなくゼロに近い。主催者側は、そんな試験をやられる学生側に立ってみたことがあるのか。解答する代わりに欄を塗りつぶす試験。そんな試験を甘んじて受けることは苦痛以外の何ものでもない。自己の能力を解答欄の穴を塗りつぶすことで判定される。そんなことを平気で行う大人を子供たちがどう思うのか。亡国以外の何ものでもない。自分達で採点する手間を取る気がないのなら、試験などする必要はない。本当に頭に来る。こういう無自覚な大人たちが子供たちのやる気を削いでいるのである。どうせやるなら、ヴォランティアでやれ、と言いたい。これ以上下らない連中に見え見えの騙され方をすることはもう沢山だ。どうして新聞記者たちはそのことを強く批判しないのか。ここも自己の価値観を持たない高学歴者たちの巣窟なのであろうか。大人たちにこんなことを平気で行われる子供たちが本当に気の毒である。


2005-06-11 都立青山高校運動会

_ 都立青山高校の運動会を見て来た。この学校は、秩父の宮ラグビー場の正面、神宮球場の斜向かいに位置し、まさに都会の真ん中の学校である。都指定の進学重点校でもある。

運動場を一瞥して驚いた。生徒の約三割が裸足である。しかも、女子は応援団用のコスチュームを身につけ、男子は上半身裸で赤青黄白の絵の具を本来の顔が分からなくなるくらいボディーペインティングしている。その他にもぬいぐるみを着ている者や紋付袴姿の者と実に多彩である。そしてなんと、彼等は、そのままの格好で競技に出場するのである。

さらに驚くことは、会が完全に生徒主導で、ほとんどの先生方は裏方に徹して観客に埋没している。分けの分からぬ今風な音楽が絶えずかかり、競技のための入場後進もダラダラで、あったものではない。競技が終わっても整列せずに、ダラダラと自分達の席に帰るのである。

この学校の隣は、國學院高校であるが、こちらでは運動会の練習が進行しているが、教師たちがマイクで大声で生徒たちに指示を出し、「ハイ!8列に並んで!イチにイチに!」と指導に余念がない。

4月にも入学式をのぞいてみたが、教師も生徒もほとんど君が代は歌わない。しかし、校歌は大声で歌う。

しかし、もっとも驚いたのは、昼食休憩後の、各応援団によるアトラクションである。1チーム60名が、10分以上演舞に踊りを繰り広げる。そして、それは、一糸乱れぬ見事さである。出場待機をしている組も、行進の時とはうって変わって、身じろぎもせずに出番を待つ。

とにかく、競技も演技も超楽しそうである。この学校は、生徒にストレスを与えるどころか、自己表現の場を与えるために存在している学校である。これでは、オームを初めとして、つまらない宗教に引っ掛かる可能性が微塵もない。最後の学校長の挨拶は、「酒を飲むな」に終始したと言う。

これを石原都知事が見たら何と言うかと思ってしまった。そもそも石原氏は、奔放な若者の姿を描き出した「太陽の季節」で世に出た人である。その人がこの学校を見れば、内心「若者はこういう自由な姿で良い」と、言わないわけがない。押し付けないことによる自立性。こういうのが、ひょっとすると、未来的社会の有り様なのかも知れない。大人がこれに学ぶべきであると強く感じた。


2005-06-12 イチロー

_ テレビを持たず、新聞を二紙(朝日と日経)取っている。授業がなくて原稿だけだと、ついスポーツ欄まで隈無く読んでしまう。

最近、中日の落合監督が、記者が取材しようとして近づくと、「風邪がうつるぞ!」と言って追い払う期間が続いたそうである。

そして今日、大リーグ千本安打に迫ったイチロー選手が、『適時打を打った場面での心境を聞かれて、「そんなこと感じられるわけがないじゃあないですか。あのゼロ点何秒かの間に」と言って、いら立ちを隠すかのように、早々と会見を打ち切った。』とある。

筆者は苦笑する。なぜイチロー選手が、「苛立つ」のか分かる気がするからだ。

イチロー選手は、鈍いアタマの記者を心底嫌悪しているのである。そしてそのことが、「高学歴」の記者には分からないのだ。だからこそ記者は、この記述をしてしまうのであろう。 

記者は、「いら立ち」の原因が自分の質問の仕方にあることが分からないのだ。記者は「打率低迷のため」と分析する。それを読むイチロー選手は、さらに不愉快な気分になるだろう。でも、「大人」だから、一応正直に答えて、記者から離れるのである。落合監督だと「風邪がうつるぞ」となるわけだ。

記者は、「球は予想通りでしたか?」とか「しぶとい打撃の秘訣は何ですか?」とか、具体的に質問すれば良いのである。それを、「心境は?」とか言われれば、そっぽを向くのである。そうするしかないのである。言葉に工夫がない新聞記者は、打撃を工夫しない打者と同格であろう。

彼は、高学歴新聞記者たちのうんざりさせるような平板さ、感受性の鈍さ。そしてその自覚のなさが嫌なのである。

でもイチローさん、ことは新聞記者に限りません。大学教授も同じです。高級官僚も同じです。彼等はそのことに無自覚である自分に無自覚なのです。

 学歴を利用して組織人となっている記者、努力と実力で大リーグで奮闘する選手。この差の実態はあまりに大きい。謙虚になるべきなのがどちらであるのかは明らかである。

もし記者が、無自覚な自分を演出して、わざとイチローさんを怒らせて、私を楽しませる記事を書いてくれているなら、私はそれに対する無自覚を詫びますが・・・・。


2005-06-14 クールビズ

_ 衣替えの今月一日より、官公庁でノーネクタイ運動が進行しているそうだ。

20年も昔、ヒッピーカルチャーをソフトに了解するイギリス人の友人が、夕方語学学校に出勤するとき、ネクタイ姿になったのを見て、

ーOh,you wear a necktie.Why?

と言う私の問いかけに、即座に、

ーBecause they pay to me.

と、応じたことを思い出す。

私は、

ーIt's the same like strippers taking off their clothes.

と、応じたことを思い出す。

外国人たちは、私を、その友人たちに紹介するときに、

-This is a guy who is the most unlike Japanese.

と語っていたことも思い出す。

私は、20代の初めに、就職しないことを決定した日本人である。同時に、いかなる組織にも属さないことをも決めていた。失敗したのは、家庭というものに属し、女房の尻に敷かれたことのみである。

そういう私も、2本だけネクタイを所有する。

その一つは、シルバーで、もう一つはブラックである。

今、クールビズのために、ネクタイをしないことを選択した人たちが現れるなら、私は、その人たちと、組織に属さないことを選択した自分を差別化するために、腹掛けか、腹巻きか、さてまたモヒカンか、女装か、半纏か、入れ墨をホリエモンするかしなければならないとも思う。

冗談である。

どうでも良いことを話題にする日本人と自己同一化することを拒み続ける自分がいる。

女房に、「たとえ雨の日にでも、長靴を履くような人とは、一緒にデパートには行かない」と言われたことを思い出す。

大相撲が、パリ興業の際は、パンツ着用で行われる日を夢見る。

これは本気でそう願っている。

−It's silly to show your hips.


2005-06-15 SFC

_ 慶應湘南藤沢校(SFC)を訪問した。非常にゆったりとしたキャンパス。都会の学校ではあり得ない風景。しかし「風景が大切」とは、哲学者の沢田允茂氏の言。

学生の特徴は、見事に不必要な「下」がいない。しかも、不必要なプライドもない。アメリカの大学に来たみたいだ。文章力がある学生を取るとこういうことになるのか。闇雲な暗記学習による「破損」が少ない。

この大学は一方でプレゼン力を重視する。しかし、層を限るためか、やけに突出した学生は少ない。楽しそうではあるが、本質的ではあまりない。やっぱり場所が不便すぎる。

もしも私が今、日本の高校生であるのなら、進学先としてこの大学を目指すだろう。そして、この近くに週4日下宿する。金曜の夜から都会に戻り、月曜の朝までそこに過す。

金持ちが多い。世の中に役立つことよりも自己の好奇心が優先される。

この大学なら、4年間我慢できそうだ。

しかし、もっとバカなやつを包含できないと、高次の活性化は難しいかも知れない。オモロイ学生を別枠で取る方向性。

書くことができる若者が多く集うことーそこでするべきことは、既定の分析ではなくて、未来ヴィジョンの提示と、次元の高い好奇心の追求と、「対向発生」の認識であろう。

福沢は、グルジェフの「自意識的苦痛」同様、好奇心に基づく破天荒な努力を最重視した。

ともあれ、現在の日本の大学の中では、京都大学とここが最も大きな成果を生む

「風景」を持つようだ。ここには、上智と東大には絶対にない何かがあった。


2005-06-16 小山田二郎展

_ 東京駅のステーションギャラリーで、『小山田二郎作品展』を観た。

そう多くのものを観たわけではないが、私は日本人作家のシュルレアリスムの展覧会で失望することが多い。例外は滝口修造ぐらいである。

かといって、一品だけ見るときはそうではない。まとめて観るとなぜか馬鹿馬鹿しく感じることを禁じ得なくなってしまうのである。

日本のシュルレアリスムは、知性の不足を感じさせることが多い。なんでも「シュール」と自称してやれば良いものではないと思うことが良くある。

抽象アートに暗黙の中心意識が潜在するように、シュルレアリスムには、私たちの無意識世界における配置美追求の意識が前提になければならないと思う。

しかし、小山田は違った。この人は、世人を寄せつけないシュールの高みを獲得している類い稀なる日本人作家である。

タンギー、エルンスト、クレー、そしてミロとマグリット。小山田の絵には、それらの営為を了解した上での独自の表明が光る。特に水彩画はどれをとっても最高の領域に到達していると思う。髑髏、餓鬼、妖怪、変化、魑魅魍魎が、実に巧妙な水彩の滲みの中で有形無形に描かれる。それらの輪郭を現わすのに用いられる細線も、実に見事な筆致である。

どこかコミカルな要素を持つこれらの画像は、気がつくと絵の中の登場人物に「何をやっておるのかね?」と話しかけたい衝動を引き起こす。通常の絵だと、「何が書いてあるのか?」で止まるが、小山田の絵だと「キミタチ、いったい何でそんなことやっているの?」と話しかけたくなるから不思議である。

私はこういう経験をたまにする。今思い出すのはクレー、ミロの絵、そして、ポーランドの作家ココシュカの作った彫刻作品である。絵と話すのは鑑賞者として楽しい体験である。

先天性の病で常人を離れた顔を持ったことにより、製作に没頭するときの感情移入が高度に昇華し、この作家は、絵の中に魂を注入することに自ずと成功しているようである。

同期の画家たちが競って手に入れたがったといわれるのが良く納得できる作品群であった。


2005-06-18 『同僚』

_ 同一組織内の人間という意味ではなくて、「同僚」の良いところは、言いたいことの言えることだ。

でも、こちらが言いたいことを言えば、当然向こうの言いたいことが返って来る。

どうするか?

赤裸々な関係に戦慄する。

十代の高校時代、親友たちと言いたいことを言い合った。

あるときは互いに傷つけ合うようなこともした。

しかしそうしたことの全てが、その後の自分を決定していると後で強く実感した。

人と人との濃い関係。「恥ずかしさ」は無意味なのだ。

言いたいことを言うと同時に、人と人との濃い関係が現象する。

そして、いつか、こいつはこいつでオレはオレだという認識がやって来る。

何を言おうが、人は孤独。そこには越えられない細胞膜がある。

しかし、私は、それを越えて対等に言い合える人を愛する。

自分が不完全であることを思い知らさせる人間をかけがえなく思う。

今日、私は、同僚に、自分の意見を言い。それまで言わなかったことを水臭いと言われ、また別の同僚に自分の意見を言い、お前は夢ばかり追う大きなお世話人だと言われた。

時は途切れずに連続する。

プライベートの認識。

穴に入って人と接したくない。

しかし、それを越えよう。

信頼があるからこそ、人は自分に意見を言ってくれるのだ。

彼等の存在に感謝する。

人と人との緊張感こそ、生きている証なのだと思った。

それを与える人をいつまでも大切にしたい。

他者に通じる自分を夢見ること、それを「夢追い人」と呼ばれても少しも苦しくない。 全然苦しくない。


2005-06-19 一橋大国語入試

_ 今日は車で熱海まで出張した。仕事の内容は、一橋大の国語記述の解法伝授である。

一橋大の国語問題は、東大や京大と並んで難しい。三校の中では、東大は、短い字数内におさめようとする抽象化作業が難しい。京大が一番無難だが、センスと勢いが求められるので、明瞭に考えて処理する能力が要求される。私は京大の問題が一番好きだ。一橋大は、社会の鬼のような400字の記述解答問題にも呆れるが、国語の記述も偏差値の割には無理をしているような出題である。

今日は2003年の問題を解説した。第1問は、評論家の加藤周一の文章。第2問は、初代東大総長の加藤弘之の擬古文。第3問が、中世国文学者の兵藤裕己の文章。これは要約を求める問題。3者の共通性は、東大に学び一分野にとらわれない総合的な研究活動をしている点。

一見難しそうだが、あたかも筆者開発の「抽象構成作文法」の能力があるかを問うているかの問題。文中の語句を並び変えるだけでほぼ解答できる。そのせいか、「文中の言葉を用いずにまとめよ」という出題があったのには笑った。評価しよう。自分で考えたり発想しようとする学生を拾おうとしているのだ。しかし、断言しよう。日本でもっとも難しい国語出題は、慶應SFCの小論文である。それにくらべれば、こんなのは練習で高得点できる。

出題以上に問題なのが、赤本青本ともに正解等を書けないところである。中には、明らかに×になる解答も含まれている。これでは、これら解答を真に受けて勉強する受験生のアタマに悪いことこの上ない。やはり予備校の国語教師は、鋭い大学教師の一枚下の能力なのでその仕事をしているのである。筆者が普段接している編集者たちよりも国語力が格段劣っている。  

今日の生徒は、基礎教養に不足があるが、アタマの良さは充分であった。一橋くらい入れないと馬鹿丸出しと言える。同時にSFCを滑り止めにするくらいの文章力をつけて欲しいと思った。 

最近運転をすると目が疲れて仕方がない。熱海から1時間15分で帰る運転が悪いのか。


2005-06-22 受験稼業

_ 金曜日に盛岡から来た受験生と面接して慶應文学部小論文の課題を出し、土曜日に伊豆へ一橋大の記述を教えに出張し、日曜日の朝に盛岡の生徒の書いたものを添削指導していると、今度は甲府の生徒が事務所へやって来る。その間に三重県の顧客と伊勢の聖地についてのメールのやり取りを重ね、高校生のための哲学小文を遊びで書く。さらにその間にブログを書いたり複数の編集者に会ったりしているしているから、外へ出て人に会い、家へ帰るとすぐに机に向かうことの繰り返しだ。家族と一緒に食卓につく間も本を読む暇もない。

しかし、なかなか楽しい。本当は自分が旅行するのが最も楽しいのだが、こうあちこちから人が来ると、ナマの情報が沢山来て、退屈する間がない。もとよりテレビは見ないし所有しないが、新聞すらも飛ばし読みしかできない。そんな暇があったら、本当は書かねばならない書き物をこなさねばならぬ。

私の事務所、ブイネット教育相談事務所では、広告を出したことがない。連絡して来る人は、全て私の本を読んだか、口コミのどちらかである。子どもが地元の学校へ通っている関係で、周囲の人には私の仕事は知られないようにしている。結果的に、上述のように、全国各地の人とやり取りすることになる。


2005-06-23 古本屋

_ 日曜日の午後、盛岡の生徒と昼食をとって家へ帰る途中、馴染みの古本屋の廉価版コーナーに東京創元のバルザック全集第21卷『ルイ・ランベール/村の司祭』の新しいものが出ているのが目に入る。手にとって見ると500円である。この前早稲田の小説家志望の学生が高田の馬場で見つけてあつらえて来た旧版が20冊揃いで13000円だったから、一冊あたりにしてみてもこちらの方がはるかに安い。家にも同じものがあるが、とかく精神的に行き過ぎの感がある仏文学生に『ルイ・ランベール』はぴったりなので、自慢の意味もあって渡してやろうと買うことにする。新しいものは3800円もするのだ。するとその隣に、インシュリン療法の権威で、名医の誉れ高い平田幸正氏の『医学を志す』(篠原出版)が、なんと200円で出ている。医学部受験浪人の生徒の孟武伯君(あだ名)に読ませようとこれも購入。さらに見ると、良い本を持っていたものが大量に本を始末した直後と見えて、買いたい本が安く沢山出ている。これはこの古本屋のオヤジが抜けているのか、客を引き付けるための戦略なのか。筑摩書房刊の『夏目漱石全集』の別巻が300円。中を開けると、和辻哲朗が書いた「漱石の人物」が最初に入っている。これも買うことにする。以上3册で何と1000円である。えらく得をした気になってホクホクして店の中に入ると、オヤジは奥で老人と話している。奥さんが勘定台にいた。ここで、私の天国耳に、奥の会話が入って来た。相手は古本屋仲間であるらしい。この店が流行っているので話を聞きに来ているようだ。

「きちんと価格設定をすれば、かえって売れない時代だ。いいかげんさが必要みたい。」

仕入れ値はただ同然であろうから、これは納得できる。しかも客もこの通り喜んで買っている。私の仕事には参考にならないが、妙に深く胸に残った一言であった。

家に帰って、早速和辻の漱石山房木曜会の描写と奥さんとの不仲の記述を共感して読んだ。久しぶりで味わう高級雑文に満足。なぜか、余計なことだが、古本屋のオヤジの笑顔を思い浮かべた。


2005-06-24 悪妻と仕事

_ 引き続き、筑摩の漱石全集の別巻を読む。

「漱石全集」別巻最後に、編者の吉田精一氏の「鴎外と漱石」というのがある。両者がその妻の扱いに苦しんだことが記された後に、「たまたま優れた業績を残す場合は、悪妻を抱えるという不幸を甘受しなければならない。やんぬるかな。」とあるのを読んで、深夜ながら爆笑してしまった。吉田の妻は器量が今イチの良妻であるらしい。

鴎外は、初妻を器量が良くないから離縁したそうだ。2度目の妻は美人で、鴎外は「少々美術品らしくらしき妻を相迎え、大いに心配候処」と友人に手紙を書き送っている。

「悪妻」とは、夫の意のままにならぬ妻のことをいうのであろう。作家としては意のままになる女などというのはおもろうない。ソクラテスも同じ。意のままにならぬ妻と同居すれば、険悪な雰囲気を避けて、書斎に籠るか外出する。結果的に、取材と執筆の両者が可能になる。

作家には、女の無自覚さが許せない。だから、内省的な文学青年との交流を優先する。これは半ばホモセクシャルな感情である。優れて知的且つ自己本意であらざるをえない作家は、女性に対して、艶かしさと美しさしか求めえない。当然、作家の女房たる気位の高い女性は憤る。

気位高く美しい女性の典型は、裕福な家に育った長女である。鴎外と漱石の細君はこれに当る。作家は苦しい。価値基準がはっきりしているので、しっかりとした自我を持ち、同時に美しい女性を好む。しかしそんな女はえばっているに決まっているから、悪妻となり、持て余す。仕方がないので書斎に籠る。

私は以上を大変可笑しく思う。なぜかは読者のご想像に任す。


2005-06-25 義務教育に関する意識調査

_ 文科省の「義務教育に関する意識調査」で、保護者の7割が肯定的な総合学習について、中学担任の半数以上が否定的であるとの結果が出た。しかし、結果を良く見ると賛成反対の全体教員数はほぼ半数である。教師の半分は良いと思い、半分は悪いと思っている。

私はこの結果を見てやっぱりね、と思ったところがいくつかある。

先ず、保護者の多くが肯定的なのは、子どもが喜んでいるからであり、同時に、これは多少のやっかみであるが、「準記名アンケート」のために、教員の労を理解しない選択肢に印をつけにくかったためである。教師はおそらく完全無記名であろう。

保護者は、学力向上を学校教員に求めても仕方がないことは了解済みだ。子供達の多くは、尊敬できる教員=しかられたときに素直になれる教員は、全体の20分の1だと言明している。テキスト、指導能力ともに塾の方が圧倒的に優れるのは最早完全な現実である。

次に、教師の多くは仕事がきついと思っているので、負担が大きい総合学習はやりたくないという本音が出た。仕事をしろと言われても、そもそも手当てが薄い上に下らない仕事も沢山加えられるので、能力を越えて努力する気がないのは警察官と同じである。

そして、これも国立教育政策研究所が編んだアンケートなのであろうが、いつも通り、政策的意図が見えかくれして、正確なアンケートにはほど遠い。例えば、「総合学習を負担に感じるか」とは聞かずに、「良いと思うか」と聞く点である。そもそも、教師と保護者に同様の質問をするところが謎である。保護者には、ずばり、「総合学習における教師の能力や努力を評価するか」とか、「文科省行政を評価するか」とか聞けば良いのである。後者の質問をすれば、肯定的な答えは10%を切るであろう。

つまり、この話は、文科省の行政能力と教師の労働意識が問われるべき話であるべきなのに、いつものように、行政側が損をしないことを前提にした意味のないアンケートなのである。文科省は分っているのだ。アンケート結果を出せば新聞がどう書かざるを得ないかを。そして、新聞は、高級官僚よりさらにアタマが悪いのである。自分達の能力がジャーナリズムの最先端を担うには軟弱すぎることに自覚的でない。

こうして、現場の子供達は、相変わらず劣悪な教育環境で学ぶことを強いられ、それを補うために保護者は塾予備校に高額の出資をせざるを得ないのである。さらに、新聞は、分っているのか分っていないのか、その事実には強く踏み込まないのである。価値観が喪失した我が国で、学歴を求めることが「宗教」化していることをこそメディアは客観化するべきであると強く思う。


2005-06-29 V-netブログについて

_ V-netの先生方のブログには呆れる。どうしてこんなにホイスカ書けるのか。

これなら下手な雑誌よりも毎日楽しめる。

生徒たちのBBSも可笑しい。

結論はやっぱり、実は全ての人間がホイスカ書けるのだ。

誰もが縦横に自己表明・自己表現できるのがフツーのことなのだ。

フツーの人がフツーに自己表現すると、文化の質が上がるのだ。

そして、そのことこそが、心底願うべきことなのだ。

誰もが当然のように文章表現することーこの前提の元に未来がある。

しかし、「本当のこと」が始まってしまうのはこれからなのだ。

誰もが自己表現することを選ぶとき、文化が変わり、教育が変わるのだ。

表現こそが、未来教育のキーワードだと確信する。

日本国憲法が認める最大の主権、それは参政権以上に自己表現の自由なのだ。

より多くの人の参加閲覧を強く願う。

誰だって何だって書けるのだ。

書いていいのだ。


2005-06-30 佐藤優『国家の罠』

_ ちょっと暇だとつい本に手を伸ばしてしまう。昨夜佐藤優『国家の罠』(新潮社)を読んだ。これは外務省ノンキャリアの佐藤が鈴木宗男とロシア外交に打ち込み過ぎた結果、逮捕され、500日以上も拘禁された際の検事とのやり取りを主に書いたものである。国策捜査で失脚させられた者の「負け犬の遠吠え」と言えばそれまでであるが、外務省内や検察内部の様子や拘置所生活を詳しく描いてとても面白い読み物になっている。

発売後約一ヶ月で5刷になっているから、これからも多くの人が読むことになるだろう。恐ろしいのは、政治家から外務官僚、検察官、裁判官まで全て実名で書かれている点である。本人は自分のことを「情報屋」と呼んでいるが、これからは外交にも大学にも職を求めるつもりはないと言い切っている。ということは、作家か評論家を志すことになる。多いに賛成である。これからも思いっきり外務官僚の卑小さや、大学教授たちの精神性のなさをどんどん書いてもらいたいと思う。この人の文章には、書くべきではないと判断したことを絶対に書かないようにする手法をとることにより、かえって読者を引き込む上手さが随所に見られる。軟弱さを自覚しない、そこらの作家が歯が立たないほどの文章力である。

最後まで保釈を求めず、結局執行猶予付きの判決を得て外に出るが、即日控訴を行って全面的に戦い続ける決意のようだ。本当に国家のことだけを思っていたのかは完全には分からないが、同志社大学神学科大学院卒の哲学所有者が、安易な妥協をせずに真実を提示しようとする姿は、大いに敬意を表すべきところがある。家族がいないこともあろうが、この人は命を賭けて活動している。イエズス会の修道士を想わせる。

思わず私も動きたくなってしまった。我が国の劣悪な教育状況が改善されることは今のままでは絶対にない。文科省もダメ、教育学者もダメ、教育者もダメ、国民の意識もダメ。そのことを憂えてずっとやって来たのは他ならぬ私自身である。そして、犠牲者は我々の未来を担う子供達である。これまでのように批判や警告を発するだけではなく、何かここで命を賭けてやるようなことがある気がして仕方がない。とはいっても、徒党を組むことや政治的なことが大嫌いな私がするべきことは、やはりより良い書物を作って行くことしかないだろう。しかし、儲けの薄いものを引き受ける出版社があるわけもない。人生残りわずか、なんとか悔いのないように生きたいものだ。