ブイネット教育相談事務所


2006-03-10 お久しぶりです 

_ あれはもう二月の下旬のことか。あっと思うと3週間が過ぎて春になってしまった。

それにしても今年はいささか疲れた。戦績は絶好調だったが、生徒の合否にアタマを悩ませ過ぎて、大学受験終了後もしばらく「虚脱状態」だった。また私的に溜まり積もった懸案事項の処理に終始した。これから年賀状の返事も書かねばならない。そして、受験が終わったのもつかの間、新しいクライアントの迎え入れに終始している。

相談の8割が「サッピクスへ通っているが国語力がつかない」であるのには驚きだ。しまいには生徒たちが同教室で互いに知らずに一緒に授業を受けている事態になった。事態は日能研でも同じ。国語力増強の相談ばかりだ。

6年制私立校が国語記述力がある生徒を欲しがるのは、実は国語記述力が学校ではつけられないものであることが暗示されよう。同様に塾でも個人指導をしない限り国語力をつけられないのは必然的なことだろう。

これを書いている瞬間に、東大合格の報が入った。去年の生徒と同様に、最後に国語記述学習に通った生徒だった。私は6年制私立と同じ視野に立つ。どうすれば東大国語記述に間に合うように中学受験できるか。そのためには、我が国全般の国語教育に隠れた「秘密」を知らなければならない。

今年も出版の企画が多い。こちらの方も頑張っていきたいと思う。

本日よりまたブログを再開していく。


2006-03-11 国語力

_ 3/11

深夜、デスクトップをクリックして、このページを開く。

最近身辺あわたただしく、つくづくこのページに書くことが自分の生活の部分であることを思い知らされる。つまり、書くことがたくさんあるのにその部分しか記述しないということである。しかしこれは決して「韜晦」ではない。なぜなら出版予定物以外にもペンネームを用いて「秘密」で記述するものがあるからだ。

今年の高校入試は圧勝だった。ほとんど全員が第一志望校に合格した。中には、「奇跡」の部類に属するものが2〜3含まれる。早大学院を筆頭に、大学付属校対処は完勝だった。偏差値で20以上ひっくり返す例もあった。

かく言う私は「受験プロ」である。特に国語と英語は、いかなる生徒のいかなる高等学校の試験でも65%以上取れるように指導することが可能である。

しかし、欲を言うようだが、75%以上は無理だろうか。

日頃本を読んでいない子供たちに、私の指導だけで75%以上取らせる方法はないか。

本年は、その「予兆」が感触された年だった。世間の国語レベルは信じられないほど低いのである。「馬鹿」ではない出題者は限りなく少ない。それらは、超一流校の国語科にしかいなくて、進学塾には中高合わせてほぼ皆無である。学校教師は最早比較の対象にすらならない。「縄文式」とお呼びしたいくらいである。

今年度、改めて驚いたのが、いかなる面接試験も、私が指導すると、全て、「想定内」になることである。当然全員「合格」である。しかもこの傾向は学年が上がるほど濃い。社会人指導に至っては「完勝」である。

前から感じていたが、私が最も得意とするのは面接と小論で合格させることのようだ。

これまで絶えず感じて来たが、私のメソッドは「10年早い」。

今10年早いその私は、「国語試験は出題者との一騎打ちの読み合いである」と洞察するが如何?


2006-03-17 『男の子を伸ばす母親は,ここがちがう!』

_ 扶桑社より、4月初めに上梓される本のタイトルは 上記通り,副題は、「わが子のオチンチン力(りょ く)をつぶしていませんか?」となった。

ご存知ではない方もおられると思うが、製品名は、 販売会社が決めるのが常であり、制作者にはその権利はないのであります。すでにこれまで、両手の指では足りなくなった著作 物を出版して来たが、その中で唯一自分の主張が通ったのは、『常識破りの日本語文章術』のみである。当然のことなら、これが一番売れ行きが悪 かった。ちなみに最も売れているのが、『親子で遊 びながら作文力がつく本』である。

ともあれ、上記今回出版の本では、少子化社会で男の兄弟が少なく、男の子の有り様を理解不可能な女性たち(母親、女性教員)に、本来男の子がチョロチョロするのは生理的なものであることをご理解い ただくことが執筆目的の柱になった。

本来男の子の指導の専門家であった私にとって、現状の男の子の教育方法について、どうしてもここで一言語らざるを得なかった。

一般向けではあるが、できるだけ分かり易く本心を語ったつもりである。


2006-03-20 国語指導

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_ 相変わらず小学生の国語力増強の相談に追われている。徐々に定着しつつあるが、急に新しい生徒が押し寄せたので、初めのうちはどの子がどんなことを希望しているのか、しかと覚えることができなかった。

しかし、2〜3回接するうちに、いつものようにその子なりの最良の教育環境設定が見えて来る。これまでに通っている子たちとの違いも分かる。つまり、足りないところがはっきりして来るわけである。

「足りないところ」は、個々の子どもによって違う。しかし共通項は、音読学習の不足、作文(文字通り、文を作るという意味)というものへの未明である。この他に、国語問題への取り組み方を知らないことや、選択肢取りの「常識」の欠如などが挙げられる。

で、見えて来ることがたくさんある。

その一つとして、マスでやる国語教育の無意味さがある。

発話できない、発表できない、解答を添削検討できない国語教育。こんなものは音読しない英語教育同様時間の無駄である。そして、「時間の無駄」にお金を払わせているから、塾は儲かっているのである。賢い親たちはとうに気づいているらしく、余裕のある人たちは、塾以外のところで国語教育を選ぼうとする。

必ずしも塾の教師が無能とは限らない。そもそも拙劣なテキストに沿って、マスでカリキュラムをこなしても、どの教師にも本当の力をつけることは、

「できない相談」なのだ。

このことは、新陳代謝や生存競争が厳しい現状で生き残る塾の未来の姿を暗示する。

ある程度のマスでも、国語力が目に見えてついて来る教育メソッド。

私はその解決法を知っている。もちろん、「企業秘密」であるが。

今年度から教える大学でそのメソッドを確認実験する所存だ。


2006-03-21 入試問題演習

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今年度の入試問題演習を生徒たちと楽しんでいる。

「楽しんでいる」というのは、本当に問題が面白いからである。

18年度武蔵中の出題は、何とあの、リリー・フランキー氏の大ヒット作『東京タワー』である。ということは、この問題作成は昨年の秋以降。出題者も,まさかあれほどまでの大ヒットになるとは予想もしていなかっただろう。作者も使用を笑って許してくれたことだろう。しかし、来年度は、大人しく、昔の作家の作品に戻すことだろう。

それにしても楽しい。生徒も教師も楽しんでしまう。

—ボクが、ごく当たり前の前野家の一家団欒に緊張するのはなぜですか。

う〜ん、緊張の理由か。すぐ書けそうでなかなか書けない。

我々は考えることを楽しむ。生徒と教師で、人はなぜ緊張するのかをデイスカッションする。もちろんこれはダイアローグの訓練である。

D:我々はどういう時に緊張するか?

 「人前で話すとき」

 そりゃそうだ。

 こんなのは面白い。

 「電車の中で席を譲るとき」

 なるほどね。

 時節柄か、ついふざけたことをマジメな生徒が口にすることもある。

 「女の子にバレンタインのチョコをもらうとき」

 私は軀を屈めて大笑いする。生徒は何かまずいことでも言ったかという顔で目を見開いている。教師が本気で笑いこけるのを目にするのは珍しいことらしい。

私は思う。塾や学校の先生たちは、この国語の授業ならではの楽しいことを楽しまないのかな。

 「では先生は何に緊張するんですか」

 「僕か、実は僕はあまり緊張しないタイプの

ぶっ壊れた人間なんだよね。そうだなー、おう、そうそう、柵のない高いところから見下ろす時なんかエラく緊張するねえ。それから女房が家に帰って来た時とか。でもこれはこの場合には当たらないね。相手がコワい場合だから。ところで、人前で話しても緊張しない人間がいるがなぜだと思う。人が緊張しないのはなぜだろう」

 「慣れているから」

 「そうだ。それはいい。それならこれにも使える。後は文章中から使える言葉を拾って適当につなげておかしくない文にしてよ。」

私の授業はだいたいこんな感じで進んでいく。あっという間に2時間が過ぎる。

楽しいが疲れる。疲れるが楽しい。


2006-03-26 日本語音読指導者養成講座―源氏物語

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昨年秋より社会人有志を対象に音読法の指導を行っている。明日で確か6回目だが、足掛け3回にわたって『源氏物語』の音読になる。

今その下読みをしていたところだが、とてもじゃないが今回でも終わらない。なんとか高校の教科書に出ているところはカヴァーしようと思うが、量が多過ぎる。また、解説が沢山必要なのも困り者である。

音読が最も難しいもの。それは『源氏物語』である。なぜかと言えば、平安宮中の「分かっていることを前提にする言葉遣い」と、「頭の良い人なら当然聞き落とさないわよね」といった、一般人に明瞭にイメージするのが難しいシーンが多々あるからである。またそれまでの巻に書かれたことをすぐ想起することが前提となる、記憶力が鮮明でない読者には辛い書かれ方もしている。

いくら漢籍の素養に人並みはずれて優れていたと言っても、日本人的な頭脳思考でこのような広大で深みがある印象を与える書物を構成することができるとは信じがたいことである。我々はインド人ではない。しかし、よく考えてみると、「方法」がないわけではない。

もし,作家が詮方ない事情で短期に取りあえずまとまったものを書かざるを得ない場合、彼(彼女)は、大まかなまだはっきりしない全体構想の部分として矛盾のないものを一つ二つ書くだろう。そして反応や様子を見る。さらに、おそらくはすでに文学的「シーン」として「取材」済みの具体的実際事例を、その構想の中に取り込めるように「変換」を行う。さらにもし、そこに「時間軸」を想定できれば、矛盾がない様に見えるストーリー展開ができる。そうだ。『源氏物語』は、語り口と時間軸を『竹取物語』に、抽象構成と歌物語的構成を『伊勢物語』を参考にしていると言っていいのだ。

あるやんごとなき貴公子がいて、しかもそれが頭脳明晰な上に絶世の美男子で、なおかつ好色である場合、上流社会のどんな女性とどんな関係が積み重なれ得るか。このことの追求と想起が源氏物語執筆の現場作業であろう。このことは、宮中といった,限られた世界の人たちにとってはこれ以上ない『娯楽』だったであろう。

男ってどうしてこうなの。でもハンサムでアタマが良くって、しかも誰とでもしたがる男でなおかつ女を大切にするのであれば、どんな女にとっても究極の可能性がある理想の男。この男のモデルが道長であることは想像に難くない。いや道長の足りないところを補った人物像が源氏といえるのかもしれない。

ただでさえ生殖力として天に与えられた性欲があるのに、禁中では開放感のある娯楽に事欠いたことは想像に難くない。男と二人っきりになれば最早女は身を任せるしかない。なんということだろうか。上野千鶴子先生ならこれを何とおっしゃるか。「男はアタマと顔よ」。私はケンジという名前のハゲでデブな男の物語を書いてみたくなるが、皺だらけのアイドルはいない。

いかな制約があろうが,成熟した社会(どのような場合においても社会の一握りであるが)においては、男女の性は平等化する。そこに至るまでは別として、性の瞬間に平等化する。その時間は、たとえ経済資本が必要であろうが、金で買えないものである。つまり、社会倫理や社会契約によっても完全には制約されない。なぜなら個人の快感は自由であり、自ずと起こってしまうそれを誰も事前に止めることはできないからだ。我々は排泄や笑いをこらえることはできないのである。

源氏物語の中では、性は、結合部分のみで行われる。キスとかはない。乳房についての記述も全く見られない。残りの性は、和歌の贈答によって行われる。つまり、男女の対話によって行われる。

「対話」があるから性がある。この観点はきわめて女性的である。男性からすれば、性を目的にするからこそ対話がある。何となれば、男性にとって、会話は、同性との時の方が遥かに面白いからである。

性を考えないとき、男性を楽しませる会話が可能な女性はきわめて少ない。紫の考える通り真に知的な女性である。知的であることと面白いことは異なる。オモロい男は馬鹿なことが多い。しかし、オモロい女の圧倒的多数は、アタマが良い女である。しかし最も男の笑いを誘うのは,アメノウズメ、セクシーでオカしな女、浮かれ女である。オモロい男は沢山いる。しかし、美しくてオモロい女はほとんどいない。かえってそんなに美しくない女性の中にきわめてオモロい女性がいる。男性にとって、対話は、セックスを抜きにした場合、面白くないものは時間の無駄ということになっている。他ならぬ男どうしで、「あいつとあってもオモロうない」と評定されれば、たとえ「いいやつ」でも、ともに語らう対象の第一候補には選ばれない。ビジネスを離れた男の世界では、オモロいことが最上の価値だからだ。

どうも私も源氏の魔力にとっぷりハマったみたいだ。だが、明日で切り上げよう。入試源氏物語の圧倒的対処法、それは源氏を原文で読むことだけだ。


2006-03-27 塾へ行かせない親

_ サピックスで国語力がつかないと判断した親御さんたちの嵐が一段落したら、今度は塾に行かせない親御さんたちの相談が続いている。先日同じ日に2件、塾へ行かせないで筑駒合格を狙うクライアントの相談があった。

「塾に長時間通わせるのは無意味。それ以外にスポーツや芸術など人生に欠かせないものを学ぶ時間が失われる。それに、やっぱり進学塾で国語力がつくとは思えない。」

何とまともな相談であろうか。思いっきり教育コンサルタントらしい仕事ができる。

ひょっとして塾の経営者ではなかろうか,という疑いが一瞬頭をよぎるが(苦笑)、そんなにデキる塾があるはずもない。よって,いつも通り、惜しむことなく全解放で私の知る限りの学習法を伝えてしまう。それどころかどちらも向こうから質問攻めである。

「最後にお尋ねしますが、塾に通わないで筑駒を狙うのは、本当に可能なんでしょうか。」

「そりゃ可能です。何せ国立大付属の教育研究機関ですから、とにかく公平かつ通常の学校教育でも間に合う教育でも合格できないのなら存在の意味がなくなってしまいます。開成や桜蔭は塾でなければ合格できない何かがありますが、国立大付属なら塾へ通わせても受からない、つまり塾に通わせなくても受かる何かがあると思います。だからこそ、塾が商売のタネにしようと必死なのです。筑駒の父兄には、自分たちの考えで子供を優秀にすることができた人たちが必ず一定数開成より多く含まれていると思います。彼らは、6年生の一年間だけならともかく、小学校低学年から長時間塾で学ばせることが教育上間違っていることを確信することができる人たちです。少子高齢化社会という一人一人の人間の役割が大きく、しかも90年以上の人生設計が必要である未来社会を直観できる人たちです。いかなる上級校も、闇雲な努力目標にするべきではありません。「上手に教育していたらたまたま受かっちゃった」くらいがちょうど良い。目指すべきは,創造的で子沢山の人生設計ができる子供を育てることです。そしてそのためにこそ、優れた知恵が必要になります。子供の受験成功にもっとも効果的なこと、それは親が賢くなり続けていることです。だから、研究者や医者や弁護士や作家や多能な専業主婦のお子さんに優秀な子供が多いのです。学歴ではありません。今の世の中では、社会へ出てからも読書を欠かさず、絶えず成長し続けている親の子供ができるようになり易いのです。そしてもしそうではなくなったとしたら、その時は、受験は本格的に無意味化すると思います。いかなる勉強もアタマが良くなるために行うものでなければなりません。」

最近、「マツセン節」とか言われているようだが、この辺でやめておく。


2006-03-28 小学校英語教育

_ 中教審は、27日、小学校からの英語必修を提言した。

その理由は、日本人の英語能力が国際的に見て充分でないからだそうだ。

これが文科省が中教審を用いての例によっての滑らかな官務遂行のための手段であることはさておいて、これについていくらか述べたい。

先ず、日本人の英語能力が国際的に見て充分ではない本当の理由は、日本のこれまでの中高の教育が不充分であったからなのは明白である。いや〜ひどかった。日本の公立中学校の英語教育?塾がなくてどうして可能か。メソッドと人材の圧倒的不足を容認し続けて来たのはいったい誰なのであろうか。

そもそも英会話ができない人間がどうして英語の教師になれるのだ。そして、英会話ができない教師たちに教えられてどうして英会話ができる子供が育とうか。我々はこの謎に長年悩まされ続けた。教科書内容は、塾などから見れば、下手糞な文法説明と親米観を持たせるためのプロパガンダ満載である。それにその教えるメソッドは,おお古い、「〜するためにと訳せるのが副詞的用法」と来る。お前たちが馬鹿な教育をし続けたために日本人が英語ができないのに、しかもお前たちはそれを暗黙の目的にしていたはずなのに今更臆面もなく「英語力をつけるために,小学校から英語を導入する」とか言う。それにまともな言語能力を測るのとはほど遠い入学試験の嵐。これらを容認し続けたのは他ならぬ文科省ではないのか。諸君はどうしてこれまでの自分たちのやり方が間違っていたと先ず詫びないのだ。これからも詫びることは全くないではあろうが,もし一度でも、「本国の長年の歴史において、最近に不幸な教育があったことを遺憾に思います」と詫びるなら、我が国の将来を担う子供たちのためなら,私もその協力を惜しむつもりは全くない。とにかく,先ずは,これまでの文科省の英語教育が失敗であったことを自己反省してから本件を実行に移して欲しい。

私は,私の日本語音読法売り込みのために、本当は文科省と仲良くなりたいが、自らの責任を明白にしないで後から誤摩化し付け足し対処する発想法しか持てない人たちとは真面目に仕事を共有することはできない。第三者的機関のはずの、中教審のするべきことはこうした「怠惰」の摘発こそではないのか。

私は自分の事務所で見た。優れた未来的英語教育とそれができる指導者たちは、すでに現れている。彼らを見て私は英語を教えることをやめた。中教審は、慶応大学SFCの田中茂野範教授などの認知言語学理論の存在を知らないのであろうか。小学校の英語教育を示唆する段階においてこれらの人物の業績の存在を顧慮しないことの何という愚かさよ。

全ては既成に出来上がった権益=文科省の出身者たちが再就職した会社の利益によって決定されている。今回もその匂いが濃厚だ。

それに、英語ができる人のほとんどは、帰国子女か、自費で英語塾で猛勉強したものたちばかりである。学校教育なんてほとんど寄与していない。国語力増強同様,文科省には具体的なヴィジョンやメソッドはないのだ。そしてその傀儡に成り果てた「御用機関」中教審は、わざわざ「言語への関心を高め、国語力の向上にも資するような教育内容が必要」とする文言を入れる。これを報告する新聞記者に怒りが感じられないのが情けないくらいだ。

国語力向上が欠かせられないなら、音読と作文の具体的メソッドの提示とそれに沿った教員の養成が欠かせない。しかし、その天下り先の企業が見つけられないから、仕事に着手しない。英語で言語力がつくのと日本語で言語力がつくのは明らかに異なることである。それを,「言語リテラシー」などと簡単にケムに巻いて抽象化し、我々をダマそうとする。こんなことを書くからと言って、誤解しないで欲しい。よく私を「特定」しようとして、左翼や右翼や反政府主義者の烙印を押そうとする人がいるが、残念ながら私は、自分で考えて自分で判断する、かのフランスにごろごろいるような近代的市民である。いかなる宗教、思想もそのまま受け入れることはないが、誰がどういう信仰や思想を持とうが、それは全く個人の自由という立場である。石原都知事の言い分にも共産党の言い分にも部分的にいいところがあるという構えである。神の存在を主張する人は、神の非存在をも前提にする人たちである。そして真に聡明な人は言語の不完全さを知る。

国語教育の実体は、法システムを徹底するための標準語の強要である。外国との条約締結を念頭においた標準語は、意味の特定に優れる。つまり、言語の持つニュワンスを圧殺する要素があるということだ。しかし、この教育をマジメに受けすぎると、やがては意味を正確に読み取ることをしようとすることに尽力しすぎるあまり、自ら発語や表明ができない創造性のない人間が出来上がる。つまり、標準語の国語試験に勝とうとすればするほど発想力のない人間が育つことになる。私学の代表の慶応大に国語の試験がないのはまさにこのためであろう。周知の通り,標準語強要政策は、旧制高校の廃止とセンター試験導入の徹底という政策により完成された。この結果、我が国の文学は著しい不発展要素を抱え込んで伸び悩んだ。漱石、鴎外、芥川、三島、谷崎、川端、大江、と言った天才が,当然のように東大出身者であるのは、逆説的な意味でかなり興味深いことである。官僚たち、並びに中教審の構成メンバーは明らかにこのシステム上の「勝者」であり、つまりは発想力に欠けた人間たちであることは想像に難くない。自己の保身のために自己の無能に意識的に無自覚を装うこと、そして高給名誉職に甘んずること、これは実は詐欺犯罪よりも罪の重いことであると私は思うが,読者の皆さんはどう思われるか。私に言わせれば、一度も反省の弁を述べない事実がその確たる犯罪の暗示なのである。

私たちは、このような無責任な行政組織や、月100万円もらって役所のための容認提言を行うだけの中教審委員に金を払う意味がどこにあるのであろうか。あんたら良く平気だねえ。「倫理」より「隠匿」が優先されるなら公務員の存在意味はないのだよ。たとえ君が代に賛成しても。私も感心なことによく忍辱しておるが・・・。ともあれ文科省は、体の健康を扱う厚労省より「韜晦」が上手である、「警戒」するべき役所のようだ。

創造性のある者は創造性のない者に必ず勝る。これは歴史の必然である。あたかも歴史が優れた武器の開発によって決定されたように、未来を造る者はこれまでにないものを産み出す者に相違あるまい。

本当に英語ができるようにしたかったら、幼児段階こそ狙い目なのは明らかではないか。

それを小学校高学年というのはどこか怪しい気がしまいか。

ごまかしとしか言いようがない。

我々は、小学校英語導入の後、次に彼らが何を言い出すのかにこそ注目すべきである


2006-03-30 ボーッとした状態

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_ まるで風のような不思議な文章を書く知り合いの女性に、「文章を書く時には、あれこれ考え事なんてしないボーッとした時でなければ書けないののね」と言われて、銀河の3分の1くらい飛ばされたような気がした。

酔っぱらって書くことはできる。しかし、考え事を離れたボーッとした状態でこそ書けるということは、男の私には考えられないことだ。

私は生来のくすぐったがり屋なので、マッサージを受けることは滅多にないが、以前マッサージの達人の友人夫婦に施術いただいた時に、何度も「体の力を抜く」という指示に、まるでカーブの時の単車後ろのアホみたいに、従えなくて、奥さんに,「あ〜この人は、完全に気を抜くということがどういうことか分からないタイプの人なんだ」と言われて、なるほどと思うと同時に、「そんなことはない。ある意味でオレはどうしよもなくボケっとしたタイプの人間なんだ。」と思い返したことがある。

今これを書いているうちに思いついたが、キーボードで書くより、紙に書く時の方がよりボーッとした状態で書けるのではないか。

しゃべる時はどうであろうか。確かにボーッとした状態できちんと話すことはできないが、ちょいとは酒が入った時の方が楽しい話ができるような気がする。

何らかの作用で心が自由になった状態。それと、道具としての対象物。

私は自分がいつかキーボードで制作するのを止める日が来る気がする。

いずれにせよ、人間には、ボッーとした状態から、冴えた状態まで、温泉から、樹氷くらいのアタマの状態の落差があるようだ。

しかし、その同時存在というのはあり得ないのか。

ここで、なぜか急に、風呂に入りたくなったのでそうすることにする。

今日は寒かった。

さくら、さくら、さくら、夜さくら、神のいずみ、さくら、さける