ブイネット教育相談事務所


2006-04-01 教科書検定

_ 新聞で教科書検定について騒いでいる。相変わらず記者が「ジャーナリスト」を降りているので歯切れが悪い。

最早成熟した近代市民である我々に検定は無用である。「侮辱」ですらある。

今回生徒の教科書離れを避けるためにマンガ導入強化などあらゆる手だてが打たれたようだが,その多くは浅いウケを狙った創造性のないものばかりであると感じられる。下らなくて相手にしてられない。まるで安い料金でまずい料理を食わせる外食産業のメニューのようである。

はっきり言ってすでに教科書なんていらない。

副教材の図版集や、塾のテキストや市販の参考書があれば充分それで事足りる。教科書は重いので学校のロッカーに安置されるのがお決まりである。

教科書の必要性は教科書を作っている会社と、天下り先目当てにそれを検定している文科省の利益追求のためにだけある。

あんたたちが完バカなのはとうに分かっているよ。だから、さらに馬鹿であることを確認させるパフォーマンスはもう止めにしてくれないか。なんでこの超情報化社会で、単なる出版物の一つの教科書にだけ「検定」があるのか。

検定は最早国民を笑わせるための行事である。ありがとうね。君たちはドンキホーテだ。国民的嘲笑の対象の娯楽屋さんだ。でもね、単なる楽しみのためなら、税金を使うのは止して欲しい。この項、まさか中国共産党を参考にしているんじゃあないでしょうね。

家永さん、あんたは正しかったけれど馬鹿だった。馬鹿を相手にしたところが馬鹿だった。もちろんその愚直さには敬意を示すが、優れた教師を輩出した東京教育大は、もうなくなっちゃたよ。


2006-04-02 オチンチン小僧

_ 4/2 

_ 教師をしていることの究極的な歓びは、優秀な生徒に出会うことではない。

それは、オモロい生徒に出逢うことである。

優秀な生徒は世間並み。オモロい生徒は世間を超越している。

本日美しい母親に伴われた新小6の男の子はオモロさの上を行くタイプだった。

体を動かすことは得意だが上手にしゃべれない。

「もっとお友達とお話できるようになりたい。」

これは、かつての私と同様、いくら遊んでも事足りないアジアのクソガキである。

世の中が洒落て口達者が当たり前になったために取り残された男の子だ。

彼は私と同様、桜を見て口を開けて眺めいるという。

月が出ているとしばらく見とれるという。

事務所の壁の絵画も鑑賞できる。

ひょうたんスピーカーにも純粋に驚愕する。

良い景色は大好きだという。

かつての最高はグレートバリアリーフのエメラルド色だという。

遊んでやると、論理を逸脱した直感力がある。

母親が隣にいる状態でいろいろと話す。

いつものように,私は語りかける。

「僕は,普通の先生ではなく、一対一で教えることが専門だから、全面的に生徒のキミの味方だ。何か困っていることがあれば言って欲しい。」

しばらく考えてから口にする。信じられないことである。母親が隣にいるのだ。まだクソガキの証拠である。下ネタを、ウンコやオシッコについてのことだと捉えているうちのクソガキと同じである。

「ボクね、最近風呂に入るとオチンチンが固くなって棒のようになっちゃうんだけどなぜ?」

かつてこれを尋ねた子供はいない。

「それはねえ、我々のオチンチンはスポンジのようなもので出来ていて、そこに血液が流れると固くなるようになっているのだよ。風呂に入って暖かくなるからだよ。それは男の印の勃起というんだけれども、いつからそうなったの?」

「う〜ん。3年生くらいからかな。最初はびっくりしたよ。」

「ふ〜んそうなった時はどうしているの?」

「それは柔らかくするために揉むの、オチンチンを。」

私は笑い転げる。これが笑い転げずにいられるか。私が笑い転げることで安心した相手に語りかける。

「朝起きた時はどうなの?」

「朝は固くなることはないな。」

私はまた死にそうに笑いこける。女ばかりの4人姉妹で育ったという美しい母親はどう反応して良いのか分からずにきょとんとしている。

精神と肉体の発達は必ずしも一致しない。

いいパパになれよ。


2006-04-03 小説指導

_ ついにやって来た。

小学校4年生の男の子である。

なんと習いたいことは,作文ではなくて、小説の書き方である。

この子は、男の子にしてはかなり口達者である。

この時点ですでに私の生徒たちと共通の基盤を持っている。

聞けば、カタカムナの音読を学習済みとのこと。

なぜ幼いうちにカタカムナ音が入ると言葉が達者になるのかはまだ完全にはわからないが、少なくとも私の生徒たちはみなそうである。

男の子と話してみて驚いた。

家の近くでのカンケリの様子を、図解入りで説明してくれる。その込み入っていることのもの凄さ、同時に友達の性格についての観察、周囲の家の侵入の仕方やそこにいる犬の手なづけ方、川の暗渠の探検etc。正真正銘の健全なアジアのガキンチョである。

いつものようにペンネームを考えて来るように指示。

「我々は、他人に、まさか我々が書いているとは知られないで何でも自由に書くのだ。」

で、次回からカンケリなどの子供の世界を中心に物語を作ることになる。

楽しみである。


2006-04-04 合理追求者の弁―早大政経現役合格者

_ 東大現役合格者のほとんどは、そもそも超アタマがいいか、進学塾&6年制私立での猛勉強組のどちらかと言えるだろう。これは合理の追求というよりも当然の結果で面白くない。強者が努力して勝つのは当たり前である。

東京に在住する標準的な能力の者にとって、最もスマートな受験成功は、地元の公立で地域の子供たちと楽しく過ごし、中3で内申点の帳尻を合わし、高校も公立へ進み、クラブ活動や学園祭行事にフルに参加した後、高3でバシッと決めて、大学は現役で早大や慶大(あわよくば東大と行きたいところだがこれはなかなか難しい)に合格することだろう。何と言っても教育費が東大組の5分の1以下である。しかも無駄な学習時間や通学時間が限りなく少なく、十代に必要な体験も充分に得ることができる。

その中でも、早大政経に現役合格するものは、独自の合理追求術を持った優秀者が実に多いとかねがね感ずる。受験プロの私からすれば早大政経は難易度の割には、上手いこと合格する作戦がきわめて立て易い学部であると言える。と言ってもこれはプロの話。

受験の素人の現役受験生が、自らの研究でたどり着くもの,それはおのずと知れた、「合格最低点法」と各教科の対処法の開発である。どうしても受かりたいとき、人は合格最低点に目を向ける。次にその最低点を取るには各教科どうすればそれが可能となるかを考える。これが自分で考えられるのならば,社会へ出てからも多くのことに役に立つことが多く、単に学力とは別の「優秀さ」を身につけていることになる。これまでに早大政経出身者に何人もあったが、驚くくらい,抜け目のない合理主義的な思考が出来る鋭い人間が多い。その「濃さ」には、言っちゃあ悪いが私の出身の慶応文学部なぞお呼びもつかない。そして私の本を読んだ彼らの多くは、「ボクも同様のことを開発して,現役で入る方法を考案した」と口を揃える。

昨日、今春早大政経に見事現役合格した学生に逢った。都立高校出身。新規の家庭教師としての面接だったが、やはり、日本史や英単語の暗記の仕方や、国語学習の仕方に独特のものを開発していた。何と受かったのは早大政経だけだという。

こういう人物は家庭教師にきわめて向くことが多い。

彼曰く、

「センター試験って何のためにあるんですか?1万8千円も取って真面目に受けても、合格に直結せず、もう一度試験を受けなければならないじゃあないですか。ありゃあ何ための試験ですか。受験料の2重取じゃあないですか。それにアタマにも悪い。」

読者はこれを、「ケチ」とみるかそれとも「優れて合理的」とみるか。それとも、黙って東大受験のために金を払って、文句を飲み込むか。

私は,彼のような思考を、「マトモ」で「優秀」と見るが、如何?

2年連続センター、東大を受けて落ちるより、早大政経現役合格の方が賢いと思われないか。もちろん早稲田は、それを狙っているのであろう。


2006-04-05 早大法より慶大法?

_ 前日に早大政経を持ち上げたら、クライアントの弁護士さんで司法研修生指導の経験がある方から、「私見だが、司法試験合格者においては慶大出身の学生の方が優秀と思うがいかがか」と、ご意見をいただいた。

私は,それはそうだろうとは思うが、是非とも文章力を開花させて早稲田出身者の合理性を伸ばして欲しいと願う。彼らは抽象構成作文法を知らないだけなのである。

慶応と早稲田では、「合格最低点法」のプログラミングが違う。慶応は、短期準備が効きにくい。これは高校受験についても同じである。

慶応文系入試には国語の試験が一切ない。その代わりあるのが、小論と数学である。私は知っている。ことアタマを良くするのが目的であれば、文章力と数学力を鍛えるのが最も合理的道筋である。両者とも東大と慶応で必要で、早稲田では必要ない。早稲田に必要なのは

合理的な選択肢取りとクソ暗記である(上智はさらに特殊な英語力と、クソクソ暗記が必要)。

しかし、私は思う。

慶応はひょっとしたら「標準語教育」を見透かしているのではないか。

現在我が国で行われている国語学習は、標準語の、特にその読み取りの強要である。標準語は、意味の特定に優れるが、ニュワンスの含有がほとんどない。従って,標準語国語教育の末路は、自ら発してその答えを得る思考力のないものを多出することである。つまり、より熱心に標準語の国語試験に勝とうとすればするほど、本質的な言語応用能力が奪われるのだ。このことは教える側も教えられる側も無意識に進行するので、その本質的な誤りを自覚することがきわめて難しい。結果が、つまらない大学教授の文章群と、発想力のない優秀な学生の累積である。もちろん高級官僚の多くもこれに入る。

これに唯一対抗する手段が、国語読解試験を止めて、文章力試験をすることである。慶応は、このことに早期に気づいていたほぼ唯一の学校だと言える。

そもそも福沢は、徹底的に官の外にいることに成功した人間である。その元が外国語力と文章力であったことは周知の事実である。

福沢は分かっていたのである。標準語教育の隠された意味が。ダイアローグが出来なくなるという結論を。

東大二次試験の国語は完全記述であるが、ここには標準語レトリック追求の危険性に無自覚である人たちの何かが匂う。自らの優秀さの「担保」である、東大型の記述レトリックが無意味に近づいていることに自覚的でない。旧制高校出身者がなくなれば、東大文系には本当に優秀な人間は集まりにくいはずである。その全ての原因は、標準語強要そのものであるセンター試験を勇気と英知を持って拒絶できないところにある。

私は、自分の古文音読法や文章構成法を、サピよりも、日能研よりも、早稲アカよりも、早稲田塾よりも、東進よりも、河合よりも、文科省よりも,七田式よりも、慶応に売りたいと思うが、(本当を言うと東京都立にこそ売りたいのであるが)、興味のある方はご一報願いたい。ライセンス契約したい。

ビビるなよ。音読達人は、全てお見通しだぜ。


2006-04-06  畏るべき子供たち

_ 最近子供たちの間で携帯電話のカメラで町で見かけた変なオッサンを隠し撮りして送りあって楽しむことが流行っている。特に電車の中で目を閉じて眠っている大人は格好のカモらしく、撮られまくりである。

この彼らからEメールで送られて来た写真を見ると、彼らがいよいよ我々大人の現実的な姿がどれほどまでに低下しているかを捉えているかがリアルに分かる。

子供の嘲笑の対象になったとき、その大人は社会的人間存在から外されている。彼らはほとんど動物園の動物と同じ視点で観察されている。彼らには、ホームレスと普通のだらしない大人との差異区別がない。しかもそれが中高年だけでなく、たかだか20歳でも笑われる大人とされてしまうのである。

こういった彼らの冷徹な目から見れば、学校教師は完全に存在以前の対象にされてしまう。彼らは見ているのだ。するべき努力や自制をしないでその自覚なしに平気で子供と接している大人たちの愚かさを。

これは、教育コンサルタントから見た文科省役人や大学教師の姿とモロに重なる。

どんなに疲れていても、我々は目の前の子供に対する「敬意」を忘れてはならないようだ。


2006-04-08 麻原彰晃死刑決定

_ 週刊誌で、麻原彰晃死刑決定に、異議を申し立てる意見を読んだ。

その理由は、「真相を解明して欲しい」、とどのつまり、「麻原の強力なマインドコントロールの本質は何なのか。それが解明されなければオーム関係者の呪縛を解けない」という至極真っ当なものである。

村岡裁判でも分かるように、日本の司法が(この裁判では検察が)「公務員的立場」を免れることが出来ないのは,最早システム上致し方のないことであろう。「国策捜査」とは、「上」からの指示を国民の利益に優先することである。もっとも、「支配されることの方が有利なのである」というのなら、優れて「金正日」的ではあるが。

私に言わせれば、麻原のマインドコントロールの本質は、標準語国語教育の盲点を突いたものである。

言語が不完全なものであることは,すでにヴィトゲンシュタインの考察を待つまでもなく、東アジアでは,禅によって遙か前にもたらされていた。

標準語受験国語教育に精進したものは、自分たちが判断力や発想力に鈍った存在であることに自覚的になることが出来ない。彼らは,決めつけられたことに対して,理性的に論理的に反論を想起することが出来ない。「嘘」を真実と思い込ませるのは、あらゆる支配と営利追求の前提作業である。

この世の中では、何らかの形で自分より劣ったものをダマさないと大きな利潤を挙げることはできない。近現代の社会の支配は,それを「支配」と思わせないところにその特徴を持つ。これは究極的には宗教の行うことと同じである。イエスという人はいたが、彼が天にまします神になったというのは「方便」である。何もキリスト教に限ったことではない。全ての宗教は,存在の証明が不可能な神を、言語によって存在すると断言する。つまり、目の前に神を見せずして、コトバで特定の名前のついた神の存在を信じさせるのである。そしてこのことによって多くの人が救われる。私は以前に共産党の区議と議論をしていて,最後に「私は宮本謙治を信じています」と言われて愕然としたことがあった。イスラム教徒と宗教論をかわせば、「でもあらゆる神の中でアッラーが一番偉大なんだよ」と来る。

私だって、「永遠の愛」の存在は信じたいが、そのことは、自分の死ぬ瞬間にしか分かり得ない。死ぬ前からそれを存在確認することは出来ない相談である。そしてそれどころか、死そのものは認識できない境遇にある。

麻原は受験勉強や標準語学習のやり過ぎで判断力を喪失した人間が、「決めつけ」に反論できないタイプの人間であることを手玉に取った。

麻原は言う。

「もしハルマゲドンが来て、人類が滅亡する事態にあっても、我々は平気である。なぜかと言えば我々はそのときアストラル体に避難するからである。」

ハルマゲドンも、人類滅亡も、アストラル体も、実際存在を証明することは出来ない。だからこのような説明は、

「神は全能である。全能には「存在」が含まれる。ゆえに神は存在する。」という中世スコラ哲学の論理矛盾と同等である。言葉で「ある」「ない」と言っても無意味なのだ。

世の中そのものへの理由のない憎しみや疑念。しかもそれに苦しむものたちのほとんどは、その答えが言葉で与えられないものであることを自覚できない。「世の中」が抽象名詞であることを理解できない。そこで誰かが確信を持って決めつけると、信じるか信じないかの2者択一になって、その結果多くのものがこれを信じることを選択するのである。親しいものや尊敬できるものを疑う勇気、これを奪うものが現行の教育である。

麻原は,堀江同様,「支配」とは,ダマすことだと了解した。つまり,世の中を恨んだ。周囲のものを自分と同等の世の中を恨む必要のない私は、彼らを「不幸」だと思う。ダマすことは支配の部分集合で、

これ以上必要以上に,麻原をつつけば、結果的に「支配」というものの本質が、そもそも知る必要のない人たちにまで知られる公算が大きい。だからこそニュースにならないように裁判を早めに終結させようとするのだと私は思う。

私は、たとえ何年かけても麻原の精神疾患を治癒させ、彼が人をダマすためにはとどのつまりどうしたら良いかを最終結論したかを正直に語らせ、それを国民に公開するべきだと思う。そのことこそが本件から得られる国民の唯一の「利益」であろう。まあ現実的には,ここに「国策判断」が働いたと見るべきか。つまり,ここでいささか現象学的な記述を試みると、「我々民衆はいつまでも言語というものを客観化できないと為政者に判断された」のであった。

真の知識人不在を嘆くのみである。ともあれ、麻原を信仰した連中は、麻原のようなめちゃくちゃなことを言う人間を、周囲の大人や、高校や大学の教師よりも信頼できると判断したのである。知識人も沈黙して、裁判終了を願うのも当然の成り行きか。結局この事件の一般的印象は、「権力に逆らおうとするとひどい目に逢うぞよ」程度のものだったらしい。我々は、手を上げなくてもハイルヒットラーしたことになってしまうらしい。私は増税に断固反対する立場を取ることにした。


2006-04-09 センター試験収益

_ たまにはちょいと、計算機を使って計算してみよう。

本年度のセンター試験を、約75万人が受験して平均1万5千円の受験料を徴収したとすると、その答えは、750000×15000=11250000000円。つまり100億円以上の金額が得られたことになる。このほとんどが、「人件費」として消えたであろうことは想像に難くない。

ある東大教師はのたもう、

「教員の側から言うと、センター試験は、余分な労力がかからないので止められない」

大阪大学教授はのたもう、

「センター試験の年2回化なんてとんでもないことです。あんなことで時間を取られるのはかないまへん。なにしろボクらが試験問題の周りで寝て番するんでっせ。」

つまり国立大学は、自分の学校に集める生徒の能力を判定する労を出来るだけ省きたいのだ。

馬鹿である。死んだ方がいい。最早教育機関として消滅しても全然構わない。彼らは,自分の学校の入学者の試験に出来るだけ関わりたくないのである。

彼らのこの判断によって、若者は二重の対処時間を奪われ、ご両親は二重に「税」を取られるのである。そしてその投資は合格した時にしか報われない。もちろん落ちれば完全取られ損である。

このことをいささか、卑近な事柄に喩えると、「ある願望成就のために、1万5千円の入場料を支払って、それでも足りなくてさらに同額の追加料金を払って、少なからぬ自己労働と交通費を自前で払って、数値以外の何も得られずに、一つのサービスも受けられないままに、店から出される」のである。

東大よ、リーダーとして範を示さないか。3番手の東北大に先を越されて何とする。君たちこそセンター試験を先陣を切って拒絶するべきではないか。それに君たちの持つ人脈なら、文科省と、天下りを通さずに、直に交渉できるはずではないか。

ミックジャガーのチケット並みの金額を払って、数字しか得られないのである。

明らかにこれは「詐欺」である。売春や賭博以上の「犯罪」である。

この対処のためにどれだけの労力と資金が投入されているかを想像する事が出来ないというのか。

私はこのことを平気で黙認して口を閉ざし続ける東大教授陣を、真の知識人として認めることが出来ない。集団にアイデンティティーを確認するものが、どうしてその集団の凋落にに直結することを黙認し続けるのだ。いや、ことはすでに日本全体の教育の問題だ。君たちはすでに「役人」なのか。実は君たちも、東大を去った後の「天下り先」が優先なのか。君たちが立ち上がらなくて、どうして日本の教育を荒廃させ続けるセンター試験を止めさせることが出来るのだ。君たちはフランスのバカロレア試験が、理科系でも哲学の小論文を含む試験であることを知っているだろう。そうだ。東大の哲学科が悪い。お前たちはアタマが良いくせに、本当に大切なことより無意味な瑣末事を専門にする「傍観者」なのか。単なる標準語レトリックの読解と知識暗記の強要のセンター試験に、これ以上若者が耐えられると、本当に思っているのか。最高学府の総括部門の哲学科がアホ?なんと、文科省と同じ構造かよ。これじゃあ,我が国の教育なんて良くなるわけないわな。つくづくお前たちを金を払って仕事をさせるのは「社会福祉」と言うべきだな。


2006-04-10 音読指導者養成講座

_ 9日、第8回音読指導者養成講座を開催した。

前回まで平安古典、源氏物語の音読直解突破に時間を取られ過ぎたので、これを打ち切り、今回は、講座修了に向けて、成熟して日本語記述の速度が上がった「更級日記」、「大鏡」、「今昔物語集」、「宇治拾遺物語集」、「古今著聞集」、と読み継ぎ、鎌倉時代に入る。

私は、この講座に出席し続ける人たちに心底頭が下がる思いだ。彼らは、教師であるか、古典文化理解者のいずれかである。この人たちは自腹を切って、次世代教育のために休みの日の午前から次世代のための研鑽を重ねている人たちである。文化とは、こうした人々の下支えがあってこそ成り立つのであろう。

本日は、前回の音読のヤマの「源氏物語」を越えた苦労が報われた手応えを強く感じることができた。やはり,「源氏」の山を越えれば、後は現代文とほとんど変わりがない。「源氏」を越えた我々にとって、鎌倉以降は、まさに読むだけで了解できる「同時代」と同然である。

それにしても、回を重ねた受講者の音読上達には、「耳を見張る」ものがある。彼らは私と同様の「体得」を知る音読同士である。否,彼らにあるのは、こんなにも端的に日本語が音読了解されることの喜びに相違ない。

会後に、驚きかつ嬉しき事が三つあった。

その1は、公立小の先生から、「教師有志で音読研修会を開きますがいかがか」と言うものである。何と立派な先生がいたものである。まだ我が国の教師も捨てたものではない。自費で学んだ事を同僚に伝えようというのである。

その2は、「九月からの新年度カリキュラムにもう一度参加しても良いか、まだ完全ではない自分を感じる。」というお申し出。自分が足りないのではないかと思うものは、いつでも世間一般の水準を凌駕している。私は、自己の内面に熱いものを感ぜざるを得ない。

その3は、「次回都合で出席不能なので、その補講に,個人指導を受けたい」というもの。

皆さん分かります?この音読法を完全に体得したいという優れたる人たちの心持ちを。

私は知っている。私の音読法が完全に「買い」である事を。なぜかと言えば、この十年、私の音読法の上を行くメソッドを提案したものは,ついに一つも現れなかった。それはそうかも知れない。これは,誰でも体得できる、日本語の原則に則った一音一音を大切にする音読法。しかしこれが、CDと出版物では伝達しきれない「直伝物」である事が唯一の難点。そして、これを直感した人たちがここに集っているのである。

次回は、我が国国語史上、最も大きな転換点となった「平家物語」の音読と、「方丈記」、そして、これ以降の国語教育の定番となった「徒然草」の深い音読に入る。ここが抜ければ、最早江戸以降は、現代文と何ら変わることはない。ただの「日本語」である。

後二回で終了する所存であるが、9月以降の講座再開までに、今回だけは、特に、高校生を初めとして、中学生、社会人全てに聞き逃すべからざるものであることを、ここにあらかじめ記す。中学入試を志す親御さんたちにとって、まさに必聴の講座であることをここに堂々と宣す。今回講座は超お買い得である。「家元」の「音読達人」も全てをぶっつける所存だ。私は、最善の授業を行う。お子さんの国語力増強の本質を知りたい方は,是非この講座に参加して欲しい。

以上、コマーシャルではなく本気で書いた。以下はコマーシャル。

―私はこのメソッドを、企業や公共団体に本気で買って欲しい。

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2006-04-12 国語詐欺

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国語が出来るとはどういうことなのかを明瞭に示さずに、教育営業するものたちはほとんど皆「詐欺」である。

そもそも現状の公立学校の先生たちには,ほとんどその自覚もノウハウもないから、この苦言は金を取って生徒を集める受験機関に向けてのものであると言っても良いだろう。

サピも日能研も早稲アカもタコである。そこには国語問題作成と解答添削に摩耗し切った教師たちがあるのみである。

彼らは、国語が出来るとはどういうことなのかを良く了解しない。分からないから、自分たちで勝手に決めた拙い「尺度」で、「おおよそこういうものであろう」と投げつける。しかも塾という営業形態に当てはまるように改変して。

しかし、これは間違っている。何となれば、彼らは本当に国語が出来るようにはならなかったからこそ、塾教師をしているのではないか。国文科出身で本当に優れたものが教師になるだろうか。

国文科で「優れたもの=一定の古典文学了解者」は、研究者か編集者になる。教師になるのは、それが叶わず、ただ試験のための暗記学習に走ったものたちが過半である。彼らは、空が「開いて」いるものであることを知らない。「空」は有限なものだと思っている。だいいちそもそも優秀な者は、国文科に進学しない。むしろ国語が出来る者は法学部に集まっている。これは困ったことだ。そもそも本当に国語が出来る者は文学部に集まって良い教師になってもらいたい。しかし,教師は「清職」であり、貧しい。そして、金に縁のある仕事をする弁護士や上級銀行員は裕福である。

若者よ。これからは、本が読めて文章がすらすら書ければ何らかの形で結構食える時代が必ず来る。それどころかここには教職と異なり、作家になって「卒業」する可能性もある。大学の教師たちが出版活動に邁進して本業を忘れるかのような姿は諸君も良く目にしていることだろう。

昔は作家を目指して教師になって終わるのが通例であった。作家で飯を食うなんて夢の話である。我が国で初めて家族を養う収入を得た作家と言われる滝沢馬琴ですら、日記を見れば金のやりくりに悪戦苦闘している姿が浮かび上がる。 

ところが今の時代は逆である。逆コースがいい。稼業と活動が別物であるのことは自明である。ゆえに先ずすでに自ら培った文章力と読書力を次世代に伝えることを稼業とし、そこで得た収入で本を買い,生活をし,自己精進して、世代交代もし、やがてその表現活動が世間に知られるようになるというコースを目指すのが良い。これは松尾芭蕉のやり方と同じである。漱石もそうだった。鴎外が作家で飯を食っていたか。開高健も山口瞳も皆そうだった。セリーヌは医者だった。

作家活動をするものを「詐欺」と呼ぶことは出来ない。


2006-04-14 国語技術の有効性

_ 作家とはそもそもその活動だけで生活できない者たちであった。活動の連続にはタマが必要である。好きな女との生活もある。それには労働をしなければならない。

ところで、そこで今の世の中、あたりを見回せば、成熟した社会の住人はいよいよ教育熱心である。しかも、国語力の地盤沈下は甚だしいと来ている。

若者よ,近い将来書けて読めることだけで生活できる(裕福とは限らないが、その可能性もある)時代が必ず来る。国語が出来るもの、古典文学の素晴らしさを味わうことが出来るもの、諸君は将来大変格好良い存在なのである。文章が書ける者は、文学部に進んで、国語指導者になり、おまけにあわよくば作家になるコースを積極的に選んで欲しい。もし作家になれなくとも後悔することはほとんどないと思う。文化人であることは、裕福な者たちが最終的に求めることである。そして、その教養は、読書の連続においてしか得られない。若者よ国語指導者を目指せ。

塾の国語教師たちも、積極的に自らの国語力を鍛え、塾幹部に,現状の授業では詐欺同然であることが早晩バレることを文章で申し入れて授業をもっと意味のあるものに変えさせて欲しい。これは意味のない国語の授業に苦しむ子供たちを救うためのことだ。

言語において、解釈と直感のどちらが優れるか、と言えば、答えは決まっている。我々は理性の前に感覚を持って言葉を受け入れる。従って、感性を増強するためには、解釈(読解)よりも、自己表現や日常の会話力が優先されることは自明である。そして、この力を培うには、名文音読了解以上のものがないことは明らかであろう。この点で国語の教科書は全くダメである。私が検定官であれば全てボツにする。

真に国語が出来るとは、自ら問いかけること,発信すること、表現することが出来ることである。これらは、本来,教室で教えられるものではなく、個人が勝手に自発的に身につける能力なのである。

今回は、いつにまもして文章が粗くて申し訳ない。多少の論理矛盾は許されて、私の内容とメッセージを受け取っていただきたい。

先日初めて大学で授業をした。生徒諸君が満足するよう最大限の努力をし、何か問題が起これば、潔く「退学」しようと思った。つまり、1年で止める覚悟をした。


2006-04-15 生徒の方が優秀

_ 生徒に教えている時いつも思うことがある。

ああこの子の方が自分より遥かに優秀な人間なんだろうな。

少なくとも、子供の頃の自分よりこの子の方がずっとましなことは確かだ。

私の子供の時?

それは思い出したくない。

私は早生まれの幼稚で、甘ったれの泣き虫で、落ち着きがなくてLD気味で、信じられないくらい汚い,自分でも読めない字を平気で書いていた。精神年齢がクラスでビリ近いから、周りに圧倒されっぱなし。九九を覚えたのもクラスで最後だった。成績はほぼオール3。国語、算数、図工、体育は2を頂戴することが実に多かった。その上周囲の状況が読めないから,集団行動も全然ダメ。腕力もない。運動神経も最低。スキップが出来ないことから始まって、足は遅いし球技は全くダメ。その上家では妹に威張り散らす最低の兄だった。誰から見ても最もバカで、最も将来性を見いだせない、しかも全く可愛げがないクソガキが私だった。女子からは絶対に結婚相手にしたくないタイプのナンバーワンだったにちがいない。

でも、当時の世の中は暖かくてそんな自分でもじっと育んでくれた。こうして私は14歳になる直前まで友人の尻について外で遊ぶだけしかすることがなかった。そして私はあまりにバカだったため自分が大バカであることに気がつかなかった。

来るべき時が来た。中学2年の二学期の成績表で、主要教科が軒並み2になったのである。特に英数国が全て2というのはさすがの親も頭を抱えた。「やっぱり本当にバカだった」そう思ったと、後で親に言われて実に恥ずかしい思いをした。

何が起こったのかは分からない。とにかく突然、初めて自分から勉強してみようという気持ちになったのである。私は周囲の出来る子供たちを持ち前の観察力&取材話術で研究し、彼らよりやや長い時間、しかも出来るだけ自分なりに工夫して勉強することにした。3年からは塾へも通った。この塾は自分が真面目に通うことが出来た最初で最後の塾だった。私は初めて教師という人間を心から愛した。今でも付き合いがあるかつての教師はこの人物だけである。

3年2学期、私は自分でも目を疑う成績を手にしていた。通知表には体育の3以外は全て4か5がついていた。学力テストは学年200名中5番だった。高校は、当時の最難関都立校に進学した。この都立校は例年100名近い東大合格者を出していたエリート校であった。これを聞いた近所親戚縁者は皆、「え〜!?」と言った。驚く必要はない。なぜなら、そこでまたしても見事にビリになるのであるから。

教師とは、後から来る若い世代に自分を追い越してもらうことがその仕事だと思う。

つまり、教師は、自分の目の前の子の方が、自分と出逢った以上,自分より優秀で有能な将来性のある人間になることを信じれなければならない。

幸いな(?)ことに、私は子供の時の自分が実際あまりに愚かであったから、いつもそう思うことが出来る。いかな子供といえどもかつての私ほどひどい子供であることはあり得ない。つまり少なくとも今の私以上の存在になるに可能性が大なのだ。私の出来ることは、将来その子が立派な社会人や親になった時に、「おまえは昔実はとんでもないオチンチン小僧だったぞ」と思い出させてやることだけであろう。


2006-04-16 瞑想

_ 春のせいか、最近食事の後など、急に自然に瞑想状態に入ってしまう。

普通は昼寝になるのだろうが、私の場合、あくまで眠らず覚醒している。

周囲の状況を限りなく把握しているはずなのにやや大きな音には驚くほどドッキリしてしまう。

決して眠っていたわけではないのに、瞑想すると睡眠時間が短くて済む。

ということは、瞑想は、睡眠の代わりの効果を含むか、それ以上の効果を含むかのどちらかである。

私にとって瞑想は、眠いけれど眠らずに気持ちいいから起きているような状態で、20分ほど続く。そしてその後は頭が冴えるので、全然眠く感じない。

その頭の中はどのようなことをしているのかと言えば、視覚的には中心点があるようなないような光の渦を観、精神的には一切を涌くがままに解放する。つまり,何も気に留めない。そして、心の深いところに、自由な、可能性が充分な空間を見つける。これは明らかに快感で、夢と違い醒めることを望むことはないが、予期される終了に向けてその瞬間を楽しむと言った心境である。きわめて生命体としての自我に目覚めた状態と言える。時には幸運にも、光のシャワーのようなものを浴びることも出来る。

これは、考え事―思索の反対で、散歩している時のアタマの働きに最も近い。しかし,散歩と違い、他者存在への根源的な感謝の後印象が残る。

私は我が身が生きて自由なことを感じ、出来るだけ良いことを想起しようとする。邪念も涌くが、それはそれとして構わないでいると、文字通り、「邪念」として消え去る。

ここには「コトバ」がない。執着がない。自由なイメージのたゆたいだけがある。

私はもっと積極的に瞑想するべきなのではないのか。

こんなことを書いている暇があったら。


2006-04-18 中学受験の親たち

_ 本来はメインではないはずの中学受験生の国語指導の仕事を大量にこなして一月がたった。

今のところかなり好感触で、どの子にもメキメキ力をつけていると思う。どうやら私の指導法はまたしても他の教育機関が行わないタイプのものらしい。

この授業は、ほとんどが親が同伴する形を取り、半分は親御さんに国語ができるとはどういうことかを伝えることがその仕事のポイントになっている。

私はかねてより一流中学の国語入試問題取り組みは、国語力アップの正攻法であり、かつかなり楽しい作業だと思っていたが、親御さんたちの様子からすると、まさにその通りのようだ。

また、普段は苦しくなってからの相談が多いが、今回の国語指導については、「先行投資型」の相談ばかりで、まあ受験に成功する子供の親とはこういうものであるな、というのが正直な感想である。

いつものことであるが、できる子供の親は、試験結果より、子供の能力の伸張に留意する。私はこういった親御さんに頭が下がる思いだ。彼らの子に対する愛情はきわめてまともである。目前だけではなくその先も見えた上で子供の教育を行っている。我が国現状最低の教育環境の中で、なんとか子供にしっかりと学んで欲しいと強く願う親御さんたちである。はっきり言って、我が家のアバウトな教育方針は、この人たちに全く叶わない。

教育コンサルタントの私としては、こういった優れた芽を持つ子供たちが、下らない受験勉強に必要以上に時間を奪われず、健全な発達をするように導きたいと、思いを新たにするところである。


2006-04-19 日本語音読指導者養成講座ー鎌倉古典

_ 次回の日本語音読指導者養成講座は、23日に開催します。HPでの説明がやや足りなかったようで参加希望者から問い合わせが重なったので、以下に確認します。

_            記

_ 期日:4月23(日)朝10時から(3時間)

場所:西荻駅前V-net教育相談事務所(03−5382−8688)

内容:鎌倉時代文学:『平家物語』、『方丈記』、『徒然草』徹底音読

テキスト:V-netが準備。先に欲しい人は電話で問い合わせして下さい。(27日まで配送します。それ以降は直接事務所へ)

会費:5000円

備考:今回は、日本語現代文音読理解の柱となる鎌倉古典の音読です。飛び入りの参加者も受け付けます。対象は、教職者以外に、学生、受験生、受験生を持つ親御さんで家庭内国語水準向上を願う方たちです。できれば、松永暢史著『子供を伸ばす音読革命』(主婦の友社刊)で、母音の発音,並びにカタカムナ読み、一音一音読みの予習をお勧めします。


2006-04-20 小学6年男子

_ 小学六年男子

例年のことではあるが、小学6年生の男子生徒たちが担任教諭の言動が理解できないとの苦情が相次ぐ。

拙著新刊本『男の子を伸ばす母親は,ここが違う』(扶桑社刊)でも述べたが、この問題は、知的に成熟し始めた男子生徒にとって、論理的に理解できない言動が受け入れがたいことから起こる。

男は理屈が通った言動をしなければ、仲間内で受け入れられない。低学年の間は、腕力が強ければ論理矛盾も容認されるが、高学年に至ると、論理性のない言論は集団の中でバカにされて権力を失う。このことの知見がないのが愚かな女性教諭である。

彼女たちは、昔ながらの教師的発想から全く抜け出せずに、まるで刑務所同様の「支配」が正しいと信じて疑わない。この結果が、男の子たちの知的能力の伸長の害になっていることに自覚的でない。私は、これを教育上の問題だと指摘しているのだ。「男性上位」なんて言っていない。女性優位を前提にしてこれを発言しているのだ。

どうして女の人たちは、男性が最も大切に思っている論理性より、従属性を優先するのか。男性の社会では、論理性を逸脱すれば、リーダーとしての資格は自ずと失われる。我々にとって、論理的整合性が前提になってこそ,「従属」が可能になる。

母親が馬鹿なことは場合によっては受け入れざるを得ない。全ての子供は母親を愛する。しかし学校の先生が馬鹿なことを言えば、一瞬にして受け入れられない存在になる。これは夫婦間でも同じ。相手が論理的ではないことを押し通せば、夫は「バカ」と捉えてまともな対処を諦める。でも、大人と子供の場合は違う。

もう覚えた漢字なのに、全ての子供にノート1頁に同じ漢字を書き続けることを要求する。こんなことは男の子には受け入れられない。逆に、早く課題が終わったので、「次に何をすれば良いか」と尋ねる子供に、「ボーッとでもしていれば」と答える。私はこの瞬間に教師を辞めるのが良いと思うが皆さんはどう思われるか。この先生は、「では、こんな問題があるけど挑戦してみれば」ということを思いつくことが面倒くさいので、適当に答えていると、利口な男子には分かる。さらに男子は、自分がさぼることは容認して、他者に服従を期待するのはナンセンスだと思う。これはほとんど「男の本能」なので、この先生は、最早「先生」とは見なされない。「バカな女」と認識される。「可愛いところがある女」とは認識されない。まだ大人に至らぬ子供たちには、いくら教えても儒教思想なんて分からない。「いけない」なんて言っても通じない。なんとなれば、すでに男たちの間では、単なる「バカ」とみなされることは、その集団内で限りなく存在理由が軽くなることを意味するからである。これは,軍隊でも、暴走族でも、エリート校でも同じである。これは「いじめ」ではない。「価値判断」である。いじめるのは余計なことである。無意味な行動である。いじめのような下らないことをすれば、自分も馬鹿になってしまう。これが男の世界である。だからこそ,ここに「慈悲」の概念が生まれるのである。「アンタかてアホ、ワシかてアホ、ほな楽しく遊びまひょ」となる。まさに男の友情の大半はここにある。残り半分は,どうしようもない人間的なオモロさである。

十年以上教師をして、男の子のこの反応に気がつかない人は理解しがたい。大学の教育学部がバカだと言いたい。

「氷オニはいけない。なぜなら捕まった人がじっとしていて運動していないから。」

男の子にとっては、「では、なぜ野球は禁止されないのか」、「それどころか授業中じっとしていることがなぜ要求されるのか」となる。こまっしゃくれたやつは、「サッカーのゴールキーパーはイケないんだ」と来る。

我々男性にとって、論理的逸脱を完全容認できるのは、その相手の女性が「愛人」であるときだけである。なんとなれば、恋愛感情は論理性を逸脱したものだからである。したがって、その女性に対する愛情がない場合には、論理矛盾は、究極的には「存在対象外」の認識になる。子供たちは母親を愛するからこそ、その論理矛盾を受け入れているのである。そして、そのひどい論理矛盾を受け入れる子供の論理思考が停滞するのは当然である。賢い母親とは子供に対して愚かな対応をしない母親である。

自分の子供の論理思考の発達を自ら阻害しつつ、なおかつ過度に受験勉強を強要する時、その女親は、言わば「時限爆弾」を抱えたことになる。

しかし、ここで、男の筆者が女の「論理」を分かっているかと訊かれると、「分かっている」とはとても言いがたいという論理矛盾が起こるが。まあ話は子供たちの教育の場でのことよ。許されよ。女性読者にはごめんなさい。それにしてもこのブログの読者に女性なんているのかな。

「好き」と「分かった」は別もの。ここでは、これは好奇心と理解の関係ではなく、「気分がいい」と「態度が良い」の問題。気分に関しては究極、サービスの受け手が優先。てな理論で、頭のカタい母親や女性教師を説得できるか。やはりこれが通らぬ相手を男は「バカ」として逃げるのである。「逃げる」のは、個人の勝手なので、これは「趣味」の問題。だんだん養老タケシ風になって来たが、とどのつまり、私が言いたいのは、男の子は、受け入れ態勢が前提にないと、実際行動できないということ。先の「氷オニ」の件では、男子は昼休みシラケて外に出ず教室にいたという。この「教育的論理矛盾」!教師は明くる日から氷オニを「解除」したという。またしても、この「解除することの論理矛盾」!せめて、「先生の考えが至らなかった」と言えば、どんなにか子供に好かれただろうに。この先生は数学教育が何のためにあるのか勉強したのだろうか。拙著献呈したいが、もちろんしない。「芸人」が現場に出ることはタブーである。責任は全て現場を管理する側にある。従業員に知恵を与えぬ管理者、これはいったい何のために存在するのであろうか。この答えをダイアローグすると、あまりにつまらない結果が出そうなので今夜はここで辞めることにする。この続きは当分書かない。やい、私を恐れる馬鹿な出版社どもよ。お前たちも同罪だぞ。私は、一市民または一親として、子供たちに最善の教育を提供することが大人の仕事ではないかと言っているのだぞ。

やっぱり止める。今日はなぜか書き過ぎる。

いろいろなことがあった一日であった。


2006-04-21 早川俊二展

_ 神田錦町のアートスクエア神田ギャラリーで、パリ在住の画家、早川俊二展を見た。

4月11日からであるが、驚くべきことに出展30余り中、唯一つを残して全て売り切りである。その一つの猫の絵も、まるで飼い主を待っているかのように魅力的である。

相変わらず自慢で嫌みと言われるが、私は良いものが並んだ中で最も良いものを選ぶ名人である。

その作品は、出品主要作の500万円の大作の隣にましました。価格は10号で約100万。安くはない。しかしこれは「値段がつかない」この世でたった一つの絵だった。白いカップと褐色の果物と薄茶のエスカルゴ。何と言うほれぼれしい感覚だろう。滅多にない完全に覚醒し切ったときの自分の内部に見い出されるあの瑞々しい感覚。生きていることの悦び。こんなことは滅多に味わえるものではない。セザンヌ静物画と同質の次元にある。私は日本人がこれを描いたことを心から誇りに感じる。

画廊主の伊藤厚美氏によれば、「この絵は、モランディのファンである人が、それ以上と言ってお買い上げになった」とのことである。この絵を買った人が羨ましいことこの上ない。

他の作品も単なる「高水準」を超える。今、この作家は「天才」の境地を垣間みていると言えるだろう。

作家に語りかける。

「すごいですね。最早どうやって描いているのか誰にも分からないでしょう」。

ニヤリと了解の笑みを浮かべて画伯は応える。

「そうです。誰にも教えません」。

やはり意外と単純なことなのである。

私には分かる気がする。もちろん完全ではないが。

画家は絵の具におそらく灰に関する何かを混入した。これは「補色」として作用する。

次にそれを先に背景を決める。その上でオブジェを映していく。もちろんほぼ同時と言っても構わない。通常オブジェを描いてその外に陰影をつけて浮かび上がらせる。しかしこの画家のやっていることは、あたかも背景の色と調和するようにオブジェとの境界を調整していくことだ。

私は、ラファエロの例外はあっても、優れた画家は何らかの面で知性的であることが多いと思う。この人は試行錯誤だけでなく深く考えてその効果を産み出しているのである。私はその営為に感動を覚える。

画家を賞賛すると、横から画廊主が言う。

「まだまだ3合目ですよ。これからが本当の勝負です。」

私にはこのメッセージの深い深い意味が痛いほど分かる。

やはり一人の天才は最大の理解者が現れることによって起こるのだ。

その第一は、まぎれもなく早川夫人であろう。彼女は天才を分かる天才的感受性を持った女性に違いない。彼らには子供が要らない。彼らの子供は早川氏の作品群である。

私も自分を「3合目以下」と思うと妙に楽になった気がした。本当は2合で酔っぱらっちまうが、峰を指して登ろうという決意は常に重要である。

考えてみれば、何百年も先に現象しようとするのが芸術的営為の本質である。早川は、これまでに習得した技法を用いて、新たなる対象を選んでいかなければならない。美人中の美人。バルチュスのなせなかった、生温い曖昧さの残る美人ではない、何かをこの作家は達成しそうな気がする。その時に余計なのが「8合目」の満足なのである。

末尾ながら、早川氏を見いだして、繰り返しその仕事についての文章を書き、多くの人に紹介することを画廊の仕事の本質として貫いた伊藤氏は、これからの画商の鏡と言える。早川氏の真の「パトロン」の代表、それは貴兄だ。早川氏の作品は、伊藤氏の文学的哲学的教養の背景に浮かび上がったと言える。これは「デカルト的自覚」と呼んでも良いかもしれない。とまれ、お二方に心より祝福申し上げる。貴兄らは素晴らしい輝くべき存在だ。


2006-04-22 「全国一斉学力試験」

_ 朝日新聞記者は、自分たちが高学歴官僚的「公務員」であるとの自覚が薄いから、自らがジャーナリストを降りているとの自覚がない。事実は朝日新聞の入社試験担当が高学歴スカなのであることが知れる。朝日は常に「推進派」と「反対派」の両者の意見を掲げて「瓦版的」妥協を演出して誤摩化そうとする。このことはその社説と同様である。

朝日は報道する。「全国的な学力調査40年ぶり」。まるで文科省の味方かと思わせる記述に続き、これに対する犬山市長瀬見井久氏の反対意見を載せる。瀬見井氏は、「この丸ペケ試験では,自ら学ぶ力が反映されない」と糾弾する。

これは全くもって正しい。

我々はその調査費用がいくらでどこがその調査を受託するのかを明らかにされない限りそれを容認するべきではない。ジャーナリストのするべきことは安直なインタビューではなくそういったことの実際調査だ。

文科省は「仕事を造っている」に過ぎまい。

それも自分たちに不利な結果が出ない仕事を造ることに。

学力低下の追調査?

それはあなたたちが固執したシステムの中でそれに従い得ない無能教師集団の結果である。

教師たちは注意せよ。

文科省はあくまで自己批判をせずに,教師だけが悪いことにして逃げようというのだ。

文科省が行う試験は、上手に子供が答え易い問題を用いて、何らかの自己見解が成立するように画策した試験に決まっている。

全て、子供の頭を悪くするセンター試験に反対しない教育機関は全国民の「敵」である。

そして、それに意見すべき中教審は無能の集団である。

何が「学力テスト」か。

ここでは、過去の反省に口を閉ざして新たな目くらましを食らわすことに忸怩たる自覚がない。

犬山市長は全く正しい。

朝日記者は全く卑しい。

氏の岡に真弓を弾いたつもりで全く恥じらうことが全くない。これほどの題材を元にこの程度の紙面を構成して何があるというのか

この観点では「ジャーナリスト」をやる資格はない。

社長が正々堂々と意見を述べて辞めることができないのであるから、仕方のないところか。

私は真面目な朝日従業員に哀れみを禁じ得ない。


2006-04-23 男の論理性

_ 男の子の無自覚的論理偏重傾向は、女の子の無自覚的感性偏重傾向と同様である。

男は好奇心に基づいて行動し,追体験結果を得る。

女は感性に基づいて受容し、その快感結果を得る。

男は、行動して、上手く行かなかったことから経験的な集積として論理性を得る。

女は、受動して、快感の大きかったものを集積して直感力を得る。

男は,ヤバいことを試み、女は、気持ちがいいことを試みる。

このことを客観化する「知恵」がない場合、男は、反省のない愚者になり、女は、自覚を持たない愚者になる。

男は女を「馬鹿」と判断し、女は男を「鈍い」と感じる。

女は男を「身勝手」と思い、男は女を『我がまま』と思う。

両者とも固有の体験によってこれを確認する。

「どうして分からないの!」と論理性を逸脱した時、男はそこから女の話を聞こうとしない。

「キミの言うことには論理的説得力がない」と感受性を了解しない時、女は男を憎しみの対象にする。

恋とは、このことの壁を、異性存在への好奇心が一時的に勝って超越することである。

男は理解を求め、女は受容を求める。

自他への深い理解や深い受容は生存的な快感である。

このことの深い了解がなければ、男の子の教育は成就しない。

このことへの深い受容がなければ、女の子の教育は成就しない。


2006-04-24 朝日社説分析

_ 朝日社説分析

_ この前、当ブログで朝日の悪口を描いたので、ここ数日朝日社説を丹念に読んでいる。「何だやっぱり朝日を取ってるじゃん」と言われそうだが、日経も取っている。読売もサンケイも東京も目を通したいが、経費節減が趣味の家人に禁じられている。

小6の息子は読売を希望。巨人ファンの彼によれば、「何だ結局堀内を選んだナベツグとナガシマがバカだってことじゃん」と理性的である。家庭内「天敵」の我が同居人によれば(私は「女房」ないしは「妻」という言葉の使用を禁じられている)、「日経を止めて」とバカの見本の意見。日経を止めれば他紙が相対化できないことが分からない。

高2の娘は、「どうでもいいけど日経は読まないし、後一つは朝日でも読売でもいい」と、これまた日経の大切さが分からないバカである。朝日と読売がなければ日経は取らない。日経は朝日と読売を読み取るために読む。こうなるとサンケイを取りたいが、当然経費として認められない。私は読売と日経の合体を望む。毎日は記者が朝日以下のことが多いので読めなくなった。朝日も時間の問題だが、あまりに記者がバカだとそれを容認したデスクの能力を疑ってしまう。東京は好きだが、サンケイ同様「3番手」になるので対象外になってしまう。私は東京夕刊だけでも取りたい。サンケイ同様のややヤケクソさが、まるで内外タイムズのように楽しめる。

さて朝日社説を一種の「ブログ」として、入試国語の専門家の立場でレトリック分析しようとする。

1 21日(金)Aは、「学力調査―全員のテストが必要か」で、能力以上の仕事を任される女性の文体か、オレはなかなかエラいと思っているつまらない男の文体。タイトルとニュワンスは悪くはないが、一般朝日読者を満足させるための、「専門外」に関する可もなく不可もない文体。朝日の教育関係の記述は優れたものが滅多に見られない。なんでか。

2 21日(金)Bは、「政府資産ー財政再建に妙薬はない」で、よく見えている男性編集委員が、朝日ファンの反自民勢力知識人を上手にくすぐる内容。しかしあまり掲載の意味はない。

3 22日Aは、「米中会談―試される『利害共有者』で、実際入手した情報を散りばめていかにも朝日らしい常識的な書き方。これが「男に化けた」女の文体だとおカマしい。

4 22日Bは、「ウィニーー捜査の秘密も漏れた」で、明らかに男性文体。懸命に隠匿しようとする警察情報をかなりはっきりと描いており、私はこういう勇気ある書き手の文章がたまに載るのでつい朝日を選んでしまうと反省もする。

5 23日(日)Aは、「日韓の妥協ーまずはホッとした」で、おそらく超高学歴バイリンガル女性文体。当たり前か。しかしほとんど何のための社説か分からない。ただ字が埋められているだけである。こういうのを読むともっといい文章が没になった代わりにこれが載っているのではないかと勘ぐりたくなる。広告面の拡張に役立つのみ。

6 23日(日)Bは、「G7−処方箋を生かせるか」で、「活かせる」や「イカせる」でないところが不思議。明らかな男性文体で、典型的な内容のない印象を与える朝日文体。

以上、アジア外交2、教育1、対警察1、政経2で、まるで誰かから指示があるかのようにバランスを取っている。22Bは別として、日曜の社説はお正月用のようにおざなりである。この新聞の教育関係記者は無能か、わざと文科省を怒らせないようなデスクの気遣いがあるかのどちらかのようだ。ひょっとしたら教育機関の天下り枠には、文科省官僚と国立大学教授の他に、「元編集委員」の枠があるのかもしれない。政経については、一般論を出ず、あまり踏み込んだ意見は言わないように指示されているかのようだ。ああ同時に読売の社説も読みたかった。

新聞も出版物の一つである。幅広く売るための工夫が、直裁な自己意見の表明を上回る。やっぱり社説を読むのは止めて、明日からいつも通り日経最終面の「私の履歴書」から読むことにしよう。ここでは、宮澤喜一の一見ありげで実はない、相変わらずの自覚のない性向が楽しめて面白い。

社説が匿名で行われることは良いが,せめて「A子」とか「B男」とか同一筆者が特定されるようにすることがフェアーではないのか。特に過激さを意識的に抑えた印象の朝日社説においては。

以上、当「社説」は、本当に読みたいと思った人だけに読んでもらえる、いつまでも芸の足りない物言いである。

私の知っているのは、新聞収益の過半が広告収入であるということである。

念のため、以上を書いた後で、日経23日朝刊社説に目を通すと、驚いたことに朝日とぴったしカンカン、「日韓問題」、「G7」で、私は「談合」、「カルテル」の疑いがあると冗談で思った。各紙社説を当てるトトカルチョを発売すると面白いと思うが。


2006-04-25  近地点

_ 今日は近地点。いろいろと振り返ることが多い。振り返ることに過剰になる。まあ一つの区切り目なんだろう。それに大したこともないくせに訳知り顔のブログなんか書いているからその反動ということもあるのだろう。

いや〜最近仕事ばかりし過ぎて、遊ぶということがほとんどない。しなければならないことはおろか、あらかじめ想を練らなければならないことが目白押しで、考えごとばかりしている。若い時なら考えられないことかもしれないが、若い時ならもっと高速で考えられたような気がする。

味わう力が深くなれば、瞬間的な反応能力は弱くなる。瞬間的な反応能力の改善には、瞬間的な反応がそのものの対人的な遊びをしなければならない。

しかし,私の仕事は一種の瞬間的な反応芸の連続である。この場合、その調整として、逆のやや停滞的な思考活動が良いのか、それともさらに瞬間的な対人活動が良いのか。私は散歩はしても相手のあるスポーツはしない。私にとっての遊びとは、旧知のオモロい仲間とくつろいで話すことである。しかしそんなオモロい相手こそ時間は自由には取れないし、最近は誰と会ってもたいてい仕事の話ばかりしてしまう自分が相手にとって面白みに欠けるとも思ってしまう。

しかし、究極の遊び。忘れてはならない。それは芸術活動である。今の私のするべきは芸術活動であるが、始末が悪いのは、私にとってはそれも執筆作業になることである。とか言ってないで、ぼちぼちまた30年越しの活動にでも着手するか。

ここのところ、やや当ブログを熱心に書き過ぎた。しばらくはもっと軽い読み物になるようにしよう。見ている人はいるのに、リアクションが全くないのは、やっぱりそれなりに物足りないものがあるのだろう。以後に期待していただきたい。


2006-04-27 インチキ星占い

_ 26日朝、車で仕事に向かう途中、FM放送の番組内で、星占い(月占い)のコーナーがあって、「本日は月が牡羊座に入ります。牡羊座は各星座の先頭を切って走る星座ですから、今日は何事も先手必勝積極的にやろうとすることが肝要です。」と言うのを聴いて驚いた。

私の用いる「月の遠近WAVE」では、25日が近地点、28日が新月だから、月が見えない状態で引力が強くなるので、「とかく行き過ぎ言動や、つのり易いイライラ感に注意するようにすること」が大切な自覚情報になる。

現在月は、近地点通過後も、新月を指して引力が強い状態が続いており、12時間周期のブレに乗じて動き過ぎて自分を見失わないように制御することが大切である。つい他者を傷つけるような言動をするのはこのような時である。世はGWを前に仕事が山のようにあるだろう。過剰とイライラが起きるのは必然である。

ついでながら、このWAVEは今週いっぱい続くので注意。GWは、最初は穏やかでゆったりと楽しいが、後半に向けて盛り上がりが弱くなるので、後ろの方はしっかりとした休息にあてたい。もちろん早い人には、29日以降にやや脱力感が起こり始める。気にせずに自分を深く見つめ、今後の計画などをじっくりと立てるのが良い。

次回遠地点は,5月7日。満月は13日である。

これらのことにあらかじめ自覚的であるために、月の遠近WAVEの情報がある。

詳しく知りたい人は星川芳人氏のHPを。


2006-04-29 「認められること」の真理

_ およそ世間の人間で、老若男女を問わず、「認められたい」と思わぬものはない。

財産も高学歴も人に認められたいからこそ求めるものだ。

本来の自分ではない偽装した自分が認められたいというたぐいは人語に落ちる。

認められたいという願望は自己のありのままを認められたいと思うのが普通であろう。

そこで、その認められ方のことである。

ちょっとの努力で、「今の自分」を認められたいのか、充分な努力で「それまでの自分以上である自分」を認められたいのか。

もし前者を望むのであれば、その人には認められる「資格」がない。「認める」とはあくまでその可能性に他ならないから、既成の事実を認められたいというのは一枚劣った願望である。教師である私は、「結果」よりその「可能性」を重視する。

充分な努力をするものがそれを認められたいと思うことは真っ当である。

どのような場合でも,それまで以上にできていることが「価値」なのである。そして、それは日常生活に普在する。「愚か」とは、努力しないことである。

報酬を上回る努力を行うもの、そのものの未来は輝いている。

自分が認められるべき存在であると確信できるとき、そのものは認められることを必要としない。自己完結している。認められる必要がない。しかし、そういうものをこそ世間は評価する。

しかしなおも、認められるということの快感は誰にでもある。

いささか逆説的ではあるが、教育とは成長を認めてやることである。

畢竟、今の自分を認めてもらいたいと願うのは「甘え」、これからの自分を認めて欲しいと願うのは「サトリ」である。

このことを了解して鋭意し続けるものは、自ずと「聖者」の領域に近づく。

与えられた個体内での最大限の成長、これこそが倫理的な真であろう。