2006-03-26 日本語音読指導者養成講座―源氏物語
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昨年秋より社会人有志を対象に音読法の指導を行っている。明日で確か6回目だが、足掛け3回にわたって『源氏物語』の音読になる。
今その下読みをしていたところだが、とてもじゃないが今回でも終わらない。なんとか高校の教科書に出ているところはカヴァーしようと思うが、量が多過ぎる。また、解説が沢山必要なのも困り者である。
音読が最も難しいもの。それは『源氏物語』である。なぜかと言えば、平安宮中の「分かっていることを前提にする言葉遣い」と、「頭の良い人なら当然聞き落とさないわよね」といった、一般人に明瞭にイメージするのが難しいシーンが多々あるからである。またそれまでの巻に書かれたことをすぐ想起することが前提となる、記憶力が鮮明でない読者には辛い書かれ方もしている。
いくら漢籍の素養に人並みはずれて優れていたと言っても、日本人的な頭脳思考でこのような広大で深みがある印象を与える書物を構成することができるとは信じがたいことである。我々はインド人ではない。しかし、よく考えてみると、「方法」がないわけではない。
もし,作家が詮方ない事情で短期に取りあえずまとまったものを書かざるを得ない場合、彼(彼女)は、大まかなまだはっきりしない全体構想の部分として矛盾のないものを一つ二つ書くだろう。そして反応や様子を見る。さらに、おそらくはすでに文学的「シーン」として「取材」済みの具体的実際事例を、その構想の中に取り込めるように「変換」を行う。さらにもし、そこに「時間軸」を想定できれば、矛盾がない様に見えるストーリー展開ができる。そうだ。『源氏物語』は、語り口と時間軸を『竹取物語』に、抽象構成と歌物語的構成を『伊勢物語』を参考にしていると言っていいのだ。
あるやんごとなき貴公子がいて、しかもそれが頭脳明晰な上に絶世の美男子で、なおかつ好色である場合、上流社会のどんな女性とどんな関係が積み重なれ得るか。このことの追求と想起が源氏物語執筆の現場作業であろう。このことは、宮中といった,限られた世界の人たちにとってはこれ以上ない『娯楽』だったであろう。
男ってどうしてこうなの。でもハンサムでアタマが良くって、しかも誰とでもしたがる男でなおかつ女を大切にするのであれば、どんな女にとっても究極の可能性がある理想の男。この男のモデルが道長であることは想像に難くない。いや道長の足りないところを補った人物像が源氏といえるのかもしれない。
ただでさえ生殖力として天に与えられた性欲があるのに、禁中では開放感のある娯楽に事欠いたことは想像に難くない。男と二人っきりになれば最早女は身を任せるしかない。なんということだろうか。上野千鶴子先生ならこれを何とおっしゃるか。「男はアタマと顔よ」。私はケンジという名前のハゲでデブな男の物語を書いてみたくなるが、皺だらけのアイドルはいない。
いかな制約があろうが,成熟した社会(どのような場合においても社会の一握りであるが)においては、男女の性は平等化する。そこに至るまでは別として、性の瞬間に平等化する。その時間は、たとえ経済資本が必要であろうが、金で買えないものである。つまり、社会倫理や社会契約によっても完全には制約されない。なぜなら個人の快感は自由であり、自ずと起こってしまうそれを誰も事前に止めることはできないからだ。我々は排泄や笑いをこらえることはできないのである。
源氏物語の中では、性は、結合部分のみで行われる。キスとかはない。乳房についての記述も全く見られない。残りの性は、和歌の贈答によって行われる。つまり、男女の対話によって行われる。
「対話」があるから性がある。この観点はきわめて女性的である。男性からすれば、性を目的にするからこそ対話がある。何となれば、男性にとって、会話は、同性との時の方が遥かに面白いからである。
性を考えないとき、男性を楽しませる会話が可能な女性はきわめて少ない。紫の考える通り真に知的な女性である。知的であることと面白いことは異なる。オモロい男は馬鹿なことが多い。しかし、オモロい女の圧倒的多数は、アタマが良い女である。しかし最も男の笑いを誘うのは,アメノウズメ、セクシーでオカしな女、浮かれ女である。オモロい男は沢山いる。しかし、美しくてオモロい女はほとんどいない。かえってそんなに美しくない女性の中にきわめてオモロい女性がいる。男性にとって、対話は、セックスを抜きにした場合、面白くないものは時間の無駄ということになっている。他ならぬ男どうしで、「あいつとあってもオモロうない」と評定されれば、たとえ「いいやつ」でも、ともに語らう対象の第一候補には選ばれない。ビジネスを離れた男の世界では、オモロいことが最上の価値だからだ。
どうも私も源氏の魔力にとっぷりハマったみたいだ。だが、明日で切り上げよう。入試源氏物語の圧倒的対処法、それは源氏を原文で読むことだけだ。