2006-03-28 小学校英語教育
_ 中教審は、27日、小学校からの英語必修を提言した。
その理由は、日本人の英語能力が国際的に見て充分でないからだそうだ。
これが文科省が中教審を用いての例によっての滑らかな官務遂行のための手段であることはさておいて、これについていくらか述べたい。
先ず、日本人の英語能力が国際的に見て充分ではない本当の理由は、日本のこれまでの中高の教育が不充分であったからなのは明白である。いや〜ひどかった。日本の公立中学校の英語教育?塾がなくてどうして可能か。メソッドと人材の圧倒的不足を容認し続けて来たのはいったい誰なのであろうか。
そもそも英会話ができない人間がどうして英語の教師になれるのだ。そして、英会話ができない教師たちに教えられてどうして英会話ができる子供が育とうか。我々はこの謎に長年悩まされ続けた。教科書内容は、塾などから見れば、下手糞な文法説明と親米観を持たせるためのプロパガンダ満載である。それにその教えるメソッドは,おお古い、「〜するためにと訳せるのが副詞的用法」と来る。お前たちが馬鹿な教育をし続けたために日本人が英語ができないのに、しかもお前たちはそれを暗黙の目的にしていたはずなのに今更臆面もなく「英語力をつけるために,小学校から英語を導入する」とか言う。それにまともな言語能力を測るのとはほど遠い入学試験の嵐。これらを容認し続けたのは他ならぬ文科省ではないのか。諸君はどうしてこれまでの自分たちのやり方が間違っていたと先ず詫びないのだ。これからも詫びることは全くないではあろうが,もし一度でも、「本国の長年の歴史において、最近に不幸な教育があったことを遺憾に思います」と詫びるなら、我が国の将来を担う子供たちのためなら,私もその協力を惜しむつもりは全くない。とにかく,先ずは,これまでの文科省の英語教育が失敗であったことを自己反省してから本件を実行に移して欲しい。
私は,私の日本語音読法売り込みのために、本当は文科省と仲良くなりたいが、自らの責任を明白にしないで後から誤摩化し付け足し対処する発想法しか持てない人たちとは真面目に仕事を共有することはできない。第三者的機関のはずの、中教審のするべきことはこうした「怠惰」の摘発こそではないのか。
私は自分の事務所で見た。優れた未来的英語教育とそれができる指導者たちは、すでに現れている。彼らを見て私は英語を教えることをやめた。中教審は、慶応大学SFCの田中茂野範教授などの認知言語学理論の存在を知らないのであろうか。小学校の英語教育を示唆する段階においてこれらの人物の業績の存在を顧慮しないことの何という愚かさよ。
全ては既成に出来上がった権益=文科省の出身者たちが再就職した会社の利益によって決定されている。今回もその匂いが濃厚だ。
それに、英語ができる人のほとんどは、帰国子女か、自費で英語塾で猛勉強したものたちばかりである。学校教育なんてほとんど寄与していない。国語力増強同様,文科省には具体的なヴィジョンやメソッドはないのだ。そしてその傀儡に成り果てた「御用機関」中教審は、わざわざ「言語への関心を高め、国語力の向上にも資するような教育内容が必要」とする文言を入れる。これを報告する新聞記者に怒りが感じられないのが情けないくらいだ。
国語力向上が欠かせられないなら、音読と作文の具体的メソッドの提示とそれに沿った教員の養成が欠かせない。しかし、その天下り先の企業が見つけられないから、仕事に着手しない。英語で言語力がつくのと日本語で言語力がつくのは明らかに異なることである。それを,「言語リテラシー」などと簡単にケムに巻いて抽象化し、我々をダマそうとする。こんなことを書くからと言って、誤解しないで欲しい。よく私を「特定」しようとして、左翼や右翼や反政府主義者の烙印を押そうとする人がいるが、残念ながら私は、自分で考えて自分で判断する、かのフランスにごろごろいるような近代的市民である。いかなる宗教、思想もそのまま受け入れることはないが、誰がどういう信仰や思想を持とうが、それは全く個人の自由という立場である。石原都知事の言い分にも共産党の言い分にも部分的にいいところがあるという構えである。神の存在を主張する人は、神の非存在をも前提にする人たちである。そして真に聡明な人は言語の不完全さを知る。
国語教育の実体は、法システムを徹底するための標準語の強要である。外国との条約締結を念頭においた標準語は、意味の特定に優れる。つまり、言語の持つニュワンスを圧殺する要素があるということだ。しかし、この教育をマジメに受けすぎると、やがては意味を正確に読み取ることをしようとすることに尽力しすぎるあまり、自ら発語や表明ができない創造性のない人間が出来上がる。つまり、標準語の国語試験に勝とうとすればするほど発想力のない人間が育つことになる。私学の代表の慶応大に国語の試験がないのはまさにこのためであろう。周知の通り,標準語強要政策は、旧制高校の廃止とセンター試験導入の徹底という政策により完成された。この結果、我が国の文学は著しい不発展要素を抱え込んで伸び悩んだ。漱石、鴎外、芥川、三島、谷崎、川端、大江、と言った天才が,当然のように東大出身者であるのは、逆説的な意味でかなり興味深いことである。官僚たち、並びに中教審の構成メンバーは明らかにこのシステム上の「勝者」であり、つまりは発想力に欠けた人間たちであることは想像に難くない。自己の保身のために自己の無能に意識的に無自覚を装うこと、そして高給名誉職に甘んずること、これは実は詐欺犯罪よりも罪の重いことであると私は思うが,読者の皆さんはどう思われるか。私に言わせれば、一度も反省の弁を述べない事実がその確たる犯罪の暗示なのである。
私たちは、このような無責任な行政組織や、月100万円もらって役所のための容認提言を行うだけの中教審委員に金を払う意味がどこにあるのであろうか。あんたら良く平気だねえ。「倫理」より「隠匿」が優先されるなら公務員の存在意味はないのだよ。たとえ君が代に賛成しても。私も感心なことによく忍辱しておるが・・・。ともあれ文科省は、体の健康を扱う厚労省より「韜晦」が上手である、「警戒」するべき役所のようだ。
創造性のある者は創造性のない者に必ず勝る。これは歴史の必然である。あたかも歴史が優れた武器の開発によって決定されたように、未来を造る者はこれまでにないものを産み出す者に相違あるまい。
本当に英語ができるようにしたかったら、幼児段階こそ狙い目なのは明らかではないか。
それを小学校高学年というのはどこか怪しい気がしまいか。
ごまかしとしか言いようがない。
我々は、小学校英語導入の後、次に彼らが何を言い出すのかにこそ注目すべきである