2007-03-06 ムジナのぼやき
_ ムジナのぼやき
ブログコメント氏から、私が「大衆」についてどう思うのかと、問われたのでここにその答えを試みる。
小六息子のクラスは担任の力不足で学級崩壊した。
最後の頃は、先生が黒板を向くと、その背中めがけて一斉に輪ゴム鉄砲が発射されていたが、これに対して先生は一切無視した。
考えてみれば、ローン返済も家族もある50才女性が、今さら退職するわけには絶対にいかない。だから彼女は耐えるのである。今彼女は、職員室でポテトチップスを食べまくり、校庭でブランコを揺すり時が経つのを待つ。そして、多分、彼女は副校長試験に受かって新たなる学校に赴任するのである。
彼女のせいで、公教育に完全に見切りを付けた生徒たちは、大量に私立中学に流れる。では、公立学校に進む生徒たちはいかなるものたちであろうか。
そもそも完全にアホだと思った担任に、率先して輪ゴムを打った生徒たちは私立受験組である。そしてここに、それを見て真似をするものたちが出る。この生徒たちは、教師が至らないことをアタマで分るのではなくて、他のものたちがやるから真似をするものたちである。事実、新しく担任になった副校長にも輪ゴム鉄砲を食らわしてしまう。
私はこの人たちをこそ、「大衆」と呼びたい。彼らは自己の判断があるのではなく、あくまで他の人がやるからという理由でそれを行う人たちなのである。
世の中には、基礎学習が充分ではない我が子を、世の人たちがそうするからという理由で進学塾に通わす人たちがいる。この人たちの子弟の成績が上がることはまずなく、完全に塾のカモになる。もちろん、「脱出」に成功するものも出る。
自己自身の価値判断がないから、テレビや新聞の情報を真に受ける。そして多くは消費行動に移る。これが大衆である。小泉はこのことが実によく分かっていた人物であった。
今、そういった人たちは確実に増えて層をなしつつある。教育の成果である。
その人たちの中には、無目的に進学を志したものと同様、社会不適応者が多く出よう。つまり、一段落した今、一段とフリーターや非結婚者が多く出ることになる。彼らの中からは、犯罪に走るものが多く出よう。彼らは上が良からぬことをやれば右へならえで良からぬことを平気でするのである。車内での化粧や飲食を平気でするものが出る。他者の迷惑になることをものともしない人たちがいる。そして、それを見て真似するものが出る。そしてこの人たちが最も大きな「犠牲者」になることになる。
教育改革は行われ得ないことが分る。多くのものは、私立に逃げようとする。この真似をしようとするものが見事に塾の営業戦略に引っかかる。また犠牲者が出る。
教育改革が行われないことの延長線上には、まともな社会生活が送れないものの量産がある。おそらく10年以内に凶悪犯罪がより多発する社会が来る。学歴は凶悪犯罪の攻撃対象に十分なりうる。池田小事件の実体はそれだった。教育改革をしないならば、刑務所の収容数を事前に増やす必要があることになる。
こうして、あるとき、彼らが賛同する稚拙な社会政策を掲げるものが現れ、多くはその流れに雪崩的に迎合する。歴史は繰り返される。第二次大戦は大衆の支持によってこそ成立したことを忘れてはならない。そして最も多くその犠牲になるものが大衆なのである。
我々は、10年、20年後の社会を見越すべきである。そこには自分のことだけを考えて勝利したごく一部の学歴エリートと、敗残してコンプレックスの塊となった犯罪予備軍がある。
覚醒したものがするべきことは、読書と外国語学習に力を入れ、いつでもこの国から逸脱する準備をすることになる。
私はもう、教育改革を求める視点は放棄した。未来を担う子どもたちを犠牲にすることに本当に腹が立って仕方がないが、最早諦めざるを得ない。だとすればどのような社会内存在を目指すべきかを考案することが正しいと思い、それを考える。
自らの子どもの未来について自らのビジョンをもつことが出来ないもの、それが「大衆」である。しかし生きていくために働くことで精一杯の彼らにそんなことは望むべくもない。だからこそ公教育があったのである。そして、私もなすすべなく子どもを公立に通わせる「大衆」の一人である。